2011年12月28日水曜日

こんな素敵な日には

「Special Day」
初出は「No Damage」

~煙草について一考~
1980年代、煙草は堂々たる存在だった。
少年の私にとっては不良少年、少女が大人ぶるのに必須のアイテムだった。
オヤジ達の世代にとっては映画スターへの思慕から喫煙しだした人も多かったような話だ。
お祖父さん達の世代では紙煙草が圧倒的多数ではあるものの、パイプを使って喫煙するオシャレでイカした人もいた。
公共機関の乗り物だって喫煙席、禁煙席の区分けはなかったし、喫茶店に至っては煙草の煙がモクモクと煙っているのが当たり前の光景だった。

今や、喫煙者の自由権は大幅に封じ込められている。
煙草は受動喫煙のリスクが叫ばれ、更に相次ぐ増税の逆風が重なり、すっかり肩身の狭い存在に変わってしまった。

私自身も19歳から喫煙してきていたが、35歳ぐらいの頃に最後の煙草を吸って以来喫煙していない。
メジャーな表現で言えば「禁煙」に成功している、ということ。
だが、この状態は「煙草を吸わない状態がたまたま続いているだけ」と思うようにしている。
それが禁煙のコツだという。
いつか煙草を吸ってしまうとき、そちらのほうが落ち込み度が低いというし、再チャレンジの意欲が湧きやすいのだという。
(禁煙に失敗して一番落ち込むのは本人なんだから)

この曲での「煙草」はとても美味そうな雰囲気を醸し出しているし、同時に恋人の甘い時間を演出するのに素敵なツール。
この曲を聞くと、煙草を吸ってもいいかな、と思う。
詩と詩の間にある「間(マ)」が絶妙なグルーヴ感だからだろう。
煙草を出して火をつけて感じるのは君の静かな微笑み
の部分の間が好きだ

今はこの煙草に取って替わる存在感のある「嗜み物」がない時代だ
携帯電話やスマートフォン、携帯音楽プレイヤーは「嗜み」とは言えないし、携帯ゲームではオトナを感じさせてくれるものでもない。
水蒸気での煙草もどきのグッズも巷にはあるようだが、それにはWildさが薄い。
害は認めざるを得ないし、その害を受けたくもないのだが、煙草にしか醸し出せない風景があるよなぁ、と思う。

三銃士 王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船

原題 THE THREE MUSKETEERS

この秋から初冬にかけて、鑑賞したい映画を幾つも見逃した。
体調がイマイチだったり、タイミングが合わなかったり、と。
例えば「コンティジョン」「ミッション:8ミニッツ」「1911」「インモータルズ」などなど、メジャー作品だけ列挙してみてもこれだけの作品数だ。
その中で最もロングランになっていた本作を最終週にしてようやく鑑賞することができた。
劇場収容人数は中級クラス、観客少ないだろうとタカをくくって、いきなりど真ん中の座席を指さしたら「そこは埋まっています」という劇場スタッフの声。
「エッ、んじゃここは?」「あいにくと」と、やりとりを重ねて、後方左側の座席を選択した。

原作は未読。
1993年にも映画化され、この時はチャーリー・シーンらが三銃士に扮し、主題歌か挿入歌をBryan Adamsが「All For Love」、かなりチャートを賑わせた(はず)
この当時は映画館から足が遠ざかり、気軽で安価に楽しめるレンタルビデオ、衛星放送で鑑賞するようになり、かなりの作品を鑑賞したのだが本作は未鑑賞。
興味は高かったのだが、何故か手が伸びない作品だった。今になって思えば原作を未読という理由が大きい。
幼児の頃に本に親しんだという自負はあるのだが、未就学時代は日本の昔話、低学年の頃は昆虫記だとかSFもの、中学年以降は歴史や偉人伝へと嗜好が移っていったため、西洋の物語には疎い。
「ロビンフッド」も「ピーターパン」も「ジャンヌダルク」、どれも読んだことがない。
そういや、上記3作は映画化されているが鑑賞したのは40歳を超えて、西洋に少しでも明るくなりたいという欲求が芽生えてから。

ダラダラと原作について前置きをしているのは、今作は原作を知らずに鑑賞したほうが楽しめる作品だと思うから。
映画紹介サイトのレヴューを読んでみると本作は原作に忠実とは言い難く、創作の部分も多いとのこと。
従って原作の映像化にこだわりが強い人は期待はずれの感想を書いているし、寛容な人は「これはこれであり」という。
対象年齢は93年版からは低めに設定しているのではないかと思える。
いわば、入門編というか、まずは三銃士に親しみを感じたければNiceな作品だと言えよう。
邦画で言えば、薬師丸ひろ子が主演を務めた「里見八犬伝」みたいなもんでしょう。
あれも原作とは違う部分があり、里見八犬伝に親しみを持たせることには成功した作品でしたから。

キャスト。
一線級のミラ・ジョヴォヴィッチ(バイオハザードほか)、オーランド・ブルーム(パイレーツオブカリビアンほか)、ローガン・ラーマン(パーシージャクソンとオリンポスの神々)、クリストフ・ヴァルツ(イングロリアスバスターズ)といった最近のメジャーな作品で見たことのある顔ぶれ。

ミラ・ジョヴォヴィッチ
ミレディ役で、ルパン三世の峰不二子を彷彿とさせる役回り。
もっともミラの場合は「色気」よりも「アクション」に比重を置いているかなぁ。
峰不二子のお色気ムンムン(死語)が........
彼女には小悪魔的な存在が似合わないような気がする。アンジェリーナ・ジョリーのほうがいいかもなぁ。
とか、書きながらメラニー・ロランがベストなんだが、と、これは贔屓女優さんだから(笑)

衣装が印象に残る。
仏王ルイ13世(お馬鹿っぷりがいい味出している)が着る「青」がとても好みの色合いでした。
「緑色」も美しい色合いだが、青の美しさを堪能し、満足した。
ミラの衣装も、オーランドの衣装も煌びやかだったけど、一線級の演じ手が着用すると、顔なり、表情なり、演技なりで衣装の華やかさが薄まっていく。
(これが超一流の演じ手だとか、超一流の作品だと事情は変わる)
それに対し、ルイ13世の天然なお馬鹿っぷりが諺で言うところの「馬子にも衣装」

作品の舞台はイングランドとフランスと近代ヨーロッパの両巨頭。
そして撮影地にドイツが入っている。
クリストフ・ヴァルツが枢機卿をやっているんだから、ドイツの面目躍如という印象が残る。
ハリウッド作品ではなく、ヨーロッパの作品。
どこかしら「シャーロック・ホームズ」風なテイストを感じたのだが、それは「ドイツ」に関係しているらしい。
それは背景の色の陰翳なのかなぁ、と思っている。

続編なりシリーズ化されそうな終わり方。
次作を製作するのであれば、パンチを利かせて欲しい、例えばルイ13世のお馬鹿っぷりをもっと強調するとか、バッキンガム公のキャラクターに残忍さを強調するとか。
平均ペースな人物ばかりでは次作はコケるように危惧している。

2011年12月19日月曜日

ローマ人の物語 2 ローマは一日にして成らず[下]

この本を手に取るあなたへ
伝えたいことは上巻に同じ、だけど一つ加えるとすれば、歴史を生き物だと感じられれば何かしら自分自身の「糧」になりえるものが芽生えてくるだろう。

上巻ではノートに転記するだけで精一杯で終えた。
幾つかの改革や、戦記の事柄を読みながら明治維新の頃を思い浮かべたり、戦国時代を思い浮かべたり、と、頭のどこかしらで日本史と照らし合わせながら、対比しながら読んでいた。
下巻でもその日本史と照らし合わせるもはや私の習性は変わりようもないのだが、無理矢理に合わせることはなくなってきているように感じる。
ローマはローマであり、日本ではない。
といいながら、ローマであれ日本であれ歴史の流れはどこか通じるものがあるのだなぁ、ということも感じる。

ノートの転記が中心だが、ところどころに自分なりの感想を書くようになっている。
では、転記を進めていく。

ペリクレス時代←ローマ視察団が派遣された頃
いきなり、刺激的な一文が目に飛び込む
「民主政体を機能させるのに民主主義者である必要はない」
気が軽くなる考え。発想の転換。
ペリクレスの直接民主制の特徴
①公職を抽選で選出し、給与を支払う
②市民の娯楽である劇場の入場料を国庫負担で賄う
③アクロポリスの再建
基本スタンス
アテネの経済力増強のためにはペルシア、スパルタと友好関係を維持する一方、ペルシア、スパルタを仮想敵国と考える
P17~19の演説が素晴らしい。
21世紀の今でも十分に新鮮に聴こえる。

