2014年2月24日月曜日

朝顔草紙

かれこれ10年近く山本周五郎の小説を読み漁っている。
周五郎作品に出会った頃は、読む篇読む篇のどれもが新鮮で、面白いものは腹を抱えて笑ってしまったし、泣ける篇にはほろりとさせられてきた。
本の厚さに比べても、あっという間に読めてしまうだけの魔力が収められている。
その中で頁をめくるスピードが落ちてしまうのが、私の場合平安時代ものとか、現代を舞台にしたもの。
「朝顔草紙」は平安時代ものはなく、現代ものが数篇あるけれど、「青べか物語」(未読)の前段になっている作品であり、これは読みやすかった。

このところ、山本周五郎作品に対してかつてのような感受性を抱ける作品に巡り会えていない。
感性が鈍ってきたのか?それとも新潮文庫に収録されている文庫のうち46番目でもあり、落ちてしまっているような篇ばかりが収録されてしまっているのか?
どうも、手前勝手なことを言えば後者のような気がしてならない。
作者自身も熱心に推敲して書き上げているような作品とは言い難いような印象を受ける。
書きたいものを、勢いでどーんと書き上げました、というような。
何故そう思うかと言えば、読んだあとに「じーん」と来るものがとても薄くにしか広がっていかない。
例えば短編ではないが、「五瓣の椿」や「赤ひげ診療譚」は、結末がわかっているにも関わらず読み返したときにでも、暖かい涙や、主人公たちの孤独が読み手の私にも広がっていくのだけれど。

「無頼は討たず」の主人公の言動、結末を読んだときに「え?どうして?」と感じてしまった。
これまで読んできた周五郎の作品であれば、もう少し途中で主人公の不可解な言動であってもそれなりに伏線が張られていたり、矛盾しているようだけれど筋がピシっと通っているような展開がなされるのだけれど。
天国にいる作者は、きっとこの短編集に収録されている作品が世の中に出回っていることに、「うーん、お金払ってまで読んでいただくような篇ではないのだが...。」と口にしているのではなかろうか、と勝手に考えている。

朝顔草紙、ピュアな作品で嫌いではない。周五郎作品ではよく見かけるような展開なのだが、主人公、ヒロインとも出来すぎた秀才チックな振る舞いに面白みが欠けているし、ここまでの清廉さというものに私自身が共鳴できないでいる。

本棚に沢山詰まっている山本周五郎の本を、そろそろ取捨選択しなければならない時期に来ているんだろう。

・無頼は討たず
・朝顔草紙
・違う平八郎
・粗忽評判記
・足軽奉公
・義理なさけ
・梅雨の出来事
・鍔鳴り平四郎
・青べかを買う
・秋風の記
・お繁
・うぐいす




2014年2月17日月曜日

司馬遼太郎の日本史探訪

2013年の冬、私本太平記(吉川英治)を読んだ。
軍記物語だし、さぞかし興味深い本であるだろうと期待して読み始めたのだが、全八巻を読み終えるのは
これが…。苦行でしかなかった。
読んだ本のレビューをここで書き起すのが、一つの道楽なのだが、これは何の感想も起こることもなく、とにかくチンプンカンプンだったという感想しか残っていない。
ある程度の予備知識を仕入れてから、読むべき本がある。
まさしく、この場合がそうだった。

太平記の時代を描いた小説は極端に少ない。
司馬遼太郎がこの時代の物語を書いていないのか?と思いながら探してみたが執筆されている形跡がなかった。
WEBで色々情報を漁っていると、この本で楠木正成のことを執筆されているということだったので、7年ぶりくらいに読み返してみた。

鎌倉時代から室町時代への転換期。
価値への概念が、名誉や美徳とか道徳といったものから、経済への傾斜へ至る。
欲望への歯止めを知ることがなく、剥き出しのナマな人間がそこかしこに存在していた時代なんだろう。
ここで書かれている楠木正成は、そのような時代での一服の清涼剤のような清廉な人物であったなのだろうと司馬先生は推察していらっしゃる。
それを宋学の影響だとおっしゃっている。
でも、それだけでもなかったのだろうと思う。
欲望に取りつかれた人びとの中にあって、厭世的な思考が正成の中には蟠踞していたからではなかろうか、と。


