2019年5月27日月曜日

戦国自衛隊

中学生くらいのころ、千葉真一主演で映画化された作品。
のちに大ファンになる薬師丸ひろ子が少年兵の役で出演している(らしい)
らしいと書くから、映画は未鑑賞。

私が手に取ったにはこのカバーだけれど、いろんなバリエーションがあり、映画も数年前戦国自衛隊1549とアレンジされたものも公開されていたので、人気が高い作品なんだろうと思える。

設定が独創的。
いや、誰でも「IF」くらいのことは夢想する物語だけど。
夢想をきちんと整理して、戦国に行けば「こうなるだろう」ではなく「こうならざるをえない」と仮定を限りなく現実的に書いていることに舌を巻いた。
「時の人」が「土岐のひと」と置き換わっていく歴史の知識が豊かでないと書けない空想がたくさんあって、「お!なるほど!」と知的好奇心が満たされながら読み進めた。

上記に書いた映画がCMやテレビで放送されたのをチラ見した断片的な映像や記憶から
「武闘派が戦国時代にタイムワープして、憲法で禁じられている武器の専横的使用を積極的に試す(駆使)する」というバイオレンス的な物語とばかり思っていた。

半村良、偉大なり!


ロクヨン(上・下)

2019年、悪事の顔になってしまったピエール瀧が主演したNHKのドラマを先に観て、この本を手にした。


映画のほうは未鑑賞。
原作を読み終えた今、主演は映画の佐藤浩市よりもピエール瀧のほうだな、と。
若手俳優、とにかくイケメンばかりがもてはやされる風潮だけど、味のある顔の持ち主をもっと発掘していかないと、このような原作を映像化していくときに苦労するよ。

成人を迎え、もはや思春期を超えていこうとするふたりの娘の父親でもある身としては、この事件の無残さにゾッとする。
思えば昭和64年のころといえば連続幼女誘拐殺人事件、それから女子高生コンクリート詰め殺人事件。
前者はオタクに走る人間は皆殺人予備群みたいな風潮になった。
後者は不良少年少女には一定のモラルがあるという都合のいい解釈が木っ端みじんに砕かれた。
そのほかにも凄惨な事件が昭和末期にはたくさん発生した。
脱線したが、ロクヨンの事件のモデルは北関東地域での未解決事件をモチーフにしているんだろうなあと感じる。

誘拐事件が未解決なばかりに、主人公の苦悩は深くなる。
NHKドラマのときは突拍子もないように映っていた主人公の娘の失踪の物語が原作で補えた。
未解決事件と娘の失踪の2つの事件を縦軸に。
警察組織の歪みやら政治やら軋轢と報道機関との交渉を横軸に。
そうして読み進めれば、すっきりと読めるんだろうなあ。

わたし、再読を基本スタンスにしているのだがこのロクヨンは疲れた。
冒頭の事情(二児の父)云々は抜いて、
1)文章がとても硬いこと。
2)警察組織の理解が一定程度必要。
その2つに起因するかな。
サラリーマンとしては自分が報酬を得ることがない組織のことを理解したいとは思わないものんだなあ。
もっと言えば、自分自身が関心が薄い組織のことを知りたいとは思わないのね。
歴史小説なら無関係でも興味が高くなる組織のことは調べていくんだし。
新選組とかよく勉強したなあ。笑

阿部一族・舞姫

40歳も超えててくると、高校生のころに教科書で「読まされた」書籍を読みたくなる作品がある。
森鴎外の高瀬舟は高校生3年生のころ、大学受験を前にして習った。
何を目的に習ったなだろう、文法なのか漢字なのか?
さっぱり思い出せないけれど、受験を目の前にして治癒する見込みがなく死にたいと願うひとに手をかけることは罪なのか?
ものすごく衝撃を受けた。
ある意味受験なんかよりこの主題のほうが大事なんじゃないのか?と思ったことを懐かしく思い出す。
古書店で森鴎外の名を見つけて、高瀬舟こそなかったけれど、この書籍を手にした。
舞姫はずっと以前本木雅弘主演で映画化されていたような?
明治、日本が欧州に追いつき追い越せと切磋琢磨している時代。その鼻息と個人の恋愛の板挟みに苦悩し、選択する主人公(鴎外自身なんだろうな)の心境が痛ましく感じた。

阿部一族は一読目ではチンプンカンプンで再読してようやく理解できた。
江戸時代(とひとくくりにしてはいけない)、特に武力統治から政治統治へ舵を切った家光時代の悲劇。
平成から令和へ時代が移ろい、仕事で交わされる言葉
自分が入力、計算、処理したファイルを目の前に「〇〇って感じじゃないですかー」と発してしまうわたしや周囲。
阿部一族の武士から「お主がなしたことではないか!」と叱咤されそう。(激励なんて絶対されない)
そういう気概が日本人の美徳、美点なんだと思う。
グローバリゼーションのなかにいてもそんな気概は失っちゃいけない。

偉そうなこと書いたが、次こそは高瀬舟を買い求めねば!

