2012年12月29日土曜日

ヤング・フォーエバー

「Young Forever」
初出はヴァラエティ番組で共作した「Freedom」のCW曲として。
とはいえ、私の場合は1997年のアルバム「The Barn」にて。

さほど脳内で再生されることが少ないこの曲が鳴った
珍しく「詩」ではなくGuitarの音が鳴りまくった。
アルバムでは「逃亡アルマジロのテーマ」が終わる
乾いたドラムの音が引導となり、イントロダクションのGuitarRiffが鳴り始める。
エンドの曲では「いつか僕が死ぬとき」というフレーズが飛び出した前作「Fruits」で死生観を表現して、「おやおや、元春ちょっと老けこんでいくの?」という考えがチラつかされてから2年後に発売されたアルバム。
その出だしのGuitarRiffにヤラれた。
詩は難解。
「君」とは誰なのだろうか?
君が指す対象はあるいは人間ではないのかもしれない、「魂」(SOUL)なんじゃないか?と考えたりしてみている。
佐野元春が佐野元春の魂に語りかけている曲なのかもしれない、とかも考えている。
普遍的に置き換えれば、ソングライターがソングライターたりえるその魂を礼賛しているんだろう。
隠喩、それが何を指しているのか解釈がいくらでもある。
「マグネシウムの街」
「アルミニウムの夢」
「枯れた野原」
今の私にとってそれらの言葉はピンと来るものが薄いため、脳内再生されることが少ない。
ああ、詩人にはまだ遠い。
この曲を聴いて、(心から)心若くありたいと願う。
詩だけでなく、Guitarの音で「心若くあれ!」というメッセージを発している曲

2012年12月28日金曜日

新・平家物語 吉野雛の巻

最終巻「吉野雛」
勧進帳のくだり、何度読んでも味わい深く。
義経が討たれて、完となるのかと思いきや。
那須大八郎のエピソードがいい。
表紙になっている麻鳥と蓬夫婦の睦まじい風景で大円団となるのもいい。
ははは、何を書いても「いい」としか感想が出てこない。

「本文よりのコーナー」

文覚上人の言葉より
権力は時に必要だと分かっているけれど、その施行する側になるときに戒めておかなければならない。

世に権力をなくすことは難しいが、権勢にまかせた権力悪をわしは憎む
(16巻190頁)

元雑兵の駄五六が鷲尾三郎に向かって言う言葉より
私自身、故郷を離れて四半世紀を経過したところで、昨年来Facebookにてコミュニケーションを取る相手は故郷の同級生ばかり。
そして私が食いついてしまうトピックスは故郷の懐かしいものが大半だ。
そういう私にとってこの言葉はグっと来る

いまにみろ、生まれ故郷の山河がどこよりなつかしいところになるから
(16巻348頁)


【収録】
雀仲間
馬糞大路
此君亭
逢状
飯室問答
湖岸の病家
船蔵春秋
母の弓矢
いまひとたびの
高雄の細道
金泥鬼
大つごもり
御室左右記
偽勧進
千鐘全土
二十九の春
談義しびれ
おかしげな男
二獣
あけはな石
冬眠の国
安宅ノ関
安宅ノ関・その二
野々市殿
勧進帳
皮剥ぎ追尾
能登の平家
桃源の日は短くて
仇し弓
義経最期
南海夜泊
範頼陥し
椎葉の山波
亡びなき人びと
傘の要らぬ日
勝者の府にも
頼朝の死
吉野雛


おおよそ半年を掛けて読み進めた。
前回よりも長く時間が掛かってしまったのは、一つには前回よりも労働している時間が長く、頭脳が本に向かなかったため。
二つ目には、途中寄り道をしながら読んだこと、平家物語に関する本を二冊ほど手に取り、「この話をこういう風に結びつけているんだ」ということを理解しながら、ということ。

お陰様で前回よりも平家物語を味わうことができた。
作家吉川英治の偉大さが改めてよく分かる。
原典で描かれていることでも、それが必ずしも事実であったとは限らない、ということを根拠を見せながら、反対の解釈を出し、新たな清盛像をあぶりだしたし、事象と事象を結びつけて新たな展開を描いている。

そして今から原典の平家物語へ。
吉川版から古典へ。
前回には考えが及ばなった知識欲。


新・平家物語 静の巻


ドラえもんに登場するヒロインの名前はしずかちゃん、彼女の苗字は「源」
そう、しずかちゃんは義経の愛妾「静」をもじった名前だ。
マンガに登場する名前の幾つかはこのようにして馴染み、原典に出会ってみて「やぁ、こんにちは」といった気分に浸れることがある。

...で、この静の存在を現代に置き換える存在というものがなかなか思い描きにくい。
芸能人という存在とは異なるし、仮に歌舞伎役者の女性版という存在があればそれが近いのかな、と思う。
市川染五郎とか市川海老蔵とかが駆け出しの頃って若く、男前、それでいて品がある。
そんな存在なのかなぁ…。

何にせよ、彼女の運命は過酷。
吉野山での愛する男性との別離、憎むべき相手は愛する男の兄、そしてその兄と兄嫁を目の前にしての舞い、愛する男性との間に出来た赤子を奪われ葬り去られる、実母の裏切り。
もうこれだけで昼ドラの素材には十二分過ぎるほどである。

歴史上、静かの末路は謎らしく、赤子を奪われたあとの彼女の足取りは記録にないとのこと。
この辺が女性を軽く扱っているという意見も多く寄せられるところだが、逆に言うと、彼女が義経の子を孕んでいたから捕えただけで、彼女自身にスパイ活動する必要がなかったということ。
自由を得られたことは静にとっては救いであったのだと願いたい。

素晴らしい詩、ここまで愛されれば幸せに尽きる。
ここまで愛される経験をした義経がこの詩を知っていたのだろうか。

「吉野山 峰の白雪 踏みわけて 入りにし人の あとぞ恋しき」
「しづやしづ 賤のおだまき くり返し むかしを今に なすよしもがな」

「本文よりのコーナー」

「最も続く愛は報われない愛である」という言葉があるけれど、それを文章にしたものかな?

