2011年11月28日月曜日

カウボーイ&エイリアン

原題 COWBOYS AND ELIENS

過去の古臭いものと未来の想像クリーチャーを素材にした作品
日本映画で例えれば武士&ロボットみたいなものかなぁ、と。
双方が未知なるものとして邂逅し、そこからどのような感情が芽生えていくのか?
そんな展開を私なら書いてみたいかなぁ。
武士が科学技術に驚き、洋才の便利さに戸惑いながらも便利さを認める。
ロボットはメーターでは測ることができない、誇り、意地、根性を学びながら最先端の技術に計算不能な気持ちを盛り込んでいく。
友情であったり、嫉妬であったり、愛情なんてのもいいかもなぁ。
これを書いている2011年11月、読書では「ローマ人の物語」(塩野七生)なので、古代のローマ人がプレデターに出会うなどとかいう今作から何のヒネりもないアイディアも浮かぶ。
おっと、脱線はここまで。本線に戻る。

西部劇を舞台にその時代には絶対存在しないエイリアンを登場させている設定。
「連れ」はインディ・ジョーンズ大好き、ハリソン・フォード大好きという女性なので、早々におひとりさまで鑑賞しちまった(苦笑)
先に鑑賞された場合こちらにとって都合がいいことがある、「連れ」はパンフレットを必ず買い込んでくる。
おかげで私は鑑賞前にパンフレットを眺めることができる(ネタバレを先に知ってしまうリスクもあるので、読むのではなく、眺めるようにしている)
さて、今作のパンフレットを眺めると、「どうやら正統派の西部劇らしい」
上記のことのみを頭に叩き込んで鑑賞に赴く。

平日の月曜日、観客はまばら、しかし、平均年齢はかなり高め。
SFものでありながらこの年齢層(というか若年層が少なすぎる)に戸惑いすら覚えながら本編スタート。

序盤は「誰?」から始まり、右手にあるキャノン砲兼GPSみたいなものは「何なんだ?」
「私は誰?」「ここは何処?」の滑り出し。
地元の美女が登場し、偏屈オヤジが登場して、ダメ息子が登場してきて・・・・・・
これって西部劇の王道なんですよね~

「カウボーイとエイリアンが不釣合いだ」とその点に視点を合わせれば、今作は「荒唐無稽」だけしか感じられなくなる公算が高い。
だからこのカウボーイが闘うハメになったのがたまたまエイリアンだっただけのことだ、と割り切って鑑賞するのが楽しい鑑賞への方策の一つだと思う。
カウボーイが闘う相手は何でも構わなかったんだ、きっと。
尊王攘夷の志士でも構わないし、スパルタ軍でも構わない。
ウーパールーパーでも、エリマキトカゲでも。
いっそのこと、ドラえもんでも構わない(ドラえもんなら空気砲対決もできるじゃん!)
続編製作の暁には「カウボーイ&ドラえもん」で!(何せ2011年のクルマのCMでは実写版ドラえもんにはジャン・レノが演じている時代だもの)

2011年11月23日水曜日

沈まぬ太陽(5)会長室篇・下

この本を手に取るあなたへ
「目に余る組織の腐敗に目を向ける読み方だけではなく、その腐敗した組織に自分が属していると仮定して、不条理と闘う『勇気』と『気力』が維持できるか(Can I Keep?)のではなく、維持できる人間になりたいか(Would I Like To Be?)」で読んでみよう

腐敗の構造とディティールが克明に記されており、文章だけでは理解できない。自ら図解してみても経済学が苦手の私にとってこ難しいカラクリ。
まぁ、でも。
思いっきり端よれば「ネコババ」している輩が企業にせよ政治家にせよ官僚にせよ存在し、そのネコババしたお金が世の中を動かしている側面もあるという。
それは悲しいかな「事実だ」と認めざるを得ないのだろう。
汚れた金を手にしたくはないけれど、汚れた金は世の中で回っている。知らずにその恩恵を受けていることもあるのだと。

