2019年10月13日日曜日

スティング

19年、16作目
スティングはずいぶん以前にBSで放送されたのを鑑賞したことがある。
愚かにもそのときはうたた寝しながら鑑賞したので結末の「とどめの一撃」(TheSTING)がちんぷんかんぷんだった。

機会があればこの作品をもういちど鑑賞したいと思いながら時間ばかりが経過していた。
レンタル屋さんや、オンデマンドでいつでも鑑賞できると思うと却って鑑賞する機会が失われていく。そんなものかもしれません。
この作品も前述の「砂の器」同様、午前十時の映画祭のラインナップにあることを確認して、いそいそと鑑賞に繰り出した。

「さらば愛しきアウトロー」でお別れしたはずのロバート・レッドフォードにスクリーンで再会できて(しかも彼はいつの間にかわたより若くなってやがる!)嬉しい限り。
ポール・ニューマンもわたしより若い、なんかズルい・・・笑

映画館で集中して鑑賞すると、この作品の大きな展開である騙しあいがよく頭に入ってきた。
「ああ、なるほど、こいつはあいつを騙そうとしてるんだなあ。」と。

しかし。
ターンぐポイントとなる「転」の騙しあいは伏線が張られていないので「ええええっ!」となる。
いやそこから先が最後の「STING」に転がり続けていく。
まさしく「うひゃあ」もの。
BSでうたた寝ながら鑑賞では「?」だったクライマックス、館内で(脳内では)スタンディングオベーションをささげたわたくし。

音楽も小気味よく。
この作品のテーマ曲、昔から何度も聴いていたあのメロディなのね。
タイトルは「エンターティナー」

また映画館に鑑賞に行きたいと思う。
だから午前十時の映画祭、来年度以降も継続しておくれ!!!

砂の器

19年、15作目。
「午前十時の映画祭」、初体験。
安価で絶対的名作が鑑賞できる。
今年が最後らしいけれど、今後も継続してほしいと思います。
NetflixとかHULUとかおうちのテレビで鑑賞できる映画が今後の鑑賞文化になっていくのかもしれませんが。
映画館に足を運び、館内が暗くなり、知らないひとたちと同じ作品を鑑賞する。
いい文化だと思います。
そこでロマンスもある(あった)ひとも多かったろうし。

今中居くんが主演していたドラマが鑑賞の発露。
2年前に原作も読んだ。
原作の犯人は今作よりももっと冷酷な印象。

主役どころの役者よりも、犯人の父加藤嘉、犯人の子供時代を演じた方の表情がとてもよかった。
表情の行きつくところ、「目」

後半、音楽を背景に父子がさすらってきた数年がセリフなしで展開していく。
言葉が発せられないことが、却ってこの父子が受けてきた苦難が訴えかけてくる哀しみが切実だった。

記憶にございません!

19年、14作目
年に2回ある会社の儀式が終わった当日が公開日。
この儀式に至るまで知力、気力、体力を削がれてしまうので、今作の鑑賞を心の報酬にして、終業と同時に退社して鑑賞に赴く。
期待が大きかったぶん。
だからなのか
このところのフジテレビの凋落ぶり。
だからなのか。
どちらかよくわからないけれど、「素敵な金縛り」ほどの楽しみはなかった。
いや、じゅうぶんに楽しい作品だし、クスクスと笑えるシーンも多かったし、ほっこりする展開、心も温かくなれる。

つらつらと考えてみるに、「記憶にございません!」は分りやす過ぎた。
三谷幸喜の作品って100%わかりやすいよりも95%わかりやすくて5%の「?」があるほうが深みが増して味わい深い(コーヒーのようだ)

美女そろいで目の保養ができたのが何よりの心理的報酬だった。
小池栄子が思っているよりも遥にいい女性になっていた。
石田ゆり子は鉄板。(”マチネの終わりに”、彼女目当てで鑑賞に行くかも)
吉田羊、ホテルの窓に向かって”バーン”、ヤラれました。

壬生義士伝で共演していた中井貴一と佐藤浩市。
こんなコメディで再共演。。。
どちらも芸達者、真剣にバカな役を演じきっている。
本気で演じてこそコメディは笑える。

真田丸から、草刈正雄、木村佳乃、吉田羊。
草刈官房長官から「大博打の始まりじゃあっ!」と叫んでほしかったなあ。





2019年10月12日土曜日

アド・アストラ

19年、13作目
会社の同じ組織にいる後輩はSFもの(彼が言うのは”宇宙もの”)が好みだと。
インターステラーは未見だけどもうすぐ観るんです。
ゼログラビティは良かったっす。EtcEtc。
そんな彼が今作はどうなんですか?と鑑賞を終えた翌週に尋ねてきた。

わたしのことば。
「うーん、わざわざ舞台を宇宙にすることはなかったんじゃないかな」
我ながら言いえて妙ではないかと自負している。

月やら火星やら、果ては海王星か冥王星まで旅をするんだけど、父親を捜すという自分の欲求のためだけにそこまでのパワーあるかな・・・?
宇宙でのイベントもストーリーが細切れのぶった切りで「??」「??」なシーン。
後半になってもそのシーンが繋がっていくような楽しみも得られず。

批判はあんまりしたくないけれど、この作品は”これ”という見どころが薄かった。
幾つかあるクライマックスもこれまでのSF映画の焼き直しに感じてしまうようなものばかり。

父親を追い求めるのが息子。しみじみとそれを感じることはできた。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

19年、12作目
タランティーノ監督の作品の良さはわたしはよくわかっていない。
「わからない」ではなく「わかっていない」

今作の事実としての結末は、作品を観ながら思い出した。
事実の結末と、映画の結末は異なる。
この結末を落としどころにしたタランティーノは平和を愛するひとなんだろう。

イングロリアス・バスターズにせよこの作品にせよ、実際の事件・犯罪を起こした人物を彼は徹底的に抹殺する。
暴力的な描写が多いひとだけれど。
でも彼が抹殺するのはあくまでも映画という絵空事の中でだけだ。
絵空事のなかだからこそ、彼は狂暴なことをしたくなる。
つまるところ、タランティーノは差別をする人物を好まないんだと感じる。

タランティーノの作品や彼のこだわりを知悉しているひとにはこの作品、たくさんの小ネタで楽しみどころ満載なんだろう。
それだけの解説や知識を得てから鑑賞できたらなあと感じた。

2019年9月29日日曜日

ライオンキング

19年11作目
ミュージカルも他の映画も見たことがないので。
一般教養を身につけたい一心で鑑賞。
まるで実写のようなCGに驚く。
ところどころ、さすがにこれはCGなんだなあとわかるシーンもあり、批難する気にはならず、反対に「CGにも限界はあるんだなあ」とホッとしながら鑑賞していた。
何もかもがCGが現実と同じものを作れるようになれば俳優の存在意義がなくなって、映画の醍醐味が減っていくんじゃないかと遠い未来を空想してしまう。

作品については、息子がひとり立ちするまでの時間を2時間に詰め込むんだから、いろいろとご都合主義になるよね。
亡き父の思い出がふと甦った。
テリトリーから出てはならぬという父の諭し。
ああ、そういえば父はこんな感じでキツく言う生き物だったなあと。

「ハクナマタタ」いい呪文です。
仕事がイライラするとき、唱えてみよう。

さらば愛しきアウトロー

19年、10作目

わたくし、ロバート・レッドフォードが好き。
学生のころ野球映画「メジャーリーグ」(ワイルドシーング♪と歌うあれね)にヤラれて数本の野球映画を漁って鑑賞したときに出会った「ナチュラル」でレッドフォードにヤラれた。
それ以来、かなりお気に入りの俳優さん。いい男だし。
「リバーランズスルーイット(River Runs Through It)」で監督もしてたよね。
ブラッド・ピットが見いだされたころの作品。
でも鑑賞していない、、、つまりはそれくらいのレベルの「好きな俳優さん」
そんなレッドフォード最後のスクリーン作品だということで鑑賞。

