2012年4月28日土曜日

鬼平犯科帳(2)

「本」について書くのが1ヶ月ぶり
この「鬼平犯科帳(2)」を読み終えたのはそれ以上も前のことだ。
Blogに書きたいと思いながらも、3月は怒涛の仕事ラッシュ、たまの休日には映画館で現実逃避を繰り返す。
本業である本(自称)については後からでも書けるけど、映画については早めに書かないと記憶も薄れるし。
従って3-4月にエントリしているのは映画についてばかりになってしまった。
ハハハ(失笑)

さて、言い訳及び経過報告は以上にして。

この2巻、以前に読んだ時の粗筋をかなり覚えていたのに我ながらびっくりした。
中でも「女掏摸お富」「妖盗葵小僧」は読みながらストーリーを思い出しながら読み進めた。
結果は知っているのだ。
お富は逮捕されるし、被害に遭った女性らの名誉を守るために長谷川平蔵は即断即決で葵小僧を打首にする。
結果を知っていながら読み進める楽しみ。
葵小僧の話は大抵の男に眠る野卑た欲望を満たすポルノの要素も大きい。
朝の通勤電車の中で読み返すには刺激が強烈過ぎる(笑)
邦画作品もハリウッドでリメイクされることが珍しくなくなっている今、葵小僧の話をリメイクしてほしい。

最近観た映画の監督を候補に挙げてみよう。

デヴィッド・フィンチャー(ドラゴンタトゥーの女)
葵小僧が女を犯すシーンが目を背けたくなるような描写になりそうで、パス。

ジョージ・ルーカス(スターウォーズ)
ルーカスの美女の感性と私の感性は相容れない(あ、エピソードⅠのナタリー・ポートマンは美女ですよ)
ルーカスは自分で空想した物語は上手く映像化できるけど、他者が描いた空想を映像化することは二流の人、パス

スティーブン・ダルドリー(ものすごくうるさくて、ありえないほど近い)
この監督に生々しい性交のシーンを撮影させるわけにはいかない、パス

クリント・イーストウッド
おお。
葵小僧の心の闇をどう描くのだろう?
長谷川平蔵の即断即決ぶりをどう描くのだろう?
オファー!!

ガイ・リッチー
節目節目でヒントを散りばめる作風。
逆回転方式とでも言えばいいのか、後半になって前半の尺がドドドドっと来る感じ
「これはこれであり」かなぁ。


「蛇の眼」
「谷中・いろは茶屋」
「女掏摸お富」
「妖盗葵小僧」
「密偵」
「お雪の乳房」
「埋蔵金千両」


気に入った文章
①15頁
人間と、それを取り巻く社会の仕組みのいっさいが不条理の反復、交錯である

そうなのである。
昨今の日本は不条理を不条理として許さないことが先走りすぎているように思える。
その不条理に遭遇しないように自助努力をしても尚、不条理に遭遇する可能性を抱えて私たちは生きている。
生きていくことは、その不条理とどれだけうまく付き合えるか?

②40頁
女の場合、男の裏切りを知ったとき、男よりも相手の女を憎む

なるほどなぁ。


③57頁
どんな豪傑でも、そのときの気分ひとつ、躰の調子ひとつで、ふるえが来るものさ。

なるほどなぁ、その2

④76頁
(ああもう、たまらぬ)
木村忠吾の言葉。

鬼平で癒やし系とでもいうべき存在、木村忠吾のことば。
馴染んだ遊女のところに行けないときに発した忠吾の心の言葉。
これ、とてもよく分かるんだよなぁ。

⑤119頁
ゆびが呼んでいるのだ

お富が万引きをするときの描写
主語を人間ではなく、名詞にしているのが心憎い。
罪はお富にあるのではなく、彼女に巣食った闇だとする表現。

⑥120頁
習慣は性格になる


なるほどなぁ、その3


⑦266
今日いちにちで、これだけ平気になれたのだから、半年もたてば、もっと平気になれるでしょう

木村忠吾のことば、その2
失恋したときのことを思い出した言葉だ。





シャーロック・ホームズ シャドウズゲーム

原題「Sherlock Holmes:A Games of Shadow」

前作もそう、今作もそう。
「そう」とは、ストーリー展開においつけないけれど、それでも充分楽しめる。
そしてもう一回観たくなる。

どこからホームズが出てくるのか?
え?そんなところから?ならまだいい。
え?どこにいたの?
そんなんばっかりです(笑)

原作を読んでいれば前半のワトソン結婚式に至るまでの部分もニヤリニヤリとさせられること必至なんだそう。
映画は洋画を好むクセに、本となると和物しか受け付けない私にとって、シャーロック・ホームズの物語は鬼門なのだが。
だが。
だが.......
原作を1冊購入してしまった。

