2012年10月31日水曜日

新・平家物語 やしまの巻


以前に読んだときも感じた、この巻は難しい
特に田邊の湛僧が平家から源氏に鞍替えするに至るまでのところが何度も読んでみても「?」がつく。
文章ではなく、映像で見れば随分と分かるんだろうけれど。

平大納言こと平時忠の印象が大きく方向転換する。
「平家にあらずんば人にあらず」の言は時忠の口から出たものだという説もあり、時忠のイメージはダーティなもののほうが強い。
しかし、この小説での時忠は年を重ねるに連れて大きく成長し、懐の深い人物になっている。
一ノ谷で敗北した平家は「死に体」で、屋島で勢いを得て、歴史は屋島の合戦でも敗北するのだけれども、仮に屋島で平家が勝利を収めることがでkたとしても時勢は源氏に傾き、いずれ平家は滅びていく運命にある。
平家の未来・将来をクールに客観的に分析して、ここで和睦をなし、かつての栄華を諦めて一族の名を残そうとしている。



【収録】
熊野の海党
鮫女のふるさと
買い占め
田辺の鯨
小王国
さくらノ局
引き綱
はだか密談
路傍の修験者
神文
紅白鶏合わせ
策と策
呉越の会
肉迫
歓喜天
船のない漁夫
船集い
那須の兄弟
先駆の人びと
第一語
非奇蹟
死中・滑稽あり
春眠
草の実仕事
大坂越え
野馬隊
やしま世帯
神ならぬ身
弧父
てんぐるま
女院のおん肌
群蝶おののく
虚相実想
総門落し
平大納言の和策
荒公達
異端の道
二日待ち
そこ退き候え
継信の死・菊王の死
麻鳥見舞
日の扇



ボーン・レガシー

原題「THE BOURNE LEGACY」

「ボーン」シリーズ未鑑賞の私にしてみれば、鑑賞に赴くべきか自制しておくべきか迷った作品
街のど真ん中で行われた商談会の受付業務応援を終えて、勢いで映画館に赴き、すぐ観れる作品がこれだった。
とは言いながら、心のどこかではアクションものを希求していた。
何せ直前まで行なって受付業務は「応援」に過ぎないにも関わらず、主催部門はあたかも私の主体業務のように扱っている境遇に心が噴火していたのだから。

知っているともっと楽しめるんだろうが、前三部作の内容を知らなくても充分に楽しめた。
とことどころに「ボーン」の名前が出てくるし、ボーンがしている内容と時を同じくしてこの作品の主人公「アーロン」はこんな境遇に陥っている、という楽しみ方は前シリーズを鑑賞している人の特権。

ラストでのモーターバイクでのチェイス劇は文句なしにハラハラドキドキもの、心臓に悪いってば!!
ところどころ冗長な場面があり、クドい印象を受けた。
コンパクトに纏めてギュッと絞れば緊張感も増すのになぁ、と感じた場面が幾つかあった。

前シリーズが三部作だったのだから、これも次作があるんだろう。
乗りかかった船よろしく次作も鑑賞に赴きたい。
そのとき、商談会の応援で心がささくれていなければいいのだが(苦笑)

ジェレミー・レナー
ミッション・インポッシブル・ゴーストプロトコル、そして、アベンジャーズと彼をスクリーンで観る機会に恵まれた。
アベンジャーズのときの「ホークアイ」で完全に個体認識。
今作では前半での髭面がこれまでの雰囲気とは異なった、かなりワイルドな雰囲気を醸し出している。

レイチェル・ワイズ
どうもこの女優さんは私のタイプではない。
なんでだろ?
口元が好みではない

エドワード・ノートン
いつ見ても悪人の顔(笑)


2012年10月29日月曜日

最強の二人

原題「Intouchables」

邦題のつけ方に好感を抱く。
フィジカル的要素が強い映画かと思わせておいて、真逆に位置づけされてしまうような作品。

日を追うごとに動員数が伸びる一方で、映画サイトのニュースでは満員になることも珍しくないとの報もあるほど。

突き詰めて言ってしまえば「障がい者と介護者の物語」
ただ、それだけのことである。
だが、実に小気味よい。
音楽もそう、ユーモア(ちょっと毒気が強いけど)もそう、色気もそう。