1980年代に実在した銀行強盗の物語。
銀行強盗のシーンで銃弾が放たれることはなく、まして銃をスクリーンに見せることもしない。
(銀行強盗以外のシーンでは見せていたけど)
実際にはものすごく迷惑な銀行強盗のおじいちゃんだったんだろうけど、レッドフォードが演じると「小粋なおじい様」

「人生を楽しめ」
レッドフォードのメッセージ、受け止めました。

2019年8月10日土曜日

鬼平犯科帳(4巻)

「おまさ」「大滝の五郎蔵」「舟形の宗平」
初登場。
池波正太郎による盗賊の女性描写はたまらなくエロティシズムに満ちている。
この巻きでも「おみね」がそう。

対して「おまさ」の描写はエロティシズムとは無縁。
おまさが登場する編、彼女は今で言う「性暴力」の餌食になっている。
しかしおまさの裸体やその行為を私は想像できにくい。

おまさを清野菜名(半分青いの裕子役のひと)あたりに演じさせたらいいかなあと思いながら。
おまさは30代のバツイチ子持ちだから年齢が合わないな。。
また別の脳内キャスティングしながら読んでみよう。

あ、酒井祐介は高橋光臣が浮かんでます。

鬼平犯科帳(3巻)

この3巻で初めて短編ではなく、中編っぽい「兇剣」が書かれている。

それよりも「盗法秘伝」で盗賊に加担する平蔵。
ユーモアを交えながら、肩肘張らずに読める。

3巻、いちばんの話は「むかしの男」
「忘れた。」の平蔵の一言。
女性なら一発ノックアウトで恋に落ちるわなあ。

2019年7月19日金曜日

鬼平犯科帳(2巻)

1巻を読んだら、2巻に手が伸びるのは当たり前。
この巻から木村忠吾が登場する。
RPG「ドラゴンクエスト」(Ⅰ-Ⅶまでプレイしたかなあ)の呪文「パルプンテ」
効果は唱えてみないと分からないというリスキーな呪文。
忠吾の存在はまるでパルプンテのよう。
谷中いろは茶屋、お雪の乳房の2篇を読み、火盗の誰もが予想だにしないことを巻き起こす忠吾に愛称をつけるなら「パルプンテ忠吾」だな。

男女の事情での池波名言
女の場合、男の裏切りを知った時男よりも相手の女を憎む。
男はその反対だという。

そっかあ、だから女同士の会話って「腹の探り合い」みたいなものが多いのね。

人間の本性を見抜く池波名言
習慣は性格になるという

ああ、これ。
よく企業のお手洗いなどにも標語のようなもの見かけます。

2巻での一番読み応えがあるのは「妖盗葵小僧」
史実がベースにあり、そこから池波先生の創作が発展してエンターテインメント性が高い物語になっている
下世話なことが大好きな私にはポルノチックな展開を是非とも映像化してほしいところだけれど。
でもいちばんのポイントは鬼平がロクな取り調べをせずに、一身に非難を浴びることを覚悟のうえ小僧を刑に処すくだりだな。

テレビで演じた俳優さんの残像が強くて、読んでいて中村吉右衛門やお美としのりの顔がちらつくけれど、令和の時代に新しいキャストで製作すると仮定して。
誰が鬼平に?パルプンテ忠吾に?
それを考えながら読んでいる。
間抜けな盗賊にひとりにはフットボールアワーのボケの岩尾さん。
こすっからい盗賊の色男風に相方の後藤さん。




2019年7月10日水曜日

鬼平犯科帳(1巻)

単純明快でスカッとなれる、そんな作品が読みたくて数年ぶりに手に取った。
小房の粂八がまだ盗賊で、鶴やにも携わっていない。
この先なくてはならない存在になっていくひとなのだが、執筆時点では池波正太郎の脳内で粂八は最初からそのようになっていたんだろう。
何かの本で池波正太郎だけでなく小説家は、自ら生み出したキャラクターが自分の手を離れ独り立ちし読み手たちの世界へ駆け出していくんだ、それを否定したり路線変更することは無理が生じると書かれていた。
粂八もそのようにして池波正太郎ワールドを自由に駆け巡ったんだろう。(自由というのは鬼平に仕える身だから語弊があるかもしれないが。

本所・桜屋敷
やっぱり涙しちゃうなあ。
昔好きだった女のことはいつまでも忘れられないのが男
常に今しか生きていないのが女
他の篇、他の作品でも度々活字になっている池波正太郎の金言。

50年以前に執筆されている作品なのに、まったく古臭くない。
また、この50年前(奇しくもわたしと同い年だ)ですら、世の中の人と人の繋がりが希薄になったと文にある。
21世紀、令和の時代を天国から見ている池波正太郎の叱責を誰か文章にしてほしいもの。

「わたしが社長をやらせてもらっています」
そんな文章や言葉を聞いた日にゃ、長谷川平蔵が「ふふ」と笑われて相手にしてもらえんと思うよ。

2019年7月7日日曜日

図書館戦争

あ、そういえば。
この作品も映画化されて主演は岡田准一。
(やっぱり岡田君が好みらしい、わたし...。)

映画化もされ、アニメにもなっているんだね、この小説。
わたしは映像ものは未見で、文字だけで読み進めた。
のだが、この世界観が今一つ肌に感じることができずに読み進めるのにとても時間がかかった。
会話のところは小気味よく、テンポよく進められるのでそこは問題ない。

検閲制度が横行し、それに対抗する存在が図書館というのはわかるのだけれど。
なぜ、それが武装化しているのかが馴染めず。
最も読むのに苦労したのがミリタリーに関する事柄かなあ。

王子さまが実は教官、というのは読者でれば誰でもすぐに予測できます。
まぁ、そこが月9のドラマのノリ風なんだけどね。

シリーズ化された続編を手に取るかどうか。(;^_^A

アラジン

19年、9作目
50歳を過ぎたオッサンが金曜日の夜(一般的にデートする夜)にいそいそと鑑賞に赴いた。
アベンジャーズはスルーしたし、ゴジラもスルーしそうな勢いなのに。
アラジンを観に行くなんて、我ながら気恥ずかしく感じていた。
アニメのアラジンは観たことないし、物語のアラジンも知らない。
鑑賞の大きな動機は「一般教養としてアラジンを知る機会と思え」

自分自身が予想していた以上に感激してしまった。
感激のポイント
1)主人公ふたりは有色人種
  これ、かなり画期的なんじゃないかと。且つ白人が殆ど主要キャストにいない。
2)王女の決断
  このところ国もそうだし、勤務する会社も「女性活躍」を声高に叫んでいる。
  活躍のステージは誰かに与えられるものではなく、自分で勝ち取るもの。
3)ディズニーはいつだって、どれであれ妥協しない
  アラジンが王子に扮装してジャスミンのもとへ来るパレード
  圧巻。

将来の愛子親王の境遇などに思いを馳せながら、ジャスミン王女の決断にふっと涙してしまった。


ザ・ファブル

19年、8作目
どうしたって仕事をしているとストレスは溜まる。

作業そのもののストレス(PCがまともに動作しない)もあれば「あいつ」に起因するストレス。
誰しも対人関係だし、それも所属する部門に限定されることが圧倒的。
なんでこんなこと書くかといえば、2019年のこの時点わたしの心は少なからず病んでいるから。
その相手はふたり。
そのうちのひとりについて書くと、このひと数年前までは経営責任者だったひとだが、お役御免になってからの劣化が著しい。
顕著なことは
1)就業時間中ほぼ居眠り
2)公私混同が著しい(忘れ物をしたと言っては社用車で自宅に帰る)
3)言葉を発すれば怒ってばかり(叱るではなく怒る)

そんなおっさんの目の前んして毎日勤務していると、ときにブッパナシたくなる。
弾丸、罵詈雑言、ほうき、ちりとり、ゼムクリップ。
脳内でなんども上記以外のものも何度もブッパナしている。

前段をダラダラを書いたけれど、そんなストレスを発散、いや、解放されたくてこの映画を観に行った。

ジャニーズのうち、わたしがもっとも好きなのは岡田君なんだろうなあ、と淡く自己分析しながら。(永遠のゼロは観に行ったし、他にも彼が主演の時代劇はかなり気になっていたし)
そんな彼。
まぁ、「脱ぎっぷり」がよろしい。
全裸ショットが幾つもあり、「こりゃ岡田くんのファン女子はたまらんやろ!」というほど相当な露出っぷり。
ごちそうさまでした。

序盤の殺し屋本領発揮の料亭での殺しまくるシーンだけでも、冒頭のストレス源のおっさんに見立てながら、ガンガンに脳内で抹殺しまくり。(スカッ!と爽やか!)

