2019年1月31日木曜日

宮部みゆきの江戸怪談散歩

宮部みゆきの本には同じ本が異なる出版社から発売されることが時にある。
版権だとか著作権だと所案の事情があるんだろうけど。

彼女が書いてきた怪談といえば「幻色江戸ふしぎごよみ」と「本所深川七不思議」が二大巨頭の位置づけ。
その舞台となった各地を紹介する本。
この本を片手に江戸の街並みを思い描きながら散策するのも悪くないかも。
春めいてきたら、回向院とか富岡八幡宮。
おせんべいやお団子を口にしながら。

それから、あまり印象に残っていない「三島屋」シリーズはこの先もずっと続いていくんだと宣言されていらっしゃる。
丁寧に読み返してみようかな、まずは「おそろし」から。
この本に既に収納されている「曼殊沙華」を読んで、そう思った。

巻末に掲載されている岡本綺堂の「指輪一つ」と福澤徹三の「怪の再生」
前者は上手いな!と思いながら後者はリングシリーズのような現代ならではの電化製品をツールにして恐怖を演出している。
電化製品が正常に動かなくなる時、たいてい異音がする。
なんとなく「何かが悪さをしているんじゃない?」と思うし。

火天の城

おおよそ10年前に一度読んでいたこの本をまた借りて読み返した。
暦が18年から19年に変わるころ、「なんでまたこの本を読み返すかなあ」と。
他にすらすらと読みやすい本はいくらでもあるのに、と。

10年前に書き連ねていた自分の感想が今よりよほど大人な感想で驚いている。
岡部父子から学ぶ父から子へ継承すべき技術、加えて「魂」
子の成長とともに失う肉体の若さと継承への情熱。

読んでいるとどうしても映画の配役のことを思ってしまう。
10年ほど前の映画はなかったことにして、もういちど原作に忠実に映像化してくれないものだろうか。
安土城づくりの映像はCGでじゅうぶん。
観たいのは岡部父子。

勝手に配役する。
父、椎名桔平
息子、柳楽優弥

椎名桔平は信長を演じていたんだけど、岡部又右衛門が似合うような年齢になってきたように思えて。
その他いろんな岡部組や木曾のひとびとなど、「アウトレイジ」の出演者。
そうなると北野武が監督になるんだけれど。
ああ、あんな感じの荒くれものたちの物語でいいのかもしれない。



2019年1月30日水曜日

西郷札

清張フェスティバル第3弾。笑

18年はよく清張の作品を読みふけったなあ。
この作品が18年最後に読んだ本。
18年の大河ドラマは「西郷どん」、それに因んだ作品を読みたかった。
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」の読み返しでもいいし、海音寺潮五郎でもいいかなと。
その矢先にこの本を見つけてしまった。
当初の目的は大河で書かれていた奄美大島への遠島時代のことを突っ込んだ内容で書かれた本だったんだが。

この西郷札(”さつ”)、西郷さんは全く登場して来ない。
「なんだ、ちょっとがっかり」と思いながら読み進めていくと。
一回目ではわからかったが、読み返してみてよく理解できた。
なんなの、これ。「最後の策」ってどう考えても...。やるっきゃない!だよなあ。
ひとを陥れるようなことしちゃいかんな、と自省もするし、往時にその経験がある身としては物悲しい物語。

「くるま宿」、爽快な作品。
このような人生を歩めたらどんなに誇り高い人生だろう。
清貧とはこういうこと。

「梟示抄」、江藤新平のドキュメント。
四国の山や川をさまよい歩く逃避行が生々しい。

「しゅしゅう吟」(しゅう、”口へんに秋”)
肥前佐賀藩のとある足軽に生まれたばかりに人生が狂った男の物語
語弊があるな、足軽に生まれたからではなく、その出自にひがんで太陽の下を歩もうとしなかった男。

「戦国権謀」本田正純の物語。家康の盟友、正信の息子の末路
本多家っていつの間にか消えているなあと思っていたけれど、ひとを陥れるような輩はいつかその報いを受けるということか。

「恋情」「噂始末」
この二編、読んでいてやるせなかった。
主人公には何の罪はおろか否はないのに...。

西郷さんのことを知りたいと思って手に取った本なのに、戦国や幕末の歴史知識が増えた。
加えて、切なさと愛しさと心強さも(篠原涼子には「白梅の香」に出てくる謎の女を演じてもらいたい)