実話だという。
でも、私にとっては実話でもフィクションでもどちらでもいい。

人間と人間の関わり合いが薄くなっている時代
上司は隣に座る部下にメールで指示を出す。
部署と部署の連携は隣の席でもメールで行われる。
Facebookを始めとしてSNSで繋がることで安心する人々が多くなりつつある。
ITのほうが効率がいいというのはある一面正しい。
だけど、この映画を観て、メールでのコミュニケーションは成り立たない、ITを駆使することが効率化に繋がるなんてことは妄念だと思い始めている。

人は、目と目と合わせながら話をしないと本当の思いは伝えられない、伝わっていかない。
障がい者が求めているものは何か?それは会話をしなければ通じ合えない。
スマートフォンやタブレットのアプリがどんなに進化しようが、「目は口ほどに物を言う」という諺が示すように。
介護者(ドリス)が玄人ではなく、素人だからこそ、障がい者(フィリップ)は心と心が触れ合う会話が実現した、それはどんなに行き届いたプロフェッショナルの実務としての介護よりも心地よかったのだろう。

また、障がい者に対して障がいの事実を突きつけることはタブー視されがちだが、そこを避けずに障がいの事実について健常者も向き合っていくことも大切なこと。
公平ってそういうことだと感じた。





2012年10月28日日曜日

トゥナイト

「Tonight」
初出は「VISITORS」

1984年、久々のシングルカット曲
佐野元春が生活したニューヨークをスケッチして、詩に換えて、メロディをつけてファンに送ってくれた曲
あれから四半世紀を過ぎても尚この曲を聴き続けている。
普遍的な詩でもあるし、NYCは今のところ世界の中で普遍的な価値を持続し続けている。

本日、理不尽な理由による業務のため、朝早くから1.5時間もかかるような場所へ赴き、怠けることなく仕事をこなしてきた。

行きは電車のみの移動
帰りはバスと電車にて移動
バスに乗って駅へ向かう。
秋の空は暮れるのが早く、駅へ向かうその空は既に黒い。
見慣れぬ街をバスで移動すると、この曲が頭の中で鳴り出す。

この詩の「君」は2つ存在する
1つは「NYC」都市としての「君」
♪ニューヨーク♪と結ぶセンテンスの前で書いている「君」は「NYC」

もう1つは「人(ファン)」佐野元春からファンへの「君」
♪君の身代わりにその深い悲しみを背負うことはできないけれど♪
の「君」は「人」

機会があれば、意識的にこのセンテンスを使ってみたいと考えている。



2012年10月27日土曜日

バルセロナの夜

「Barcelona Night」
初出は「Heart Beat」

10月4週目の元春レイディオショーは「夜」の歌特集
佐野元春本人が驚いていたように、佐野元春の詩には「夜」を扱った詩が圧倒的に多い。
この曲は残念ながらオンエアされなかった。
他にも「夜」を扱った素晴らしい曲があるという証拠。

この曲は「主観」と「客観」が混合されて出来上がっている曲
出だしは「君の夢を見る」と主観
サビでは「二人は○○の違いで」と客観
主観と客観が同居しているように読める詩もある
「バルセロナの夜は君を選んだのさ」

夜とは一日を振り返る時間帯。
振り返ると、幾つもの自己を発見する。
反省したり、分析したり、投影したり、再認識したり。
心も体もくたびれているにも関わらず、頭のどこかでそんなことへ思い、考えを巡らせている(人は多いのではなかろうか)

主観と客観がグチャグチャになりながらも、それでも「愛している気持ちはいつも変わらない」と結ぶ。
それは、とても大切なこと。
それは、とても難しいこと。
それは、とても嬉しいこと。

ほほえみの「か」げりを♪の「か」の発音が好きだ
愛してる気持ちはいつも変わらない♪の後に続くLalala♪のセルフコーラスが好きだ。



2012年10月23日火曜日

新・平家物語 千手の巻


一ノ谷の戦いで捕虜になった重衡の末路
そして
義経の政略結婚
この2つがこの巻の核
前者は、先の大戦で誤った(偏った)教えの下に育てられた世代(僕らの祖父らの世代)の生き残った人たちにとって「生きる」意義と「死す」意義を同時に問いかけていると感じる
後者は、昭和初期まではごく当たり前な事象であった「本人の意思の外で決められた結婚」でも幸せになれる夫婦もいるということ。
「後付けでも愛は生まれる」ということ
まぁ、これには静という存在を愛人と見るか?それとも夫人と同列に見るか?
と、読み手の意識に負うところが大きいんだろうけれど。