荒神

RPGオタクでもあるという宮部みゆき。
彼女の頭の上に江戸時代を舞台にしたRPGを執筆したい欲求を具現化した作品なんだと感じている。
そういう邪心(というべきか?)が読み手の私の頭の上を飛び交っていたからなのか、期待ほどの読み応えはなかった。
「模倣犯」で邪悪な心を究極まで書き連ねた宮部さんに、今作のもうひとりの主人公ともいえる「曽谷弾正」を「ピース」のような人間像にはどうしてもできなかったのだろう。
それがゆえにその他の準主役級の小日向直弥もイマイチ存在感が薄かった。
と。大人の登場人物はわたしにはピンボケな人物像としか読めなかったのけれど、こどもである「蓑吉」、彼の「じっちゃ」の存在感は生き生きと綴られているよう。
宮部さんは、こういう世代の男子・女子を大きく背伸びさせて書き綴っている。
実際にこんなに思慮深く、感情を言葉にできるこどもはほとんどいないと思うのだけれど。
自分が子供のころって「こんなことを感じていたんだよなあ」
50歳を超えた今では「こんなことを感じていたんだろうなあ」になってしまったけれど。
瑞々しい感覚を呼び覚ます「若返りのクスリ」だと思って彼女の作品を手に取っていきたいと感じた。

数年前にNHKでドラマ化されたのだけれど、残念ながら不手際で観れなかった。
内田有紀が主演だったとのこと。
ふっくらしている感がある内田有紀よりはもう少し細身で影が強めに感じられる女優さんで映画化してほしい。
黒木華とか、どうだろう?

2019年5月23日木曜日

キャプテン・マーベル

19年、7作目
このエントリーをしている現在「アベンジャーズ」が公開されて数週間経過している。
このキャプテン・マーベルの話も盛り込まれている(はず)
だから鑑賞に行くという選択肢もある。
しかし!
アベンジャーズは3時間の上映時間!
いや、それ以上にアイアンマン始めたくさんのヒーロー・ヒロインが登場し、彼らの話がそれぞれ語られクロスしていくんだろう。
数年前のキャッチコピー「日本よ、これが映画だ」としていたアベンジャーズを鑑賞して、話の多さと壮大すぎるアクションシーンについていけなかった。
...。ということで、今もウジウジとアベンジャーズの鑑賞に二の足を踏んでいる次第。

さて、今作キャプテン・マーベル
主演の女優ブリー・ラーソンがネットなどの広告で見る顔立ちよりも凛々しく。
なかなかいいお顔立ち。
パッと見、メグ・ライアンのようなオキャンなイメージに見えていたので。
今作のようなアクション系にとどまらずシリアス系の演技にも期待したい。

しかし、この作品で一番心に残ったのはアネット・ベニング!
いやー、かなり久しぶりにスクリーンで観た。
もはやおばあちゃんの域に到達しようとしているのに、相変わらず色っぽいわあ。
残念ながら映画紹介サイトにはベニングさまの画像は落ちてなかった。

舞台は1995年あたり(だったかと)
レンタルビデオ店、Windows95、携帯電話。
最早遠い過去になっていることに感慨深く、そしてアクション映画なのに、自身の年齢と自分史について考えさせられてしまった。

似たような作品としてワンダーウーマンがあげられるだろうけれど。
惹きつける力は直球勝負!な印象が強いワンダーウーマンのほうが上手だったな。

さあ、アベンジャーズ・エンドゲーム。
鑑賞に足を向けるかどうか、今もうじうじと悩んでいるところ。



2019年5月21日火曜日

ブラック・クランズマン

19年、6作目

映画館の予告編を観て、「面白そう」と意気込んで鑑賞に赴いた作品。
もうひとつ、主演の黒人俳優がデンゼル・ワシントンの息子さんだと知って。
今冬公開予定のスターウォーズのアダムドライバーも忘れていません。

予告編での印象はコメディタッチの作品の印象だった。
実際はコメディ要素はほぼ皆無に感じた(予告編でわたしは何を観ていたんだろう?)
「KKK」のことをよく理解していない身としては途中から「?」が点灯しながら鑑賞。
監督がスパイクリーというアクの強いひとだから、作品の結末での彼の主張は現代アメリカに巣食う闇をあぶりだしているんだなあと感じた。


運び屋

19年、5作目

三面記事に掲載された事件をクリントイーストウッドがイマジネーションを拡げていったのではないかなと感じた作品。
(事実を忠実に再現したわけではなかろう)

アメリカも日本ほどではないだろうけど、高齢者の独り暮らしが増えていっているのかな。
孤独な老人だからこそ手を染められた犯罪だし。
いつものようにイーストウッドはこの犯罪に対し「良い」とも「悪い」とも主張してこない。
ただ、目の前に裕福さを突き付けられると容易に悪いことに手を染めてしまう人間の性(さが)を淡々と映し出してきた。

一方、この主人公の口の悪さ!
黒人を蔑称で呼ぶシーンに思わずドキリとさせられる。
それにも関わらず、変な安心感。
なんだろう?この鑑賞者に起きる感情は?
と振り返って思うこと。
主人公は黒人は「黒人」としか思っていないだということ。
黒人は汚いとか、劣っているとか、人間ではないとか。
そういう感情をこの主人公には持っていない。
彼が若いときは黒人は差別される存在が当たり前の時代。
時代は移り、白人と同列に扱われる時代になっている。(わたしたち黄色人種も)
そういう時代の移ろいを理解させてくれるだけの存在がクリントイーストウッドの偉大さなんだろうと感じる。

願わくばまたスクリーンでクリントイーストウッドの姿を観たい。