男性陣のいかれっぷり、気に入っています。
向井理もかつての「ボンボンでいいひと」キャラクターから脱皮していこうとする意欲は感じられる。
柳楽優弥はなんでもできるユーティリティな道を進んでいる。

木村文乃が演じた役どころ、女殺し屋のエッセンスが散りばめられてほしい。
酒豪にしか見えないシーンに「スキのなさ」のエッセンスだな。
クライマックスのマドンナ救出作戦のくだり、作品中では省かれていたんだけど、この見せ方には賛成。
主人公は岡田君のファブルなんだしね。

山本美月が演じたマドンナ、かなり可愛い。
惚れた。
彼女のような顔立ち、わたしのDNAに「好き」とインプットされているに違いない。




2019年6月11日火曜日

ライオンハート

物事はハッキリと白黒つけた結末じゃないと納得しないめんどくさいわたしの性格。
小説、映画、ドラマ。何であれ結末はAなのかBやなのか?なんてのは困る。
至高の作品ならそれも受け入れられるんだけれどね。
至高の作品と言ってパッと思い出せないから、しょせん私の記憶や思い入れの深さが薄っぺらいことを自己認識している。
なんちゃって知識階級なんだよな。。。

そんなわたしがここ数年手に取って読んでいる恩田陸の小説たち。
このひとが紡ぐ物語は白黒つけたいわたしの性分からすると。
「非常にモヤモヤしてしまう。なのに読みたくなる。」
この一文に尽きる。

主人公のエリザベスとエドワードの恋物語が切ない。
あまりに切ない、それでいて美しい、加えて透き通っている感覚を覚える。
5つの編でふたりの出会い(再会)の瞬間。
一瞬のために人生をかけて、生死をかけて、輪廻を超えて。
そんなハッとするほどの恋を何度も体験できる喜び(それと同じ分の哀しみ)を得られるというのはステキなことなのかもしれないし、残酷なことなのかもしれない。
あとがきにメロドラマを書きたかったとあり。
お昼にやっていたような「よろめきメロドラマ」に感じる「きみたち、いいかげん気づきけよー」などといった下世話な感想を抱くことはなかった。
時空を乗り越えたり、英国王室をはじめの史実のエッセンスを軸に置いて書かれているから、知的好奇心も満たされながら。

「天球のハーモニー」の編、コリン・ファース主演でアカデミー賞を獲得した映画「英国王のスピーチ」を鑑賞していたことがこの物語にも役立ってちょっと嬉しく思いながら読み進めた。
もし未見な方がこのエントリーを読むのなら。
どちらが先でも構わないけれど「英国王のスピーチ」も観てください。

ひとつだけ、残念というか、これは何?って感じたのが
「イヴァンチッツェの思い出」の編
なぜパナマ?なぜ米国?
それがわからなかった。
わからないからなんだろう、この編だけが他の編と違って「浮いている」ように感じた。

そして、結末がハッキリしない恩田陸作品をまた読んでみようと思う。
軽く恩田陸中毒かもしれない。





2019年6月9日日曜日

黒革の手帳

「けものみち」に続き松本清張フェスティバル。
こちらも米倉涼子主演でドラマ化されていた。例によってドラマは未見。
こちらの主人公の元子を米倉涼子に置き換えるのはとても容易に脳内変換できた。
強気な性格、物怖じしない態度、押し出しの強さが私が感じる米倉涼子に通じるものがあるんだろうか。
いや、きっとこのバッドエンディングが米倉涼子に相応しいと思っているんだろうな。
(わたしが彼女にあまり好意を持っていないことが自己認識できた)


わたしが手に取った原作には武井咲が和服を着たカバーがかけられている。
(古書店で贖ったしね)
この主演は武井咲にはどうだったんだろうな?
背伸びした役どころを求めた意欲作だったんじゃないかなと思う。
いや、相変わらずドラマは未見だし、彼女、アッサリ結婚して子供も産んでいるから
わたしが知っている武井咲が実像よりも幼すぎる印象が強いんだろう。

主演女優のああだこうだよりも、実は一番感じ入ったのは「銀座」という地。
今は随分と気安くなっている地でもあるんだろうえけど。
今でもこの小説と変わらず、大金が動いているであろう高級クラブも多数存在する地。
そこに渦巻く欲望と欲望の格闘の場でもあるのね。

けものみちよりもこちらのほうがエロスの要素が薄まっている分金銭欲への執着が如実に伝わってくる。
因果応報。そういってしまえば元も子もないのだけれど、元子には成功してほしかったなあと情を寄せてしまう自分がいる。

けものみち

数年前(でもないのか)米倉涼子主演でドラマ化されていた原作。
ドラマは未見。
原作のまま映像化したら(性描写のシーン)放送できんでしょう。。
米倉涼子はグラマラスなスタイルの持ち主だけど、こちらの原作はどちらかといえばスレンダーなスタイル(だと書いていたような覚えが)と描かれているため、脳内での民子が米倉涼子に置き換えできなかった。

現状に不満を抱える女性が一攫千金を夢見て百戦錬磨の男性社会に挑んでいくドラマ。
平成や令和の時代にこの謳い文句は珍しくもないけれど、舞台は既に遠きになりにけりの「昭和」
この小説を読みながら同じように閉塞された世界から抜け出そうとした水商売の女性もきっといたんじゃないかと想像する。
(別に水商売じゃなくてもいいんだけど)
民子には悲劇的な結末が待っているのだけれど、現代に場面を設定しなおして成功者とするストーリーもありだよなあと思う。

この原作を読んで、女性の地位は随分と改善されているんだよなあと思った次第。

2019年5月27日月曜日

戦国自衛隊

中学生くらいのころ、千葉真一主演で映画化された作品。
のちに大ファンになる薬師丸ひろ子が少年兵の役で出演している(らしい)
らしいと書くから、映画は未鑑賞。

私が手に取ったにはこのカバーだけれど、いろんなバリエーションがあり、映画も数年前戦国自衛隊1549とアレンジされたものも公開されていたので、人気が高い作品なんだろうと思える。

設定が独創的。
いや、誰でも「IF」くらいのことは夢想する物語だけど。
夢想をきちんと整理して、戦国に行けば「こうなるだろう」ではなく「こうならざるをえない」と仮定を限りなく現実的に書いていることに舌を巻いた。
「時の人」が「土岐のひと」と置き換わっていく歴史の知識が豊かでないと書けない空想がたくさんあって、「お!なるほど!」と知的好奇心が満たされながら読み進めた。

上記に書いた映画がCMやテレビで放送されたのをチラ見した断片的な映像や記憶から
「武闘派が戦国時代にタイムワープして、憲法で禁じられている武器の専横的使用を積極的に試す(駆使)する」というバイオレンス的な物語とばかり思っていた。

半村良、偉大なり!