「本文より」のコーナー
頼朝と清盛の違いの一面
清盛は保守派、頼朝はタカ派とでも言えばいいのだろうか

清盛のやりくちは朝廷と同化し公卿勢力をも一門で左右しようとする風だった
(12巻111頁)

義経と静の関係を愛だという
このあたりの描写は男女では相違点も出てくるのだろう。
男にとって静は理想の女の存在として映るだろうし、女にとっては男の都合のいい女性の虚像だと映る人が多いのではなかろうか。
ただ、それは一夫一妻が染み込んだモラルの元に生きている現代の私たちの考えであろう。
この時代には充分に通用する考えだったのだろう。
独占欲とは別として。


静とかれとはもう単なる恋は超えていた
(12巻120頁)


人気者と有頂天という言葉について考えてみるのに適した文章

人気の怖さや軽薄さ、そして人気というもののいたずらっぽい本質などは人気の焦点に置かれた当人には得てして自省しがたいものである
(12巻126頁)

鎌倉の眼
朝の吉水
法然上人
仏敵同士
中将・海道下り
小磯大磯
新柳営
石の庭
千手ノ前
酒景雨景
楚歌と虞の君
初夜ならぬ初夜
夜伽吟味
空抱きの君
絵像と大姫
輿の通い日
返り帰りの大納言
裂かるる生木
怨敵受取り
ゆかりの人びと
般若寺斬り
叙勲
びっこの公卿
一日任官
駒化粧
おだまきの歌
得意と失意
押しつけ妻
鼓の家
鳴らない鼓
正妻
よくまわる舌
初霜
ひとまず無事
政子と幕府
雪中双艶


2012年10月14日日曜日

新・平家物語 ひよどり越えの巻

この巻は、目で読んで感じればそれでいいと感じた。

敦盛が京から福原へ戻り、そして討たれるまでの物語は「一大叙情詩」
高校時代に古典で読んだ敦盛の物語。
若くして討たれる側の敦盛も哀れだが、討つ側の熊谷直実も哀れだ。
無官大夫という地位も名誉にも程遠い若人が侍の誇りを保つために陸へ引き返す様、そして名乗りも挙げずに討たれる様
絵になる光景だが、絵にしてほしくない。
これは文章で感じたい。


【収録】
六万寺船
屋島の恋の子
乙子と兄たち
鉄漿染めて
二位ノ尼
鼻と金売り
海の蝶々
悲絃
吾子は白珠
和平の使い
駄五六思案
小宰相
天馬の火
三草落し
ひよどり越え
通盛討たれ
騙し小平六
一ノ谷絵巻
修羅山海経
重衡生捕られ
忠度・歌がたみ
無官大夫
凱歌の下にも
牢愁
一つの岡
雑居仏
瓦礫園鬼燈
首渡し
小八葉
左衞門佐ノ局
屋島返書
平三放言





新・平家物語 京乃木曾殿の巻


夏季休暇(8月中旬)以来、暫く遠ざかっていたがようやく復帰。
この期間中に角川書店から発刊されている古典クラシック版を一冊と女性が書いた女性目線での平家物語の解説本の類をそれぞれ読んでいる。
いずれ、その2冊も読み返してみて、ここに記したい。

入洛して政治能力が欠如している義仲、後白河法王にすれば治安が取り戻せない、どころか悪化の一途を辿る都の実情を憂えた(というより、呆れたんだろうな)
手を組む相手は「平家」「頼朝」「秀衡」の3勢力
法王にすれば
①木曾義仲は滅ぼす
②3勢力の力関係は同じ程度になるといい
③その中で最も帝に対して従順で、帝を敬ってくれる勢力が望ましい
そうすれば王政による政を確かなものに戻せる。という考えがあったに違いない。

義仲の失墜が遺したもの
地方から都上りして、発奮しては浮いた存在になっていき、やがて落ちぶれていく者
そのプロトタイプとして義仲の存在意義が遺った。
大半の日本人は自分自身が地方出身者なのだから、義仲のように落ちぶれていく展開に自身がそうなるのではないかという不吉さを感じ、払拭するために幾つかの地方出身者が艱難辛苦を乗り越えていく物語を生み出してきたのだろう。
古典にもきっとそういう物語があるのだろう(どんな作品があるのか知らないが)、青春劇画では中央集権の代表者を敵役にして、地方出身者を主役に据えて、その二人がやがて分かり合い素晴らしい友情を育むという展開のドラマは私が幼い頃に沢山製作されていた。