この本はNHKでの司馬遼太郎の対談集を文字に起こしたもので、厚さのわりにはサクサクと読める。
私の場合、原作を読んでいたから、復習としてこの本を読んでいる。
逆の人もいらっしゃるだろう。
この本を読んでから、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」などを手に取る人もいらっしゃるだろう。
司馬遼太郎の作品を読む以前に予備知識を仕入れるには、この本はとてもオススメしたい本だと思う。

書かれている人物たちは以下

源義経
楠木正成
斉藤道三
織田信長
関ヶ原
朱印船
シーボルト
緒方洪庵
新選組
坂本竜馬
幕末遣欧使節
大村益次郎
新世界”蝦夷地開拓使”


この本、実は連れがセキュリティ系の試験を受験したときに、寒い空の下などで読んだ。
非常に寒かったのだが、会場内も非常に寒かったらしく、直後に連れが寝込んでしまった。
そういう思い出が残っている本でもある。



ホビット 竜に奪われた王国

原題:「THE HOBBIT: THE DESOLATION OF SMAUG」
14年鑑賞4作目

前作からほぼ1年後の公開で、楽しみに待っていた作品。
ただし。コスプレをしたり、あと○○日と勘定するほどまではない。

生まれて初めて試写会に当選した(応募したことを忘れていて、当選ハガキがポストで見つけたとき、誰のいたずらよ?と疑った。)
序盤では蜘蛛との闘いがあったのですが
それは夢の彼方に消えました
急流くだりのこのシーン。
わくわく・どきどきしちゃうのです
週の始めの月曜日にいろいろなしがらみをかなぐり捨てて試写会に赴く(貧乏性なだけ?ケチな性分なんだよな)
仕事でパソコンの画面で眼を酷使したうえで、3Dでのおよそ3時間の鑑賞はきつかった。
序盤の30分ぐらいは夢の中に消えてしまった...。

これは前作のときにも書いたのだけれども、RPG「ファイナルファンタジー」の初期の頃の世界観が余すことなく繰り広げられていて、懐かしさと共に鑑賞している自分がいる。
正確に言えば、この映画の元である原作をFFが模倣し、オリジナルの世界をゲームで演出しているんだけれど。
プロトタイプが人に与える影響の大きさに感じ入る。
前作ではビルボ・バギンスが堂々の主役だった印象が残っているのだけれど、今作ではトーリンが主役に就いている印象。
魔法使いが、岩窟で何かの呪文を唱える
ような場面がゲームの世界では常套シーン
この画像に胸が熱くなる、元ゲーマーな私
13人のドワーフたちがそれぞれに個性があり、鑑賞者の印象に残りやすいように設定されていて、前作のことを思い出す。
自分の頭にある記憶と目の前のスクリーンでてんやわんやしているドワーフたちの像がきちんと繋がっていく、一致していく。
この映画の製作者の皆さんに尊敬の念を抱かずにいられない。
いつぞや観た「スノーホワイト」の7人のこびととは大違いだ。

さて、RPGで言えば今作は中盤から終盤へ向かう過程の物語。
いよいよ最終章に向かって「さぁ!!」というところで今作はエンディング。
巨大なストレスを抱えながら、楽しみである。
でも、コスプレやあと○○日イベントには参加はしませんが(笑)

FFというより、ドラゴンクエストの竜の印象。
B・カンバーバッチ(ようやく名前憶えたゾ)が
声の主
竜とバギンスのシーンはもう少し短くても
いいな。
この映画、中学生が鑑賞するには早いのかなあ?高校生くらいの世代には鑑賞して欲しいなぁと願ってしまう。
ここで繰り広げられるドタバタチックなコメディ要素で幼少期を思い出してほしいし、語学力UPの一助にもなると思うのだ。

試写会で、本編開始前に流れたニュージーランド航空のコマーシャルfilmがとてもイカしているぜ
きっとロードショウでも流れていると思うのだけれど、こういう国を挙げて一つのファンタジーを国まるごとで築き上げていこうとする心意気に「あぁ、いいなぁ」と感激している。




2014年2月16日日曜日

鬼平犯科帳(3)

久しぶりに鬼平犯科帳ワールドに浸りたくなって再読を再開。

文句なく面白い。
盗法秘伝では、クスリとさせられる。
何もかもが法律なりルールで縛りつけられていく「現代」に生きる私にとって、このアナログチックな世の渡り方に深い羨みを持たざるを得ない。
司法長官が、窃盗団のOBと組んで阿漕なIT企業へ盗みに入るような物語だ。