ロクヨン(上・下)

2019年、悪事の顔になってしまったピエール瀧が主演したNHKのドラマを先に観て、この本を手にした。


映画のほうは未鑑賞。
原作を読み終えた今、主演は映画の佐藤浩市よりもピエール瀧のほうだな、と。
若手俳優、とにかくイケメンばかりがもてはやされる風潮だけど、味のある顔の持ち主をもっと発掘していかないと、このような原作を映像化していくときに苦労するよ。

成人を迎え、もはや思春期を超えていこうとするふたりの娘の父親でもある身としては、この事件の無残さにゾッとする。
思えば昭和64年のころといえば連続幼女誘拐殺人事件、それから女子高生コンクリート詰め殺人事件。
前者はオタクに走る人間は皆殺人予備群みたいな風潮になった。
後者は不良少年少女には一定のモラルがあるという都合のいい解釈が木っ端みじんに砕かれた。
そのほかにも凄惨な事件が昭和末期にはたくさん発生した。
脱線したが、ロクヨンの事件のモデルは北関東地域での未解決事件をモチーフにしているんだろうなあと感じる。

誘拐事件が未解決なばかりに、主人公の苦悩は深くなる。
NHKドラマのときは突拍子もないように映っていた主人公の娘の失踪の物語が原作で補えた。
未解決事件と娘の失踪の2つの事件を縦軸に。
警察組織の歪みやら政治やら軋轢と報道機関との交渉を横軸に。
そうして読み進めれば、すっきりと読めるんだろうなあ。

わたし、再読を基本スタンスにしているのだがこのロクヨンは疲れた。
冒頭の事情(二児の父)云々は抜いて、
1)文章がとても硬いこと。
2)警察組織の理解が一定程度必要。
その2つに起因するかな。
サラリーマンとしては自分が報酬を得ることがない組織のことを理解したいとは思わないものんだなあ。
もっと言えば、自分自身が関心が薄い組織のことを知りたいとは思わないのね。
歴史小説なら無関係でも興味が高くなる組織のことは調べていくんだし。
新選組とかよく勉強したなあ。笑

阿部一族・舞姫

40歳も超えててくると、高校生のころに教科書で「読まされた」書籍を読みたくなる作品がある。
森鴎外の高瀬舟は高校生3年生のころ、大学受験を前にして習った。
何を目的に習ったなだろう、文法なのか漢字なのか?
さっぱり思い出せないけれど、受験を目の前にして治癒する見込みがなく死にたいと願うひとに手をかけることは罪なのか?
ものすごく衝撃を受けた。
ある意味受験なんかよりこの主題のほうが大事なんじゃないのか?と思ったことを懐かしく思い出す。
古書店で森鴎外の名を見つけて、高瀬舟こそなかったけれど、この書籍を手にした。
舞姫はずっと以前本木雅弘主演で映画化されていたような?
明治、日本が欧州に追いつき追い越せと切磋琢磨している時代。その鼻息と個人の恋愛の板挟みに苦悩し、選択する主人公(鴎外自身なんだろうな)の心境が痛ましく感じた。

阿部一族は一読目ではチンプンカンプンで再読してようやく理解できた。
江戸時代(とひとくくりにしてはいけない)、特に武力統治から政治統治へ舵を切った家光時代の悲劇。
平成から令和へ時代が移ろい、仕事で交わされる言葉
自分が入力、計算、処理したファイルを目の前に「〇〇って感じじゃないですかー」と発してしまうわたしや周囲。
阿部一族の武士から「お主がなしたことではないか!」と叱咤されそう。(激励なんて絶対されない)
そういう気概が日本人の美徳、美点なんだと思う。
グローバリゼーションのなかにいてもそんな気概は失っちゃいけない。

偉そうなこと書いたが、次こそは高瀬舟を買い求めねば!

荒神

RPGオタクでもあるという宮部みゆき。
彼女の頭の上に江戸時代を舞台にしたRPGを執筆したい欲求を具現化した作品なんだと感じている。
そういう邪心(というべきか?)が読み手の私の頭の上を飛び交っていたからなのか、期待ほどの読み応えはなかった。
「模倣犯」で邪悪な心を究極まで書き連ねた宮部さんに、今作のもうひとりの主人公ともいえる「曽谷弾正」を「ピース」のような人間像にはどうしてもできなかったのだろう。
それがゆえにその他の準主役級の小日向直弥もイマイチ存在感が薄かった。
と。大人の登場人物はわたしにはピンボケな人物像としか読めなかったのけれど、こどもである「蓑吉」、彼の「じっちゃ」の存在感は生き生きと綴られているよう。
宮部さんは、こういう世代の男子・女子を大きく背伸びさせて書き綴っている。
実際にこんなに思慮深く、感情を言葉にできるこどもはほとんどいないと思うのだけれど。
自分が子供のころって「こんなことを感じていたんだよなあ」
50歳を超えた今では「こんなことを感じていたんだろうなあ」になってしまったけれど。
瑞々しい感覚を呼び覚ます「若返りのクスリ」だと思って彼女の作品を手に取っていきたいと感じた。

数年前にNHKでドラマ化されたのだけれど、残念ながら不手際で観れなかった。
内田有紀が主演だったとのこと。
ふっくらしている感がある内田有紀よりはもう少し細身で影が強めに感じられる女優さんで映画化してほしい。
黒木華とか、どうだろう?

2019年5月23日木曜日

キャプテン・マーベル

19年、7作目
このエントリーをしている現在「アベンジャーズ」が公開されて数週間経過している。
このキャプテン・マーベルの話も盛り込まれている(はず)
だから鑑賞に行くという選択肢もある。
しかし!
アベンジャーズは3時間の上映時間!
いや、それ以上にアイアンマン始めたくさんのヒーロー・ヒロインが登場し、彼らの話がそれぞれ語られクロスしていくんだろう。
数年前のキャッチコピー「日本よ、これが映画だ」としていたアベンジャーズを鑑賞して、話の多さと壮大すぎるアクションシーンについていけなかった。
...。ということで、今もウジウジとアベンジャーズの鑑賞に二の足を踏んでいる次第。

さて、今作キャプテン・マーベル
主演の女優ブリー・ラーソンがネットなどの広告で見る顔立ちよりも凛々しく。
なかなかいいお顔立ち。
パッと見、メグ・ライアンのようなオキャンなイメージに見えていたので。
今作のようなアクション系にとどまらずシリアス系の演技にも期待したい。

しかし、この作品で一番心に残ったのはアネット・ベニング!
いやー、かなり久しぶりにスクリーンで観た。
もはやおばあちゃんの域に到達しようとしているのに、相変わらず色っぽいわあ。
残念ながら映画紹介サイトにはベニングさまの画像は落ちてなかった。

舞台は1995年あたり(だったかと)
レンタルビデオ店、Windows95、携帯電話。
最早遠い過去になっていることに感慨深く、そしてアクション映画なのに、自身の年齢と自分史について考えさせられてしまった。

似たような作品としてワンダーウーマンがあげられるだろうけれど。
惹きつける力は直球勝負!な印象が強いワンダーウーマンのほうが上手だったな。

さあ、アベンジャーズ・エンドゲーム。
鑑賞に足を向けるかどうか、今もうじうじと悩んでいるところ。



2019年5月21日火曜日

ブラック・クランズマン

19年、6作目

映画館の予告編を観て、「面白そう」と意気込んで鑑賞に赴いた作品。
もうひとつ、主演の黒人俳優がデンゼル・ワシントンの息子さんだと知って。
今冬公開予定のスターウォーズのアダムドライバーも忘れていません。

予告編での印象はコメディタッチの作品の印象だった。
実際はコメディ要素はほぼ皆無に感じた(予告編でわたしは何を観ていたんだろう?)
「KKK」のことをよく理解していない身としては途中から「?」が点灯しながら鑑賞。
監督がスパイクリーというアクの強いひとだから、作品の結末での彼の主張は現代アメリカに巣食う闇をあぶりだしているんだなあと感じた。


運び屋

19年、5作目

三面記事に掲載された事件をクリントイーストウッドがイマジネーションを拡げていったのではないかなと感じた作品。
(事実を忠実に再現したわけではなかろう)

アメリカも日本ほどではないだろうけど、高齢者の独り暮らしが増えていっているのかな。
孤独な老人だからこそ手を染められた犯罪だし。
いつものようにイーストウッドはこの犯罪に対し「良い」とも「悪い」とも主張してこない。
ただ、目の前に裕福さを突き付けられると容易に悪いことに手を染めてしまう人間の性(さが)を淡々と映し出してきた。