義仲が滅び、勢いづく源氏は平家への討伐へ向かう。
それが歴史の宿命でもあるのだが、巻末に登場する敦盛にうるうるしてしまう。
高校のときに読んだ敦盛最期が次の巻で語られる。


「本文より」のコーナー
「虎の威を借る狐」の表現をかっこよく文学的に表すことば。

およそ武力に把握された傀儡の政庁に繋がれて、武人の下にその余命を雇用人的に利用されている大官ほどあわれともみじめともまたそれ自身が自身に恥ずるものはあるまい
(10巻158頁)

エロスのことなのだが、短いセンテンスでありながら的確な表現だなぁ、と。 

恋愛をでなく色道を説いた
(10巻165頁)


名こそ惜しめ、この文化・風土が生まれた経緯を説明
いわゆる根性といった類に置換えてみても通じるものがあると感じる。根性は他人から言われて出すものではなく、自発的に生まれてくるものだ。

何十年もの間貧しい土におかれていた種族の歯噛みがいつかそんな人間性をも超えた強烈な家訓を生み、それの雌伏していた野の環境も自然彼らをして年少から騎射や騎乗の術に長けさせてきた。
(10巻306頁)

義仲の失墜の原本的要素は彼自身の資質ばかりではなく、その軍の成り立ちにあった。
今であればスポーツのチームに置き換えれば通じつものがあると感じる。
個々には素晴らしい能力があるチームでありながら低迷することがある、概ね監督が責任を取っていくのだが、なるほど監督を義仲に置き換えると頷ける。

もともと木曾群は源氏再興の旗の下では生まれたが質は山野に生じた一種の自然軍だった。
(10巻315頁)

【収録】
烏合と狡獣
弱公卿・強公卿
火矢
捨て小舟
 の怪沙汰
婿誓文
秘園獣走
冬の花
平家椀源氏椀
まつ毛の雪
雪巴
稚き火華
元日の雷
変々恋々
春告鳥
生ずき・麿墨
宇治川名のり
花筏
添い寝盗み
妻なりしもの
病鏡
動座陣
片あぶみ
荒天
九郎を見給う
死地の春風
落日粟津ケ原
葉屑花屑
寿永の落とし子
不気味な客人
熊谷直実とその子
忘れえぬ人びと
常磐の果て
陣医拝諾
あつもりの君へ
大江山待ち


デンジャラス・ラン

原題「Safe House」

公私に渡り多忙な一ヶ月を過ごし、最後のトドメを迎える直前に3時間ほどすっぽりと時間が空いたときに鑑賞した。
正確には鑑賞ではなく、睡眠。
これまでに「多分寝るだろうな…。」と推測しながら出向いた映画は何本もあるけれど、「絶対寝るよなー」と確信しながら出向いた映画はこれが初めて。
断っておくが、「今作がつまらない」なんてことは毛頭もない。
仕事で脳みそが疲弊し、プライベートでは移動を繰り返したことと慣れない作業に勤しんだから、この3時間で私が為すべきことは休憩だったのだから。

たったひとつだけこの作品を観て思ったことがある。
デンゼル・ワシントンの笑顔から覗く「白い歯」は世界で最も美しい映像のひとつ



マリリン 7日間の恋

原題「My Week with MARILYN」

言わずもがな20世紀最大のアイドル「マリリン・モンロー」を描いた作品。
ミシェル・ウイリアムズがモンローに見事になりきっていて素晴らしかった。

モンローの評価は今なお二分されている。
「彼女ほどスマートで分別があった女優はいない」、という意見と、「彼女ほど頭が悪くて浮気性な女優はいない」というもの。
この作品ではどちらかといえば後者説を採用しているが、それは彼女が名声を得た後の後天性によるものだと仮定している。

名声を得たことで喪失する、「自由」・「権利」・遂には「自身の存在意義」
そういった類のもの(有名税)をひっくるめて女優としてではなく、一人の女性としてモンローを受け入れる器量があったのが主人公のコリンだっただろうか?
あるいはケネス・ブラナー演じるオリビエに合わせることに疲弊してしまったモンローが誰でもいいから彼女を受け入れる存在を求めていたところに居合わせただけのがたまたまコリンだったのだろうか?