艱苦を伴ってみない男女の仲は恋などと名づけてみてもまだ骨身に恋を味わったことでもなければ生命のうえに愛をおいて自分を捧げきったことでもなにのではなかろうか。
(15巻235頁)

麻鳥が静かを励ます言葉。
希望を抱かせる言葉、でもその実現は低いように聴こえてしまうのだけれど、でもこの文章は普遍的なものを感じさせる

どんな現実というものも実は間断なく変わっています、変わるなと願っても推移せずにおられませぬ。
人の境遇も、人おたがいの心も。
(15巻338頁)

ああ、義経って純情過ぎ、直情過ぎ。というか子供なんだよなぁ

後白河の信寵が多分に政略をふくんでいたものとはその当時から受け取れていなかった。
自分を知ってくださる知己だと感激していたのである。
今でもその未成年者的な若い考えから抜けえない義経であった
(15巻348頁)

【収録】
つらら簾
下天上天
女人結界
雪鼓
覇者の座
幕府成る日
大舅
静責め
流転迅速
藤室の八弟子
古女房
女体の異兆
初音の頼み
静・東送り
五ツ月の帯
嬲る
黄蝶奇事
鶴ケ岡悲曲
出生届
ものいわぬ四方の獣すらだにも
非情有情
猫と名月
大原御幸
月の輪の外
大原御幸・その二
おん素顔
霧の足音
六道
変化競べ時代
不死身の人
今年の盂蘭盆
薊と忠信
文覚草履
白い狗ころ
紺掻き功徳
吉田の沙汰
獅子身仏心
こだま









2012年12月26日水曜日

新・平家物語 悲弟の巻

勝者が落ち着いたら、派閥によって内部分裂する
そう珍しい話でもない(でしょ?)
だが、義経の話は同情を得やすくできていると思う。
最前線で奮闘する将軍と本丸で政治を行う政治家
これが兄弟、しかも腹違い、経歴も全く別。

日本語に「判官贔屓」なる単語が生まれたのは、ここから先の義経の運命に起因するもの。
決して日本人だけでなく万人に受け入れられる話なのではなかろうか?と考えているほど(あるいはエイリアンにだってこの感情は理解できるんじゃないかと思っているほどだ)

「本文よりのコーナー」

義経に訪れる悲劇を格調高く文章にしたもの。
とはいえ、この運命は頼朝によってもたらされている。

たれが酷いといって、人を得意の絶頂に立たせ、また一朝のまにその者の足もとへ逆風の風説を運んでくる運命の貌ほどなさけ容赦なきものはない。
(14巻403頁)

あー、これ。取締を厳しくすればするほど犯罪が低くなるわけではないことを文章にしたもの。
重大な犯罪は厳罰に処さないといけないことには賛成だけれども、軽微な犯罪に対して重罰に処することが多いのが現代に風潮だと感じている。
罪を認めさせたうえで「多めに見る」ということも大切なんだけどなぁ。

従来ならムチたたきですんだ罪科も地頭の配下に縛られるとすぐ打首に処された
その代わり博打は陰でやるようになり、浮浪人は居所を失い、盗賊は皆山へ入ってしまったという


【収録】
幾山河
帰還の門
垣の同胞
腰越状
業のわだち
首のなる木
捏造
青春扼殺
一期の主従
紫陽花の寝間
夕咲きの花
あぶない食客
消魂記
再来魔
仏面密使
病判官
平大納言の処決
土佐房昌俊
きのうのかれと見えぬ彼
堀川夜討
二度の黄瀬川
泣き焚火
立つ鳥の跡
告別
前途の冬
ふたり妻
今は昔─淀の夜がたり
大物の浦
首猟人
背水
くだける結晶
藻屑狩り
瞑々離々
牛の背の御方
天王寺待ち
吉野入り






2012年12月13日木曜日

新・平家物語 壇ノ浦の巻

平家物語の中で、最も涙を誘う話
だけど、ちょっと待って。
壇ノ浦で平家が滅びるということを最初に知ったのは、平家物語ではなく、ラフカディオ・ハーンの「怪談」に収録されている「耳なし芳一」だ。
歴史よりも文学で知っているという、私のような方も多いのではなかろうか。

映像で観たのは、これも前巻に続き2005年の大河ドラマ「義経」が最初だった。
ドラマ視聴後暫くして下関を訪れたことを思い出す。
赤間神宮、そしてその横にあった七盛の墓標が涙を誘う。
しかし、私が何よりも驚いたのは、下関と門司の間に隙間のように横たわる海峡で源平合戦が行われ、ここで平家が滅んだという事実。
ちょっと頑張れば岸辺に泳ぎ着けそうな距離でありながら、下関海峡を大きなタンカーが横切っていく。
きっとV字のように一気に深くなっている海底なんだろう。
加えてその潮流の激しさ。
ベテラン船長でも難破しやすいという。
この潮流を見誤ったのが平家、見誤らずに戦ったのが義経だというが、本編ではこの説を採っておらず、知盛はよくよく潮流を理解していたとしている。

そして幼帝の末路については、どちらとも取れる解釈で読者に委ねる。
安徳という名前は九州には多いのかな。
私の故郷にもそういう地名は残っているし、住んでいたことのある近くにも残っている。

