2019年6月11日火曜日

ライオンハート

物事はハッキリと白黒つけた結末じゃないと納得しないめんどくさいわたしの性格。
小説、映画、ドラマ。何であれ結末はAなのかBやなのか?なんてのは困る。
至高の作品ならそれも受け入れられるんだけれどね。
至高の作品と言ってパッと思い出せないから、しょせん私の記憶や思い入れの深さが薄っぺらいことを自己認識している。
なんちゃって知識階級なんだよな。。。

そんなわたしがここ数年手に取って読んでいる恩田陸の小説たち。
このひとが紡ぐ物語は白黒つけたいわたしの性分からすると。
「非常にモヤモヤしてしまう。なのに読みたくなる。」
この一文に尽きる。

主人公のエリザベスとエドワードの恋物語が切ない。
あまりに切ない、それでいて美しい、加えて透き通っている感覚を覚える。
5つの編でふたりの出会い(再会)の瞬間。
一瞬のために人生をかけて、生死をかけて、輪廻を超えて。
そんなハッとするほどの恋を何度も体験できる喜び(それと同じ分の哀しみ)を得られるというのはステキなことなのかもしれないし、残酷なことなのかもしれない。
あとがきにメロドラマを書きたかったとあり。
お昼にやっていたような「よろめきメロドラマ」に感じる「きみたち、いいかげん気づきけよー」などといった下世話な感想を抱くことはなかった。
時空を乗り越えたり、英国王室をはじめの史実のエッセンスを軸に置いて書かれているから、知的好奇心も満たされながら。

「天球のハーモニー」の編、コリン・ファース主演でアカデミー賞を獲得した映画「英国王のスピーチ」を鑑賞していたことがこの物語にも役立ってちょっと嬉しく思いながら読み進めた。
もし未見な方がこのエントリーを読むのなら。
どちらが先でも構わないけれど「英国王のスピーチ」も観てください。

ひとつだけ、残念というか、これは何?って感じたのが
「イヴァンチッツェの思い出」の編
なぜパナマ?なぜ米国?
それがわからなかった。
わからないからなんだろう、この編だけが他の編と違って「浮いている」ように感じた。

そして、結末がハッキリしない恩田陸作品をまた読んでみようと思う。
軽く恩田陸中毒かもしれない。





2019年6月9日日曜日

黒革の手帳

「けものみち」に続き松本清張フェスティバル。
こちらも米倉涼子主演でドラマ化されていた。例によってドラマは未見。
こちらの主人公の元子を米倉涼子に置き換えるのはとても容易に脳内変換できた。
強気な性格、物怖じしない態度、押し出しの強さが私が感じる米倉涼子に通じるものがあるんだろうか。
いや、きっとこのバッドエンディングが米倉涼子に相応しいと思っているんだろうな。
(わたしが彼女にあまり好意を持っていないことが自己認識できた)


わたしが手に取った原作には武井咲が和服を着たカバーがかけられている。
(古書店で贖ったしね)
この主演は武井咲にはどうだったんだろうな?
背伸びした役どころを求めた意欲作だったんじゃないかなと思う。
いや、相変わらずドラマは未見だし、彼女、アッサリ結婚して子供も産んでいるから
わたしが知っている武井咲が実像よりも幼すぎる印象が強いんだろう。

主演女優のああだこうだよりも、実は一番感じ入ったのは「銀座」という地。
今は随分と気安くなっている地でもあるんだろうえけど。
今でもこの小説と変わらず、大金が動いているであろう高級クラブも多数存在する地。
そこに渦巻く欲望と欲望の格闘の場でもあるのね。

けものみちよりもこちらのほうがエロスの要素が薄まっている分金銭欲への執着が如実に伝わってくる。
因果応報。そういってしまえば元も子もないのだけれど、元子には成功してほしかったなあと情を寄せてしまう自分がいる。

けものみち

数年前(でもないのか)米倉涼子主演でドラマ化されていた原作。
ドラマは未見。
原作のまま映像化したら(性描写のシーン)放送できんでしょう。。
米倉涼子はグラマラスなスタイルの持ち主だけど、こちらの原作はどちらかといえばスレンダーなスタイル(だと書いていたような覚えが)と描かれているため、脳内での民子が米倉涼子に置き換えできなかった。

現状に不満を抱える女性が一攫千金を夢見て百戦錬磨の男性社会に挑んでいくドラマ。
平成や令和の時代にこの謳い文句は珍しくもないけれど、舞台は既に遠きになりにけりの「昭和」
この小説を読みながら同じように閉塞された世界から抜け出そうとした水商売の女性もきっといたんじゃないかと想像する。
(別に水商売じゃなくてもいいんだけど)
民子には悲劇的な結末が待っているのだけれど、現代に場面を設定しなおして成功者とするストーリーもありだよなあと思う。

この原作を読んで、女性の地位は随分と改善されているんだよなあと思った次第。