大スターがよく奇行偏好を報道されるが、さもありなんと頷くばかり。
有名人になりたいと思うけれど、ならないほうが幸福。


トータル・リコール

原題「Total Recall」


まずは私の与太話。
表向きは「女性にはM」を標榜している、だがプライベートになると「女性にはS」に変貌する。(一種のオオカミ男だ)
さは言いながらプライベートでもときどき強烈に女に罵られたくなるときがある。
ショッピングをしているときなど、うだうだ悩む傾向が強い私にとっては「S度の高い」女性販売員は女神のように思えることがある。
昨今、時勢は私にとって不幸なことに過剰なまでの丁寧接客がもてはやされている。
「丁寧」と「遠慮」は違うんだけどなぁ…。

さて何故こんな話をするかと言えば。
今をときめく二人の女優が登場する。
ジェシカ・ビール(役名:メリーナ)とケイト・ベッキンセール(役名:ローリー)
ジェシカ・ビール(ちょっとヒラメ顔)も好みの顔なのだが、この作品でのドSぶりを発揮したケイト・ベッキンセールにノックアウト。
ケイト嬢の画像を検索してみた、優しい眼差しもあるし、標的を狙う鷹の目、そして少ないながらも際立つセクシーで色っぽい目。
どれもいいが、鷹の目のケイト嬢に惹かれる

結論1
ケイト・ベッキンセールに武器を持たせると、私はオチる。
そして、ケイト嬢と二っりっきりになれたら私がS男になって彼女をオトす
何言ってるんだか(笑)

結論2
主演のコリン・ファレルは現時点ではトップスターとは言い難い。
女優二人にばかり気を取られ、コリンには興味が湧かなかった。
例え私がスケベな男ということを割り引いても、コリンに漂う「オーラ」がないよ。
このままかなぁ…。

90年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演で撮影された作品が2つの原作を元に映像化したのに比して、こちらは1つの原作のみ。
「いつになったら火星に行くのさ?」と思いながら鑑賞していたのは私のミステイク。

原作未読だから物語の展開について放言すると。
逃げて逃げて逃げ回るばかり、捕らわれそうになって仕方なく反撃することはあっても、主人公側からガツンと反撃をする場面があってもよさそうなもの。

公開前に高田純次が「別の人生を送ってみたいと思いませんか?」などと、実生活に嫌気が指している人(私も含めて)には、とてつもないほどの魅力ある謳い文句でCMしていた割には、主人公は送った別の人生は1つだけだった。
主人公には幾つかの記憶を植え付けられて「この体験は確実に夢だ」と分かりながら観客を安心させておくような息抜きの記憶を撮ってくれているほうが、エンディングがゾクリとさせられる度合も上昇すると感じた次第。







2012年10月10日水曜日

プロメテウス


原題「PROMETHEUS」

「人類の起源」という、とことん壮大なテーマをリドリー・スコットが撮った。と、信じた私が愚か者だったのだ。
まんまと。まんまと欺かれた。
話が進めば進むほど、「ん?、これってエイリアンじゃ?」と。
そして最後に「あー、こいつがリプリーを襲うエイリアンになるんじゃないか!!!??」と怒涛のクライマックス。
仕方がないので、二度目の鑑賞に赴いたほどである(笑)

映画というものは概ね100分~120分で上映終了してしまうもの。
限られた時間の中で全てのことを盛り込むことは物理的に不可能だし、作品のモチーフや監督が観客に伝えたい内容をギュッと集約しなければピントが合わない作品に終わってしまう。
前者は尺を長くすればいいというわけでもないし、後者は駄作と言われる確率がグンと上昇していく。

とはいえ、映画で伝えたいものが明確である必要はない。
色んな示唆に富んだ作品、それが私にとっては好み。
所謂人生訓みたいな映画なんて、どこか嘘くさい。
どんな偉人だって見えないところで何かしらの悪さをやらかしているんだし、聖人のような暮らしを送れるほどこの世は澄みわたっていない。
示唆に富んだ作品を独自の世界観を提示してくれる、そういう稀有なことができる監督がリドリー・スコットだろう。
序盤の白い人間らしきものが液体を飲み干し、自身の体を粉々に破滅させていき、DNAを撒き散らす。
このシーンをどう解釈すればいいのだろう?
ノーマルに解釈すれば、実にノーマルな解釈が巷間で幾つも語られている。
でも、本当かな?
ストーリーの中でも幾つもの解釈のしようがある人物・シーンがわんさかとある。