不安な演奏

松本清張の長編作品では地味な作品のほうかな。
ラブホテルの盗聴テープを聞かせては小銭を稼ぐライターのスケベ心を起点として大物政治家の選挙違反へと糸のようにスーーーーっと繋がっていく筋書きには脱帽。
そして最後にとんでもない立場の逆転。
湯布院の宿のくだり(この時代、湯布院はしがない田舎温泉宿ってのが新鮮)にはゾクリ。

素材を現代に置き換えればじゅうぶんに今でも面白い映像化作品ができあがるはず。
盗聴テープを盗聴動画に。
電車回数券は交通系電子マネーに。
生命保険会社はそのままでも、或いはいつの時代も不変な食事の店でも。
(考えてみたら清張の時代にはフードチェーン店も皆無に近いのでは?)

この作品がいまひとつ地味な印象に陥ってしまうのは
映画監督の本編からの途中降板とでもいうべきフェードアウト感。
それからバディムービーのような「共同推理加担者」、葉山良太の登場が謎めいているわりには「...。」といったフェードアウト感。
二人のフェードアウト感が地味な印象に陥ってしまう要因かな。

地域も新潟柏崎、三重尾鷲、山梨小淵沢と現在でも「ビミョー」(住んでいるかたごめんなさい!)な中途半端な知名度の土地というのもある、のかも。

事件の発展はどんどん大きくなっていくのに、主人公の平助が等身大のままということもあるかな。

あ、いや。けなしているように読めると申し訳ないのだけれど。
そのあたりを昇華させてくれたら、抜群に面白い映像化作品になります。

憎悪の依頼

このBlogを中断している間、何をしていたかというと。
御多分に漏れず、SNS、facebookにTwitterなどなど。
それからスマートフォン向けゲーム。
最早中毒だと指摘されている始末。
年が明けた時点で、中毒から抜け出してスマートフォン依存症から脱却すべく、習慣を改めようと一念発起して再開している。

ところで、このSNN・スマートフォン三昧の生活の中でも辛うじて読書をする習慣はわずかに残っていて(読む量はものすごく落ちていたが)
で、この期間に「すごいな!この作者!」と思ったのが松本清張。

長編は既に数冊読み終えている「砂の器」「点と線」「Dの複合」「日本の黒い霧」「ゼロの焦点」
どれも推理小説としても歴史考証としても「すげー」と思いながら読みふけった。

さて、ようやく今回の「憎悪の依頼」
松本清張の短編も「すげー」
タイトルの「憎悪の依頼」は結末は推測はたやすいけれど、歪んだ欲望のなれの果てがやるせない。

「女囚」、結末の推測をドンガラガッタンと覆された。
美談になるのかと思いきや結末の数ページで奈落の底に叩き落された気分がした。
加害者側にいくら酌量すべき事情があるとしても、殺人にはそれだけの代償を伴うんだなとズキンと痛む作品

「絵葉書の少女」「大臣の恋」
こちらの作品に登場する女性の末路が哀れ。
冒頭にダラダラと述べてきた長編小説でも清張が書く女性は哀れなひとが多い。
清張の生い立ちによるものなのか、戦後昭和の時代風潮なのか。
21世紀新しい元号になろうとしている今、このような女性を読むのは過去の産物なのだろうか。



小暮写真館(上・下)

宮部みゆきの現代ものは私にとってはグッと引き込まれるものとそうではないものとの落差が激しい。

この本は(めちゃくちゃ尊大な言い方だけれど)引き込まれにくいほうのもの。

「模倣犯」のようなセンセーショナルで悪意に満ちた人物を炙り出す書き手。
そんな宮部みゆきもその世界に居続けると精神的にマイッてしまうんだろうな。
確か、あとがきにもそう書かれていたような。
不動産屋夫妻とか、高校の鉄道部連中とか、親友のテンコのようなひとは私たちの身近にいるような感覚で書かれているけれど、現実はそんなひとに巡り合うことは幸運なひとにしか訪れないだろう。

主人公のハナちゃんのようなピュアな高校生が今の世の中にどれほどいるのか?
片手に余るほどしかいなんじゃないかと思える一方、高校生のころにしか抱けないストレートでイノセントな感情は心地よいもの。