ローマは改革直後で、王政つまりは唯一人の君主によつ統治から脱却したばかり。
当時のアテネは直接民主制とはいえ、あまりにもペリクレスが優秀なため一人の君主と映ったのかもしれない、それに常に優秀な指導者が現れ続けることは難しいこともローマの王政時代で経験済だ。
マラドーナが率いたアルゼンチンサッカーチームがアテネだとすれば、ローマが目指したものはトータルフットボールのような誰もが主役であり脇役でもあるシステムだったのだろう。

ギリシアを知って後
視察団が帰ってもすぐに秩序と自由のバランスを保つ政体は確立されなかった、その理由
①元来が保守的
②貴族らの対決姿勢が強い
③少数指導性を変えることを望んでいない(但し、その下での機会の均等を欲する)

貴族対平民の階級闘争が繰り返される理由
①執政官(コンスル)は元老院から提供され、市民集会が機能的ではなくなる
また、能力と成熟を求めれば人材は元老院からしか輩出できない。
執政官と元老院は密接な関係
市民集会と執政官、市民集会と元老院との関係は希薄になる
②共和国直後の近隣部族との戦いにより平民らが自分たちの力を自覚した。
戦いが起きてもストライキをするようになる。
③領土型の国家である
陸続きの領土、国境を巡る戦いが常にある
有能な指導者でなければ平民らも落命してしまう。
日本の戦国時代の武将と領民の利害関係の一致に近いのだろか。

BC494年、護民官創設
目的:平民階級の利益と権利を守る
条件:平民出身であること
選出方法:平民集会による(市民集会ではない)
権利:ⅰ)執政官の決定に拒否権が行使できる / ⅱ)身分の不可侵

護民官は無意味?
(1)執政官、元老院からすれば相手をするのは護民官2人のみで済む。
寧ろ攻略が明確になる
(2)拒否権は戦時には行使できない
大半が戦いをしている時代だから、行使できるケースが少ない

農地法をめぐり貴族対平民の抗争が繰り返される。
近隣部族との戦いに勝利すれば敗者の所有地は
半分)→同盟国に与える
半分)ローマ市民の公益地として貸し付けられる
その配分が貴族にとって有利(豊穣な土地が貴族、貧しい土地が平民)

BC449年、十二表法発表
新しく加えられたものはなく、不評

ローマの貴族
力の基盤は土地よりも人
①所有地
②クリエンテス(クライアントの語源)と呼ばれる人々
鎌倉武士の「御恩と奉公」のようなもの、いやそれ以上に近しく、密接

ケルト人来襲
ケルト人=ガリア人
エトルリアの勢力を撃破したことはケルト民族南下の防波堤を壊したこと
BC396年、エトルリアの有力都市ウエイ攻略に成功
平民の要求=ローマに次ぐ第二の首都にする提案
貴族の反応=独裁官カミルスを筆頭に反対。ローマの神々を捨てるに等しい
しかしながら平民がカミルスの戦利金の使途を山車にカミルスを告発し、結果カミルスは国外へ追放される
平民はウエイへ移住
BC390年夏、7月18日テヴェレ河上流でケルト族にあっけなく敗退
以後7ヶ月占領される
ケルト人、ローマの都市には合わない、戦士ばかりの彼らにとって魅力に乏しく、飽きる
300kgの金塊で身代金を支払い、退去させる。カミルス呼び戻される。

ギリシアの衰退
BC431、ペロポネソス戦役 アテネ対スパルタ
BC429、ペリクレス死去、以後のアテネは衆愚政時代(人材はいても制度自体に欠陥があったのでは)
BC404、スパルタ勝利
しかし、スパルタのライフスタイルは他国では通用しない
BC371、スパルタが覇権を喪失、テーベが取って替わる
BC362、マケドニアにより、ポリス国家敗北
BC356、アレクサンダー大王生まれる

立ちあがるローマ
ケルトショック以後のローマの課題
①防衛を重視しながら再建
②離反した旧同盟部族との戦闘と国境の安全確保
③貴族対平民の抗争の解消

目からウロコの言葉
抜本的な改革とはそれを担当する人間を入れ替えることによって始めて十全になされる
これは、自身の経験に照らし合わせて、そう。

政治改革
抜本的改革を実現できた条件
①ギリシアのポリス衰退
保守派→スパルタ的な閉鎖社会の害を認識
急進派平民→自分らの権利のみを要求することはアテネの迷走に同じことになる
②平民階級の質的向上
BC455に解禁された貴族、平民間の婚姻の成果
BC367、リキニウス法成立
・6人の軍事担当者の廃止
・2人の執政官制度に復活
・要職を平民出身者に開放
・元老院の開放
生まれや育ちに依らない(先天的事情)経験と能力のある者(後天的事情)なら誰でも元老院に入れる機会ができた

既成勢力が新興勢力を抱き込む手法がローマ流
欠点
①効果が見えてくるまでは時間がかかる
②別途新たに台頭してくる新興勢力の組み込みにも注意しなければならない

ローマの政体
・執政官
・独裁官
・法務官
・会計検査官
・財務官
・按擦官
・護民官
・元老院

ローマ連合
同盟協定はローマとの間とだけ結ばれる
加盟国間では結ばれない
P123の図が解りやすい
ローマ連合の5構成
①ローマ
②旧ラテン同盟の加盟国
ローマ市民権を与えられる
③ムニチピア
投票権なしのローマ市民権
④コローニア(植民地)
政治上の理由(砦の建設が目的)
⑤同盟国(ソーチ)
BC350以後ローマに敗れた国々

国家は大抵、宗教、政治、統治権を認めないのに、ローマのやり方はそのようなやり方ではない。
責任を持たせた放任主義のようなものかも。
敗者を隷属化するのではなく、共同経営者にする。

街道
現代に例えれば高速道路の建設
つまりはインフラの整備であり、インフラが整備されれば敵にとっても整備されたインフラを活用できる。

市民権
権利①所有権(所有財産の保証と売買の自由)
権利②選挙権、被選挙権
権利③控訴権
権利④自由権
義務=軍務

敗北した際のローマ人の態度
①敗軍の将は罰せられない
②新戦術の導入
③連合の確立と拡大
これは失敗を犯したときの処世術、指導術のよきバイブルにしたい
P171
悪しき偶然はなるべく早期に処理し、良き偶然は必然に持っていく


以下、目次
第二章 共和政ローマ
ペリクレス時代
ギリシアを知って後
ローマの貴族
ケルト族来襲
ギリシアの衰退
立ちあがるローマ
政治改革
ローマの政体
「政治建築の傑作」
「ローマ連合」
街道
市民権
山岳民族サムニウム族
南伊ギリシアとの対決
戦術の天才ピュロス
ひとまずの結び

クリスマス・タイム・イン・ブルー

「Chrsitmas Time In Blue」
初出は「Cafe Bohemia」

多くのクリスマスの曲が「雪」をシーズニングしている。
この曲も歌い出しはそう。
九州で人生の大半を過ごした私にとって、クリスマスに雪が降っているシチュエーションは稀。
だから「○○歳のクリスマスのときは雪が降っていたなぁ」なんてことは貴重な経験で記憶に残って然るべくなのに、時間の経過と共に「あの年のクリスマスは雪が降っていたなぁ」なんてことはすっかり忘却の彼方になっている。
そういう意味では私よりも「連れ」のほうが記憶力が良い。
(歴史などで登場する人名などは私に軍配が上がるのだが・・・・)
そういう意味では「連れ」よりも私のほうが薄情な人間だと思う。

この曲が好きなのは、


夢に飾られているけれど
かまわないさ このままで
歩き続けよう

周りが煌びやかであろうとも、自分の価値観を失わず、且つ他者の価値観を批難もしない、そのアティチュード
この曲を書いてから10年以上経過して佐野元春は別の曲で「我が道を行け」と私らの生き方を鼓舞してくれるのだが、それに通じる詩
佐野元春という人の社会との関わり方のビヘイビアが伺える。
そして、私はその対極側に感情がフレていくときがあるからこそ、佐野元春の詩に惹かれ続けているのかな、なんていう考えも過ぎる。

曲の後半に出てくるメリークリスマスを伝える相手を具体的に指す詩が初めて聴いたときから新鮮だ。
我が国では、というか昨今の和洋問わずクリスマスがモチーフの曲は恋人が恋人に贈る詩ばかりで、卑猥な言い方をすればSEX賛歌の曲に聴こえるが、この詩に登場するターゲットはあらゆるシチュエーションの人々だ。
そして佐野元春が伝えるメッセージは「Toniht is gonna be Alright」
キリスト自身も自分の誕生日がこれほど祝われていることを知れば、この曲にsympathyを感じるんじゃないかと考える。
中でも
平和な街も、闘っている街
うまくやれる人も、しくじっている人
に、「Tonight is gonna be Alright」の気分を味わって欲しいと思う。

2011年12月17日土曜日

ローマ人の物語 1 ローマは一日にして成らず[上]