義経と梶原
生まれながらの軍事天才と努力を積み上げてきた軍事凡才。
二人の意思が一致しなkればならない場面で悉く竜虎相搏つ状態に陥るのは、現代の企業でもそう珍しくない光景でもある。
ここまで対立してはいけないのだろうが、現代は誰もが衝突を避ける賢さを優先しているように思えてならないので、義経と梶原のようなガツンとした衝突を全否定する気にはなれないところ。
まして、義経の勘当に梶原の讒訴は多少の作用はあったかもしれないが、なくても頼朝は義経を勘当したことだろう。


「本編より」のコーナー
あ、ほぼ同じ内容を池波正太郎が書いているけれど、格調高い言い回しだ。
正太郎は「人間、いいことをしながら悪いことをし、悪いことをしながらいいことをする。矛盾だらけの生き物さ」

戦陣もまた人間同士の集合であるにすぎない
人間の集まるところ、表裏をつつみ、必ず何か葛藤を持っている。
(14巻93頁)



【収録】
御座替え
刺客
前夜変
不戦の人
臨海館
一葉の船
爪を噛む
墨磨れ、弁慶
捨て猫の果て
館の表裏
笑つぼの渦
好敵手
酒化粧
お絵の遊び
両雄読心
髪と仮名文
矢見参
からふね暴れ
黄旗まぎれ
海豚
大悲譜
死の清掃
波の底にも都の候う
生きさまようて
幻人語
世間新色
飛説さまざま
壊す人びと建てる人びと
現と夢
壇ノ浦飛脚
潮語不可解
花さまざま
女院と義経
月なき明石
車桟敷
勘当


2012年12月4日火曜日

悪の教典

2012年は極端に邦画を観ることが少なかった。
不作の年だと感じている。

2010年、2011年は2ヶ月に1本のペースで観ていたような感があるのに比して、2012年は「ロボジー」と「アウトレイジ ビヨンド」、としてこの「悪の教典」と3本目。
今年あと1本観るのかなぁ…。
候補は「のぼうの城」なんだけど、もう一歩背中を押す何かが足りないように思えて、躊躇う。
榮倉奈々が時代劇に出ることが引っかかっているのかなぁ、あの娘に時代劇は似つかわしくないし、早いよなぁ、と。


そんな中、「これは観にいかんば!!!」(九州弁)と思わせてくれた作品。
原作は未読。
原作を読もうと思わない私が、この原作は読んでみたいと思っている。
映画館での予告編で観たときから強烈なインパクトを残された。

そして、ようやく本編を観て、唖然。
「これは最早映画とは呼べない」
そう思った。
その理由は、詰まるところ「被害者も加害者も一切状況説明や経緯を語らず、心情を吐露もせず」ということだ。
大抵の映画であれば、加害者(犯人)が犯罪を行う、その理由や動機を被害者に語りかけたり、独白したりするもの(サスペンス劇場で「断崖をバックに」なんてその典型だ)
そこに観客は殺人者には殺人者なりの理由があることを知り(それに同情する、しないは別問題として)
そこに観客は被害者の立場や生い立ちに同情したり(邦画の場合、お涙頂戴が過度だというのは別問題として)

そういった、死の恐怖を役者に代弁させることもなく、観客の目の前に「死」は突如として訪れる。
蓮見聖司というサイコパスを演じた伊藤英明の「目」は何の感情も伝えてこない。
この目を見ていると、不思議なことに「カブトムシ」の目がチラついて仕方なかった。
そう、あの目は昆虫の目。
人間の目であれば感情や考えが宿るものなのに。

「怖い」の次元が異なる。
スプラッタとしての怖さよりも、殺戮することに何ら躊躇わずに殺せる人間がいるんだ、ということが「怖い」




2012年12月3日月曜日

バック・トゥ・ザ・ストリート

「Back To The Street」
初出は(当たり前だが)デビューアルバム「Back To The Street」


佐野さんは一度広告代理店に就職して、ロックミュージシャンへの道を断ち切れず、戻ってきた人だ。
そのときの心境をモチーフにして綴られたのだろうか。
訳せば「再び路上へ」この言葉も佐野元春を語るうえでは欠かせないキーワードだ。
「心が破けそうだったから」という言葉が、ソングライター佐野元春らしい表現で、居ても経ってもいられずにデビューへ転がり込んでいく様が伺えてクスリとさせられる。


アルバムタイトルになった曲で、最も印象が薄い曲でもある。
「Someday」では「Someday」が最も印象も強いし、好きな曲でもあるのだが。

でも昨日、怒涛の七連勤を迎えて、久々の前線での活動に携わっているときに、この曲が脳内再生された。
中でも
「奪われたものは 取り返さなければ」
の詩

特段、モノを奪われたとは思わないのだけれど、「時間」は色んな人びとに奪われているよなぁ、と感じているんだなぁ、と客観的に自己分析している。

巨大なショッピングモールの中、欲しいものは山ほどあるけれど、その「モノ」ではなく、モノを選んだり、悩んだり、流行を収集したりする時間が周囲の人びとからすれば極端に少ないんだよな。



2012年12月2日日曜日

新・平家物語 浮巣の巻

屋島の合戦の終盤から、壇ノ浦の戦いの序曲まで
途中、平家が宮島に寄港し、雅な一夜を過ごすくだりは、儚い。
歴史の勉強では、「公卿の真似をして武家らしいことを取り入れなかったがために平家は滅びた」と、両刀一閃にてぶった斬られるようにこき下ろされるのだろうが、この一面があるからこそ平家が後世にいつまでも同情を寄せられる面でもある。