前作、今作、そしておそらくは次作を心ゆくまで楽しむためには読んでおきたい。
できうれば3作纏めてどこかの映画館が上映してくれんかいな。
そんなイベントを期待してしまう。






2012年4月26日木曜日

ナポレオンフィッシュと泳ぐ日

「Napoleon Fish Day」
初出は「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」

このアルバムの歌詞をSiteでなにげに眺めていると、改めて気づいた。
どの曲も(佐野元春にしては)文字数が少ない。
言葉につぐ言葉のような印象が深いアルバムだから、驚いた。
「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」は佐野元春の歌詞にしては行数が少なく、僅かに14行
(ちなみに「Visitors」の「Come Shining」は4倍以上の行数)

歌詞の勘違いを発見。
これまで
きみの「腕」に抱かれて
とばかり聴いていたが、
きみの「胸」に抱かれて
だった。
「腕」と「胸」では随分と曲が持つ印象が変化する。
どちらも腕なり胸の持ち主を精神の拠り所としているのだろうが
「腕」よりも「胸」では愛情を求める度合いが深く、孤独な期間が長いような印象。
腕は恋人であり、胸だと母や妻に代表されるような何もかも委ねられる存在。

佐野元春さんですらどちらか分からないという
奇妙な「フェスタ」に招待されている孤独なペリカン
なのか?
奇妙な「ジェスチャー」に招待されている孤独なペリカン
なのか?
まぁ、どちらでもいいのだろう(笑)


この曲は出だしのブラスホーンと「LALALALA~~~」の連呼にシビれる。
高らかに宣言しているようなブラスホーン。
言語にせずとも高らかに宣言する「LALALALA~~~」
何を宣言しているのか?宣言するのかは聴き手に委ねられている。
仕事頑張ろう!!といった漠然したものではなく、もう一歩自分の中に横たわっている何かにスイッチが入るような感覚。
この業務完結するまで諦めずにやってやろう!!とか
誰かに助けを求めずに自助努力してやったるぞっ!!
とか、そういったミニマムな決意の時にも流れる。
もっと大きなマキシマムなときにも流れるが、それは大抵街並を一人で闊歩しているときが圧倒的に多い。
調子が上がらないとき、自分の中にあるファイティングスピリッツ(←一応複数形)を鼓舞しようとすればこの曲が流れる。

とんでもなく忙しく目を回していた3月、そしてその後遺症に悩み週末の度に体調を壊していた4月が終わる。
ようやく体調も上昇傾向に向かいつつある、落ち着きを取り戻した仕事、そんな平日の午後、お手洗いに行く途中にこの曲が流れ出した。
精神がマトモでケンゼンになりつつあるのだと自己洞察している。

今響く歌詞。
世界は少しずつ形を変えていく
俺たちは流れ星、これからどこへ行こう


2012年4月21日土曜日

ヒューゴの不思議な発明

原題「HUGO」

同じ月に観賞した「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」に似通っているような作品
どこが似通っているかと言えば
・父親を失った少年が登場する
・その少年は父親が遺したものを父親の足跡を追い求める
・邦題が「どうなのよ?」とツッコミたくなる
ヒューゴは何も発明はしていないのだし.......
それに、ヒューゴではなく、カタカナで発音すれば「ユーゴー」だよねぇ
ブツクサ、いちゃもんはともかく。

予告編で感じさせてくれていたものは「少年向けのファンタジー」
作品を観て感じさせてくれたものは「大人向けのファンタジー」
この乖離幅の大きさに驚き、思わぬ感激を巻き起こしてくれる。
前者は主役ヒューゴの物語だと感じていたから、後者はパパジョルシュの物語を知ったから。
予告編で、パパジョルシュは登場してたかなぁ?

映画の技術は絶え間なく進歩している。
音声、白黒からカラーへ、特撮技術、そして3D
細かなことを書き出せば枚挙に暇がないことだろう。
どんなに技術が進歩しても、製作者に映画への愛がなければ只の凡作にしか成り得ないと。
そんなメッセージも込められているように感じる。
映画草莽期の作品が幾つか上映(?)される。
いずれも現在の技術からすれば稚拙なものに過ぎない、それでも当時の映画を鑑賞した人々の驚き、感激というものを間近に感じることができる。
多くの人々が映画館に足を運ぶの動機づけは「希望」を感じたいからかなぁ、と思う。


イザベラを演じたクロエ・グレース・モレッツがチャーミング。
「モールス」(←未鑑賞)のパッケージと同じ女の子だとはとても思えないほど、彼女の笑顔はチャーミング、なんとまぁキラキラと輝いていることか。