この本を手に取るあなたへ
社会が発展していく過程を知る楽しみを得たいと思えば、このシリーズはきっと多くの教え、提案、気づきを与えてくれる。
社会に出れば、大多数の人間は再び学校に戻って勉強に勤しむことはない。
社会人に求められる勉強とは職能に求められる資格取得やスキルアップを目指すものが多い。
それとても大切なことなのだが、もっと大事なことがあると私は考える。
それは「人を動かす」「組織を機能させる」こと。
この本は長い長い物語(歴史書)の第一歩、人を動かすこと、組織を動かすことが苦手な人(私はその筆頭格だ)にこそうってつけの本。

さて。
blog開設以来(以前他SNSでもやっていた)、書籍の感想なるものを書き連ね、それなりに面白い着眼点での感想文を書いたこともある自負もあったのだが、このシリーズでは感想よりもまず、この本の要点をピックアップしていくのが精一杯なようになっていくような予感がする。
社会(歴史・地理)の勉強で、教科書や図説や年表といった幾つかの資料を持ち寄りながら自分なりに受験勉強をしていたときのように、あるいはそれ以上にノートに書き殴ることで理解を深めてきたように古びたノートを引っ張り出して勉強している。
このエントリーでは、そのノートを書き写す作業をしていくことにしようと思う。
ひょっとしたら、そこから自分なりの気づきが生まれてくるのかもしれないし、そのようになればいいな、と淡い期待をしている。

では。
ノートからの転記を進めていく。

ロムルス(初代王)
ロムルスとレムス、彼らはギリシアから流れてきた末裔。
双生児だったかどうかは疑わしい。

中部イタリア→エトルリア人
職人気質?
防御には万全でも発展は阻害されやすい丘の上を好む
南イタリア→ギリシア人
通商を優先し、リスクを抱えてでも海沿いの土地を好む
本土ギリシアが耕作地に恵まれない環境下、国外へ植民する。
進取の精神と冒険を好む性向
ローマ人→中途半端な土地に街を立て、発展の欲求が外へ向かう。


ローマには7つの丘がある
①クィリナーレ
②ヴィミナーレ
③エスクィーノ
④カピトリーノ
⑤パラティーノ
⑥チェリオ
⑦アヴェンティーノ

国政を3つに分ける
王→宗教祭事と政治の最高責任者
元老院→各家門の長、王に助言する
市民集会→政府の役職者を選出する役割

建国の次は子孫繁栄
サビーニ族の女を強奪

サビーニ族とラテン民族の争い(4回)

争いの中、強奪された女らが割って入り夫(ラテン)と親兄弟(サビーニ)が殺し合うのは見ていられない
(妻として相応の待遇を受けていた)

ロムルス、サビーニ族へ両部族が合同する形での和平を提案(対等な立場での合同)
敗者さえも自分たちに同化

クィリナーレがサビーニ族の居住地

ローマはロムルス、サビーニ族はタティウス。二人の王

近隣部族との戦いに明け暮れる、タティウス戦死し、王はロムルスのみ

百人隊(ケントゥリア)制度スタート

ロムルス、死去(元老院の暗殺説もある)

次期王をめぐり紛糾
ラテン→自分たちから選ばれるのが当然
サビーニ→今度こそ王を出したい

ヌマ(二代目の王)
先祖伝来の土地に残っていたサビーニ族で晴耕雨読タイプ
即位時40歳
ヌマの功績
①ヤヌス神殿の建設
戦うときと戦わないときを可視化し、今は戦よりも内治の時代であることを知っていた
②職能別の団体結成
こうすることでラテン、サビーニという部落間抗争の意識を薄め、プロフェッショナル意識を高める
③暦の改革
カレンダーの固定、これによりスケジュール化が容易になる
④宗教の改革
ⅰ)多くの神をヒエラルキーし、守護を役目とした
ⅱ)神官の組織の整理。専任化にせず、国家公務員的な位置づけ。これにより政教分離

一神教と多神教の違いとは?
一神教は他者の神を認めない/多神教は他者の神を認める

人間の行動原則の正し手
ユダヤ人→宗教に求めた
ギリシア人→哲学に求めた
ローマ人→法律に求めた

トゥルス・ホスティリウス(3代目王)
ヌマにより内治充実を経て、外部発展の機の王
80年に亘るローマvsアルバロンガ
勝利後、チェリオの丘への移住を強制する、但し奴隷としてではなく、ローマ市民として
ラテン民族の母国はローマであることを宣言

アンクス・マルキウス(4代目王)
 ①テヴェレ河に架橋 
西岸ジャンニコロの要塞化により東岸の7つの丘を結ぶ
②オスティア征服
塩田事業(塩=通貨)
ローマは力を蓄え、周辺の部族の注目を浴びる存在へとなる

タルクィニウス・プリスコ(5代目王)
父はギリシア人、母はエトルリア人の混血児
ギリシア人もエトルリア人も純血主義
そのため立身出世の道をローマに希求する
初めて選挙活動をした最初のローマ人
元老院の定員の100名から200名に変更し、王の権力を確立
干拓事業で湿地を平地化する
ⅰ)市場として活用され、石で舗装されることで大競技場の建設、後に公共建造物が占めることになる→フォロロマーノ
ⅱ)往来が楽になったカピトリーノの丘に神殿の建設
ⅲ)活用できる土地が増え、往来が楽になることで民族コミュニティの交流が活発になりローマが一つになる

ローマ人=建設工事者
エトルリア人=技術提供者(エンジニア)・資材提供者
商業と手工業の活性化により都市国家へと変貌していく

セルヴィウスを娘婿にする
先王アンクスの二人の息子により暗殺される

セルヴィウス・トゥリウス(6代目王)
①ローマ全体を守る城壁を完成させる
②周辺の部族の守護神ディアナに捧げる神殿を建立

Ⅰ)他者を拒む城壁を建立する一方、他者を受け入れる神殿の建立
Ⅱ)軍政改革
税制改革、選挙改革に直結する
Ⅲ)戦法の確立
前衛・本隊・後衛

尊大なタルクィニウス(7代目王)
セルヴィウスを殺害し王位に就く
元老院の反対派を殺害
元老院の承認もなく、市民集会を経ずに即位した独裁者、専制君主
軍事の才には長けている

失脚はスキャンダルから
息子セクストゥス→親類コラティヌスの妻ルクレツィアを強姦
ルクレツィア自殺
コラティヌス&ユニウス・ブルータス 王政を打倒

ローマ、共和国に
ブルータス、一年毎に市民集会にて選出される二人の執政官制度をスタート
第一回はブルータスとコラティヌス
元老院定員を200名から300名へ。

名門の若者たちによる反乱(動機は共和政になり活躍の機会が減少することへの危惧)
タルクィニウスを担ぎ出し、王政復古を目論むも未遂で発覚し処断される(一味にはブルータスの子供も加担)
コラティヌス、市民から黒幕との疑いが巻き起こり隣国へ亡命
ヴァレリウス選出される
王政復古を目論むタルクィニウスと新勢力の執政官軍の戦い
ブルータス戦死
ヴァレリウス、民衆から嫉妬、疑い、中傷を浴びる
その理由①4頭の白馬での凱旋式(華美過ぎる)/②広壮な屋敷/③空席の執政官の座を埋めない
対策①屋敷を壊させ、質素な家を建て、誰でも自由に出入り可能にした
②国庫は財務官が管理する(執政官といえでも関与できない)
③ローマの市民権を有するものは司法官が下した判決でも市民集会へ控訴できる
プブリコラ(public)ヴァレリウスと呼ばれる

共和政導入時の問題
①国力の低下
ⅰ)3代続いた王の出自であるエトルリア系民族が流出
ⅱ)近隣の諸部族との同盟関係が弱力化
ⅲ)エトルリアを敵に廻した
対策
ⅰ)国庫の確保(塩の販売を個人から国家へ移管)
ⅱ)他国人のローマ移住促進

キュージ王、ポルセンナとの戦い
テヴェレ河に架かる橋を巡る戦いでローマ勝利するも、キュージは包囲網を敷き、兵糧攻め
ローマはキュージを和平を結ぶ
条件1)タルクィニウスの王位復活は拒否
条件2)獲得した領土ウエイの返還を受諾

共和政以降6年後にプブリコラヴァレリウスは死去

成文法を求めてギリシアへ視察団を派遣。
3名からなる派遣団、1年間アテネへ。

ここで、一旦ローマから目を離し、派遣団が向かったギリシア、アテネについて

ギリシア文明
紀元前1200年頃)クレタ文明 エーゲ海を航行し栄えた文明
紀元前1250年頃)ミケーネ文明 武人文明「イーリアス」「オデュッセイア」
紀元前800年頃 )ポリスと呼ばれる都市国家の時代

アテネ=アカイア人
スパルタ=ドーリア人

BC900年~800年)第一時植民活動→小アジア西岸を中心に
BC750年頃     )第二時植民活動→全地中海へ
①好奇心・冒険心・独立心
②母国との関係が希薄