和光監査役の「5シンの戒め」(91頁)が正しい方角を照らす道標。
逸脱すれば、利権構造と人間の物欲は真実と正義を埋もれさせてしまい(314頁)、「The Most Dangerous Animal in the World」(167頁)を見てしまうことになる。

全5巻の物語、ジャンボジェット機墜落事故が小説の軸であり、事故以前からの企業体質と事故以後の利権を巡る輩どもの話で愉快な気分にはなれない。
物語の終わり方は希望を僅かにしか感じられない、スカっとした結末ではない。だから世の中は自分が感じているよりも遥かに汚濁しているんだという残酷な現実を突きつけられているかのよう。

時代小説家池波正太郎は「悪いことをしながら善いことをする。善いことをしながら悪いことをする。どちらも人間であり、矛盾を抱えながら生きていく」というようなことを説いた。
鬼平犯科帳に現れる盗賊にそんな輩が多いのだが、この「沈まぬ太陽」ではそんな手合の輩が登場してこない。
悪いことをする輩はとことん悪いことをする下司でしかない。
主人公恩地元や国見会長はどこまでも正義の人だし、主人公のライバル行天や轟らはどこまでも悪の人だ。
限りなくノンフィクションに近いフィクションだから、敢えて善人・悪人を明確に区分けして執筆されたのだと思いたい。
読み手は誰もが主人公側に感情移入させやすい、古代から日本は「賄賂は必要悪」という国家体質の国柄だという。
この国の体質に一石を投じた作品だと後世に伝えられるのかもしれない。

最後に。
事故によって尊い命を落とされた521名(胎児の話に涙しました)の魂とご遺族に思いを馳せる。
合掌

2011年11月16日水曜日

沈まぬ太陽(4)会長室篇・上


この本を手に取るあなたへ
「責任とは何か?
利権と関与したいか?したくないか?
その2点だけで構わない、読んでみよう」

この巻でどういうことを感じたか、それを言葉に、文字に替えて下書きしよとするも、ペンが遅々として進まなかった。
「御巣鷹山篇」で「命」の尊さを否が応にでも考えさせられ、この流れを汲みながら国民航空が新たな一歩を踏み出す改革を成し遂げていく姿を期待していた。
第1章、第2章あたりまではその期待に沿った展開であったが、第3章あたりから様相が一変していく。
520名の命を奪った事故などそっちのけで己の利権、保身、出世に汲々としている輩に激しい嫌悪感を抱く。

新会長に就任した国見、主人公恩地元の清廉潔白に肩入れしながら読んでみるものの、この小説は「勧善懲悪」が成立するような雰囲気を感じ取れない。
小説にせよ、史実にせよ結末がどうなったのか知らないのだが、恩地らに女神が微笑んでくれるとは思えない。

社会の裏側を暴き出している。
国民航空が半官半民とはいえ、「官」がことあるごとに優遇されるシチュエーション。
その「官」も紐どけば多岐にわたる「官」が存在し、反目したり、利権を貪ったりしている。
「JFK」、1990年代に観たオリバー・ストーンの映画と重なる。
どちらも、国民が豊かで実りある生活を遅れるように労苦を取らねばならない輩がその使命を置き去りにして我が身を最優先にしている姿だ。
そして使命を真剣に考え、国民のことを憂慮している人々が異端児として扱われるところも同じ。

性善説と性悪説では性悪説を採る私としては「金」「利権」らとは無縁なままで構わない。
「STAR WARS」の「アナキン・スカイウォーカー」になってしまう。
アナキンにはなりたくないと思っていても、いざ目の前に巨大な利権がぶら下がり、見たこともないような札束が積まれれば、私はダークサイドに堕ちる。

だから、この下書きを認(したた)めながら佐野元春の「希望」を聴く。
「ありふれた男」で「ありふれた日々」を過ごして「何も変わらないものをそっと抱きしめたい」と願っている。