また、歌舞伎やら時代劇になると必ず登場する屋島での那須与一の的射。
与一はどんな人なのか、知っている人は稀ではなかろうか。
この小説では、義経が奥州へ向かい頃から既に登場しており、与一と義経の縁を繋がるように伏線が張られている。
また、与一あ梶原の部下でありながら、この一件で後に不幸なことに見舞われることも書かれている。

2005年の大河ドラマ「義経」で阿部寛が演じた平知盛は、教経と知盛の二人を合体させて知盛として描いている。
私にとっては、それが映像で初めて観た「知盛」の像のため、読んでいると勇猛果敢な教経と、思慮深い知盛のどちらともが阿部ちゃんの顔に変換されてしまい、混乱する。
まして、その二人が言い争う行なんぞ、私の脳内はてんやわんやの大騒ぎに見舞われる。

「本編よりのコーナー」

平家が後世に愛される所以となる平家の個性。

(平家は)源氏のようなすでに軍律を持った軍隊ではない。
西八条、六波羅などの花の館がそのまま都の外に漂い出てただ自己を守るために戦い戦い、軍に化してきたに過ぎない。
(13巻92頁)

那須与一が扇を射るまでの心理描写。
私たちにも、「ここは決め所!!」という場面でも、心の有り様はこのとおりだ。

的の象はかなたの小舟の上にあるものだが、しかしほんとの的は自分の胸の中心にある。
もし、仕損じたらという雑念が容易に追い退けきれないのだった。
(13巻103頁)


義経が観て、感じた平家の有り様。
(司令部)総司令は過酷であり、残酷な決断を下すことが容易なのに比し、(戦地)将軍がその決断に従えない、ということが戦争映画などではよく見受けられる。
現場を観た者と観ていない者では、下す決断に情が入り込む、それが頼朝と義経の仲違いの決定的な要因なんだろう。
これを書いて、梶原景時という人はノーマルな人ではなく、殺戮愛好者だったのかな、ふとそんなことを考えた。

上には幼い帝とおん国母を擁し、あまたな女房や無用な老人やら女童までを連れているのだ
それは幾十という大きな家庭の延長であり家庭の寄せ集めと言ってもよい。
(13巻162頁)

以下、目次
玉虫
余一の憂鬱

桜間ノ介
海の蛍籠
教経・哭き嘲い
祝杯
夢の中にも夢を見るかな
降兵始末
喧嘩過ぎての
白峰颪し
大魔王
よしや君
浮巣の門
平家の氏神
大鳥居
地への恋
はつぶり下臈
旧縁
風前千燈
似しも給わず
手引の約
彦島とりで
船所歌
逆艪
上ノ関を出る
満珠・干珠
黄門知盛
黒い月
鬼曲
かたみ送り
御身隠しの事
女房の柵
筑紫の紅白
死出の伽羅焚き
のろし
悲風の将座
みかどと蟹




2012年11月29日木曜日

瞳の奥の秘密

原題「El Secreto de sus ojos」

アルゼンチン映画、2009年のアカデミー賞で外国語映画賞を受賞した作品。
カルチョスタジアムを空撮(さすがカルチョの国!!)、そしてスタジアムへ寄り、フィールドの中へ、そして観客席へ、犯人捕獲へと映していくシーンは圧巻。

映画紹介サイトで予告編を観て以来、機会があれば観たいなぁと思っていた作品。
「目は口ほどに物を言う」という諺があるように、映画での演技の要は台詞の言い回しだけでもなく、目でどこまで語りかけてくるか?ですから。
予告編で観たのがどの部分だったのか、もう今は思い出せないのだけれども「瞳が訴えかけてくるパワー」に惹かれたことだけは憶えている。

思いもかけずに上映されることが決定し、仕事のスケジュールとプライベートのスケジュールが空いていたので、躍起になって鑑賞した。
当日は物凄い雨降りの天気模様、出かける気分を削がれながらも、この機会を逃せば二度とこの作品をスクリーンで鑑賞できる機会は訪れない!!と言い聞かせながら家を後にした。


主人公ベンハミンと想われ人イレーネ
主人公ベンハミンと相棒パブロ
被害者と加害者
主人公と加害者
主人公と被害者

登場人物の感情が「瞳」によく現れているなぁ、と思う。
物語、展開自体は土曜ワイド劇場とか火曜サスペンス劇場とかとそんなに大きく変わるわけではないのだけれど、結果に至るまでの経緯に幾つかの伏線が張られていて、結末にはまんまと騙されたクチ。
且つ、驚き。でも直後に納得。と頭は回転しながらもスッと入っていく感触が心地よかった。

25年前と25年後を同じ人物が演じているのだが、それが違和感なく受け入れられた。
SFXなどの技術とは無縁の作風だからメイクアップの賜物なんだろうなぁ、演じ手の実年齢はどちらに近いんだろう?なんてことを鑑賞後に考えてみた。

登場人物の人物描写が丁寧に描かれていて、後半になればなるほど、グイッと身を乗り出しながら鑑賞していた。
無残な死を遂げてしまう相棒のパブロ(米国で演じるのであればダニー・デヴィートあたりだろうか?)の存在が重たくなりがちな殺人ミステリー作品をフッと軽くさせてくれる

この作品を鑑賞してハシゴをするつもりだったのだが、余韻に浸りたくてハシゴを諦めた。
まだ明るさが残っていた冬の太陽はすっかり落ち、雨はあがり、空には薄っぺらになっている月が登っていた。



2012年11月26日月曜日

アウトレイジ ビヨンド

柳の下の泥鰌になって、前作は未鑑賞なのに、いそいそと鑑賞に赴いた。

寛政の改革をご存知だろうか?
賄賂政治の田沼政権から、奥州白河出身者の松平定信がありとあらゆることに清廉さを希求した改革
後の狂歌に「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼かひしき」
と、言われた