アテネ
海に向かって開かれた地方
建国当時は王政
BC8世紀頃)貴族政へ移行
BC7世紀頃)商工業による新興勢力の台頭(貴族政が合わなくなる)
BC620年 )法律の成文化→貴族が司法権を喪失する
BC594年 )ソロンの改革(ティモクラッツィア)
・資産の多少が権利の多少と比例する
・人権尊重(自作農の救済措置など)
・市民を4階級に分ける(基準は農業収入)
────────────────────────────────
|階級 |義務               |権利                 
────────────────────────────────
|1階級|騎兵としての兵役       |政府要職              
|2階級|騎兵としての兵役       |政府要職              
|3階級|重量歩兵としての兵役    |行政官僚              
|4階級|軽装歩兵・艦隊乗組員    |選挙権                
────────────────────────────────
ソロン引退
時代は不動産よりも動産への投機が盛んになる(土地が痩せている、海運は盛ん)
権力の空白化

無政府状態(アナルキア)

独裁体制(ティラニア)ペイシストラス
BC561)独裁政を敷くも反対勢力により追放
BC546)武力により独裁政へ復帰
~   [外政政策]海軍の充実エーゲ海の制海権確保、ペルシア帝国、リュティア王国との友好的関係、ヘレスポントス近辺に中継基地を設ける
[内政政策]鉱山業の振興
BC525)
BC510)クリステネスら貴族により独裁政が打倒される
直接民主制(デモクラッツィア)へ
[行政改革]「デモ」と呼ばれる区制(家門や一門に属するのではなく地域に属する)
[政治改革]市民集会の権限の強化
20歳以上のアテネ市民が出席の権利を有する
4階級の基準である農業収入を撤廃し省庁に似た組織を創設
政府役員を9人→10人へ変更「ストラテゴ」
陶片追放制度(自浄システム)
ポリス社会の閉鎖的な面
両親のどちらかがアテネ市民でなければ市民権を得られない。
奴隷は生涯奴隷のまま

スパルタ
BC1200頃)ドーリア民族ペロポネソス半島の中央部スパルタへ侵攻し、先住民を征服
1人/24人)征服者ドーリア人:軍役のみ
7人/24人)非征服者ペリオイコイ:商工業に従事し、軍役の義務あり
17人/24人)非征服者ヘロット:農奴、軍役の義務なし

市民集会→30歳以上のスパルタ人で構成される
長老会議→2人の王と28人の60歳以上の市民
※2人の王が支配する政体をディアルキアという

BC700頃)リュクルゴスの改革 ~軍務を至上目的~
誕生時→健やかに成長できる→YES:パス / NO:捨てられるor奴隷
0~ 6歳→親元で生活
7~20歳→寄宿舎で修行生活(結婚しても30歳までは寄宿舎)
20~60歳→兵役
特徴
男女平等/酒・美食は厳禁/訓練・競技は裸体/読書や議論は御法度/通貨は鉄貨

ペルシア戦役
BC500頃 ペルシア西方へ侵攻
1)経済上の理由→繁栄するエーゲ海一帯を手中に収めたい
2)宗教上の理由→優れた宗教が劣る宗教を支配するのが当然という発想
BC494   イオニア粉砕される
BC490   ペルシア、アテネ・エウベアへ侵攻し、エウベア陥落するも、アテネはミルディアスの戦略により防衛
以後のアテネは急進派(テミストクレス)と穏健派(アリステデス)の二派に分かれる
BC480   ペルシア、30万の軍でギリシアへ侵攻、ギリシア大同団結し辛勝
BC479   再戦
BC478   ギリシア連合艦隊、エーゲ海を奪還

覇権国家アテネ
対ペルシアへ向けてデロス同盟結成
アテネが主導権を握り、スパルタは面白くない、スパルタは独自にペロポネソス同盟を結成
アテネとスパルタの冷戦状態




以下、目次

読者へ
序章
第一章 ローマ誕生
落人伝説
紀元前八世紀当時のイタリア
エトルリア人
イタリアのギリシア人
建国の王 ロムルス
二代目の王 ヌマ
三代目の王 トゥルス・ホスティリウス
四代目の王 アンクス・マルキウス
五代目の王 タルクィニウス・プリスコ
六代目の王 セルヴィウス・トゥリウス
最後の王 「尊大なタルクィニウス」
第ニ章 共和政ローマ
ローマ、共和国に
ギリシアへの視察団派遣
ギリシア文明
アテネ
スパルタ
ペルシア戦役
覇権国家アテネ

2011年12月1日木曜日

127時間

原題 127HOURS

私の映画鑑賞の嗜好は、「人」を扱った作品。
自分でもこれといった要因は挙げることができないのだが、とにかく「人の人生を扱った作品」に惹かれる
歴史的大作ならば「ラストエンペラー」であり、今のところマイベストシネマ。
感受性は豊かで多感な頃(当時19歳)、数奇な人生を送った愛新覚羅溥儀という人の人生をスクリーンで鑑賞し、歴史という大波に飲み込まれていく「人物」に焦点を合わせて丹念に描いてくれているからだ。

その「ラストエンペラー」と対比すれば本作の主人公「アーロン・ラルストン」は無名の人物。
誰も戦わないし、落命もしないし、ましてこの出来事が社会に深刻な影響を及ぼすわけでもない。
新聞の3面記事で「落石により右腕を挟まれた会社員、127時間ぶりに救出!」と報道されるぐらいの出来事だ。
なのに、「鑑賞したい」と私に思わせたのは予告編で観た2ポイント
① 湖のブルーの美しさ
② 「生きて帰りたい」「究極の決断」のテロップ
結果は②のテロップで既にネタバレである、岩に腕を挟まれてからにっちもさっちもいかなくなり、自ら腕を切除し、127時間後に生還する。
自ら右腕を切除するに至るまで彼は何を感じ、何を考え、何を得て、何を失うのか?
そのプロセスの出来栄えが秀でているからアカデミー賞にノミネートされたのだろう。
で.....その推察は大当り。

ビデオカメラを使って、自分で自分にインタヴューするシーンが秀逸だ。
躁状態(ハイテンション)を無理やり作り出し、楽しかった出来事や落石がなければ参加できたであろうパーティーや恋人との時間を思い描いてみるものの、行き先を言わずに出発したため誰にも気づかれることなく独りで死を待つ身になっている現況に激しく後悔し、発する言葉「Ooops.....」に込められた「失意」があまりに悲しく、あまりにも残酷な状況をスクリーンを超えて伝わって来た。

主人公が閉じ込められている谷底から地上へ、地上から空へと映像がパンアウトするシーンも絶望的な状況を余すことなく伝わってくる。
その空に何条もの飛行機雲が現れては消えていくシーン、主人公の「希望」が同じ数だけ芽生え、そして同じ数だけ摘み取られたということだ。

映画の技術は五感のうち伝えられるのは「視覚」「聴覚」が可能で、「嗅覚」「触覚」「味覚」は不可能だ。
だが、本作は間接的にではあるが「嗅覚」「触覚」「味覚」の疑似体験が可能だ。
小便を飲むシーン、クライマックスの右腕を切除するシーンは嗅覚、味覚、触覚を感じざるを得ない。
私の目の前で鑑賞していた50代の女性は仰け反りながら鑑賞していた。
鑑賞者の中には失神した客も存在したとのこと、うなずけるエピソードだ。
最早錯覚の域を超越している表現力だ。

「ジェームス・フランコ」
スクリーンで観るのは「猿の惑星 ~創世記~」に続き、2度目。
本作は大半が一人芝居であり、彼の演技力は絶賛に値する。
両作とも眉間に皺を寄せるようなシリアスな展開が多かった(その演技も素晴らしいのだが)ので、対極の表情が観れる作品で会いたい。
アクション系とかコメディ系でノリがよくてキップのいいニイチャン役で。

「ダニー・ボイル」
スクリーンで彼の作品を見るのは初。
以前深夜放送で「ザ・ビーチ」(レオナルド・ディカプリオ)は鑑賞したことがあるから2作目の鑑賞。
両作に共通して感じたことはあこの監督は「水」の「ブルー」の表現がとても私の感性にマッチして心地好い。
2012年のロンドンオリンピックで芸術監督に選出されている。
色の再現・表現には多くの人が共鳴しているのであろう。

この両者が素晴らしく、動きが少なく、閉鎖された舞台設定の作品(ともすれば眠りに陥るような)でありながら手に汗握ること請け合いの作品。

誰しも程度の差こそあれど、九死に一生を得た体験はあるはず。
私自身で言えば
潮が満ちてくる海辺をダッシュで陸地へ逃げたこと。
建造物と建造物の間に身体を挟まれ身動きが取れなくなれずにもがいたこと。
などなどあるが、自分がいくら努力しても報われない状況下で「それでも生きたい」と、人間は生を欲する生き物だ。
命あるもの、その命を守ろうとする本能があるんだ!と。
命への賛歌の作品だ。