第1章 新生
第2章 朝雲
第3章 黒い潮
第4章 曙光
第5章 波紋
第6章 狼煙
第7章 弔鐘

2011年11月14日月曜日

沈まぬ太陽(3)御巣鷹山篇

この本を手に取るあなたへ
「人間が、便利な文明の利器を手に収めれば相応するリスクを背負うことにもなる。
私たちは加害者にも被害者にもなりえる確率の下で暮らしていることを肝に銘じて読んでみよう」

遺族の気持ちが分かる、とか、遺族の立場になって考えるとか言うのはあまりにも空々しい、軽々しい、おこがましい。

1985年8月12日から始まったジャンボジェット機墜落事故のnews、当時九州の片田舎に住み、飛行機に搭乗したこともなく、また生涯飛行機搭乗することなんて無縁のことと考えていた高校2年生の私にとっては遠い世界のnewsに聞こえていた。
飛行機になんて乗らないでおこうと思っていたものだ。
この後10年後、鹿児島や宮崎、沖縄そして東京出張で飛行機に乗ってきている。
あの頃、「乗らないでおこう」と考えていたことを忘れてしまっていた。
この本を読んで、事故の記憶が風化している自分に冷や汗が出てくる。
但し、この事故から4半世紀を経過した今でも「ダッチロール」「しりもち事故」「圧力隔壁」といった単語は強烈なインパクトを残し続けている。

「アフリカ篇」とは全く異なる物語。
主人公恩地元が日本へ帰国して11年も経過している。
アフリカ篇を読まずとも「御巣鷹山篇」だけで充分過ぎるほど小説の読み応えはある。
丹念な取材と緻密な構成に「よくもまあ」と、取材の幅の広さと克明な内容に簡単させられる。
中でもアメリカ、ボーイング社での内容には作者山崎豊子の作家根性にひれ伏す。

自動車事故、鉄道事故、船舶事故、この後にも起きた航空機事故、そして原子力発電所事故。
人類は生活を便利にするために、快適になるために機械を製作し、活用し、改良するサイクルを廻しながら事故を防ごうと努力している。
それにあたり、常に「安全」を最優先にしなければならないというごく当たり前のことを、頭に、胸にDNAに刻みつけるテキストとして本書は読み継がえていくことだろう。
万が一本書が軽んじられる時が到来するのだとすれば、人類は機械を製作してはいけない。

第1章 レーダー
第2章 暗雲
第3章 無情
第4章 真相
第5章 鎮魂
第6章 償い
第7章 紫煙
第8章 怒り
第9章 御霊

2011年11月9日水曜日

新選組血風録

この本を手に取るあなたへ
「誰にも負けない組織を築きたいのに、嫌われたくないなどといった邪念があなたを惑わせるのなら心を鬼にするために読んでみよう」

今秋司馬遼太郎記念館に足を向けた際の最大動機が、今春BSで放送されていた新選組血風録展示があったから。
(ドラマは未見)
展示の中で最も興味をそそられたのが当時の地図と物語の事件現場をマッピングしているという謳い文句。
大抵の入場者が10分もすればその地図の前から離れるのに、私ときたら45分はじっと腕組みをしたり、唇に人差し指を当てながらウンウンと頷きながら眺めたりして楽しみました。

組織を築き上げる「鬼の副長」土方歳三、その有能な筆頭部下山崎烝、ギスギスと窮屈な鉄の組織に緑風の存在沖田総司
この3人が特に印象深く残る
山崎烝が主人公の「池田屋異聞」は「忠臣蔵」に関わる物語を読んでいたことで、ニヤリとさせながら読めた。

