2012年2月20日月曜日

鬼平犯科帳(1)

6・7年前に読み始めた「鬼平犯科帳」
改めて読み返してみたいと思い始めた。
当時は何かしら、自分で自分に読むことを課していた。
面白いことは勿論このうえもなく面白いのだが、これを読まないと連れの会話が膨らまないだろうという野卑た考えが頭の片隅には常に渦巻いていた。
そういう読み方ではなく、自分の心の内から「もう一度読みたい」という欲求が自然に出た。
もう1つ事情があり、これは通勤時間が短いということ
短編であればスッと頭に入りやすいし、読み直しも苦にならないから。

そんなわけで、鬼平犯科帳、1巻から読み返していきます。
無理せず。
慌てず。

「唖の十蔵」
「本所・桜屋敷」
「血頭の丹兵衛」
「浅草・御厩河岸」
「老盗の夢」
「暗剣白梅香」
「座頭と猿」
「むかしの女」

気に入った文章
①61頁(本所・桜屋敷)
客は二人だけであった
雪はやまなかった。

この「間」が実にいい。
何度も読み直してみた。
味がある。

②97頁(血頭の丹兵衛)
現代は人情蔑視の時代であるから人間といういきものは情智ともにそなわってこそ〔人〕となるべきことを忘れかけている

この小説が書かれてから半世紀近くが経とうとしている。
「忘れかけている」ではなく「忘れている」そんな時代になっている。

③163頁(老盗の夢)
われながら意外・・・・・勃然と萌しはじめたのを知ったのである。

実に味わい深い男性の勃起を表現している、こういう表現が「粋」の骨頂だ。

④175頁(老頭の夢)
「泥棒稼業」
「どろぼうかぎょう」ではなく「しらなみかぎょう」と読ませる。
これも「粋」

⑤188頁(老頭の夢)
「あ・・・・・こないなこと、わたし、はじめてどす・・・・・一度にやせてしもうた」
セリフの主は「おとよ」という女
過去も未来も考えないのが女なんだという、作者の考えが伺える一文。
ゲラゲラと笑ってしまったあとに、フッと女の性について考え込んでしまう一文

⑥230頁(座頭と猿)
欲望だけが別の〔生き物〕となってうごめいている
情楽に溺れていく様が短い文章で言い表されている

⑦238頁(座頭と猿)
男というものは、女房の浮気を知ると、相手の男より女房を憎むのが常例

過去にお付き合いした女性に「浮気」をされたことがないから、こういう感情になるのかピンと来ていない。
でも、そうなるんだろうな、ということは朧げながら想像できる。



2012年2月19日日曜日

虹を追いかけて


「Chasing Rainbow」
初出は「Cafe Bohemia」

ヨガのワークショップ(WSと略すらしい)に出かけてきた。
ヨガというスポーツ?には、90年代にカルト教団が起こした事件のイメージが強烈で、いい印象がない。
それでも繰り出してみたのは1つは連れの誘いがあり、もう1つは体調・体型管理をしようと思えば運動に越したことはないという発想から。

3時間のWSのうち、体を動かしたのは1時間もない。
2時間も講師の話を聞くだけだ。
聞くといっても机に椅子もない。冊子が配られるわけでもない(3枚綴りのレジュメが配られるだけ)。ノートもしなくてもいい。(中にはポイントをメモる人もいたけれど)
心も体も構えてWSに参加した私にとっては「拍子抜け」な講義だ。
講師は教本を持っているわけでもなく、ただただダラダラとおしゃべりをするだけだ。
こう書いてきて、マイナスな表現になっているから、私としては納得できてないのだろう。
もっときちんと教えてレクチャーしてほしいと願っているのだろう。
でもこの講師が話す内容にはフッと心が軽くなることがあった

2時間の話を聞いていて、思ったのがこの講師が属している派のヨガの教えは、
①無理なことは無理だと認め合うこと。
②道理に適っているか否かを考えること。
③5分でもいいからヨガを続けること。

③の教えはつまるところ「虹を追いかけて」にある
「できることを続けていくだけさ」の詩に繋がる。
この詩はとても心が軽くなる。
ただし、「Indivisualist」の「何も変わらないものは何も変えられない」とい力強い元春のメッセージが前提だ。
何も努力もせずに、反省もせずに今の自分を受け入れることは私には耐えられない。
そんなに私は私自身が好きではない。
間接的にではあるが「自分を好きになれ」というのも講師が言ってたが。

無理をせずに自分にプレッシャーをかけて、その実現に向けてできることを続けていくだけ。
そういうふうに受け止めてみたいと思う。


この曲に限らず、講義を聞いている間に「この教え」と「佐野元春」に繋がる曲があった。
「欲望」「99ブルース」「君が気高い孤独なら」「雨の日のバタフライ」「コヨーテ、海へ」などなど。



2012年2月15日水曜日

エンジェル

「Angel」
初出は「The Circle」

冬の寒い日々が続くとこの曲を聴きたくなる。
ジョージ・フェイムが弾くハモンドオルガンの音が暖かい。
まるで暖炉のような役割を果たしている。


巷に溢れる数多の歌詞には、小難しい言葉を入れてみたり、馴染みの薄い横文字を入れることで成り立つ詩が存在する。
耳に馴染みのない単語を駆使することで、聞き手に「ん?」と思わせて興味を惹く戦術が昨今のトレンドのように感じている。