シャーリーズ・セロンが演じたヴィッカーズは人間なのかアンドロイドなのか?
デイヴィッドは何故に謎の液体をホロウエイ博士に飲ませた?
洞窟の彫刻は何故に人の顔?
エイリアンにまつわるエピソードには枚挙に暇がないほどの疑問が巻き起こる。

それぞれに対して、私たち観客側はいかようにでも解釈の仕方があるし、リドリー・スコットは今のところそのような観客の疑問には何もアンサーを提示してくれない。
それが商業主義に塗れた次作への引導だとは思えない。
自身が提示した作品に対して空想することを彼自身が楽しんでいるように思える。
そして、推察するに観客が抱く全ての疑問に対して彼自身も全てのアンサーはないのだろう。
世の中のことは全てに理由があるわけでもないように、彼が撮った様々なシーンにも明確な理由がある必要もないのだろう。

もう上映している映画館もごく僅かになった今、既に続編製作のニュースが流れ始めている。
「Paradise」というらしい。
いやはや、リドリーがParadiseに召される前にクランクアップしてほしいものだ。








ダークナイト・ライジング


原題「Dark Knight Rises」

公開と同時に鑑賞に赴いた。
その日には近所の港で花火祭りがあることを忘れてしまって、せっかくの機会を失ってしまった。
海の向こうから花火が上がるのを見上げてみるのも悪くないと思ってたから、残念な気持ちはどこかで今も残っている。

だが、この作品はそんな機会を喪失しても全く後悔することのないほどの素晴らしい出来栄えだった。
公開初日を待ち構えていたかのように、NAVYの軍人が結構な人数で連れ立って鑑賞に来ていたのも頷ける。

何が素晴らしかったかって、これでもか!とスクリーンの向こうから叩きつけてくる巨大なる「絶望」
以前ローランド・エメリッヒ監督の「2012」を観たとき、地球が至るところで壊れていく様を観ても尚、ここまでの絶望は味わなかった。
幼少の頃の体験はなかなかに強烈なものが残っている人が多いという、私にすれば「ウルトラマン」が「ゼットン」に敗北するシーンは本当に絶望を感じたもの。
このダークナイトライジングはそれほどの衝撃度に勝るとも劣らないほどの絶望感を私に突きつけてきやがった!!

出だしのジェット機の翼がもがれてただの金属の塊になっていくシーン。
劇場CMでも何回も見てきたスタジアム爆破のシーン
ブルースがベインに囚われ、殺されずに生かされ、牢獄塔で味わされる絶望
その他絶望をありとあらゆる場面で突きつけてくる。
一旦希望を一瞬見せておきながらの絶望感をズドンと落とし込んでくるから、衝撃度が増す。
鑑賞しながら、自分の体から力が抜けて「へなへな」なっていくのが分かった。

ただ。
あれほど強いベインが物語の後半ではさほどの強靭さを見せずに終わっていったのは減点要素。
どこまでも対ベインの戦闘で進めて欲しかったなぁ。


キャットウーマンのアン・ハサウェイ。
アリスインワンダーランドでは可愛らしい白のプリンセスだった人が蠱惑な佇まいを醸し出しながら盗みを行い、気まぐれな言動をなすあたり、彼女の芸域は広がっていくんだなぁ、と感じる。
唇が「ぬれぬれ」(by池波正太郎)としていて、とても魅力的である。
かつて90年代のシリーズでミシェル・ファイファーが演じ、彼女の顔貌からしてもお似合いだったのだが、アン・ハサウェイ嬢のキャットウーマンは容貌よりも「気まぐれさ」と「誰がホントのご主人さまか」を瞬時に分別してすりよっていくキャットぶりはこちらが上だったように感じる。

そして
前作で他界してしまったジョーカーのヒース・レジャー
彼が存命であれば、この作品はどうなっていたんだろう?
物語の途中、ベインらは囚人たちを解き放つのだが、ジョーカーの存在を前提にしていればこの展開はどうなっていったのだろう?
ベインとジョーカー、ジョーカーとキャットウーマン。
想像してみるとそれだけで幾つかの派生作品が誕生しそうだ。
或いはやがてパスティーシュが生まれるのかもしれない。