関西に住み始め、尚且つ京都界隈をルートセールスしていたことも相まって京都市内の地理が僅かながらに理解できるようになった。
北から南へ一条から十条
西から南へ烏丸、河原町
京都人からすれば3歳児でも分かるようなことでも、九州から出てきた田舎者の私にとっては本に書かれている地理が脳内でマッピングされ、事件の舞台が「あのあたり」と見当をつけながら読み進められるようになった。
この悦びは時代小説愛好家としてその末席には座る資格は取得できたかな、と思える。

元々は2004年に大河ドラマ「新選組!」の視聴前に読んで以来の再読。
三谷幸喜がどう味付けをしていくのか興味津々で視聴した。
例えば。
斎藤一による谷三十郎、武田観柳斎の暗殺
近藤一派による芹沢鴨の暗殺
同じく近藤一派による伊東甲子太郎の暗殺とそれに続く油小路の決闘
中でも芹沢鴨の暗殺に至るストーリーと人物描写、芹沢鴨の心の深淵を描ききったドラマはこの「新選組血風録」の物語とはコペルニクス的転回の物語。
対比しながら読むのも一興。
「新選組!」には登場しなかった物語でもドラマ化、舞台化されている篇も幾つかある。
大島渚監督の「御法度」は「前髪の惣三郎」「胡沙笛を吹く武士」を土台にしている
舞台になったのかどうか不明だが、私が鑑賞してみいのは「沖田総司の恋」
コメディでも構わないし、シリアスでも構わない。


・油小路の決闘
・芹沢鴨の暗殺
・長州の間者
・池田屋異聞
・鴨川銭取橋
・虎徹
・前髪の惣三郎
・胡沙笛を吹く武士
・三条碽乱刃
・海仙党異聞
・沖田総司の恋
・槍は宝蔵院流
・弥兵衛奮迅
・四斤山砲
・菊一文字

2011年11月8日火曜日

沈まぬ太陽(2)アフリカ篇・下


この本を手に取るあなたへ
「10年間という時間の始点、終点を想像せずに無期限の時間を過ごさなければならないと思って読んでみよう」

主人公、恩地元は「カラチ」「テヘラン」「ナイロビ」と転勤させられる
地理的には、西へ西へと日本から離れる一方
職場環境は、集団から孤立へ
海外赴任してから10年間というゴール(到達期間)を知っている読み手ですら、主人公の孤独感とやりきれなさは想像を絶する。
まして、主人公そしてその家族は10年という終点が判らずに過ごしていたのだ。
それを思い合わせると「ナイロビ篇」で主人公が狂気に陥り、自身が撃った剥製を銃で木っ端微塵に撃ちまくるくだりは恐ろしくもあり。
狂気に陥る心境も朧げながら分かる。
というのも、自分自身も主人公の境遇には及ぶべくもないが、望まぬ転勤を強いられたことがある。
転勤の糸を引いた当事者の顔を思い浮かべると、運転していればアクセルを目一杯踏み込んだし、手に持った「モノ」を投げつけたくなったこともあるからだ。
しかし、それでも。それほど絶望的な状態であっても、いやあるからこそ。
人は何かしらの生きる楽しみを模索していく。
主人公恩地元の場合は「狩り」
我々読み手からすればずいぶんと荒っぽく、暴力的な趣味に映る。
平和で身近に生物による命を脅かされるリスクもなく暮らしているからだ。
なんども書くが、「終点がいつ来るのか分からずに暮らすやるせなさ」、加えて「自然への畏怖、尊敬」といったものがないまぜになって主人公を「狩り」という趣味に走らせたのではなかろうか。
終わりが見えない中で信念を貫き通し続ける主人公に感激する。
私は恩地元のような「貫く覚悟がある」人間ではないが、究極の選択を強いられる場面でそうでありたいと希う。

私は国民航空の上層部に巣食う「エゴイズム至上主義」の企業体質を憎む。
そんな企業にあって、反骨心の塊であり、主人公を公平に扱ってくれる島津支店長の存在に胸をなでおろす。
それからアフリカに住んでいる日本人たちの人生の送りようが清涼剤のように爽やかで清々しい読み応えを与えてくれる。