バブル時代を田沼政権として、昨今の法令遵守至上主義を寛政の改革だと、個人的には感じている。
ありとあらゆることが色んな人が法令やルールで定めているのだが、相互間で通じているわけではない。
一方で奨励し、その一方で抑制する、そんな法律・ルールは気づけばいくらでも存在している。

私は、企業に属する者で、様々な省庁から発せられる法律を元にした社内ルールを守ることが求められている。
遵守が最優先とされているが、時としてそれは相手の為にならないこともある。
「法令の目的は何?」「その本質は今の状況を想定して作成されたものではないでしょ!」
と、いったものが発生するたび、それでも遵守を求められて、私の精神や肉体は疲弊していく。

そんな者にとって、法の外の世界は憧れに映る。
「濁りの田沼」を全否定することはないじゃないか!
法を破りたいとは思わないけれど、法が制定された趣旨から逸脱するような状態を招くのであれば破ってもいいと思うのだ、緊急避難措置として。
こんな状態に遭遇したとき、私は「めんどくさい」とブツブツ言って昇華させて行っているけれど、本当に昇華させることは「バカヤロー」と叫ぶことだ。
そう、私は善良であることに疲れている。
だから善良ではない世界に浸りたかった。

残念ながら法外の世界でも仁義や慣習とかで縛られており、その洗礼を浴びたのが中尾彬が扮するヤクザ。
その対極にいるのがたけし扮する大友
彼はあらゆる縛りから解き放たれており、自由に生きている。
「何が正しいか?」
「あるべき状態は何か?」を理解して生きている。
彼が生きる様に憧憬を抱く。
多分にご都合主義な展開でスーパーヒーローに映ってしまったのは減点要素だと考えないといけないけれど…。

第三弾が製作されるのであれば、大友の獄中での振る舞いにスポットを当ててみてもいいのではないかと感じる
「アウトレイジ ビットウイーン」というタイトルになるけれど(笑)

音楽では、張り詰めた緊張感を演出するために鈴木慶一のギターがよく似合ってた。

映像では、加瀬亮演じるヤクザの末路の姿が強烈だった。








2012年10月31日水曜日

新・平家物語 やしまの巻


以前に読んだときも感じた、この巻は難しい
特に田邊の湛僧が平家から源氏に鞍替えするに至るまでのところが何度も読んでみても「?」がつく。
文章ではなく、映像で見れば随分と分かるんだろうけれど。

平大納言こと平時忠の印象が大きく方向転換する。
「平家にあらずんば人にあらず」の言は時忠の口から出たものだという説もあり、時忠のイメージはダーティなもののほうが強い。
しかし、この小説での時忠は年を重ねるに連れて大きく成長し、懐の深い人物になっている。
一ノ谷で敗北した平家は「死に体」で、屋島で勢いを得て、歴史は屋島の合戦でも敗北するのだけれども、仮に屋島で平家が勝利を収めることがでkたとしても時勢は源氏に傾き、いずれ平家は滅びていく運命にある。
平家の未来・将来をクールに客観的に分析して、ここで和睦をなし、かつての栄華を諦めて一族の名を残そうとしている。



【収録】
熊野の海党
鮫女のふるさと
買い占め
田辺の鯨
小王国
さくらノ局
引き綱
はだか密談
路傍の修験者
神文
紅白鶏合わせ
策と策
呉越の会
肉迫
歓喜天
船のない漁夫
船集い
那須の兄弟
先駆の人びと
第一語
非奇蹟
死中・滑稽あり
春眠
草の実仕事
大坂越え
野馬隊
やしま世帯
神ならぬ身
弧父
てんぐるま
女院のおん肌
群蝶おののく
虚相実想
総門落し
平大納言の和策
荒公達
異端の道
二日待ち
そこ退き候え
継信の死・菊王の死
麻鳥見舞
日の扇



ボーン・レガシー

原題「THE BOURNE LEGACY」

「ボーン」シリーズ未鑑賞の私にしてみれば、鑑賞に赴くべきか自制しておくべきか迷った作品
街のど真ん中で行われた商談会の受付業務応援を終えて、勢いで映画館に赴き、すぐ観れる作品がこれだった。
とは言いながら、心のどこかではアクションものを希求していた。
何せ直前まで行なって受付業務は「応援」に過ぎないにも関わらず、主催部門はあたかも私の主体業務のように扱っている境遇に心が噴火していたのだから。

知っているともっと楽しめるんだろうが、前三部作の内容を知らなくても充分に楽しめた。
とことどころに「ボーン」の名前が出てくるし、ボーンがしている内容と時を同じくしてこの作品の主人公「アーロン」はこんな境遇に陥っている、という楽しみ方は前シリーズを鑑賞している人の特権。

ラストでのモーターバイクでのチェイス劇は文句なしにハラハラドキドキもの、心臓に悪いってば!!
ところどころ冗長な場面があり、クドい印象を受けた。
コンパクトに纏めてギュッと絞れば緊張感も増すのになぁ、と感じた場面が幾つかあった。

前シリーズが三部作だったのだから、これも次作があるんだろう。
乗りかかった船よろしく次作も鑑賞に赴きたい。
そのとき、商談会の応援で心がささくれていなければいいのだが(苦笑)

ジェレミー・レナー
ミッション・インポッシブル・ゴーストプロトコル、そして、アベンジャーズと彼をスクリーンで観る機会に恵まれた。
アベンジャーズのときの「ホークアイ」で完全に個体認識。
今作では前半での髭面がこれまでの雰囲気とは異なった、かなりワイルドな雰囲気を醸し出している。