ハナちゃんと柿元順子のお互いの気持ちは「恋」と呼ぶには淡く。
「友情」と呼ぶにはふたりの心は近く。
そんな女性の存在っていいよなあ、と。
自分が高校生くらいのころにこんな不思議な友情恋愛をしていたらどうなったかな、と空想してみた。
結局再会することもなく、いつのまにか忘れていくんだろう。
この本の結末もそのように結んでいるし、お互いがそれぞれの鉄道を選び、駅に立ったり降りたりを繰り返していくんだろう。。

この本と平行するようなタイミングで重松清の「疾走」を読んでいたので、頭のなかがあっちこっちと善意と悪意を行き来するのが激しかった。
何せあちらとこちらでは主人公が対極にある...。




2019年1月29日火曜日

見張り台からずっと

そういえば「見張り台からずっと」、エリック・クラプトンの曲にあったよなあと。
記録を残すにあたりWikipediaで調べたらボブ・ディラン。
ああ、わたしの洋楽知識ってそんなレベル...。笑

このタイトルを見たとき、洋楽の曲のタイトルということは知っていたんだけれど、ひとつの舞台(街とか)で見張り台のような全体を見回しながら善意の持ち主が外部から入り込む「悪意」から守るような物語なのかなあと思っていた。
例えばパソコンに入ってくるウイルスの侵入を防ぐウイルスバスターのような男性の物語。
例えば森の静寂を守るようなガーディアン的なひとの物語。
そのような聖者が輝くような物語ではなかった。
くどいが初めての重松清が「くちぶえ番長」だった私には同じ作者なの?と面食らうばかり。

作家になって駆け出しのころに執筆されたとのことで、重松清本来の書きたいものは「カラス」のように世間でつまはじきになっても尚そこで踏みとどまざるを得ないような境遇のひとを(見張り塔のような)全体を見回せるところから中立的な目線で事実(重松清のフィクションだけど、事実のように感じてくる)を綴っている。
あとがきで書かれれているので初めて知った、重松清、作家になる以前はフリーライター、ゴーストライターだったんだと。
そのころかにはたくさんの事件や事故を見聞きしてきただろうし、事件前夜の事情も事件後の顛末も。酸いも甘いもかみ分けて(たいていが酸いほうだろうけど)蓄積された記憶や記録から物語を紡いでいるんだろうなあ。

今作3編のうちもっとも背筋がゾクッとしたのは「扉を開けて」
一見開放的なタイトルだけれど、この扉、開けてはいけない...。
実は読み返すだけの気力が湧いてこない。


2019年1月28日月曜日

不安な童話

数か月前に読み終えていた作品。
さて、この本の感想を記録しとこうと思ってキーボードの前に座ってみたものの。
「サクサクと読めた」ことしか記憶がなかった。

そこでパラパラと頁を斜め読みしてもさっぱり内容を思い出せなかった作品。
仕方がないので、あらためて初めから読み直した。
登場人物の掘り下げ方に原因があるような気がする。
主人公と高槻倫子しか記憶になく、ほかの登場人物は「あれ?こんなひといたっけ?」というひとばかり。
人物の特徴は書かれているんだけれど(伊藤さんとか十詩子さんとか...。再々読から一日しか経過していないのに、もう苗字とか名前とかを忘れている)そのひとが何を考えたり感じたりしているのか?その感情の動きが読み取りにくいのかなあ。

恩田陸の作品はこれで三冊目。
どの作品もハッキリとした結末がなくてとても「もやもや」した気分になる。
この「不安な童話」も結末がモヤっとしている。

しかし、この再再読でフッとプロローグと結末を読んでみて気づく。
本編は事件の犯人を探すこと、知ることに読者の集中を向けているが。
肝心な輪廻転生のことをサラリと匂わせて物語を閉じている。
生まれ変わりなのか?
それとも記憶は伝染していくのか?
どっちなんだ??????