この作品、公開初日に一度、それから夏休みの8月18日頃にもう一度観賞した。
同じ作品を日にちを異にして鑑賞に出向いたのは、あやふやな記憶を辿ってみたところとんと記憶にないので人生初だと思う
(いや、正確には殆ど時を同じくして「プロメテウス」も二度鑑賞したのだが)
但し、こちらは同じ映画館だ(プロメテウスは別の映画館で鑑賞)

この映画館、10月で私を取り巻く環境が変わったため、恐らくもう二度と赴かない映画館である。
別に大した設備があるわけでもないし、歴史も短い。
ただのありふれたワーナーマイカルシネマの一つに過ぎないのだが、溢れるほどの思い出が詰まった映画館だ。








2012年10月3日水曜日

豊臣家の人々

加藤廣の「信長の棺」シリーズを読んでいるときに古書店で見つけ、購ったもの。
小説かと思いきや、随筆もの。
秀次、秀長、小早川秀秋、旭姫、宇喜多秀家、寧々、淀殿、結城秀康、八条宮、秀頼ら、秀吉によって人生がうねった人々のことを司馬遼太郎が考察し、推測しながら紡ぎ出している。
その他の司馬先生が書いた小説(例えば「関ヶ原」例えば「城塞」)の余話で語られるエピソードがてんこ盛りに盛られている。
それが食傷気味に感じる面もあるし、新鮮に感じることもある。
まぁ、それだけ司馬先生の作品を読み耽った証なんだろうな。

ここに登場してくる人々、その人生をあまねく知っている読者は非常に稀なのではなかろうか。
小早川秀秋は関ヶ原のときの裏切りしか知らない人が大半だろうし、宇喜多秀家だって関ヶ原のときに西軍で勇猛に戦い敗れたのちに八丈島に流された人だというくらいの認識がある人だって少ないのではなかろうか?
そう、とても断片的な事象・事件のときにしか名が出てこない人ばかり。
一代で築き上げた秀吉が偉大過ぎたが故なのか?それとも秀吉が敢えて彼らの人生に蓋をするように仕向けたのか?
考えるに前者も後者もどちらの要素も相まって彼らが後世に遺しているメッセージが極端に少なくなっているよう(少なくさせられているように)に感じる。

秀吉のコンプレックスというか、人生設計で犯した狂いは2つある
①己の出自の卑しさ、及び卑しさを覆い隠す嘘がなかったこと
②生殖能力の欠落
①の犠牲になったのが秀次ら「秀」の名前がつく人々、②の犠牲者の筆頭は正妻の寧々、皇室の八条宮が挙げられる。
一代で名をなした男にとって、彼の右腕になるべき人材を身内に求め、思うように事が進まずフラストレーションが溜まった挙句に無謀な拡大策を採っていき、破綻への末路の導火線を準備してしまった。
後世の我らからしても、当時の客観的に観察できた武将(家康など)からすれば愚挙としか思えない行為なのだが、当の本人は大真面目だったから始末に負えない。
ナンバー2のときにはキラキラと輝いていた専務が、いざ社長になると暴君に変化してしまうという企業は規模に関係なく、いくらでも存在しているだろう。

秀吉は信長に仕えるために生を受けた人物であった。
信長が本能寺で紅蓮の炎に消えたときに、秀吉の能力も消滅した。
光秀は信長だけでなく、秀吉も殺したと言える。
この考えは飛躍しすぎだろうか?

信長亡き後、天下を統一するまでの秀吉は亡き社長のビジョンを受け継いだ専務に過ぎず。
天下統一後、彼にはどんなビジョンも見えていなかった。
ビジョンがない男が社長になれば、財にものを言わせてひれ伏すことを強要していくようになるだろうし(朝鮮出兵)、名無しだった頃に憧憬を抱いたもの(お市の娘として淀殿)へ執着していくようになる。

ナンバー2のポストにいる人への戒めとでも読めるだろう。
翻って言えば、ナンバー1の座にいる人間が謙虚さ、誠実さ、心の平明を喪失しないように(喪失しているときは思い出すように)する1つのバイブルとして読むべき本んだろうと思う。