一方、この主人公の口の悪さ!
黒人を蔑称で呼ぶシーンに思わずドキリとさせられる。
それにも関わらず、変な安心感。
なんだろう?この鑑賞者に起きる感情は?
と振り返って思うこと。
主人公は黒人は「黒人」としか思っていないだということ。
黒人は汚いとか、劣っているとか、人間ではないとか。
そういう感情をこの主人公には持っていない。
彼が若いときは黒人は差別される存在が当たり前の時代。
時代は移り、白人と同列に扱われる時代になっている。(わたしたち黄色人種も)
そういう時代の移ろいを理解させてくれるだけの存在がクリントイーストウッドの偉大さなんだろうと感じる。

願わくばまたスクリーンでクリントイーストウッドの姿を観たい。

2019年3月18日月曜日

グリーンブック

19年、4作目

巷間言われているようで、7年前に公開された「最強のふたり」に通じるような作風。
肌の色が異なる、そして地位や環境の異なるふたりが旅をするにつれ、「差別」と向き合う。
今作がアカデミー賞を獲得したのは、映画界からの無言の意思表明だと感じている。
「ひとをひととして遇し、そのひとの性格や能力をあるがままに見つめて受け入れる社会を!」
そういえば昨年2018年のアカデミー賞作品も半魚人という異端の存在を慈しむ女性とのラブストーリーだったし。

とかく何かと「かすまびしい」米国のトップ。
きっと彼の本音は「異端なものは排除していきたい」
誰しも異端なものを受け入れるにはそれぞれの心の障壁の高さによりけりなんだろうけれど、彼の障壁は宇宙に届くくらい高いのだろう。

黒人が差別されていることが当たり前の1960年代の事実をベースにした作品。
(エンドロールでふたりのショットが観れる。私は観ながらうっすらと温かい涙が出ました。どうもこのような作品には涙腺がもろくなってきた)

声高に「差別なんてしてはいけない!!」と訴えているわけではなく。
静かに「かつて世界には肌の色が異なるだけでこんなに理不尽なことが行われていた」
そのような眼差しを感じて、鑑賞後は穏やかな気持ちを得られた作品。

本人だってイタ公と差別されている境遇の移民系白人が天才ピアニストになったが故の上流階級に属する黒人の南部へのツアーへのボディガード兼マネージャーとして旅する。
この旅に欠かせないガイド本が「グリーンブック」
白人しか泊めることを許さない宿泊施設、黒人しか泊めることしかできない宿泊施設

中盤でのケンタッキー・フライド・チキンのくだりは本当に可笑しくて。
後半のレストランのくだりは本当に腹ただしくて。

中盤のパトカーと後半のパトカーが当時の現実を両方映し出しているのだろうか。
とことん侮蔑していく姿、フラットなスタンスで接する姿。

あんなガサツで無学な旦那さんがうっとりするようなラブレターを書けるはずもなく。
親愛なるの「Dear」と「Deer」とスペルを間違えるような旦那さん。
ところどころにクスリと笑える話が織り込んでいられて障壁が低い作品でした。

2019年3月10日日曜日

ちいさな独裁者

19年、3作目

自分なりにここ数年の世界のありように危機感を抱いている証なのか、ナチス政権を題材にした作品が目に付く。
同時期に公開されていた「ナチス第三の男」も気になったが、残念ながらタイミングが合わず観にいけず。
数年前には「帰ってきたヒトラー」、これは観た。
序盤のコメディタッチのようでありながら、時間を追うごとに(誇張も混じるけど)背筋が凍るような怖さを感じた。

この作品、たかだか20歳の小僧がナチス将校の制服を手に入れたがために起こる惨劇。
彼が手に入れたことで人生が狂う「悲劇」ではない。
彼が自ら人生を狂わせて多くのひとびとから略奪し・殺戮する「惨劇」
囚人を濠のなかに入れて銃で殺戮していくシーンに眼をそむけたくなった。
そして劇中に彼が偽ナチスだと気づいていながら彼の惨劇に参加し、加担し、能動的に邪悪な道へ踏み込んでいく。
頭脳を誰かに預けてしまえば楽だ、自分もこの仲間入りが容易にできるだろうと思う。
まさに「肝が冷える」思いをした映画。

どうやら事実ではこれ以上の惨劇を指示したらしいと聞く。
それがどのような事実なのか聞く勇気の持ち合わせがない。
人間はどこまでも残酷になっていける。どこまでも、どこまでも。

ドイツは国策で過去のドイツが他国に与えた苦痛を目を背けずに教育していると聞く。
パロディですらヒトラーを模倣することも禁じられているそう。
ドイツは真正面から自国の過去の姿を見つめる。
ドイツの国のありようには敬意を感じる、良心をなくすことなくユーロを守っていってほしい。

ヘレディタリー 継承

19年、2作目

連れがホラー映画を観に行こうということで。
こういう手合いのホラー映画(家族が舞台設定されている)は小学校から中学校のころに金曜ロードショー(当時は木曜か水曜だったかな)などでみた「悪魔が棲む家」(たぶんこんな感じのタイトル)で、タイトルどおり悪魔が家に潜り込んでいて、最後は地下室で父親が対峙して必死に格闘して退治、祓うという作品。

ヘレディタリーも家族四人(父・母・息子・娘)が悪魔と対峙して父親が最後には退治に乗り出す、それに似たような作品なんだろうと思いきや。
主役は母。
母が悪魔と対峙する?80年代とは今では女性の立場も随分と変わったし、ちょっとひ弱な感じがぬぐえない父よりも強面(女優さんごめんなさい)の母が矢面に立つのだろうか?
娘もヘンな子、だけど息子は今風なちょっとヤンチャな奴だし。
という序盤・中盤を乗り越えていく。

決定的に違うのは物語が進むにつれて、家族の結束が解かれていくところ。
80年代の記憶の作品では父(つまり親)は子どもを守るために斧や銃を手にしていくのに、この作品は父親は母を錯乱したと嘆くし、息子は母へ不信を募らせる。
家族の崩壊。これがいちばんの怖さなのかもしれない。

日本人の宗教への知識が乏しいわたしにはこの作品の悪魔の存在の衝撃度の温度感は測りかねるのだけれど、キリスト教に造詣が深いひとにはものすごい衝撃なんだろうなあ。

エンドロールで場違いなほど爽やかな曲が流れた。
爽やかな朝の訪れと共に聴きたくなるようなメロディ。
バッドエンディングにこの曲。
映画は架空だから、鑑賞し終えた今は爽やかな気持ちを取り戻してください。
とでも言いたいのだろうか?

2019年2月4日月曜日

満願

10年近く前に読んだ「インシテミル」の作者。
あのとき読んだ感触とこの満願も似ていて、この米澤穂信という作家の伏線の張り方は上手いなあと唸る。
インシテミルは、アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」へのオマージュ作品、どうしても作者が自縄自縛な印象を抱いた。
まぁ、好きな作品へのチャレンジって何かの制約や自分で決めたルールのもとに書きたくなるんだろうし。

久しぶりに米澤穂信の名前を見かけたのは2017年の夏、NHKでこの「満願」がドラマになったとの報。
しかもこの本、山本周五郎賞を受賞しているとのこと。
それじゃあ!という勢いで手に取る。

冒頭に結末を出して、そこから起承転と展開していく。
特に「万灯」はその典型的な一編。
主人公が殺人を2件も犯している、承が巧みに綴られて。
結のことを忘れてしまった。
そして「あ!」と転で閉じる。

「夜警」と「満願」の2編が読み応えが高かった。
特に「夜警」、読みながら「イヤーな風」が耳元に吹いてきているような感覚がつきまとってきていた。

沈黙

Blogを復活しようと思ったのは、映画を観て感じたものと本を読んで感じたことを記録しておきたいと思ったから。
一昨年(2017年)この「沈黙」がマーティン・スコッセッシ監督、アンドリュー・ガーフィールド主演で映画化され、鑑賞した。

原作は10年ほど前に一度読んでいたので、あらましは理解していたし、原作に忠実な作りだった。
おかげでもう一度原作を読み返そうと思った。

「穴吊り」という拷問のおぞましさ。
映像化されていてもなお、文字で読み進めるほうが耐えられないほどの痛みを心に突き刺してくる。
フィジカルな痛みではなく、メンタルな痛み。