そして「むかしの男」
久栄さんもいい女だが、久栄さんの過去を一切斟酌しない長谷川平蔵を見習いたいと願う。
惚れた女の過去は、どうしたって気になる。
好きだから、知りたい、全部知りたい。と願う自分がいる
その一方知らずにいたほうが幸せなことだってある。
女だって忘れてしまいたいこともあるのだろうし。
私にとっては、バイブル的な一篇だ。


麻布ねずみ坂
盗法秘伝
艶婦の毒
兇剣
駿州・宇津谷峠
むかしの男


2014年2月11日火曜日

フラニーとゾーイー

言うまでもなく、佐野元春が好きだ。
最新アルバムのタイトルが「ZOOEY」、このタイトルはJ・Dサリンジャーの「フラニーとゾーイー」からなんろうという人が多い。
ファンたるもの、これは読まなければならんだろう。
読めば佐野元春の詩や世界観に近づけるんではなかろうか、という期待を持って手に取った。

ところが、向き不向きってあるんだろうなあと。
まるで何の話を繰り広げているのか、サッパリ分からない。

この本を読んだ元春がどうやって詩を紡ぐのか想像できなかった。

と。
この本を、村上春樹が訳して出版する動きがあるらしい。
春樹が訳した本を読んだことがある。
「心臓を貫かれて」だった。
難しい本だったのだが、読み進めることができたのは春樹の訳のおかげだったのだろう。
春樹が訳す「フラニーとゾーイー」、そこで再挑戦してみようと考えているところだ。




2014年2月8日土曜日

ラッシュ

原題「Rush」
14年観賞3作目


およそ10年ぶりくらいにF1を観た。
テレビの画面ではなく、スクリーンで。
生のレースではなく、作り物のレースを。
とても作り物とは思えない臨場感

真実の物語だけに重みが違う。
ニキ・ラウダの決断のことも、ジェームス・ハントのプレイボーイぶりも、富士スピードウエイでの結果のことも知らずに鑑賞したことは、作り物ではなく生のレースとして目の前に繰り広げられる。

予想よりもレースのシーンは短かったけれど大満足である。
パイロットの視点から見えるコースや他車とのバトルには、月並みな表現だが自分自身がF1パイロットになれたような夢が体験できたし、サーキットの縁石付近からのショットにはのけぞってしまうほどの迫力がある。
サイドバイサイドの闘い
F1の醍醐味だ
実際のF1レースのライブ映像は技術進歩がすさまじくオンボードカメラなどでレースの迫力も、他車とのバトルも分かるようになっているのだが、Rushでの映像はライブ感があったしそれ以上の出来栄えだと感じた。
ロン・ハワードはこのような実話をベースにした作品を撮影させたら右に出る人はそうそういないんじゃないか!!と思う。
「アポロ13」も素晴らしかったし、実話ではないけれど「バックドラフト」の炎の動きを目に焼きついている。
対して「ダ・ヴィンチ・コード」は全然印象に残っていない。
雨に濡れるマシン
とても綺麗だ

70年代、F1パイロットの死亡率が2割を超えていた時代。
2010年代は0%、94年のアイルトン・セナ以降、死者は出ていない
それだけマシンの安全性が向上したことは大変喜ばしいことである。
ただ、冒頭に10年ぶりにF1レースを観た、という私なりの理由は2000年代以降のレースはコンピュータがマシンを制御していて、レースの主役はパイロットではなくなり、監督やコンピュータメカニックによるデータ偏重主義になってしまった。
こうなってしまうとパイロットは誰でもよくて(実際はそんなことないのだけれど)レースにドラマティックさが薄くなってしまった。
コンピュータがない時代のレースはとても人間臭い。
そこに幾つもの泣き笑いがある。
今作中にもピットレーンでのトラブルがある、まさしくそういったヒューマンエラーや意思疎通を画面越しに感じられるレースほど面白いものはなかった。
F1はレギュレーションの変更を云々する前に、コンピュータ使用を禁ずる、または制限をかけていくほうが絶対面白くなると思うのだが。