2011年11月28日月曜日

カウボーイ&エイリアン

原題 COWBOYS AND ELIENS

過去の古臭いものと未来の想像クリーチャーを素材にした作品
日本映画で例えれば武士&ロボットみたいなものかなぁ、と。
双方が未知なるものとして邂逅し、そこからどのような感情が芽生えていくのか?
そんな展開を私なら書いてみたいかなぁ。
武士が科学技術に驚き、洋才の便利さに戸惑いながらも便利さを認める。
ロボットはメーターでは測ることができない、誇り、意地、根性を学びながら最先端の技術に計算不能な気持ちを盛り込んでいく。
友情であったり、嫉妬であったり、愛情なんてのもいいかもなぁ。
これを書いている2011年11月、読書では「ローマ人の物語」(塩野七生)なので、古代のローマ人がプレデターに出会うなどとかいう今作から何のヒネりもないアイディアも浮かぶ。
おっと、脱線はここまで。本線に戻る。

西部劇を舞台にその時代には絶対存在しないエイリアンを登場させている設定。
「連れ」はインディ・ジョーンズ大好き、ハリソン・フォード大好きという女性なので、早々におひとりさまで鑑賞しちまった(苦笑)
先に鑑賞された場合こちらにとって都合がいいことがある、「連れ」はパンフレットを必ず買い込んでくる。
おかげで私は鑑賞前にパンフレットを眺めることができる(ネタバレを先に知ってしまうリスクもあるので、読むのではなく、眺めるようにしている)
さて、今作のパンフレットを眺めると、「どうやら正統派の西部劇らしい」
上記のことのみを頭に叩き込んで鑑賞に赴く。

平日の月曜日、観客はまばら、しかし、平均年齢はかなり高め。
SFものでありながらこの年齢層(というか若年層が少なすぎる)に戸惑いすら覚えながら本編スタート。

序盤は「誰?」から始まり、右手にあるキャノン砲兼GPSみたいなものは「何なんだ?」
「私は誰?」「ここは何処?」の滑り出し。
地元の美女が登場し、偏屈オヤジが登場して、ダメ息子が登場してきて・・・・・・
これって西部劇の王道なんですよね~

「カウボーイとエイリアンが不釣合いだ」とその点に視点を合わせれば、今作は「荒唐無稽」だけしか感じられなくなる公算が高い。
だからこのカウボーイが闘うハメになったのがたまたまエイリアンだっただけのことだ、と割り切って鑑賞するのが楽しい鑑賞への方策の一つだと思う。
カウボーイが闘う相手は何でも構わなかったんだ、きっと。
尊王攘夷の志士でも構わないし、スパルタ軍でも構わない。
ウーパールーパーでも、エリマキトカゲでも。
いっそのこと、ドラえもんでも構わない(ドラえもんなら空気砲対決もできるじゃん!)
続編製作の暁には「カウボーイ&ドラえもん」で!(何せ2011年のクルマのCMでは実写版ドラえもんにはジャン・レノが演じている時代だもの)

2011年11月23日水曜日

沈まぬ太陽(5)会長室篇・下

この本を手に取るあなたへ
「目に余る組織の腐敗に目を向ける読み方だけではなく、その腐敗した組織に自分が属していると仮定して、不条理と闘う『勇気』と『気力』が維持できるか(Can I Keep?)のではなく、維持できる人間になりたいか(Would I Like To Be?)」で読んでみよう

腐敗の構造とディティールが克明に記されており、文章だけでは理解できない。自ら図解してみても経済学が苦手の私にとってこ難しいカラクリ。
まぁ、でも。
思いっきり端よれば「ネコババ」している輩が企業にせよ政治家にせよ官僚にせよ存在し、そのネコババしたお金が世の中を動かしている側面もあるという。
それは悲しいかな「事実だ」と認めざるを得ないのだろう。
汚れた金を手にしたくはないけれど、汚れた金は世の中で回っている。知らずにその恩恵を受けていることもあるのだと。

和光監査役の「5シンの戒め」(91頁)が正しい方角を照らす道標。
逸脱すれば、利権構造と人間の物欲は真実と正義を埋もれさせてしまい(314頁)、「The Most Dangerous Animal in the World」(167頁)を見てしまうことになる。

全5巻の物語、ジャンボジェット機墜落事故が小説の軸であり、事故以前からの企業体質と事故以後の利権を巡る輩どもの話で愉快な気分にはなれない。
物語の終わり方は希望を僅かにしか感じられない、スカっとした結末ではない。だから世の中は自分が感じているよりも遥かに汚濁しているんだという残酷な現実を突きつけられているかのよう。

時代小説家池波正太郎は「悪いことをしながら善いことをする。善いことをしながら悪いことをする。どちらも人間であり、矛盾を抱えながら生きていく」というようなことを説いた。
鬼平犯科帳に現れる盗賊にそんな輩が多いのだが、この「沈まぬ太陽」ではそんな手合の輩が登場してこない。
悪いことをする輩はとことん悪いことをする下司でしかない。
主人公恩地元や国見会長はどこまでも正義の人だし、主人公のライバル行天や轟らはどこまでも悪の人だ。
限りなくノンフィクションに近いフィクションだから、敢えて善人・悪人を明確に区分けして執筆されたのだと思いたい。
読み手は誰もが主人公側に感情移入させやすい、古代から日本は「賄賂は必要悪」という国家体質の国柄だという。
この国の体質に一石を投じた作品だと後世に伝えられるのかもしれない。

最後に。
事故によって尊い命を落とされた521名(胎児の話に涙しました)の魂とご遺族に思いを馳せる。
合掌

2011年11月16日水曜日

沈まぬ太陽(4)会長室篇・上


この本を手に取るあなたへ
「責任とは何か?
利権と関与したいか?したくないか?
その2点だけで構わない、読んでみよう」

この巻でどういうことを感じたか、それを言葉に、文字に替えて下書きしよとするも、ペンが遅々として進まなかった。
「御巣鷹山篇」で「命」の尊さを否が応にでも考えさせられ、この流れを汲みながら国民航空が新たな一歩を踏み出す改革を成し遂げていく姿を期待していた。
第1章、第2章あたりまではその期待に沿った展開であったが、第3章あたりから様相が一変していく。
520名の命を奪った事故などそっちのけで己の利権、保身、出世に汲々としている輩に激しい嫌悪感を抱く。

新会長に就任した国見、主人公恩地元の清廉潔白に肩入れしながら読んでみるものの、この小説は「勧善懲悪」が成立するような雰囲気を感じ取れない。
小説にせよ、史実にせよ結末がどうなったのか知らないのだが、恩地らに女神が微笑んでくれるとは思えない。

社会の裏側を暴き出している。
国民航空が半官半民とはいえ、「官」がことあるごとに優遇されるシチュエーション。
その「官」も紐どけば多岐にわたる「官」が存在し、反目したり、利権を貪ったりしている。
「JFK」、1990年代に観たオリバー・ストーンの映画と重なる。
どちらも、国民が豊かで実りある生活を遅れるように労苦を取らねばならない輩がその使命を置き去りにして我が身を最優先にしている姿だ。
そして使命を真剣に考え、国民のことを憂慮している人々が異端児として扱われるところも同じ。

性善説と性悪説では性悪説を採る私としては「金」「利権」らとは無縁なままで構わない。
「STAR WARS」の「アナキン・スカイウォーカー」になってしまう。
アナキンにはなりたくないと思っていても、いざ目の前に巨大な利権がぶら下がり、見たこともないような札束が積まれれば、私はダークサイドに堕ちる。

だから、この下書きを認(したた)めながら佐野元春の「希望」を聴く。
「ありふれた男」で「ありふれた日々」を過ごして「何も変わらないものをそっと抱きしめたい」と願っている。

第1章 新生
第2章 朝雲
第3章 黒い潮
第4章 曙光
第5章 波紋
第6章 狼煙
第7章 弔鐘

2011年11月14日月曜日

沈まぬ太陽(3)御巣鷹山篇

この本を手に取るあなたへ
「人間が、便利な文明の利器を手に収めれば相応するリスクを背負うことにもなる。
私たちは加害者にも被害者にもなりえる確率の下で暮らしていることを肝に銘じて読んでみよう」

遺族の気持ちが分かる、とか、遺族の立場になって考えるとか言うのはあまりにも空々しい、軽々しい、おこがましい。

1985年8月12日から始まったジャンボジェット機墜落事故のnews、当時九州の片田舎に住み、飛行機に搭乗したこともなく、また生涯飛行機搭乗することなんて無縁のことと考えていた高校2年生の私にとっては遠い世界のnewsに聞こえていた。
飛行機になんて乗らないでおこうと思っていたものだ。
この後10年後、鹿児島や宮崎、沖縄そして東京出張で飛行機に乗ってきている。
あの頃、「乗らないでおこう」と考えていたことを忘れてしまっていた。
この本を読んで、事故の記憶が風化している自分に冷や汗が出てくる。
但し、この事故から4半世紀を経過した今でも「ダッチロール」「しりもち事故」「圧力隔壁」といった単語は強烈なインパクトを残し続けている。