アフリカ篇
第7章 テヘラン
第8章 ナイロビ
第9章 春雷

2011年11月7日月曜日

マウス・オブ・ザ・マッドネス

連れがネットで手に入れたというシロモノ。
なんでも高値で取引されているらしく、原価よりも3倍の値段以上でも平気で売れていく、と、連れの声

行方不明者を捜索し、その結末は如何に?
という手合の作品の一つに「エンゼル・ハート」があります、作中に伏線が仕掛けられており結末で「うわぁ、おぞましい!!」と感じさせられる作品なのですが、今作の結末は悩ましいです。
狂気に始点はどこからなのか?
現実と非現実の境界線はどこだったのか?
登場人物は実在なのか、しないのか?
鑑賞し終わって数日経過しますが、未だにスッキリしません、気になります。
嗚呼、しかし、この手の作品に正解なんて存在しないんでしょう。

映像が安っぽくて、見せ方が「ウルトラQ」「ウルトラセブン」なんですね。
Qにせよセブンにせよ、その世界観を具体的に書けるほど造詣が深くないのですが、通じるものはあると感じてしまったのだから仕方がありません。

もう一回観てもいいかな、と思い始めています。
なるほど、高値で取引されるだけのことはある。

ゲット・ラウド(It Might Get Loud)

連れが「見に行きたいけど映画館の立地が特異で周辺の雰囲気が女性には怖いところなの、できたら一緒に行ってくれない?」
このところ映画ざんまい生活を送っているにも関わらず他にも鑑賞したい作品が多い。
が、この作品の存在は知らなかった。
「どうしたものか?」と僅かのためらいが起きた。
連れがキラキラした目(連れはguitar好き)で訴えかけてくるのが可憐だったこと、そしてもう一つ、「The Edge」が出演していることが決め手になり、その映画館に赴く。
この映画館に足を運ぶのは二度目
ファッションホテルが近在し、どう見ても繁盛しているような印象を受けない飲食店も点在している
以前はポルノ映画館だったのだろうと推察する。
アダルトビデオの登場により衰退し、閉鎖していたものの、新たなオーナーに変わり、メジャーな映画はシネコンに委ね、マイナーな作品を一手に担う方針の映画館になっているのだろう。
この映画館はもっと繁盛して欲しいのだが、それには映画館の努力だけではなく街全体の努力が必要なのだ。
いかんせんあまりにも古臭いものが多く、繁栄する日が来るのは遥か遠い日か、あるいはそれ以上に悲観的なことを考えてしまう。
連れよ、一緒に行けるときは一緒に行ってあげるからね。(キョーレツなホラー以外はOK)

作品について
ジミー・ペイジ(レッドツェッペリン)、ジ・エッジ(U2)、ジャック・ホワイト(ザ・ホワイト・ストライプス)の3人のギタリストが自身のルーツを訪れる、その一方で3人のためのステージが用意され、一夜限りのセッションが行われる。というもの。

ジャック・ホワイトというguitaristについて何も知らずにいて、こんなに若そうな人が大御所のジミー・ペイジとジ・エッジと対等に話しているのに驚く。
調べてみたところ1975年生まれ(2011年現在36歳)
私よりも年下だと踏んでいたものの、連れよりも年下だ。
映画の始まりで彼がコカ・コーラの瓶をナット(というのか?)にして原始的なギターを製作し音が奏でられるシーンが印象に残っている。
ギターという楽器はここから始まり、それを扱う人によって音や音調が変わっていくことを代弁しているのやもしれません。
guitarが音を奏でる単なる道具だとしても、扱う人々はその道具が自分にマッチするように丹念に磨きあげていく。
「自分にマッチ」というのが、guitaristの生まれた場所や環境、時代に左右されて行く。
音楽、特に楽器のことに疎い私にとって、今作の映像は100%ヒットするものではなかったのです、ドキュメント内容もスッと変わってしまうから、どのguitaristのドキュメントなのか追いつけずに観劇している瞬間もありました。