クリード2 炎の宿敵

随分と長いこと映画のこと書いていなかった。
できれば後日の自分のために書き残しておきたいと思って再開。

映画を観た以上は、内容に触れざるを得ない。
内容を知りたくない方はお読みにならないように。

19年、1作目
クリード2
邦題の副タイトル「炎の宿敵」は4の「炎の友情」を受け継いだ作品とアピール。
館内は白髪や輝く頭のひとたちが多かった。
わたしもそのひとり。
中には若者もチラホラ、黒人の若者も2名くらい見かけた。
若者はある程度ロッキーシリーズのことを知っていて見に来たのだろうか。

今作、つまるところ「家族のありよう」を問いかけてきた作品だと感じている。
クリードには結婚、子どもの誕生。
父はJ・ブラウンのLIVING IN AMERICAで入場してきたけれど、息子クリードは妻ビアンカを先頭にして彼女の歌と共に入場してくる。
(ちょっとだけ4を懐かしみたいわたしはLIVING---で入場してこないかなあと期待したんだけどね)
誕生した娘も妻と同じハンデがあるけれど、おばあちゃんだったかな「彼女にはそれが当たり前なのよ」というセリフが沁みたなあ。

ロッキー、壊れかけた息子との絆を繕っていく姿。
シーンでは一度しかなかったけれど、彼は毎日、妻エイドリアンの墓前に椅子を置いて語りかけているんだろうなあ。
ああ、ロッキーは妻の墓前には赴くがアポロの墓前には行っていない。
クリード家のことなんだからクリードが行けばいいのさ、と考えているんだろうな。

普段のロッキーはコンバースのスニーカーで街を闊歩している。
革靴など履かず、髪の手入れもしない。
老いたロッキーはこれから先どうなるんろうとチラリと頭をよぎる。

そしてドラゴ。
この作品で涙が出たシーンはひとつだけ。
父ドラゴがリングにタオルを投げ込んだシーン。
ポロポロと泣いてしまった。
敗戦が決定的になり、ボロボロに負けてしまう息子のためにドラゴはタオルを投入する。
それでまでのトレーニングでの「走れと言ったら走れ」と老いた自分は車に乗って息子を追い立ていていく父が、かつて自分が味わった敗戦のショックで息子が廃人にならないようにと願って投げた(と、わたしは感じている)
その後のトレーニングに励むドラゴ父子はふたりとも自分の脚で走っている。
そこに感激した。
もう一度一からやり直していこう。
国家に対する恨みとか母親への慕情を断ち切って。
自分たちが闘う理由は自分たちのためにあるんだ、というシーンではなかったか。

クリードとドラゴはもう一度再戦するんだろうか?
シルベスター・スタローンはどうこの物語を紡いでいくのだろう。
若いふたりに再戦してほしいけれど、それぞれの道を歩いていくのも悪くない脚本だと感じてる。
次作があるとすればロッキーとドラゴの物語も少しだけ続きを期待したいんだけど。
ドラゴとロッキーも30年以上を経過し、お互いのネガティブな感情から抜け出せたらなあ。

最後にこの映画はブラックミュージックがスクリーンに流れる。
(わたしはちょっとこの手の音楽は苦手)
これはクリードの物語なんだからブラックミュージックで。
当たり前だけど、そういう気の利かせ方がシルベスター・スタローンなんだろうなあと。
いや、実は音楽は門外漢だから好きにしていいよ!って言ったのかもな。笑

2019年1月26日土曜日

雷神の筒

尾張の一守護時代から石山本願寺攻めまでの物語。
主人公と信長以外にも魅力的な人物が多数登場してくるけれど、今一つ彼らの特徴が伝わって来ず、輝きが薄い。
特にそれを感じたのが雑賀孫市と王直。

司馬遼太郎の作品に「十一番目の志士」があり、主人公は架空の人物、天堂晋助。
彼が幕末の至る所に登場し、主要な人物と関わっていく物語。
これが幕末オタクの私にはあまり面白く感じなかった。
なんでだろう?と原因を考えてみたとき、あまりに多くのものやひとを盛り込んでいくと印象が薄くなるんではないか、と感じたことを思い出した。

山本兼一は既に鬼籍に入られている。
だから、天国にいる山本先生に伝えたい。

いっそのこと短編にしよう。
舞台設定は信長が尾張の派遣争いを繰り広げている頃。
橋本一巴がどのようにして鉄砲の価値を見出し、信長に説いて、戦で試行錯誤を繰り返す。
技術者と殿様の命に対する考え方や価値の相違点について炙り出す。
新しい技術にのめりこんでいく橋本一巴
新しい武器により制覇への思いを強くしていく信長
その対比を語ってくれたらなあ。