「アフリカ篇」とは全く異なる物語。
主人公恩地元が日本へ帰国して11年も経過している。
アフリカ篇を読まずとも「御巣鷹山篇」だけで充分過ぎるほど小説の読み応えはある。
丹念な取材と緻密な構成に「よくもまあ」と、取材の幅の広さと克明な内容に簡単させられる。
中でもアメリカ、ボーイング社での内容には作者山崎豊子の作家根性にひれ伏す。

自動車事故、鉄道事故、船舶事故、この後にも起きた航空機事故、そして原子力発電所事故。
人類は生活を便利にするために、快適になるために機械を製作し、活用し、改良するサイクルを廻しながら事故を防ごうと努力している。
それにあたり、常に「安全」を最優先にしなければならないというごく当たり前のことを、頭に、胸にDNAに刻みつけるテキストとして本書は読み継がえていくことだろう。
万が一本書が軽んじられる時が到来するのだとすれば、人類は機械を製作してはいけない。

第1章 レーダー
第2章 暗雲
第3章 無情
第4章 真相
第5章 鎮魂
第6章 償い
第7章 紫煙
第8章 怒り
第9章 御霊

2011年11月9日水曜日

新選組血風録

この本を手に取るあなたへ
「誰にも負けない組織を築きたいのに、嫌われたくないなどといった邪念があなたを惑わせるのなら心を鬼にするために読んでみよう」

今秋司馬遼太郎記念館に足を向けた際の最大動機が、今春BSで放送されていた新選組血風録展示があったから。
(ドラマは未見)
展示の中で最も興味をそそられたのが当時の地図と物語の事件現場をマッピングしているという謳い文句。
大抵の入場者が10分もすればその地図の前から離れるのに、私ときたら45分はじっと腕組みをしたり、唇に人差し指を当てながらウンウンと頷きながら眺めたりして楽しみました。

組織を築き上げる「鬼の副長」土方歳三、その有能な筆頭部下山崎烝、ギスギスと窮屈な鉄の組織に緑風の存在沖田総司
この3人が特に印象深く残る
山崎烝が主人公の「池田屋異聞」は「忠臣蔵」に関わる物語を読んでいたことで、ニヤリとさせながら読めた。

関西に住み始め、尚且つ京都界隈をルートセールスしていたことも相まって京都市内の地理が僅かながらに理解できるようになった。
北から南へ一条から十条
西から南へ烏丸、河原町
京都人からすれば3歳児でも分かるようなことでも、九州から出てきた田舎者の私にとっては本に書かれている地理が脳内でマッピングされ、事件の舞台が「あのあたり」と見当をつけながら読み進められるようになった。
この悦びは時代小説愛好家としてその末席には座る資格は取得できたかな、と思える。

元々は2004年に大河ドラマ「新選組!」の視聴前に読んで以来の再読。
三谷幸喜がどう味付けをしていくのか興味津々で視聴した。
例えば。
斎藤一による谷三十郎、武田観柳斎の暗殺
近藤一派による芹沢鴨の暗殺
同じく近藤一派による伊東甲子太郎の暗殺とそれに続く油小路の決闘
中でも芹沢鴨の暗殺に至るストーリーと人物描写、芹沢鴨の心の深淵を描ききったドラマはこの「新選組血風録」の物語とはコペルニクス的転回の物語。
対比しながら読むのも一興。
「新選組!」には登場しなかった物語でもドラマ化、舞台化されている篇も幾つかある。
大島渚監督の「御法度」は「前髪の惣三郎」「胡沙笛を吹く武士」を土台にしている
舞台になったのかどうか不明だが、私が鑑賞してみいのは「沖田総司の恋」
コメディでも構わないし、シリアスでも構わない。


・油小路の決闘
・芹沢鴨の暗殺
・長州の間者
・池田屋異聞
・鴨川銭取橋
・虎徹
・前髪の惣三郎
・胡沙笛を吹く武士
・三条碽乱刃
・海仙党異聞
・沖田総司の恋
・槍は宝蔵院流
・弥兵衛奮迅
・四斤山砲
・菊一文字

2011年11月8日火曜日

沈まぬ太陽(2)アフリカ篇・下


この本を手に取るあなたへ
「10年間という時間の始点、終点を想像せずに無期限の時間を過ごさなければならないと思って読んでみよう」

主人公、恩地元は「カラチ」「テヘラン」「ナイロビ」と転勤させられる
地理的には、西へ西へと日本から離れる一方
職場環境は、集団から孤立へ
海外赴任してから10年間というゴール(到達期間)を知っている読み手ですら、主人公の孤独感とやりきれなさは想像を絶する。
まして、主人公そしてその家族は10年という終点が判らずに過ごしていたのだ。
それを思い合わせると「ナイロビ篇」で主人公が狂気に陥り、自身が撃った剥製を銃で木っ端微塵に撃ちまくるくだりは恐ろしくもあり。
狂気に陥る心境も朧げながら分かる。
というのも、自分自身も主人公の境遇には及ぶべくもないが、望まぬ転勤を強いられたことがある。
転勤の糸を引いた当事者の顔を思い浮かべると、運転していればアクセルを目一杯踏み込んだし、手に持った「モノ」を投げつけたくなったこともあるからだ。
しかし、それでも。それほど絶望的な状態であっても、いやあるからこそ。
人は何かしらの生きる楽しみを模索していく。
主人公恩地元の場合は「狩り」
我々読み手からすればずいぶんと荒っぽく、暴力的な趣味に映る。
平和で身近に生物による命を脅かされるリスクもなく暮らしているからだ。
なんども書くが、「終点がいつ来るのか分からずに暮らすやるせなさ」、加えて「自然への畏怖、尊敬」といったものがないまぜになって主人公を「狩り」という趣味に走らせたのではなかろうか。
終わりが見えない中で信念を貫き通し続ける主人公に感激する。
私は恩地元のような「貫く覚悟がある」人間ではないが、究極の選択を強いられる場面でそうでありたいと希う。

私は国民航空の上層部に巣食う「エゴイズム至上主義」の企業体質を憎む。
そんな企業にあって、反骨心の塊であり、主人公を公平に扱ってくれる島津支店長の存在に胸をなでおろす。
それからアフリカに住んでいる日本人たちの人生の送りようが清涼剤のように爽やかで清々しい読み応えを与えてくれる。

アフリカ篇
第7章 テヘラン
第8章 ナイロビ
第9章 春雷

2011年11月7日月曜日

マウス・オブ・ザ・マッドネス

連れがネットで手に入れたというシロモノ。
なんでも高値で取引されているらしく、原価よりも3倍の値段以上でも平気で売れていく、と、連れの声

行方不明者を捜索し、その結末は如何に?
という手合の作品の一つに「エンゼル・ハート」があります、作中に伏線が仕掛けられており結末で「うわぁ、おぞましい!!」と感じさせられる作品なのですが、今作の結末は悩ましいです。
狂気に始点はどこからなのか?
現実と非現実の境界線はどこだったのか?
登場人物は実在なのか、しないのか?
鑑賞し終わって数日経過しますが、未だにスッキリしません、気になります。
嗚呼、しかし、この手の作品に正解なんて存在しないんでしょう。

映像が安っぽくて、見せ方が「ウルトラQ」「ウルトラセブン」なんですね。
Qにせよセブンにせよ、その世界観を具体的に書けるほど造詣が深くないのですが、通じるものはあると感じてしまったのだから仕方がありません。

もう一回観てもいいかな、と思い始めています。
なるほど、高値で取引されるだけのことはある。

ゲット・ラウド(It Might Get Loud)

連れが「見に行きたいけど映画館の立地が特異で周辺の雰囲気が女性には怖いところなの、できたら一緒に行ってくれない?」
このところ映画ざんまい生活を送っているにも関わらず他にも鑑賞したい作品が多い。
が、この作品の存在は知らなかった。
「どうしたものか?」と僅かのためらいが起きた。
連れがキラキラした目(連れはguitar好き)で訴えかけてくるのが可憐だったこと、そしてもう一つ、「The Edge」が出演していることが決め手になり、その映画館に赴く。
この映画館に足を運ぶのは二度目
ファッションホテルが近在し、どう見ても繁盛しているような印象を受けない飲食店も点在している
以前はポルノ映画館だったのだろうと推察する。
アダルトビデオの登場により衰退し、閉鎖していたものの、新たなオーナーに変わり、メジャーな映画はシネコンに委ね、マイナーな作品を一手に担う方針の映画館になっているのだろう。
この映画館はもっと繁盛して欲しいのだが、それには映画館の努力だけではなく街全体の努力が必要なのだ。
いかんせんあまりにも古臭いものが多く、繁栄する日が来るのは遥か遠い日か、あるいはそれ以上に悲観的なことを考えてしまう。
連れよ、一緒に行けるときは一緒に行ってあげるからね。(キョーレツなホラー以外はOK)