井上筑後守が言う「この国は泥沼のように根付かぬ」
当時の日本におけるキリスト教の布教に限定すれば、その通りだと思う。
このひとが神父たちに棄教を迫っていく理屈に抗えない自分がいた。
今回の読み返しでは井上筑後守のことばがやけに重たく突き刺さってきた。


2019年1月31日木曜日

宮部みゆきの江戸怪談散歩

宮部みゆきの本には同じ本が異なる出版社から発売されることが時にある。
版権だとか著作権だと所案の事情があるんだろうけど。

彼女が書いてきた怪談といえば「幻色江戸ふしぎごよみ」と「本所深川七不思議」が二大巨頭の位置づけ。
その舞台となった各地を紹介する本。
この本を片手に江戸の街並みを思い描きながら散策するのも悪くないかも。
春めいてきたら、回向院とか富岡八幡宮。
おせんべいやお団子を口にしながら。

それから、あまり印象に残っていない「三島屋」シリーズはこの先もずっと続いていくんだと宣言されていらっしゃる。
丁寧に読み返してみようかな、まずは「おそろし」から。
この本に既に収納されている「曼殊沙華」を読んで、そう思った。

巻末に掲載されている岡本綺堂の「指輪一つ」と福澤徹三の「怪の再生」
前者は上手いな!と思いながら後者はリングシリーズのような現代ならではの電化製品をツールにして恐怖を演出している。
電化製品が正常に動かなくなる時、たいてい異音がする。
なんとなく「何かが悪さをしているんじゃない?」と思うし。

火天の城

おおよそ10年前に一度読んでいたこの本をまた借りて読み返した。
暦が18年から19年に変わるころ、「なんでまたこの本を読み返すかなあ」と。
他にすらすらと読みやすい本はいくらでもあるのに、と。

10年前に書き連ねていた自分の感想が今よりよほど大人な感想で驚いている。
岡部父子から学ぶ父から子へ継承すべき技術、加えて「魂」
子の成長とともに失う肉体の若さと継承への情熱。

読んでいるとどうしても映画の配役のことを思ってしまう。
10年ほど前の映画はなかったことにして、もういちど原作に忠実に映像化してくれないものだろうか。
安土城づくりの映像はCGでじゅうぶん。
観たいのは岡部父子。

勝手に配役する。
父、椎名桔平
息子、柳楽優弥

椎名桔平は信長を演じていたんだけど、岡部又右衛門が似合うような年齢になってきたように思えて。
その他いろんな岡部組や木曾のひとびとなど、「アウトレイジ」の出演者。
そうなると北野武が監督になるんだけれど。
ああ、あんな感じの荒くれものたちの物語でいいのかもしれない。



2019年1月30日水曜日

西郷札

清張フェスティバル第3弾。笑

18年はよく清張の作品を読みふけったなあ。
この作品が18年最後に読んだ本。
18年の大河ドラマは「西郷どん」、それに因んだ作品を読みたかった。
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」の読み返しでもいいし、海音寺潮五郎でもいいかなと。
その矢先にこの本を見つけてしまった。
当初の目的は大河で書かれていた奄美大島への遠島時代のことを突っ込んだ内容で書かれた本だったんだが。

この西郷札(”さつ”)、西郷さんは全く登場して来ない。
「なんだ、ちょっとがっかり」と思いながら読み進めていくと。
一回目ではわからかったが、読み返してみてよく理解できた。
なんなの、これ。「最後の策」ってどう考えても...。やるっきゃない!だよなあ。
ひとを陥れるようなことしちゃいかんな、と自省もするし、往時にその経験がある身としては物悲しい物語。

「くるま宿」、爽快な作品。
このような人生を歩めたらどんなに誇り高い人生だろう。
清貧とはこういうこと。

「梟示抄」、江藤新平のドキュメント。
四国の山や川をさまよい歩く逃避行が生々しい。

「しゅしゅう吟」(しゅう、”口へんに秋”)
肥前佐賀藩のとある足軽に生まれたばかりに人生が狂った男の物語
語弊があるな、足軽に生まれたからではなく、その出自にひがんで太陽の下を歩もうとしなかった男。

「戦国権謀」本田正純の物語。家康の盟友、正信の息子の末路
本多家っていつの間にか消えているなあと思っていたけれど、ひとを陥れるような輩はいつかその報いを受けるということか。

「恋情」「噂始末」
この二編、読んでいてやるせなかった。
主人公には何の罪はおろか否はないのに...。

西郷さんのことを知りたいと思って手に取った本なのに、戦国や幕末の歴史知識が増えた。
加えて、切なさと愛しさと心強さも(篠原涼子には「白梅の香」に出てくる謎の女を演じてもらいたい)

不安な演奏

松本清張の長編作品では地味な作品のほうかな。
ラブホテルの盗聴テープを聞かせては小銭を稼ぐライターのスケベ心を起点として大物政治家の選挙違反へと糸のようにスーーーーっと繋がっていく筋書きには脱帽。
そして最後にとんでもない立場の逆転。
湯布院の宿のくだり(この時代、湯布院はしがない田舎温泉宿ってのが新鮮)にはゾクリ。

素材を現代に置き換えればじゅうぶんに今でも面白い映像化作品ができあがるはず。
盗聴テープを盗聴動画に。
電車回数券は交通系電子マネーに。
生命保険会社はそのままでも、或いはいつの時代も不変な食事の店でも。
(考えてみたら清張の時代にはフードチェーン店も皆無に近いのでは?)

この作品がいまひとつ地味な印象に陥ってしまうのは
映画監督の本編からの途中降板とでもいうべきフェードアウト感。
それからバディムービーのような「共同推理加担者」、葉山良太の登場が謎めいているわりには「...。」といったフェードアウト感。
二人のフェードアウト感が地味な印象に陥ってしまう要因かな。

地域も新潟柏崎、三重尾鷲、山梨小淵沢と現在でも「ビミョー」(住んでいるかたごめんなさい!)な中途半端な知名度の土地というのもある、のかも。

事件の発展はどんどん大きくなっていくのに、主人公の平助が等身大のままということもあるかな。

あ、いや。けなしているように読めると申し訳ないのだけれど。
そのあたりを昇華させてくれたら、抜群に面白い映像化作品になります。

憎悪の依頼

このBlogを中断している間、何をしていたかというと。
御多分に漏れず、SNS、facebookにTwitterなどなど。
それからスマートフォン向けゲーム。
最早中毒だと指摘されている始末。
年が明けた時点で、中毒から抜け出してスマートフォン依存症から脱却すべく、習慣を改めようと一念発起して再開している。

ところで、このSNN・スマートフォン三昧の生活の中でも辛うじて読書をする習慣はわずかに残っていて(読む量はものすごく落ちていたが)
で、この期間に「すごいな!この作者!」と思ったのが松本清張。

長編は既に数冊読み終えている「砂の器」「点と線」「Dの複合」「日本の黒い霧」「ゼロの焦点」
どれも推理小説としても歴史考証としても「すげー」と思いながら読みふけった。

さて、ようやく今回の「憎悪の依頼」
松本清張の短編も「すげー」
タイトルの「憎悪の依頼」は結末は推測はたやすいけれど、歪んだ欲望のなれの果てがやるせない。

「女囚」、結末の推測をドンガラガッタンと覆された。
美談になるのかと思いきや結末の数ページで奈落の底に叩き落された気分がした。
加害者側にいくら酌量すべき事情があるとしても、殺人にはそれだけの代償を伴うんだなとズキンと痛む作品

「絵葉書の少女」「大臣の恋」
こちらの作品に登場する女性の末路が哀れ。
冒頭にダラダラと述べてきた長編小説でも清張が書く女性は哀れなひとが多い。
清張の生い立ちによるものなのか、戦後昭和の時代風潮なのか。
21世紀新しい元号になろうとしている今、このような女性を読むのは過去の産物なのだろうか。



小暮写真館(上・下)