最後のguitarセッションは素晴らしい。
guitarの音色は時に悲しく響き、時にエモーショナルに響きます。
不思議な楽器だな、と改めて感じ入りました。

映画館の立地環境からすれば鑑賞者は我ら2人なのではないか?と思いきや、20人近くはいらっしゃいました。
中には強者な女性が一人で鑑賞にお見えになられていましたが、rockな生き方されているんでしょう。

2011年11月3日木曜日

ステキな金縛り

館内に同時に全ての観客の笑い声が響き渡る作品。
こんなにも観客が同じものを観て笑えるって、とても稀有な映画だと思います。
私の親世代がハマッて鑑賞していたクレージーキャッツの映画に通じるものがあるように感じます。
その理由は「エロ」も「グロ」もなく、健全に笑える。撮影の手法や技術は21世紀ですが、目に映るものは昭和チックなテイストでしたから。

深津絵里
テレビ放映されていた「踊る大捜査線」も「マジックアワー」もきちんとした状態で観たことがないので、あまり彼女がどういう役が似合うのか先入観がない状態で観た感想。
「ドタバタと走り回るドジな女性」をコケティッシュに演じさせると彼女の右に出るものはいないのかもしれませんね。
法廷内をスーツ姿の彼女の足捌きに連れのドタバタ感とドジッぷりに共通するものを感じていました。
例えば綾瀬はるかでもこの役はこなせるのだろうけど・・・愛くるしさという観点からすれば深津絵里に軍配を上げる人のほうが多いのでは

深田恭子(私、好きなんです)
ファミレスの店員さん役でご降臨。
「エロ」も「グロ」もない作品だと先に書きましたが、深キョンの胸の谷間は妖しい。
ま、エロというよりお色気ですけど。
三谷幸喜はコスプレマニアですねぇ(笑)

阿部寛、中井貴一、佐藤浩市も「皆さん、既に日本のactorのなかでは重鎮と呼ばれる存在なんだからそんなこと(タップダンス・犬と戯れる・時代劇の端役)」しちゃっていいんですかぁ!!
と、重たい役回りの重圧から開放されたがっているかのよう。

西田敏行
やりすぎでしょう(笑)


2004年に大河ドラマ「新選組!」で三谷幸喜の脚本の上手さに感服しましたので、そんな思い出の深い新選組!からのキャスティングが多くて、嬉しかったですね
山本耕史(土方歳三)
小日向文世(佐藤彦五郎)
戸田恵子(お登勢)
生瀬勝久(殿内義雄)
小林隆(井上源三郎)
阿南健治(宮川音五郎)

リミットレス

洋画を鑑賞するようになって、最も敬愛する俳優の一人がロバート・デ・ニーロ
80年代後半、デ・ニーロは何をしても絵になる男だった。
「エンジェルハート」でのサイファー。
最後の最後で腰を抜かしてしまうほど驚いてしまいました。

「俺たちは天使じゃない」のこそ泥ネッド。
ショーン・ペンと組んだこの作品は繰り返し観た(ショーン・ペンが八方塞がりの状況下の橋上で語るシーンがとても好きだった)

その他「ミッドナイトラン」「レナードの朝」「ケープフィアー」「ザ・ファン」
VTRでの視聴もありますが、私にとっては「映画館に行って顔を見たくなる俳優」です。

デ・ニーロ観たさと、作品の粗筋を読んで「危険な橋を渡る」面白さが得られそうだなと、仕事帰りに映画館へ立ち寄りました。
が、しかし。寄る年波には勝てない、デ・ニーロも老いました。
彼の老いと役回りがマッチしていない、今作でのデ・ニーロはフツウの俳優にしか映りません。