レイチェル・ワイズ
どうもこの女優さんは私のタイプではない。
なんでだろ?
口元が好みではない

エドワード・ノートン
いつ見ても悪人の顔(笑)


2012年10月29日月曜日

最強の二人

原題「Intouchables」

邦題のつけ方に好感を抱く。
フィジカル的要素が強い映画かと思わせておいて、真逆に位置づけされてしまうような作品。

日を追うごとに動員数が伸びる一方で、映画サイトのニュースでは満員になることも珍しくないとの報もあるほど。

突き詰めて言ってしまえば「障がい者と介護者の物語」
ただ、それだけのことである。
だが、実に小気味よい。
音楽もそう、ユーモア(ちょっと毒気が強いけど)もそう、色気もそう。

実話だという。
でも、私にとっては実話でもフィクションでもどちらでもいい。

人間と人間の関わり合いが薄くなっている時代
上司は隣に座る部下にメールで指示を出す。
部署と部署の連携は隣の席でもメールで行われる。
Facebookを始めとしてSNSで繋がることで安心する人々が多くなりつつある。
ITのほうが効率がいいというのはある一面正しい。
だけど、この映画を観て、メールでのコミュニケーションは成り立たない、ITを駆使することが効率化に繋がるなんてことは妄念だと思い始めている。

人は、目と目と合わせながら話をしないと本当の思いは伝えられない、伝わっていかない。
障がい者が求めているものは何か?それは会話をしなければ通じ合えない。
スマートフォンやタブレットのアプリがどんなに進化しようが、「目は口ほどに物を言う」という諺が示すように。
介護者(ドリス)が玄人ではなく、素人だからこそ、障がい者(フィリップ)は心と心が触れ合う会話が実現した、それはどんなに行き届いたプロフェッショナルの実務としての介護よりも心地よかったのだろう。

また、障がい者に対して障がいの事実を突きつけることはタブー視されがちだが、そこを避けずに障がいの事実について健常者も向き合っていくことも大切なこと。
公平ってそういうことだと感じた。





2012年10月28日日曜日

トゥナイト

「Tonight」
初出は「VISITORS」

1984年、久々のシングルカット曲
佐野元春が生活したニューヨークをスケッチして、詩に換えて、メロディをつけてファンに送ってくれた曲
あれから四半世紀を過ぎても尚この曲を聴き続けている。
普遍的な詩でもあるし、NYCは今のところ世界の中で普遍的な価値を持続し続けている。

本日、理不尽な理由による業務のため、朝早くから1.5時間もかかるような場所へ赴き、怠けることなく仕事をこなしてきた。

行きは電車のみの移動
帰りはバスと電車にて移動
バスに乗って駅へ向かう。
秋の空は暮れるのが早く、駅へ向かうその空は既に黒い。
見慣れぬ街をバスで移動すると、この曲が頭の中で鳴り出す。

この詩の「君」は2つ存在する
1つは「NYC」都市としての「君」
♪ニューヨーク♪と結ぶセンテンスの前で書いている「君」は「NYC」

もう1つは「人(ファン)」佐野元春からファンへの「君」
♪君の身代わりにその深い悲しみを背負うことはできないけれど♪
の「君」は「人」

機会があれば、意識的にこのセンテンスを使ってみたいと考えている。



2012年10月27日土曜日

バルセロナの夜

「Barcelona Night」
初出は「Heart Beat」

10月4週目の元春レイディオショーは「夜」の歌特集
佐野元春本人が驚いていたように、佐野元春の詩には「夜」を扱った詩が圧倒的に多い。
この曲は残念ながらオンエアされなかった。
他にも「夜」を扱った素晴らしい曲があるという証拠。

この曲は「主観」と「客観」が混合されて出来上がっている曲
出だしは「君の夢を見る」と主観
サビでは「二人は○○の違いで」と客観
主観と客観が同居しているように読める詩もある
「バルセロナの夜は君を選んだのさ」

夜とは一日を振り返る時間帯。
振り返ると、幾つもの自己を発見する。
反省したり、分析したり、投影したり、再認識したり。
心も体もくたびれているにも関わらず、頭のどこかでそんなことへ思い、考えを巡らせている(人は多いのではなかろうか)

主観と客観がグチャグチャになりながらも、それでも「愛している気持ちはいつも変わらない」と結ぶ。
それは、とても大切なこと。
それは、とても難しいこと。
それは、とても嬉しいこと。

ほほえみの「か」げりを♪の「か」の発音が好きだ
愛してる気持ちはいつも変わらない♪の後に続くLalala♪のセルフコーラスが好きだ。



2012年10月23日火曜日

新・平家物語 千手の巻


一ノ谷の戦いで捕虜になった重衡の末路
そして
義経の政略結婚
この2つがこの巻の核
前者は、先の大戦で誤った(偏った)教えの下に育てられた世代(僕らの祖父らの世代)の生き残った人たちにとって「生きる」意義と「死す」意義を同時に問いかけていると感じる
後者は、昭和初期まではごく当たり前な事象であった「本人の意思の外で決められた結婚」でも幸せになれる夫婦もいるということ。
「後付けでも愛は生まれる」ということ
まぁ、これには静という存在を愛人と見るか?それとも夫人と同列に見るか?
と、読み手の意識に負うところが大きいんだろうけれど。


「本文より」のコーナー
頼朝と清盛の違いの一面
清盛は保守派、頼朝はタカ派とでも言えばいいのだろうか

清盛のやりくちは朝廷と同化し公卿勢力をも一門で左右しようとする風だった
(12巻111頁)