宮部みゆきの現代ものは私にとってはグッと引き込まれるものとそうではないものとの落差が激しい。

この本は(めちゃくちゃ尊大な言い方だけれど)引き込まれにくいほうのもの。

「模倣犯」のようなセンセーショナルで悪意に満ちた人物を炙り出す書き手。
そんな宮部みゆきもその世界に居続けると精神的にマイッてしまうんだろうな。
確か、あとがきにもそう書かれていたような。
不動産屋夫妻とか、高校の鉄道部連中とか、親友のテンコのようなひとは私たちの身近にいるような感覚で書かれているけれど、現実はそんなひとに巡り合うことは幸運なひとにしか訪れないだろう。

主人公のハナちゃんのようなピュアな高校生が今の世の中にどれほどいるのか?
片手に余るほどしかいなんじゃないかと思える一方、高校生のころにしか抱けないストレートでイノセントな感情は心地よいもの。

ハナちゃんと柿元順子のお互いの気持ちは「恋」と呼ぶには淡く。
「友情」と呼ぶにはふたりの心は近く。
そんな女性の存在っていいよなあ、と。
自分が高校生くらいのころにこんな不思議な友情恋愛をしていたらどうなったかな、と空想してみた。
結局再会することもなく、いつのまにか忘れていくんだろう。
この本の結末もそのように結んでいるし、お互いがそれぞれの鉄道を選び、駅に立ったり降りたりを繰り返していくんだろう。。

この本と平行するようなタイミングで重松清の「疾走」を読んでいたので、頭のなかがあっちこっちと善意と悪意を行き来するのが激しかった。
何せあちらとこちらでは主人公が対極にある...。




2019年1月29日火曜日

見張り台からずっと

そういえば「見張り台からずっと」、エリック・クラプトンの曲にあったよなあと。
記録を残すにあたりWikipediaで調べたらボブ・ディラン。
ああ、わたしの洋楽知識ってそんなレベル...。笑

このタイトルを見たとき、洋楽の曲のタイトルということは知っていたんだけれど、ひとつの舞台(街とか)で見張り台のような全体を見回しながら善意の持ち主が外部から入り込む「悪意」から守るような物語なのかなあと思っていた。
例えばパソコンに入ってくるウイルスの侵入を防ぐウイルスバスターのような男性の物語。
例えば森の静寂を守るようなガーディアン的なひとの物語。
そのような聖者が輝くような物語ではなかった。
くどいが初めての重松清が「くちぶえ番長」だった私には同じ作者なの?と面食らうばかり。

作家になって駆け出しのころに執筆されたとのことで、重松清本来の書きたいものは「カラス」のように世間でつまはじきになっても尚そこで踏みとどまざるを得ないような境遇のひとを(見張り塔のような)全体を見回せるところから中立的な目線で事実(重松清のフィクションだけど、事実のように感じてくる)を綴っている。
あとがきで書かれれているので初めて知った、重松清、作家になる以前はフリーライター、ゴーストライターだったんだと。
そのころかにはたくさんの事件や事故を見聞きしてきただろうし、事件前夜の事情も事件後の顛末も。酸いも甘いもかみ分けて(たいていが酸いほうだろうけど)蓄積された記憶や記録から物語を紡いでいるんだろうなあ。

今作3編のうちもっとも背筋がゾクッとしたのは「扉を開けて」
一見開放的なタイトルだけれど、この扉、開けてはいけない...。
実は読み返すだけの気力が湧いてこない。


2019年1月28日月曜日

不安な童話

数か月前に読み終えていた作品。
さて、この本の感想を記録しとこうと思ってキーボードの前に座ってみたものの。
「サクサクと読めた」ことしか記憶がなかった。

そこでパラパラと頁を斜め読みしてもさっぱり内容を思い出せなかった作品。
仕方がないので、あらためて初めから読み直した。
登場人物の掘り下げ方に原因があるような気がする。
主人公と高槻倫子しか記憶になく、ほかの登場人物は「あれ?こんなひといたっけ?」というひとばかり。
人物の特徴は書かれているんだけれど(伊藤さんとか十詩子さんとか...。再々読から一日しか経過していないのに、もう苗字とか名前とかを忘れている)そのひとが何を考えたり感じたりしているのか?その感情の動きが読み取りにくいのかなあ。

恩田陸の作品はこれで三冊目。
どの作品もハッキリとした結末がなくてとても「もやもや」した気分になる。
この「不安な童話」も結末がモヤっとしている。

しかし、この再再読でフッとプロローグと結末を読んでみて気づく。
本編は事件の犯人を探すこと、知ることに読者の集中を向けているが。
肝心な輪廻転生のことをサラリと匂わせて物語を閉じている。
生まれ変わりなのか?
それとも記憶は伝染していくのか?
どっちなんだ??????

クリード2 炎の宿敵

随分と長いこと映画のこと書いていなかった。
できれば後日の自分のために書き残しておきたいと思って再開。

映画を観た以上は、内容に触れざるを得ない。
内容を知りたくない方はお読みにならないように。

19年、1作目
クリード2
邦題の副タイトル「炎の宿敵」は4の「炎の友情」を受け継いだ作品とアピール。
館内は白髪や輝く頭のひとたちが多かった。
わたしもそのひとり。
中には若者もチラホラ、黒人の若者も2名くらい見かけた。
若者はある程度ロッキーシリーズのことを知っていて見に来たのだろうか。

今作、つまるところ「家族のありよう」を問いかけてきた作品だと感じている。
クリードには結婚、子どもの誕生。
父はJ・ブラウンのLIVING IN AMERICAで入場してきたけれど、息子クリードは妻ビアンカを先頭にして彼女の歌と共に入場してくる。
(ちょっとだけ4を懐かしみたいわたしはLIVING---で入場してこないかなあと期待したんだけどね)
誕生した娘も妻と同じハンデがあるけれど、おばあちゃんだったかな「彼女にはそれが当たり前なのよ」というセリフが沁みたなあ。

ロッキー、壊れかけた息子との絆を繕っていく姿。
シーンでは一度しかなかったけれど、彼は毎日、妻エイドリアンの墓前に椅子を置いて語りかけているんだろうなあ。
ああ、ロッキーは妻の墓前には赴くがアポロの墓前には行っていない。
クリード家のことなんだからクリードが行けばいいのさ、と考えているんだろうな。

普段のロッキーはコンバースのスニーカーで街を闊歩している。
革靴など履かず、髪の手入れもしない。
老いたロッキーはこれから先どうなるんろうとチラリと頭をよぎる。

そしてドラゴ。
この作品で涙が出たシーンはひとつだけ。
父ドラゴがリングにタオルを投げ込んだシーン。
ポロポロと泣いてしまった。
敗戦が決定的になり、ボロボロに負けてしまう息子のためにドラゴはタオルを投入する。
それでまでのトレーニングでの「走れと言ったら走れ」と老いた自分は車に乗って息子を追い立ていていく父が、かつて自分が味わった敗戦のショックで息子が廃人にならないようにと願って投げた(と、わたしは感じている)
その後のトレーニングに励むドラゴ父子はふたりとも自分の脚で走っている。
そこに感激した。
もう一度一からやり直していこう。
国家に対する恨みとか母親への慕情を断ち切って。
自分たちが闘う理由は自分たちのためにあるんだ、というシーンではなかったか。

クリードとドラゴはもう一度再戦するんだろうか?
シルベスター・スタローンはどうこの物語を紡いでいくのだろう。
若いふたりに再戦してほしいけれど、それぞれの道を歩いていくのも悪くない脚本だと感じてる。
次作があるとすればロッキーとドラゴの物語も少しだけ続きを期待したいんだけど。
ドラゴとロッキーも30年以上を経過し、お互いのネガティブな感情から抜け出せたらなあ。

最後にこの映画はブラックミュージックがスクリーンに流れる。
(わたしはちょっとこの手の音楽は苦手)
これはクリードの物語なんだからブラックミュージックで。
当たり前だけど、そういう気の利かせ方がシルベスター・スタローンなんだろうなあと。
いや、実は音楽は門外漢だから好きにしていいよ!って言ったのかもな。笑