2012年4月14日土曜日

スターウォーズ エピソードⅠファントムメナス 3D

原題:「STAR WARS EpisodeⅠ Phantom Menace 3D」

齢40を超えて、劇場での「STAR WARS」初鑑賞
このシリーズはどうしても映画館で観てみたいという欲求が強くて、リバイバル上映には足を向けない私がイソイソと公開直後に出かけてきた。
極端に言えば3Dでなくても観劇に赴いたことだろう。

20世紀FOXの音楽が流れて、ジョンウイリアムス作曲のテーマ曲が流れる。
もうそれだけでいいじゃないか。
え!?良くないって?
あなた、贅沢ですよ。

ええ、そうです、私だってわざわざ3Dにまでしたのに、奥行感なり立体感に乏しいなぁ、と思ったクチです。
ポッドレースのシーンは目が痛くなるし、そもそも見えないし。
追加のシーンに「オヤ?」と気づいたことは気づいたんですよ。
でもパルパティーンが議長に就任するシーンの前後あたりでしっかり前後不覚に陥り、スヤスヤと眠りました。
満足度は低い。
でもいいんだ、それで。

エピソードⅠ、ダース・モールがGood!!
ジョージ・ルーカスは歌舞伎役者を観てダース・モールの顔をインスパイアされたに相違ない。
ダース・モールがクワイガンジンを切り結ぶシーンはドキドキしてしまう。
悪役は強くなければ映えない典型。

だが、今作ではダースベイダーは登場しない。
何せ、彼はまだ子供だもの。
改めてスターウォーズってのはダースベイダーとルーク・スカイウォーカーの親子の物語なんだよな。
と、いうことに思い至った。
何かのニュースで読んだのだが、毎年1作づつ3D化していくんだそうで。
2013年はエピソードⅡをブツクサ言いながら観て、ダースベイダーが出ないスターウォーズなんて、マリームの入っていない珈琲みたいなもんだぜ、と罵りながらエントリーしていくような気がする。






2012年4月6日金曜日

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

原題「Extremely Loud and Incredibly Close」
邦題は原題を忠実に和訳しているに過ぎない
映画にせよ、音楽にせよ、21世紀に入ってからの作品を和訳することも少なくなっているし、まして気の利いた邦題は最早「トキ」並の稀な産物になっている。
例を出すと、2012年に他界したホイットニー・ヒューストンのデビューアルバムの原題は彼女の名「ホイットニー・ヒューストン」なのだが、邦題は「そよ風の贈り物」である。
白いハイレグ水着を来た黒人女性が浜辺で立っている絵であり、ともすれば気恥しさが先行して買いそびれそうなアルバムにこの名前をつけたことで手に取りやすかった人もいたことだろう。

で、今作の邦題について。
作品が言いたいテーマが掴めない邦題だからとても残念に思えて仕方がない。
うるさいのは「誰が」感じているのか?「何を」うるさいと感じているのか?
対象物が特定されていないから、非常にモヤモヤする邦題ではなかろうか?
私が高校生の頃に憧れた職業の一つが「通訳」
もし、この通訳の職に就いていればどういった邦題をつけたくなるのだろう?と考えながら帰りの電車の中にいた。
①「Are You There?」
②「父の愛、母の愛」
③「少年の鍵」
以上、3つの題が浮かんできた。
①について
この作品の要諦を成す台詞だ。この題が私にとってはシックリ来る。
私自身が男であり、父の息子であるから、目線が主人公と同じ感覚に捕われる。
この父親の台詞はとてもグサリと私の心をえぐってきた。
トムハンクス、さすがなり。
②について
一見主人公の目線での題なのだが、実は主人公を客観的に第三者から見た題名になっている。
それにこの題だと、真面目過ぎる印象になるかな。
③について
完全に第三者の目線であり、この作品の核心ではない「鍵」を題名に入れているため、この題名ではミスリードを招きそうだ。

さて、物語。
展開は父親が遺した鍵を起点とする。
その鍵がとても重要なのかと思いきや、実はそうではない。
従って何の鍵なのか明かさないままに終わるところが心憎い。