義経と静の関係を愛だという
このあたりの描写は男女では相違点も出てくるのだろう。
男にとって静は理想の女の存在として映るだろうし、女にとっては男の都合のいい女性の虚像だと映る人が多いのではなかろうか。
ただ、それは一夫一妻が染み込んだモラルの元に生きている現代の私たちの考えであろう。
この時代には充分に通用する考えだったのだろう。
独占欲とは別として。


静とかれとはもう単なる恋は超えていた
(12巻120頁)


人気者と有頂天という言葉について考えてみるのに適した文章

人気の怖さや軽薄さ、そして人気というもののいたずらっぽい本質などは人気の焦点に置かれた当人には得てして自省しがたいものである
(12巻126頁)

鎌倉の眼
朝の吉水
法然上人
仏敵同士
中将・海道下り
小磯大磯
新柳営
石の庭
千手ノ前
酒景雨景
楚歌と虞の君
初夜ならぬ初夜
夜伽吟味
空抱きの君
絵像と大姫
輿の通い日
返り帰りの大納言
裂かるる生木
怨敵受取り
ゆかりの人びと
般若寺斬り
叙勲
びっこの公卿
一日任官
駒化粧
おだまきの歌
得意と失意
押しつけ妻
鼓の家
鳴らない鼓
正妻
よくまわる舌
初霜
ひとまず無事
政子と幕府
雪中双艶


2012年10月14日日曜日

新・平家物語 ひよどり越えの巻

この巻は、目で読んで感じればそれでいいと感じた。

敦盛が京から福原へ戻り、そして討たれるまでの物語は「一大叙情詩」
高校時代に古典で読んだ敦盛の物語。
若くして討たれる側の敦盛も哀れだが、討つ側の熊谷直実も哀れだ。
無官大夫という地位も名誉にも程遠い若人が侍の誇りを保つために陸へ引き返す様、そして名乗りも挙げずに討たれる様
絵になる光景だが、絵にしてほしくない。
これは文章で感じたい。


【収録】
六万寺船
屋島の恋の子
乙子と兄たち
鉄漿染めて
二位ノ尼
鼻と金売り
海の蝶々
悲絃
吾子は白珠
和平の使い
駄五六思案
小宰相
天馬の火
三草落し
ひよどり越え
通盛討たれ
騙し小平六
一ノ谷絵巻
修羅山海経
重衡生捕られ
忠度・歌がたみ
無官大夫
凱歌の下にも
牢愁
一つの岡
雑居仏
瓦礫園鬼燈
首渡し
小八葉
左衞門佐ノ局
屋島返書
平三放言





新・平家物語 京乃木曾殿の巻


夏季休暇(8月中旬)以来、暫く遠ざかっていたがようやく復帰。
この期間中に角川書店から発刊されている古典クラシック版を一冊と女性が書いた女性目線での平家物語の解説本の類をそれぞれ読んでいる。
いずれ、その2冊も読み返してみて、ここに記したい。

入洛して政治能力が欠如している義仲、後白河法王にすれば治安が取り戻せない、どころか悪化の一途を辿る都の実情を憂えた(というより、呆れたんだろうな)
手を組む相手は「平家」「頼朝」「秀衡」の3勢力
法王にすれば
①木曾義仲は滅ぼす
②3勢力の力関係は同じ程度になるといい
③その中で最も帝に対して従順で、帝を敬ってくれる勢力が望ましい
そうすれば王政による政を確かなものに戻せる。という考えがあったに違いない。

義仲の失墜が遺したもの
地方から都上りして、発奮しては浮いた存在になっていき、やがて落ちぶれていく者
そのプロトタイプとして義仲の存在意義が遺った。
大半の日本人は自分自身が地方出身者なのだから、義仲のように落ちぶれていく展開に自身がそうなるのではないかという不吉さを感じ、払拭するために幾つかの地方出身者が艱難辛苦を乗り越えていく物語を生み出してきたのだろう。
古典にもきっとそういう物語があるのだろう(どんな作品があるのか知らないが)、青春劇画では中央集権の代表者を敵役にして、地方出身者を主役に据えて、その二人がやがて分かり合い素晴らしい友情を育むという展開のドラマは私が幼い頃に沢山製作されていた。

義仲が滅び、勢いづく源氏は平家への討伐へ向かう。
それが歴史の宿命でもあるのだが、巻末に登場する敦盛にうるうるしてしまう。
高校のときに読んだ敦盛最期が次の巻で語られる。


「本文より」のコーナー
「虎の威を借る狐」の表現をかっこよく文学的に表すことば。

およそ武力に把握された傀儡の政庁に繋がれて、武人の下にその余命を雇用人的に利用されている大官ほどあわれともみじめともまたそれ自身が自身に恥ずるものはあるまい
(10巻158頁)

エロスのことなのだが、短いセンテンスでありながら的確な表現だなぁ、と。 

恋愛をでなく色道を説いた
(10巻165頁)


名こそ惜しめ、この文化・風土が生まれた経緯を説明
いわゆる根性といった類に置換えてみても通じるものがあると感じる。根性は他人から言われて出すものではなく、自発的に生まれてくるものだ。

何十年もの間貧しい土におかれていた種族の歯噛みがいつかそんな人間性をも超えた強烈な家訓を生み、それの雌伏していた野の環境も自然彼らをして年少から騎射や騎乗の術に長けさせてきた。
(10巻306頁)

義仲の失墜の原本的要素は彼自身の資質ばかりではなく、その軍の成り立ちにあった。
今であればスポーツのチームに置き換えれば通じつものがあると感じる。
個々には素晴らしい能力があるチームでありながら低迷することがある、概ね監督が責任を取っていくのだが、なるほど監督を義仲に置き換えると頷ける。

