原題「Extremely Loud and Incredibly Close」
邦題は原題を忠実に和訳しているに過ぎない映画にせよ、音楽にせよ、21世紀に入ってからの作品を和訳することも少なくなっているし、まして気の利いた邦題は最早「トキ」並の稀な産物になっている。
例を出すと、2012年に他界したホイットニー・ヒューストンのデビューアルバムの原題は彼女の名「ホイットニー・ヒューストン」なのだが、邦題は「そよ風の贈り物」である。
白いハイレグ水着を来た黒人女性が浜辺で立っている絵であり、ともすれば気恥しさが先行して買いそびれそうなアルバムにこの名前をつけたことで手に取りやすかった人もいたことだろう。
で、今作の邦題について。
作品が言いたいテーマが掴めない邦題だからとても残念に思えて仕方がない。
うるさいのは「誰が」感じているのか?「何を」うるさいと感じているのか?
対象物が特定されていないから、非常にモヤモヤする邦題ではなかろうか?
私が高校生の頃に憧れた職業の一つが「通訳」
もし、この通訳の職に就いていればどういった邦題をつけたくなるのだろう?と考えながら帰りの電車の中にいた。
①「Are You There?」
②「父の愛、母の愛」
③「少年の鍵」
以上、3つの題が浮かんできた。
①について
この作品の要諦を成す台詞だ。この題が私にとってはシックリ来る。
私自身が男であり、父の息子であるから、目線が主人公と同じ感覚に捕われる。
この父親の台詞はとてもグサリと私の心をえぐってきた。
トムハンクス、さすがなり。
②について
一見主人公の目線での題なのだが、実は主人公を客観的に第三者から見た題名になっている。
それにこの題だと、真面目過ぎる印象になるかな。
③について
完全に第三者の目線であり、この作品の核心ではない「鍵」を題名に入れているため、この題名ではミスリードを招きそうだ。
さて、物語。
展開は父親が遺した鍵を起点とする。
その鍵がとても重要なのかと思いきや、実はそうではない。
従って何の鍵なのか明かさないままに終わるところが心憎い。
少年の心の再生に手を貸すのが祖母のアパートに住む間借り人こと、実は祖父であったり、Blackさんだったりする。
各エピソードにはミニマムな感動はあるが、大きな感動はなく。
こんな小さな感動のオンパレードを積み上げていくことでこの作品は完結させていくのだろうか?
起点が9・11とするあたりに米国の自己中心主義が垣間見えてきて視聴のベクトルが不愉快方面に向かっていたのだが、少年の心の再生に最も心を砕いていたのが、ダメ母だとばかり写っていた母親だったというカラクリが明かされた時点で、不愉快に向かっていたベクトルが一気呵成に感動へ振れていった。
そして私自身が17歳の頃に体験した父親の喪失したときの哀しみや辛さが襲ってきた。
いや、正確に言えば父親を喪失すると分かった時点から父親が亡くなるまでの期間(それは1週間程度だったが)の悲しみ、辛さ。
父親を喪失して既に四半世紀を経過しているからPTSDとか強いストレスへの耐性はできているから、鑑賞後にも苦しみとは無縁だった。
ただ父親を喪うと分かったときのアノ感覚が戻ってきたのには驚きもしたし、翻って言えばそれほど大きなパワーを秘めている作品だということ。
9.11という他者の悲しみがいつのまにか私の悲しみにつながっていく。
少年オスカーの目がとても印象に残る。
演技も素晴らしかったけれど、父親を失った少年の寂しげでいてピュアな目。
少年の目はこうも美しくなれるものなのだ。
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