作品について
ジミー・ペイジ(レッドツェッペリン)、ジ・エッジ(U2)、ジャック・ホワイト(ザ・ホワイト・ストライプス)の3人のギタリストが自身のルーツを訪れる、その一方で3人のためのステージが用意され、一夜限りのセッションが行われる。というもの。

ジャック・ホワイトというguitaristについて何も知らずにいて、こんなに若そうな人が大御所のジミー・ペイジとジ・エッジと対等に話しているのに驚く。
調べてみたところ1975年生まれ(2011年現在36歳)
私よりも年下だと踏んでいたものの、連れよりも年下だ。
映画の始まりで彼がコカ・コーラの瓶をナット(というのか?)にして原始的なギターを製作し音が奏でられるシーンが印象に残っている。
ギターという楽器はここから始まり、それを扱う人によって音や音調が変わっていくことを代弁しているのやもしれません。
guitarが音を奏でる単なる道具だとしても、扱う人々はその道具が自分にマッチするように丹念に磨きあげていく。
「自分にマッチ」というのが、guitaristの生まれた場所や環境、時代に左右されて行く。
音楽、特に楽器のことに疎い私にとって、今作の映像は100%ヒットするものではなかったのです、ドキュメント内容もスッと変わってしまうから、どのguitaristのドキュメントなのか追いつけずに観劇している瞬間もありました。

最後のguitarセッションは素晴らしい。
guitarの音色は時に悲しく響き、時にエモーショナルに響きます。
不思議な楽器だな、と改めて感じ入りました。

映画館の立地環境からすれば鑑賞者は我ら2人なのではないか?と思いきや、20人近くはいらっしゃいました。
中には強者な女性が一人で鑑賞にお見えになられていましたが、rockな生き方されているんでしょう。

2011年11月3日木曜日

ステキな金縛り

館内に同時に全ての観客の笑い声が響き渡る作品。
こんなにも観客が同じものを観て笑えるって、とても稀有な映画だと思います。
私の親世代がハマッて鑑賞していたクレージーキャッツの映画に通じるものがあるように感じます。
その理由は「エロ」も「グロ」もなく、健全に笑える。撮影の手法や技術は21世紀ですが、目に映るものは昭和チックなテイストでしたから。

深津絵里
テレビ放映されていた「踊る大捜査線」も「マジックアワー」もきちんとした状態で観たことがないので、あまり彼女がどういう役が似合うのか先入観がない状態で観た感想。
「ドタバタと走り回るドジな女性」をコケティッシュに演じさせると彼女の右に出るものはいないのかもしれませんね。
法廷内をスーツ姿の彼女の足捌きに連れのドタバタ感とドジッぷりに共通するものを感じていました。
例えば綾瀬はるかでもこの役はこなせるのだろうけど・・・愛くるしさという観点からすれば深津絵里に軍配を上げる人のほうが多いのでは

深田恭子(私、好きなんです)
ファミレスの店員さん役でご降臨。
「エロ」も「グロ」もない作品だと先に書きましたが、深キョンの胸の谷間は妖しい。
ま、エロというよりお色気ですけど。
三谷幸喜はコスプレマニアですねぇ(笑)

阿部寛、中井貴一、佐藤浩市も「皆さん、既に日本のactorのなかでは重鎮と呼ばれる存在なんだからそんなこと(タップダンス・犬と戯れる・時代劇の端役)」しちゃっていいんですかぁ!!
と、重たい役回りの重圧から開放されたがっているかのよう。

西田敏行
やりすぎでしょう(笑)


2004年に大河ドラマ「新選組!」で三谷幸喜の脚本の上手さに感服しましたので、そんな思い出の深い新選組!からのキャスティングが多くて、嬉しかったですね
山本耕史(土方歳三)
小日向文世(佐藤彦五郎)
戸田恵子(お登勢)
生瀬勝久(殿内義雄)
小林隆(井上源三郎)
阿南健治(宮川音五郎)

リミットレス

洋画を鑑賞するようになって、最も敬愛する俳優の一人がロバート・デ・ニーロ
80年代後半、デ・ニーロは何をしても絵になる男だった。
「エンジェルハート」でのサイファー。
最後の最後で腰を抜かしてしまうほど驚いてしまいました。

「俺たちは天使じゃない」のこそ泥ネッド。
ショーン・ペンと組んだこの作品は繰り返し観た(ショーン・ペンが八方塞がりの状況下の橋上で語るシーンがとても好きだった)

その他「ミッドナイトラン」「レナードの朝」「ケープフィアー」「ザ・ファン」
VTRでの視聴もありますが、私にとっては「映画館に行って顔を見たくなる俳優」です。

デ・ニーロ観たさと、作品の粗筋を読んで「危険な橋を渡る」面白さが得られそうだなと、仕事帰りに映画館へ立ち寄りました。
が、しかし。寄る年波には勝てない、デ・ニーロも老いました。
彼の老いと役回りがマッチしていない、今作でのデ・ニーロはフツウの俳優にしか映りません。

ああ、そうだ。作品と関係ないけどイラッとすることが上映前にあったのだ。
19:30開演、チケット購入が19:05。25分の余裕があり、階下のうどん店にカツ丼セットを頼む。
「時間どれくらい掛かりますか?」に対し、店員「10分もかかりませんよ」
早食いにはあ自信があるので、間に合うと判断。
ところが先客がごね出す。
同じカツ丼セットを頼んでいたようだが、「大盛り」を注文しているのに大盛りじゃないと大立ち回りを演じる。
このセットには大盛りなんてないのだ、だって私も大盛りにしたかったけど、メニューにも張り出しにも記載されていなかったんだから。
アルバイト店員が謝る。しかし更に彼女の謝り方は『なっていない』為、怒りの油に火を注ぐ。
板さんが登場し、謝り倒す、作り直しの提案をして収める。
と、いうことは私のカツ丼セットは遅くなる。
先客よ、大盛りじゃないぐらいで激昂するなよなぁ。
先客とアルバイト店員に心中で罵倒の嵐!!

さて、肝腎の映画について。
NZT48という薬品がもたらす作用、副作用により物語は転がっていく。
(今の日本で48と言えばAKB48を思い起こさせ、クスッとなりました)
普段は20%しか活用されていない脳を100%活用できる薬品を手に入れる人々が繰り広げるドラマなんですが、欲望がショボい。従ってB級映画です。
主人公が目論むM&Aの相手もNZT48の使用者だって、直ぐに察しがつきましたし・・・

この薬品は世間を騒がす麻薬の類と何が違うのでしょうか?
出だしで主人公の「今」(自殺しようとする姿)を見せておき、こうなる経緯を振り返っていく展開ですから、これは麻薬撲滅をテーマにした作品なんだろうと思っていたところ、「今」に戻ってきて、そこから更に話が転がってエンディングを迎えますが、このエンディングには不賛成です。
エンドロールが終わって、もう一ひねりあるだろうって期待していたんですが。

作用の素晴らしさの虜になり、副作用(記憶を無くす)に苦しむ。
作用しているときに主人公の瞳がブルーに輝きます。
(そんな作品があったよなぁ、と、宮部みゆきの「パーフェクトブルー」ですね)

展開はスリリングです。
特に序盤から中盤までのドキドキ感、と、「どうなっていくんだ?」と展開を考えながら鑑賞できる楽しさを味わえます。
主人公にたかるチンピラの欲望が何だったのか明らかにされていませんが、大して財産形成をしている様子もなければボディガードを二人雇用している程度なんだからショボい欲望なんでしょうね
「インビジブル」で透明人間になった主人公の欲望と同じレベルかな。

ラリッている状態を表現が面白い。
透明人間が疾走していくようなスピード感での街並の見え方。
天井でパネルのようにめくれていく数字。

お!
カツ丼セット大盛りを頼んだあの先客はNZT48が切れているダメダメな状態だったんでしょう。
終わりがよろしいようで(笑)

2011年11月1日火曜日

一命

昨年の「十三人の刺客」に続き、三池崇史が撮った時代劇
「十三人の刺客」がエンターテインメント性を追求した娯楽性に比重を置いた作品に対し、「一命」は地味で動きも少ない。
従って、興行成績はイマイチのようで、映画館によっては公開1ヶ月もしないうちに特に3D版には「LAST」マークが立っている。
3Dの映像については、雪や紅葉といった風景が3D映像にすることで却って粗く見えてしまったのが残念だった。
但し、一緒に行った連れが言うには「日本家屋に3Dは合う」とのこと。
柱の奥行感とかに代表されるように「向こう側」を感じることができる、と。
パンフレットにも三池監督自身も同じような発言をされているとのことで、連れの鑑賞眼にただただ恐れ入るばかりです。