信長死すべし

2020年の大河ドラマは「麒麟が来る」明智光秀を主人公にする。
このニュースを見たときの衝撃はかなりなものだった。
それは例えば大阪で「もんじゃ焼き」のお店が繁盛している光景を目の当たりにしたような。
つまるところ、主人公に据えるにはあまりに「信じられない」「ありえない」人物だから。
将来のことを考えずに主人に反逆し「三日天下」で落命した官僚武将が明智光秀の日本人のプロトタイプ。
ニッポンの若者が目指す人物像でもないし、ニッポンのお父さんが憧れる上司でもない。
彼の政治能力や治世への情熱や貢献した事実はもっと日の目を浴びていいんだろうな。
あ、この小説ではその面は語られていないから、「麒麟が来る」の原作に期待する。

この「信長死すべし」、本能寺の変を朝廷黒幕説で書き進められている。
先年、本能寺の変の動機の大きなものとして四国の長宗我部攻めに光秀が苦悩した末の反乱だという史料が表れた。
その史料だけにフォーカスすればこの小説は「フェイクストーリー」と断じることもできる。
もちろん、そんなことは思わない。
ありきたりなことをを書くが、この小説はとても面白かった。
他にもたくさん書かれた歴史素材としての本能寺の変を朝廷と風流人たちの関わりから紡いでいく視点とその綿密な構成と溢れる知識!
もうこれが真実なんじゃ?と思いながら読み進めた。

里村紹巴。連歌師の生い立ちと地位の低さ。
このひとのことを深く知ることができた。

今から先も本能寺の変に関わる史料は出てくるだろうし、小説にも執筆されていくことだろう。
それほど本能寺の変って想像力を掻き立てられるし、謎の多い出来事。



2019年1月23日水曜日

悪魔が来りて笛を吹く

わたし、小学生のころ「昭和5*年」横溝正史原作の推理小説が続々と映画化された。
「八つ墓村」「犬神家の一族」そしてこの「悪魔が来りて笛を吹く」、あと「病院坂の縛り首」だっけ。
前者2作は有名なシーンには強烈な記憶。
湖面に突き刺したように足が二つ伸びている
真っ白い仮面の男とか(助清デスネ)

今にして思う、あのころは高度経済成長期のピークを越え、昭和時代が安定。
敗戦によるショッキングな出来事や戦前のころを懐かしむ世代(明治生まれの頑固爺もそこかしこにまだ身近にいた)にとって「あの頃、あれはあれでよかった」という懐古主義な映画がたくさん製作されたんだろうと。

「悪魔が来りて笛を吹く」を読もうを思い立ったのは、NHKのBS放送でリブートされたこの作品を途中まで観たから、というのが直接のきっかけ。
最後まで観れなかったからこそ、気になって手に取った。

それにしても、横溝正史が書くこのどろどろとした人間関係の阿鼻叫喚ぶりには言葉もない。
犯人が何故殺そうとしたのかという動機が、、、やるせなさすぎる。

この小説を読破したのちに、再放送で全部観れたんだが。
NHKだからということもあるのだろう、犯人の心を救済しようとした構成にそれでは犯行に至るほうがおかしい、と思わざるを得ない「???」な結末に思えた。

この小説で一番気持ち悪いのは「上流階級に巣食う虚栄心」
敗戦後しばらくは貴族、華族を言われたひとびとが街を闊歩し、敬われていた時代だからこそこういう物語を紡ぐことができたんだろうと思って読んでいたけれど。
今だって人の上に立つような世界観のひとびとも(〇〇族とか言われるひとびとや、仮想通貨で一攫千金を得たりと、つまるところ身の丈を知らないひとびと)似たような欲望の権化になっていくんじゃないかと。
いつかわたしが老いて、魂を天に返還するころ、わたしの孫の世代が「AI草創期のころにはあたりまえだったことって、私たちにはおぞましくて気持ち悪い」と感じながら読むような。
その時代にはガソリンスタンドとかレンタルショップとかが前時代を表すキースポットとして登場するんだろうな。
あー、なんかもっとインスピレーションがあればへっぽこ推理小説が書けるのになあ!