2019年1月26日土曜日

雷神の筒

尾張の一守護時代から石山本願寺攻めまでの物語。
主人公と信長以外にも魅力的な人物が多数登場してくるけれど、今一つ彼らの特徴が伝わって来ず、輝きが薄い。
特にそれを感じたのが雑賀孫市と王直。

司馬遼太郎の作品に「十一番目の志士」があり、主人公は架空の人物、天堂晋助。
彼が幕末の至る所に登場し、主要な人物と関わっていく物語。
これが幕末オタクの私にはあまり面白く感じなかった。
なんでだろう?と原因を考えてみたとき、あまりに多くのものやひとを盛り込んでいくと印象が薄くなるんではないか、と感じたことを思い出した。

山本兼一は既に鬼籍に入られている。
だから、天国にいる山本先生に伝えたい。

いっそのこと短編にしよう。
舞台設定は信長が尾張の派遣争いを繰り広げている頃。
橋本一巴がどのようにして鉄砲の価値を見出し、信長に説いて、戦で試行錯誤を繰り返す。
技術者と殿様の命に対する考え方や価値の相違点について炙り出す。
新しい技術にのめりこんでいく橋本一巴
新しい武器により制覇への思いを強くしていく信長
その対比を語ってくれたらなあ。

信長死すべし

2020年の大河ドラマは「麒麟が来る」明智光秀を主人公にする。
このニュースを見たときの衝撃はかなりなものだった。
それは例えば大阪で「もんじゃ焼き」のお店が繁盛している光景を目の当たりにしたような。
つまるところ、主人公に据えるにはあまりに「信じられない」「ありえない」人物だから。
将来のことを考えずに主人に反逆し「三日天下」で落命した官僚武将が明智光秀の日本人のプロトタイプ。
ニッポンの若者が目指す人物像でもないし、ニッポンのお父さんが憧れる上司でもない。
彼の政治能力や治世への情熱や貢献した事実はもっと日の目を浴びていいんだろうな。
あ、この小説ではその面は語られていないから、「麒麟が来る」の原作に期待する。

この「信長死すべし」、本能寺の変を朝廷黒幕説で書き進められている。
先年、本能寺の変の動機の大きなものとして四国の長宗我部攻めに光秀が苦悩した末の反乱だという史料が表れた。
その史料だけにフォーカスすればこの小説は「フェイクストーリー」と断じることもできる。
もちろん、そんなことは思わない。
ありきたりなことをを書くが、この小説はとても面白かった。
他にもたくさん書かれた歴史素材としての本能寺の変を朝廷と風流人たちの関わりから紡いでいく視点とその綿密な構成と溢れる知識!
もうこれが真実なんじゃ?と思いながら読み進めた。

里村紹巴。連歌師の生い立ちと地位の低さ。
このひとのことを深く知ることができた。

今から先も本能寺の変に関わる史料は出てくるだろうし、小説にも執筆されていくことだろう。
それほど本能寺の変って想像力を掻き立てられるし、謎の多い出来事。



2019年1月23日水曜日

悪魔が来りて笛を吹く

わたし、小学生のころ「昭和5*年」横溝正史原作の推理小説が続々と映画化された。
「八つ墓村」「犬神家の一族」そしてこの「悪魔が来りて笛を吹く」、あと「病院坂の縛り首」だっけ。
前者2作は有名なシーンには強烈な記憶。
湖面に突き刺したように足が二つ伸びている
真っ白い仮面の男とか(助清デスネ)

今にして思う、あのころは高度経済成長期のピークを越え、昭和時代が安定。
敗戦によるショッキングな出来事や戦前のころを懐かしむ世代(明治生まれの頑固爺もそこかしこにまだ身近にいた)にとって「あの頃、あれはあれでよかった」という懐古主義な映画がたくさん製作されたんだろうと。

「悪魔が来りて笛を吹く」を読もうを思い立ったのは、NHKのBS放送でリブートされたこの作品を途中まで観たから、というのが直接のきっかけ。
最後まで観れなかったからこそ、気になって手に取った。

それにしても、横溝正史が書くこのどろどろとした人間関係の阿鼻叫喚ぶりには言葉もない。
犯人が何故殺そうとしたのかという動機が、、、やるせなさすぎる。

この小説を読破したのちに、再放送で全部観れたんだが。
NHKだからということもあるのだろう、犯人の心を救済しようとした構成にそれでは犯行に至るほうがおかしい、と思わざるを得ない「???」な結末に思えた。

この小説で一番気持ち悪いのは「上流階級に巣食う虚栄心」
敗戦後しばらくは貴族、華族を言われたひとびとが街を闊歩し、敬われていた時代だからこそこういう物語を紡ぐことができたんだろうと思って読んでいたけれど。
今だって人の上に立つような世界観のひとびとも(〇〇族とか言われるひとびとや、仮想通貨で一攫千金を得たりと、つまるところ身の丈を知らないひとびと)似たような欲望の権化になっていくんじゃないかと。
いつかわたしが老いて、魂を天に返還するころ、わたしの孫の世代が「AI草創期のころにはあたりまえだったことって、私たちにはおぞましくて気持ち悪い」と感じながら読むような。
その時代にはガソリンスタンドとかレンタルショップとかが前時代を表すキースポットとして登場するんだろうな。
あー、なんかもっとインスピレーションがあればへっぽこ推理小説が書けるのになあ!

さて次に横溝正史を読むとすれば、何を手に取ろう。

2019年1月22日火曜日

疾走(下)

上巻を読んでいる時点で、頭の中心ではわかっていた。
『シュウジは下巻になっても境遇が上向くことはないんだろう』と。

「くちぶえ番長」とは違うんだ、人と人はいつか、どこかで善意で繋がることができるなんてことは夢物語なんだと。
それでもなお、その善意に満ちたひとが現れてくるんだと信じていた。
神父さんは善意に満ちたひとだけど、彼はシュウジに経済的援助をすることもないし、精神的支柱のような存在でもない。
シュウジに救いの手を差し伸べる存在はエリなんだろうけど、彼女と繋がることはなさげだなあ、と思いながら読む。

下巻でもっとも強烈だったのは新田の登場。
彼の圧倒的なバイオレンスとセクシャル、読んでいるとその情景が目に浮かびとても気持ち悪く、自分の心の居心地も悪い。
なのに読み進めてしまう筆の巧みさ。

シュウジ、15歳くらい。
自分の15歳のころと重ね合わせてみると、ツテもない大都会でたった一人で生きていこうとする姿に加えてあまりにも悪意に満ちたタフな現実が相まって読んでいて涙が流れるほど。
もう止めてくれ、と。

そしてエピローグ。
上巻から書かれてきた幾つもの伏線たちが回収されて救いのある結末、それはそうなんだろう。
作者にも止めることができない、タイトルどおり作者もシュウジと共に疾走してきたのだろうから、この結末にならざるを得なかったのだろう。

でも。
あまりにこの結末は悲しい。

疾走(上)

重松清の小説、例えば「くちぶえ番長」のような中学生の教科書に登場するお手本のような味わいの小説を数冊読んできている。

そんななかでこの「疾走」を手に取る。
発売当時、駅ナカの書店で平積みされ、表紙に描かれる「黒い背景に叫ぶようなひと」
随分と怖い表紙だから怖い小説なんだろうと思って購入に至らず。

その疾走を読み終えて
「くちぶえ番長」と「疾走」の作者が同じひとだとはどうしても信じられない。
この上巻、主人公の環境は日に日に劣化していく。
「くちぶえ番長」を書いた作者なら、きっと何かがきっかけでシュウジには誰かから具体的な救いの手が差し伸べられていくだろう、と。
それは、進学費用の援助するひとの登場、孤立する環境を改善する熱血教師の登場、心を満たすような愛を与えてくれるひとの登場。
そういったひとがきっと、という期待は上巻では実現されない。

下巻ではシュウジや彼の周りが今よりも上向いていくのだろうと思いながら読み進めた