「エンジェル」この曲では、上記のような単語は使われていない。
小学校の間に履修してしまうような言葉ばかりで成り立っている。
それなのに、いやそれだからこそ、この歌詞の場面を想像することや歌詞の固定的な解釈は不可能。
それだからこそ、普遍的な詩であり続ける。

「何か」聞こえるだろう
「ここを」離れていく
「そこに」あるから

「」で入れた代名詞が、聞き手の経験(過去)やイマジネーション(未来)に委ねられる。
詩の書き手として、受け取る側に委ねるということは勇気のいること。
佐野元春が偉大だと感服する理由の一つだ(それもかなり大きな理由)



2012年2月13日月曜日

大鹿村騒動記

1月下旬に観賞した作品
当日の体調は風邪も腹痛もなかったのだが、映画館に入館した途端に猛烈に眠くなってしまい、作品の半分近くを見逃してしまっているようだ。

ユルい作品だから、というのは言い訳。
まして、本作が遺作となった原田芳雄に大変申し訳ない。

良質な大人向けのコメディ
クスリとさせられるシーンで劇場内の一体感が心地よかった
年配のカップルが多くて館内の半分以上の座席が埋まっていたことに驚いた。
中でも友人役の岸部一徳の剽げた演技にクスクスとさせられる。
悪徳商人を始めとする悪相にもなれる人なのに、本作での彼はとてもチャーミングですらある。

原田芳雄、公開記念のときには車椅子に座して言葉を発することすらできない状態で、石橋蓮司が聞き取って挨拶していた
その後あっという間に他界された。
作品の中では、いつもどおりの原田芳雄がいる





明智左馬之助の恋(下)

美しいラブストーリー。
戦国時代を舞台にして純愛の形を具現化した物語で、総じて言えば知名度の低い部類に入る明智左馬助という武将を登用したことで、戦国時代の純愛を受け入れやすくしている。

左馬助というフィルターを通して明智光秀の人となりを感じることができれば、この本を読んだ甲斐もあろうというものなんだろうが、残念ながら私には光秀という武将を感じ取ることは叶わなかった。

遠藤周作の「反逆」と合せ読むのも一興。
遠藤作品には左馬助は登場してこないけれど、そのほかの登場人物は殆ど同じだから。
荒木村重やその妻多志をはじめ、高山右近など、織田信長によって人生を翻弄された武将らの一生が描く人によって描写や解釈が異なることを知る楽しみはある。

信長の棺から続くミステリー要素のパズルはピースがハマっていく達成感はあるのだけれど、歴史的解釈はパチッとハマってこない。
その乖離幅が読み手の私にとって頁をめくる楽しみには繋がらなかった。
ミステリーなのか、創作小説なのか、歴史小説なのか?うまくピントを合わせることができないままに読み終えてしまった。

この三部作では
・信長の棺で「老い」と「情欲」をテーマにした恋
・秀吉の枷で「虚しさ」と「堕淫」をテーマにした恋
・明智左馬助の恋で「一途さ」と「プラトニック」をテーマにした恋
以上3つの恋が紡がれている。
性欲もある只の煩悩の塊である今の私には、どれにも共感を覚えることができなかった。
作者が執筆したのが70歳台で、読む私が40歳台という年齢の隔たりの要素が共感を得難い要因なのではないかと思う。
もう30年後に読むと、恋物語としてのこの3部作に共感を覚えるのかもしれない。


2012年2月7日火曜日

明智左馬助の恋(上)

「信長の棺」、「秀吉の枷」と読み進めてしまえば、否が応にも「明智左馬助の恋」を読まねばなるまいて。
そう、思って手に取った本作。
......それにしても、相変わらず頁をめくるスピードが遅い。
彼らが生きている時代や考え方が非常に分かりづらい。

この上巻を読みながら携帯電話のメモに残した記録は2つだけ
①明智左馬助と竹中半兵衛が邂逅し、縁を持ったエピソードがない
②とかく光秀の心の動きが陰惨なものが多い。彼はかほどにストレスに晒されていた武将だったのだろうか?

この①から派生して思うのは、登場人物同士を繋げるエピソードが少ないということだろう。
予備知識を持っていなければ物語の展開を掴みにくい。


2012年2月6日月曜日

信長の棺

「秀吉の枷」を読み終えて改めて読み返す。
2011年2月に一気読みして以来の再読
1年前にこの本を読んで感じたことを当時開設していたblogに書き連ねてみたのだが、書くべき内容に困った。
(改めてblogを読み返してみて、自分がこの本に対して困惑している様子を客観的に分析できて面白い)
そう、つまるところ、印象が薄かった。

「秀吉の枷」を読み終えてからの再読してみた今では表裏一体の作品だから、両作品を「繋げる」部分は確かに存在する。
「なるほど」という展開だってある。
........だが、衝撃度が低い。

ミステリー歴史小説に徹しきれていないのではなかろうか?
この本の主題は「信長の遺体はどこへ消えたのか?」
その主題に対する結末は美しく書かれているのだが、そこに至る経過が掴みにくい。
また同時に思うのは中継点として存在する公卿や武将の顔、表情が文章から見えて来ないように感じる。

主題の次に来る副題はなんなのだろう?
主人公太田牛一から見た織田信長の偉大さを炙り出していくことなのだろうか?
だとすれば、私にはこの副題を読みきれないままにこの本と付き合っていることになる。