さて、先ほど地味な作品だと書きました。
美術、セットは暗めを基調としています、鎧の間の赤色も煌びやかな「赤」ではなく、どす黒い「赤」に映ります。
血の色っぽい赤だと感じます、関ヶ原や大坂の陣といった侍が猛々しい侍であった頃の命のやり取りをしていたことを匂わせるような色遣いではなかろうか、と。
美術についてもう一つ。
千々岩の家の障子が物語が進むにつれて寂れていく。
いや、「荒んでいく」といった表現のほうが的確かもしれません。
その障子に、落ちぶれていく武士の凄惨さ、悲惨さ、貧しさが滲み出ている。
併せて妻が窶れていく姿を見て、同情を禁じ得なくなる。

物語について。
武士の存在は、不条理だ。特にこの江戸時代初頭においては。
戦乱の世は終わり、戦闘することもなく、生産をするわけでもなく、農工商を護衛する役目は名目だけだし、ただ消費を繰り返すだけ。
存在価値は時の変遷につれ、ただ保守的であれば、やがてはその価値は失われていく。
(それは現在読み進めている『ローマ人の物語』から伺い知ることができる)
そんなジレンマに立っているのが、役所広司が演じる彦根藩の家老なのだろう、彼が跛をひいているのは関ヶ原なり大坂の陣で名誉の負傷を負ったほどの猛者であったことを想像させる。
家老の部下どもは、新時代(徳川政権確立後)の武士、存在価値を命のやり取りではなく、「武士らしさ」に自身の価値を見出している新人類。
そんなところに狂言切腹を申し出てくる武士(千々岩求女)
その武士を切腹させる新人類は家老が考える待遇ではなく、嬲るようにして切腹させる
切腹のシーンは痛々しくて、私は仰け反りながら鑑賞していました。
竹光が折れても尚、腹に突き立てるのは実に痛かった。
新人類が行なったことに最も立腹していたのは津雲半四郎ではなく、家老ではなかったか。

市川海老蔵
瑛太の父というのはAWAYな環境。違和感を覚える。
もみあげに白いものを交えさせるなどの工夫は見えるんですが、二人の実年齢は5歳差ですからね。
殺陣は流石です、思わず『いよぉっ、成田屋!!』と喝采を挙げてしまいました(心の中ですよ、モチロン)
特に青木崇高との一対一の対決のシーン、青木もなかなかの腰の座り具合だが、海老蔵には及ぶべくもなかった。
とかくゴシップ記事が多い役者ですが、芝居は一級ですなぁ

瑛太
彼の顔は、あまりに近代的過ぎて時代劇には不向きというのが私の率直な感想。
大河ドラマ『篤姫』での小松帯刀役もピッタリとは思えませんでしたから。
そんな彼が武士役でしかも切腹をする役なんて、『サマにはならんだろう』と思っていたのですが、いやぁ、切腹する姿は堂に行ったものでした。背中からのアングルはカメラさんの上手さも手伝っているのでしょうが、本当に痛さが伝わってきた。
すまなんだ、瑛太。


満島ひかり
病持ちで段々と窶れていく薄倖な武士の妻をとても素晴らしく演じている。
希望に満ちた婚礼の頃と、愛しい我が子を失ったときの彼女の表情のギャップがこれが同じ女なのか!と。
彼女の将来性を感じる。
宮崎あおいが陽の役を演じている(『ツレがウツになりまして』『神様のカルテ』)のに比して、満島ひかりは陰の役を演じている(『悪人』)
それぞれ、二人が極めた時点での競演を期待している。

ただ。
美穂という近代的な名前はねぇ、「美津」とか「佐知」とかだといいのにぃ(笑)

この映画ではこの3人の存在感が際立っていた。
芸達者な役所広司も竹中直人も、敢えてその存在感を薄めたんだろうと思う。
それをしなければ、私たち観客は狂言切腹を申し出た側に感情移入できないのかもしれません。
役者の妙、配役の妙、演技の妙がうまく紡ぎ出している作品。

2011年10月31日月曜日

猿の惑星 創世記

あまりに有名な第一弾は1968年、私が生まれた年。
(そういや、申年だ)
どうやら幼い頃にテレビ放映されていたものを視聴していたのだろうか、それとも何かの記憶とすり替えているのか分からないが『♪猿の惑星、猿の惑星』と低いアルト調の音程で誰かが歌っている記憶が鮮明に残っている。

10年前、2001年にティム・バートンが監督した作品には食指は動かなかったのだが、今作は予告編で観た猿のあまりにも滑らかな演技に魅せられてしまい、観劇に赴く。

しかもこの猿『シーザー』、全てCGというじゃございませんか!!
目の動きとかだけは、『ロード・オブ・ザ・リング』でもお馴染みのアンディ・サーキスという人が演じているとのこと。
う~ん、どんなに技術が進んでも目の動きは生身の生物のものでないと、嘘臭く映ってしまうのでしょうね。
以前、ファイナルファンタジーが映画化され、とんでもない高額予算で全編CGで製作したものの興行成績はズッコケまくったことがありますが、その原因もフルCGで登場する「人間」には私たち「人間」は違和感を覚えるんでしょう。
「目は口ほどにものを言う」の諺にもあるように、その理由は、「目」でしょうね。

話を「猿の惑星」に戻して、感じたことを。
主演はジェームス・フランコ
今夏公開された「127時間」で認識した(とても観たかった作品だが、公開期間が短く、日程が合わず)
眉間にシワを寄せるその姿がいい。
苦悩する役回りにうってつけかもしれません。

ヒロインがフリーダ・ピント、有色人種です、1968年公開の「猿の惑星」では考えられない配役なんじゃないでしょうか?

ジョン・リスゴー、いやぁ老いました(驚)
スタローンとやりあった「クリフハンガー」から18年ですもんね。
アルツハイマーが再発したリスゴーお父ちゃんが隣人とモメるシーンがあるんですが、この隣人にできればケヴィン・ベーコンを充てて欲しかったなぁ(フットルース「Footloose世代の戯言デス」)

クライマックスでの、猿VS人間(正確には警察ですが・・・)のシーンを観ていて、このスクリーンの向こう側には実はシーザーが居て、彼がこの映画を撮影して、この芝居小屋(映画館ノコトデス)に愚かな人間ども(私ノコトデス)を軟禁して、映画が終わって閉じ込められていることに気づく姿を観て、笑いながら舞台に登場してくるんではなかろうか?と。
スクリーンではドンパチが繰り広がられている中、頭の半分はそのシーンにのめり込みながら、もう片方頭ではそんな妄想を抱き続けていた。

人間は進化してように見えて、実は何も進化していない、寧ろ退化してさえいるんではなかろうか。
自然の摂理には敵わないのだ、何をどうしたところで。
進化しているのは科学技術・医療であり、それを用いたり活用する人間は全生物の中で最も愚かしい使い方しかできていないんじゃないか。





沈まぬ太陽(1)アフリカ篇・上

5~6年ほど前に労働組合にほぼ専従となっていたMさんが、飛行機の中で読んでいたという。

しょっちゅう出張で福岡~東京間を移動している間に時間を潰すのは「本」だといい、メジャーな宮部みゆきなども読み尽くし、長篇を求めていたMさんにしてみれば、『沈まぬ太陽』はうってつけの素材とページ数。

そんなことを話していたことを未だに覚えていて、この本を手に取った。

2009年に映画化され、読者も多い(私もその一人だし)

序章で主人公恩地元はアフリカにいる。
何故そんなところに転勤させられているのかその経緯はぼんやりと書かれている。
第2章以降にその経緯が克明に明かされていく、労働組合と会社との攻防のくだりには目の前で団体交渉が繰り広げられているような臨場感に溢れる描写。
社長はじめ、会社経営陣の風貌、癖、生い立ちなどの要素を場面場面で盛り込んでいくことで彼らの顔が読み手の中で構成されていく。
幸いなことに映画の配役を知らずにいる。これにより彼らの顔が具体的な俳優に置き換わらずに自分の頭の中で偶像化されている。
「幸いなこと」と感じるその理由、想像する楽しみを得られるから。




アフリカ篇
第1章 アフリカ
第2章 友情
第3章 撃つ
第4章 クレーター
第5章 影
第6章 カラチ

2011年9月7日水曜日

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今までお世話になっていた楽天よりも操作性は難度が高い、ただ、その分自由度も高くなっている。

楽天で書き連ね、愛着も深いのだが、仕切り直しを希求している自己が存在していた。
そんな自己と保守的な自己が闘ってこちらを開設することに決めた。

慣れれば、『本』『佐野元春』『映画』とカテゴライズ、住み分けも納得できるものにしたいと思う。