さて次に横溝正史を読むとすれば、何を手に取ろう。

2019年1月22日火曜日

疾走(下)

上巻を読んでいる時点で、頭の中心ではわかっていた。
『シュウジは下巻になっても境遇が上向くことはないんだろう』と。

「くちぶえ番長」とは違うんだ、人と人はいつか、どこかで善意で繋がることができるなんてことは夢物語なんだと。
それでもなお、その善意に満ちたひとが現れてくるんだと信じていた。
神父さんは善意に満ちたひとだけど、彼はシュウジに経済的援助をすることもないし、精神的支柱のような存在でもない。
シュウジに救いの手を差し伸べる存在はエリなんだろうけど、彼女と繋がることはなさげだなあ、と思いながら読む。

下巻でもっとも強烈だったのは新田の登場。
彼の圧倒的なバイオレンスとセクシャル、読んでいるとその情景が目に浮かびとても気持ち悪く、自分の心の居心地も悪い。
なのに読み進めてしまう筆の巧みさ。

シュウジ、15歳くらい。
自分の15歳のころと重ね合わせてみると、ツテもない大都会でたった一人で生きていこうとする姿に加えてあまりにも悪意に満ちたタフな現実が相まって読んでいて涙が流れるほど。
もう止めてくれ、と。

そしてエピローグ。
上巻から書かれてきた幾つもの伏線たちが回収されて救いのある結末、それはそうなんだろう。
作者にも止めることができない、タイトルどおり作者もシュウジと共に疾走してきたのだろうから、この結末にならざるを得なかったのだろう。

でも。
あまりにこの結末は悲しい。

疾走(上)

重松清の小説、例えば「くちぶえ番長」のような中学生の教科書に登場するお手本のような味わいの小説を数冊読んできている。

そんななかでこの「疾走」を手に取る。
発売当時、駅ナカの書店で平積みされ、表紙に描かれる「黒い背景に叫ぶようなひと」
随分と怖い表紙だから怖い小説なんだろうと思って購入に至らず。

その疾走を読み終えて
「くちぶえ番長」と「疾走」の作者が同じひとだとはどうしても信じられない。
この上巻、主人公の環境は日に日に劣化していく。
「くちぶえ番長」を書いた作者なら、きっと何かがきっかけでシュウジには誰かから具体的な救いの手が差し伸べられていくだろう、と。
それは、進学費用の援助するひとの登場、孤立する環境を改善する熱血教師の登場、心を満たすような愛を与えてくれるひとの登場。
そういったひとがきっと、という期待は上巻では実現されない。

下巻ではシュウジや彼の周りが今よりも上向いていくのだろうと思いながら読み進めた

2019年1月21日月曜日

ユージニア

わたしの初「恩田陸」作品です。
奇しくも同じころ、松本清張の「日本の黒い霧」を読み、「帝銀事件」の概要を知ったばかりだった。
そのおかげでこの物語の骨格をなす一家殺人事件のくだりをすんなりと読むことができた
(こんな事件をスルっと読めるのはどうかと思うが)

「ユージニア」ってのは「ユートピア」と「何か」を掛け合わせた造語なんだろうがその「何か」がわからない。
作者だってなんとなく言葉の響きだけで決めているだけなのかもしれないけれど。
推理小説と呼ぶには結末で明確な犯行者を示すことがないし。
ファンタジー小説と呼ぶには犯行の描き方が事件ルポみたいだし。
とても不思議な感覚に陥る小説でした。

<勝手な推理>
犯行者の孤独な青年の意識に母親が滑り込み、そこに娘の意識が呼応した
というのがわたしの見立てです。

2019年1月20日日曜日

1985年の奇跡

1985年、わたし17歳。
部活にしろ、勉強にしろ、中途半端で未来の自分が何をしたいのか、どうなりたいのか全く考えることはせず、短絡的に自分はどうなっているんだろう?と思いながら過ごしていた日々。
このころ画期的だったのが「夕焼けニャンニャン」それから「ビデオ」
この2つがそろえらる環境にある高校生(正確には家庭)はそんなに多くはなかった。