少年の心の再生に手を貸すのが祖母のアパートに住む間借り人こと、実は祖父であったり、Blackさんだったりする。
各エピソードにはミニマムな感動はあるが、大きな感動はなく。
こんな小さな感動のオンパレードを積み上げていくことでこの作品は完結させていくのだろうか?
起点が9・11とするあたりに米国の自己中心主義が垣間見えてきて視聴のベクトルが不愉快方面に向かっていたのだが、少年の心の再生に最も心を砕いていたのが、ダメ母だとばかり写っていた母親だったというカラクリが明かされた時点で、不愉快に向かっていたベクトルが一気呵成に感動へ振れていった。
そして私自身が17歳の頃に体験した父親の喪失したときの哀しみや辛さが襲ってきた。
いや、正確に言えば父親を喪失すると分かった時点から父親が亡くなるまでの期間(それは1週間程度だったが)の悲しみ、辛さ。
父親を喪失して既に四半世紀を経過しているからPTSDとか強いストレスへの耐性はできているから、鑑賞後にも苦しみとは無縁だった。
ただ父親を喪うと分かったときのアノ感覚が戻ってきたのには驚きもしたし、翻って言えばそれほど大きなパワーを秘めている作品だということ。
9.11という他者の悲しみがいつのまにか私の悲しみにつながっていく。

少年オスカーの目がとても印象に残る。
演技も素晴らしかったけれど、父親を失った少年の寂しげでいてピュアな目。
少年の目はこうも美しくなれるものなのだ。






2012年4月3日火曜日

J・エドガー

原題「J.Edgar」
FBIの創始者、名は「フーバー」のほうが通りがいい。
「J・エドガー」という名を見てもピンと来なかった。
どうせなら「フーバー」としたほうが万人受けするわかりやすさを持つのに、クリント・イーストウッドは偏屈者だよなぁ、と感じていた。
作品を鑑賞すればイーストウッドが偏屈者というのは若輩者の私の浅はかな考えであったことがよく分かる。
イーストウッドがこの人を通じて炙出したかったものは「公のフーバー」ではなく「私のJ・エドガー」の内面なんだということ。
FBIを創設したのは彼の義憤が発端ではなく、母親の言葉「お前は国で最も権力を持つ男になる」が発端になっているように私は受け止めた。
おそるべくは母親なり。

FBIにせよ、警察にせよ、取り締まる権力を保有する組織。
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」は冒頭に警察組織を築いた川路利良が登場する、そして彼が模範としたであろうJ・フーシェの考え方もこの小説で語られる。
この二人のことが、鑑賞中頭の片隅で駆け巡っていた。
秩序の維持、統制を図っていく組織、その組織のトップに君臨する人間は得てして、他者を疑ぐり深くなり、ありとあらゆる権力を欲し、その権力の維持に汲々とし、自身の地位を奪われることを怖れ、更なる権力を欲して自己肥大化していく。
そんな輪廻の中で人間らしさ、自分らしさを確立していくのは不可能に近いこと。
人生の晩秋にエドガーは相棒のトルソンからエドガーが為してきた功績は実はエドガーの妄想であったと告げられる。
どちらが真実だったのかイーストウッドは観客に提示しない。
彼の作品は中立を貫く。

私自身は、トルソンの言を信じてみたい。
エドガーは権力に呑み込まれ、ブラックホールに陥っていった。
自分が為してきたことが錯覚・妄想の類であるとすれば、それまで送ってきた人生を否定せざるを得ない。
そんな人生は究極の無意味な人生だと、背筋が凍る思いがする。

エドガーの関わってきた主要な事件は日本人はともかく母国アメリカでもアーカイブとして多くの米国人の忘却の彼方にあるのだろう。
例えば僕らが「義展ちゃん事件」や「トニー谷の子供誘拐事件」を聞いても過去に起きた出来事だと受け止めるように、この映画での「リンドバーグの子息誘拐殺人事件」だとか「キング牧師の公民権運動」は今を生きている米国人にとっては歴史の一部分でしかない。

「フォレスト・ガンプ」が米国の青春を陽気な側面で描いたものだと定義付ければ、「J・エドガー」は米国の青春を陰の側面から描いたものだと定義付けられないだろうか。
「開放」と「閉鎖」

幾人かの方のレヴューを読むと、事件のことに無知だったが故にあまり楽しめなかったという内容があるが、私はそうではないと感じる。
事件のことを描きたいのではなく、事件を解決したと自負する男の心を描きたいのだから、事件のことを予備知識で保有しておく必要はない。
例えば回顧録を作成する記者に向かって「当時誰もが知っている有名人は誰だか知っているか?」と訊ねるシーン
エドガーに答えは一人しかいない。「リンドバーグ」だけ。
記者に否応なくリンドバーグと答えさせたい、このあたりにエドガーの虚栄心を表現している。

母親とのダンス、トルソンとの殴り合い、JFKとモンローの情事の盗聴など、エドガーにはネガティブなイメージがつきまとっており、どうやらその真実性も高そうなのだが、ここでもイーストウッドは「そうだ」とも「そうではない」とも主張しない。
イーストウッドが焦点を当てたいのは「事実」ではなく「心」だから。
だからいつもイーストウッドの作品を鑑賞すると心にズキズキとしたイタミを感じさせられる。