2011年10月31日月曜日

猿の惑星 創世記

あまりに有名な第一弾は1968年、私が生まれた年。
(そういや、申年だ)
どうやら幼い頃にテレビ放映されていたものを視聴していたのだろうか、それとも何かの記憶とすり替えているのか分からないが『♪猿の惑星、猿の惑星』と低いアルト調の音程で誰かが歌っている記憶が鮮明に残っている。

10年前、2001年にティム・バートンが監督した作品には食指は動かなかったのだが、今作は予告編で観た猿のあまりにも滑らかな演技に魅せられてしまい、観劇に赴く。

しかもこの猿『シーザー』、全てCGというじゃございませんか!!
目の動きとかだけは、『ロード・オブ・ザ・リング』でもお馴染みのアンディ・サーキスという人が演じているとのこと。
う~ん、どんなに技術が進んでも目の動きは生身の生物のものでないと、嘘臭く映ってしまうのでしょうね。
以前、ファイナルファンタジーが映画化され、とんでもない高額予算で全編CGで製作したものの興行成績はズッコケまくったことがありますが、その原因もフルCGで登場する「人間」には私たち「人間」は違和感を覚えるんでしょう。
「目は口ほどにものを言う」の諺にもあるように、その理由は、「目」でしょうね。

話を「猿の惑星」に戻して、感じたことを。
主演はジェームス・フランコ
今夏公開された「127時間」で認識した(とても観たかった作品だが、公開期間が短く、日程が合わず)
眉間にシワを寄せるその姿がいい。
苦悩する役回りにうってつけかもしれません。

ヒロインがフリーダ・ピント、有色人種です、1968年公開の「猿の惑星」では考えられない配役なんじゃないでしょうか?

ジョン・リスゴー、いやぁ老いました(驚)
スタローンとやりあった「クリフハンガー」から18年ですもんね。
アルツハイマーが再発したリスゴーお父ちゃんが隣人とモメるシーンがあるんですが、この隣人にできればケヴィン・ベーコンを充てて欲しかったなぁ(フットルース「Footloose世代の戯言デス」)

クライマックスでの、猿VS人間(正確には警察ですが・・・)のシーンを観ていて、このスクリーンの向こう側には実はシーザーが居て、彼がこの映画を撮影して、この芝居小屋(映画館ノコトデス)に愚かな人間ども(私ノコトデス)を軟禁して、映画が終わって閉じ込められていることに気づく姿を観て、笑いながら舞台に登場してくるんではなかろうか?と。
スクリーンではドンパチが繰り広がられている中、頭の半分はそのシーンにのめり込みながら、もう片方頭ではそんな妄想を抱き続けていた。

人間は進化してように見えて、実は何も進化していない、寧ろ退化してさえいるんではなかろうか。
自然の摂理には敵わないのだ、何をどうしたところで。
進化しているのは科学技術・医療であり、それを用いたり活用する人間は全生物の中で最も愚かしい使い方しかできていないんじゃないか。





沈まぬ太陽(1)アフリカ篇・上

5~6年ほど前に労働組合にほぼ専従となっていたMさんが、飛行機の中で読んでいたという。

しょっちゅう出張で福岡~東京間を移動している間に時間を潰すのは「本」だといい、メジャーな宮部みゆきなども読み尽くし、長篇を求めていたMさんにしてみれば、『沈まぬ太陽』はうってつけの素材とページ数。

そんなことを話していたことを未だに覚えていて、この本を手に取った。

2009年に映画化され、読者も多い(私もその一人だし)

序章で主人公恩地元はアフリカにいる。
何故そんなところに転勤させられているのかその経緯はぼんやりと書かれている。
第2章以降にその経緯が克明に明かされていく、労働組合と会社との攻防のくだりには目の前で団体交渉が繰り広げられているような臨場感に溢れる描写。
社長はじめ、会社経営陣の風貌、癖、生い立ちなどの要素を場面場面で盛り込んでいくことで彼らの顔が読み手の中で構成されていく。
幸いなことに映画の配役を知らずにいる。これにより彼らの顔が具体的な俳優に置き換わらずに自分の頭の中で偶像化されている。
「幸いなこと」と感じるその理由、想像する楽しみを得られるから。




アフリカ篇
第1章 アフリカ
第2章 友情
第3章 撃つ
第4章 クレーター
第5章 影
第6章 カラチ