その1985年が冠についている本、「どれどれ」と手に取ってみた。
奇跡は主人公たちの高校が甲子園に出場するまでの物語を指すわけではないんだろうと推測しながら。

おニャン子の誰が好きとか嫌いとかから始まるこの物語、もっと軽いノリの内容なのかと思いきや。
この1985年ですら、いや、こういった時代だからこそ当事者にとって深刻なLGBT問題に直面するとは思わなかった。


2019年1月17日木曜日

阪急電車

数年前まで大阪市内に暮らしていた。
一度だけ「仁川」までは行ったことがある、もちろん競馬で。
福永が3着に入線した桜花賞だったことしか覚えてないけれど。

当時は、阪急京都線沿線に住んでおり、映画が公開されたときから「なんとはなしに」気になっていた作品。
ようやくこの本を読んで、多くのひとが感じるように「あのとき読んでいれば」と微かに悔やんでいる。

今は関東のド田舎県に住んでおり、私鉄に乗ることがない
都内に行っても乗るのは山手線や地下鉄ばかりで地上の風景を眺めることが稀だ。
とはいえ、スマートフォンでゲームばかりしているんだけれど。。。
加えて首都で移動するひとびとは常に気ぜわしく心にゆとりを感じる場面がない。

でも。
移動するひとびとにはそれぞれの人生があり、どこかで交差しているのかもしれない。
或いはふとしたことがきっかけで交差していくのかもしれない。
そういうことで取り戻せる「心の穏やかで嫋やかな」有り様を感じることができた一冊だった。

有川浩、「ありかわ ひろし」という男性作家と思っていたら「ありかわ ひろ」という女性作家なんだとは知らなんだ。
小学生女性でも云々、成金ママ友との人間関係とか女性らしい目線が幾つもありようやく「ん、これって女性作家では?」と。
反対に男性の描き方が理想的過ぎるなあ、高校生女子の彼氏とか。
いや、でも最近の若い男性は草食系が多いし、性への欲望よりもいたわりの心が強いから彼のような振る舞いができる男性に違和感を感じない男性読者が多数派なのかな。


2019年1月16日水曜日

アクロイド殺し

「読んで最後に犯人がわかった時点、あなたはきっと腹を立てる!」と伴侶に言われた本。
その時点で犯人は自分が推理する人物ではないんだろうな、というヒントのような暗示を手掛かりにしながら読み進めた。

推理小説で真犯人を当てることが滅多にないわたしがピタリ賞。
わたし、相当ひねくれものなんだけれど、きっとアガサクリスティーもかなりのひねくれものだったんだろうなあ。

ピタリ賞だったことを伴侶に告げると「え、まさか!本当に?」と驚かれた次第。

2018年の4月にフジテレビ系列で三谷幸喜により「黒井戸殺し」としてドラマ化されている。
放映前は観ようとしていたのだが、忘れてしまい、悔いが残っている。

2019年1月15日火曜日

清須会議

映画化もされ、大ヒットしました。
もちろん当時は公開直後にいそいそと鑑賞したことを覚えています。

表紙には武将が携帯電話を耳にしながら通話していたり、新聞紙を脇に置いている姿。
この表紙を見たとき
「現代にタイムワープしてきた秀吉や勝家たちが情報端末を駆使しながら信長の後継者争いを繰り広げる」小説だと思いました。
が。そんなことはなく、そのままの時代で「保守派の勝家」VS「タカ派の秀吉」の図式。
口語体の文体で「現代語訳」と謳うなじみ深い言葉遣いのおかげでサクサクと読み進められる。
それだけに、ところどころに読み取れるお市の方の恨み節が強烈。

後世のわたしたちは秀吉が勝家を賤ヶ岳の戦で秀吉が勝者となり、栄華を究めていくことを知っている。
しかし、秀吉が三法師を担ぎ出して覇道への布石を打った清須会議の意義はこれまでの多くの小説ではスルーするか、紹介程度にしか書かれていない。

この小説では丹羽長秀が主役的位置づけだと読んだ。
こういう二番手、三番手の人物にスポットライトを当てて大河の主役の人物のどす黒さを紡ぎだす、三谷幸喜の手腕や恐るべし。

出だしの信長の自害でニヤッとさせらられ
序盤でのドタバタ劇で引き込まれ
中盤のイノシシのコメントに呵々大笑させられ
終盤の勝家の独白に涙させられ

映画と小説は別の作品と思ったほうがいい。
あなたがどちらを先に目にするにせよ。