主役二人がそれぞれ対称的な人物を演じてくれて非常に分かりやすいドラマツルギーの進行だった。
クリス・ヘムズワースの印象がだいぶん好転した。
ライターのカチカチ演出はプレイボーイの表の顔の裏側に存在している常に死との恐怖と向き合いながらイライラしている、ジェームス・ハントがファンには見せなかった一面なんだろう。
ダニエル・ブリューレは益々スターダムを駆け上っていくような予感がする。
本物のニキ・ラウダと区別がつかないほど彼の演技は素晴らしかった。
また、それぞれの妻を演じた二人の女優もとてもキレイだった。
何より衣装が素敵だった。
あまり服のことに詳しいわけではないのだが、ニキが奥様と始めての出会いのときの白いドレス。
....あと、飛行機の中でハントがエロ視線を送ったスチュワーデス(まだキャビンアテンダントという単語は日本になかった時代だもん)の素晴らしいヒップラインと、脚のライン。

ああ、最後にちょっと真面目に。
「プライドと友情」なんて陳腐なサブタイトルは不要だ。
日本語吹替えではKinki Kidsが吹替えしているという。
最近の吹替えの文化は本物志向からタレントの知名度で客引きをしようとする姑息な手段に出てきており、不愉快な気分に見舞われる。
起用されるタレント側が嬉々として応じているようにも思えない。
声優さんたちの領域は彼らに任せてあげないと吹替えという文化が廃れていくのではないかと危惧している。

2014年2月7日金曜日

殉死

二編から構成される

「要塞」
坂の上の雲を読む以前、特に小学校のときに教科書かマンガ日本の歴史あたりで記憶したのが「乃木将軍という人は大層偉い人」、そう。偉人の範疇にいる人だった。
ところが、坂の上の雲で書かれた旅順攻撃の際の二百三高地を巡っての乃木将軍の無能っぷりに、口をあんぐりしながら読み進めた。
対する児玉源太郎のことは坂の上の雲で初めて知った名前だったが、乃木との対比的な書き分けが更に乃木将軍の無能っぷりが顕著だった。

もうここでの司馬センセの乃木希典への嫌悪感は隠しようももないほどで、他の作品では客観的且つ冷静に人物像を紡ぎ出す人がかくもこう感情を制御できずに書いている様は、司馬青年が陸軍へ進み、その陸軍の無能ぶりの遠因或いは近因が乃木にあるのだ、と思い至ったからなのだろう。

「腹を切ること」
この小説(?)というか考察のようなもので書かれた乃木希典の主要素を形成する彼の内面を炙り出したもの。

大きな功績もなく、未来への可能性も感じられない人間がたまたま属した団体(この場合は藩閥)の勢いに乗せられて重責を全うしなければならない地位に就いたときに起こる悲劇の物語だ。
誰も死なずに済めばコメディの領域なのだが、何せ日露戦争での指導者として実務もできなければ大局を捉えることもできない人が選択して追求していくのが「形式美」「形式主義」に至ったのだとすれば、この追求によるものが太平洋戦争敗戦まで大きく作用し続けたと考えられるし、また私が学生だった頃のリベラルを無視したような戒律的な校則や生徒手帳のありようにも作用していると考えられる。
乃木の外形美への傾倒、生活規律への傾斜は敗戦後も脈々と学生への戒律を支配し続けているようにも思える。

陽明学に殉じた者は司馬作品によく登場する
大塩平八郎、西郷吉之助、河井継之助、赤穂浪士、そしてこの乃木希典なのだが、乃木以外には彼らには民衆なり同胞の救済が目的で決起することになるのに比して、乃木の決起は自己陶酔によるものではなかろうか、と感じる。

2014年2月1日土曜日

永遠の0

14年鑑賞2作目
2月に入ってようやく2作目とは、明らかにペースが遅い。
休みもなく勤務していたからとはいえ、頭をもたげていた些細な懸念事項が一つケリがつき、ようやく落ち着いた心でスクリーンに向かえる
綺麗な映像、それゆえの違和感かな

原作は未読で、スクリーンに赴く。
原作は近々読んでおきたいと考えている

個人レベルとして観る分には、美談だと思う。
国家レベルとして観る分には、美談に過ぎるとしか思えない。

否定的な意見とか感想までは至らないのだけれど、鑑賞している最中からずっと私を襲っている奇妙な違和感が何なのか自分でも分析できていない。