ああ、そうだ。作品と関係ないけどイラッとすることが上映前にあったのだ。
19:30開演、チケット購入が19:05。25分の余裕があり、階下のうどん店にカツ丼セットを頼む。
「時間どれくらい掛かりますか?」に対し、店員「10分もかかりませんよ」
早食いにはあ自信があるので、間に合うと判断。
ところが先客がごね出す。
同じカツ丼セットを頼んでいたようだが、「大盛り」を注文しているのに大盛りじゃないと大立ち回りを演じる。
このセットには大盛りなんてないのだ、だって私も大盛りにしたかったけど、メニューにも張り出しにも記載されていなかったんだから。
アルバイト店員が謝る。しかし更に彼女の謝り方は『なっていない』為、怒りの油に火を注ぐ。
板さんが登場し、謝り倒す、作り直しの提案をして収める。
と、いうことは私のカツ丼セットは遅くなる。
先客よ、大盛りじゃないぐらいで激昂するなよなぁ。
先客とアルバイト店員に心中で罵倒の嵐!!

さて、肝腎の映画について。
NZT48という薬品がもたらす作用、副作用により物語は転がっていく。
(今の日本で48と言えばAKB48を思い起こさせ、クスッとなりました)
普段は20%しか活用されていない脳を100%活用できる薬品を手に入れる人々が繰り広げるドラマなんですが、欲望がショボい。従ってB級映画です。
主人公が目論むM&Aの相手もNZT48の使用者だって、直ぐに察しがつきましたし・・・

この薬品は世間を騒がす麻薬の類と何が違うのでしょうか?
出だしで主人公の「今」(自殺しようとする姿)を見せておき、こうなる経緯を振り返っていく展開ですから、これは麻薬撲滅をテーマにした作品なんだろうと思っていたところ、「今」に戻ってきて、そこから更に話が転がってエンディングを迎えますが、このエンディングには不賛成です。
エンドロールが終わって、もう一ひねりあるだろうって期待していたんですが。

作用の素晴らしさの虜になり、副作用(記憶を無くす)に苦しむ。
作用しているときに主人公の瞳がブルーに輝きます。
(そんな作品があったよなぁ、と、宮部みゆきの「パーフェクトブルー」ですね)

展開はスリリングです。
特に序盤から中盤までのドキドキ感、と、「どうなっていくんだ?」と展開を考えながら鑑賞できる楽しさを味わえます。
主人公にたかるチンピラの欲望が何だったのか明らかにされていませんが、大して財産形成をしている様子もなければボディガードを二人雇用している程度なんだからショボい欲望なんでしょうね
「インビジブル」で透明人間になった主人公の欲望と同じレベルかな。

ラリッている状態を表現が面白い。
透明人間が疾走していくようなスピード感での街並の見え方。
天井でパネルのようにめくれていく数字。

お!
カツ丼セット大盛りを頼んだあの先客はNZT48が切れているダメダメな状態だったんでしょう。
終わりがよろしいようで(笑)

2011年11月1日火曜日

一命

昨年の「十三人の刺客」に続き、三池崇史が撮った時代劇
「十三人の刺客」がエンターテインメント性を追求した娯楽性に比重を置いた作品に対し、「一命」は地味で動きも少ない。
従って、興行成績はイマイチのようで、映画館によっては公開1ヶ月もしないうちに特に3D版には「LAST」マークが立っている。
3Dの映像については、雪や紅葉といった風景が3D映像にすることで却って粗く見えてしまったのが残念だった。
但し、一緒に行った連れが言うには「日本家屋に3Dは合う」とのこと。
柱の奥行感とかに代表されるように「向こう側」を感じることができる、と。
パンフレットにも三池監督自身も同じような発言をされているとのことで、連れの鑑賞眼にただただ恐れ入るばかりです。

さて、先ほど地味な作品だと書きました。
美術、セットは暗めを基調としています、鎧の間の赤色も煌びやかな「赤」ではなく、どす黒い「赤」に映ります。
血の色っぽい赤だと感じます、関ヶ原や大坂の陣といった侍が猛々しい侍であった頃の命のやり取りをしていたことを匂わせるような色遣いではなかろうか、と。
美術についてもう一つ。
千々岩の家の障子が物語が進むにつれて寂れていく。
いや、「荒んでいく」といった表現のほうが的確かもしれません。
その障子に、落ちぶれていく武士の凄惨さ、悲惨さ、貧しさが滲み出ている。
併せて妻が窶れていく姿を見て、同情を禁じ得なくなる。

物語について。
武士の存在は、不条理だ。特にこの江戸時代初頭においては。
戦乱の世は終わり、戦闘することもなく、生産をするわけでもなく、農工商を護衛する役目は名目だけだし、ただ消費を繰り返すだけ。
存在価値は時の変遷につれ、ただ保守的であれば、やがてはその価値は失われていく。
(それは現在読み進めている『ローマ人の物語』から伺い知ることができる)
そんなジレンマに立っているのが、役所広司が演じる彦根藩の家老なのだろう、彼が跛をひいているのは関ヶ原なり大坂の陣で名誉の負傷を負ったほどの猛者であったことを想像させる。
家老の部下どもは、新時代(徳川政権確立後)の武士、存在価値を命のやり取りではなく、「武士らしさ」に自身の価値を見出している新人類。
そんなところに狂言切腹を申し出てくる武士(千々岩求女)
その武士を切腹させる新人類は家老が考える待遇ではなく、嬲るようにして切腹させる
切腹のシーンは痛々しくて、私は仰け反りながら鑑賞していました。
竹光が折れても尚、腹に突き立てるのは実に痛かった。
新人類が行なったことに最も立腹していたのは津雲半四郎ではなく、家老ではなかったか。

市川海老蔵
瑛太の父というのはAWAYな環境。違和感を覚える。
もみあげに白いものを交えさせるなどの工夫は見えるんですが、二人の実年齢は5歳差ですからね。
殺陣は流石です、思わず『いよぉっ、成田屋!!』と喝采を挙げてしまいました(心の中ですよ、モチロン)
特に青木崇高との一対一の対決のシーン、青木もなかなかの腰の座り具合だが、海老蔵には及ぶべくもなかった。
とかくゴシップ記事が多い役者ですが、芝居は一級ですなぁ

瑛太
彼の顔は、あまりに近代的過ぎて時代劇には不向きというのが私の率直な感想。
大河ドラマ『篤姫』での小松帯刀役もピッタリとは思えませんでしたから。
そんな彼が武士役でしかも切腹をする役なんて、『サマにはならんだろう』と思っていたのですが、いやぁ、切腹する姿は堂に行ったものでした。背中からのアングルはカメラさんの上手さも手伝っているのでしょうが、本当に痛さが伝わってきた。
すまなんだ、瑛太。


満島ひかり
病持ちで段々と窶れていく薄倖な武士の妻をとても素晴らしく演じている。
希望に満ちた婚礼の頃と、愛しい我が子を失ったときの彼女の表情のギャップがこれが同じ女なのか!と。
彼女の将来性を感じる。
宮崎あおいが陽の役を演じている(『ツレがウツになりまして』『神様のカルテ』)のに比して、満島ひかりは陰の役を演じている(『悪人』)
それぞれ、二人が極めた時点での競演を期待している。

ただ。
美穂という近代的な名前はねぇ、「美津」とか「佐知」とかだといいのにぃ(笑)

この映画ではこの3人の存在感が際立っていた。
芸達者な役所広司も竹中直人も、敢えてその存在感を薄めたんだろうと思う。
それをしなければ、私たち観客は狂言切腹を申し出た側に感情移入できないのかもしれません。
役者の妙、配役の妙、演技の妙がうまく紡ぎ出している作品。