もともと木曾群は源氏再興の旗の下では生まれたが質は山野に生じた一種の自然軍だった。
(10巻315頁)

【収録】
烏合と狡獣
弱公卿・強公卿
火矢
捨て小舟
 の怪沙汰
婿誓文
秘園獣走
冬の花
平家椀源氏椀
まつ毛の雪
雪巴
稚き火華
元日の雷
変々恋々
春告鳥
生ずき・麿墨
宇治川名のり
花筏
添い寝盗み
妻なりしもの
病鏡
動座陣
片あぶみ
荒天
九郎を見給う
死地の春風
落日粟津ケ原
葉屑花屑
寿永の落とし子
不気味な客人
熊谷直実とその子
忘れえぬ人びと
常磐の果て
陣医拝諾
あつもりの君へ
大江山待ち


デンジャラス・ラン

原題「Safe House」

公私に渡り多忙な一ヶ月を過ごし、最後のトドメを迎える直前に3時間ほどすっぽりと時間が空いたときに鑑賞した。
正確には鑑賞ではなく、睡眠。
これまでに「多分寝るだろうな…。」と推測しながら出向いた映画は何本もあるけれど、「絶対寝るよなー」と確信しながら出向いた映画はこれが初めて。
断っておくが、「今作がつまらない」なんてことは毛頭もない。
仕事で脳みそが疲弊し、プライベートでは移動を繰り返したことと慣れない作業に勤しんだから、この3時間で私が為すべきことは休憩だったのだから。

たったひとつだけこの作品を観て思ったことがある。
デンゼル・ワシントンの笑顔から覗く「白い歯」は世界で最も美しい映像のひとつ



マリリン 7日間の恋

原題「My Week with MARILYN」

言わずもがな20世紀最大のアイドル「マリリン・モンロー」を描いた作品。
ミシェル・ウイリアムズがモンローに見事になりきっていて素晴らしかった。

モンローの評価は今なお二分されている。
「彼女ほどスマートで分別があった女優はいない」、という意見と、「彼女ほど頭が悪くて浮気性な女優はいない」というもの。
この作品ではどちらかといえば後者説を採用しているが、それは彼女が名声を得た後の後天性によるものだと仮定している。

名声を得たことで喪失する、「自由」・「権利」・遂には「自身の存在意義」
そういった類のもの(有名税)をひっくるめて女優としてではなく、一人の女性としてモンローを受け入れる器量があったのが主人公のコリンだっただろうか?
あるいはケネス・ブラナー演じるオリビエに合わせることに疲弊してしまったモンローが誰でもいいから彼女を受け入れる存在を求めていたところに居合わせただけのがたまたまコリンだったのだろうか?

大スターがよく奇行偏好を報道されるが、さもありなんと頷くばかり。
有名人になりたいと思うけれど、ならないほうが幸福。


トータル・リコール

原題「Total Recall」


まずは私の与太話。
表向きは「女性にはM」を標榜している、だがプライベートになると「女性にはS」に変貌する。(一種のオオカミ男だ)
さは言いながらプライベートでもときどき強烈に女に罵られたくなるときがある。
ショッピングをしているときなど、うだうだ悩む傾向が強い私にとっては「S度の高い」女性販売員は女神のように思えることがある。
昨今、時勢は私にとって不幸なことに過剰なまでの丁寧接客がもてはやされている。
「丁寧」と「遠慮」は違うんだけどなぁ…。

さて何故こんな話をするかと言えば。
今をときめく二人の女優が登場する。
ジェシカ・ビール(役名:メリーナ)とケイト・ベッキンセール(役名:ローリー)
ジェシカ・ビール(ちょっとヒラメ顔)も好みの顔なのだが、この作品でのドSぶりを発揮したケイト・ベッキンセールにノックアウト。
ケイト嬢の画像を検索してみた、優しい眼差しもあるし、標的を狙う鷹の目、そして少ないながらも際立つセクシーで色っぽい目。
どれもいいが、鷹の目のケイト嬢に惹かれる

結論1
ケイト・ベッキンセールに武器を持たせると、私はオチる。
そして、ケイト嬢と二っりっきりになれたら私がS男になって彼女をオトす
何言ってるんだか(笑)

結論2
主演のコリン・ファレルは現時点ではトップスターとは言い難い。
女優二人にばかり気を取られ、コリンには興味が湧かなかった。
例え私がスケベな男ということを割り引いても、コリンに漂う「オーラ」がないよ。
このままかなぁ…。

90年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演で撮影された作品が2つの原作を元に映像化したのに比して、こちらは1つの原作のみ。
「いつになったら火星に行くのさ?」と思いながら鑑賞していたのは私のミステイク。

原作未読だから物語の展開について放言すると。
逃げて逃げて逃げ回るばかり、捕らわれそうになって仕方なく反撃することはあっても、主人公側からガツンと反撃をする場面があってもよさそうなもの。

公開前に高田純次が「別の人生を送ってみたいと思いませんか?」などと、実生活に嫌気が指している人(私も含めて)には、とてつもないほどの魅力ある謳い文句でCMしていた割には、主人公は送った別の人生は1つだけだった。
主人公には幾つかの記憶を植え付けられて「この体験は確実に夢だ」と分かりながら観客を安心させておくような息抜きの記憶を撮ってくれているほうが、エンディングがゾクリとさせられる度合も上昇すると感じた次第。







2012年10月10日水曜日

プロメテウス


原題「PROMETHEUS」

「人類の起源」という、とことん壮大なテーマをリドリー・スコットが撮った。と、信じた私が愚か者だったのだ。
まんまと。まんまと欺かれた。
話が進めば進むほど、「ん?、これってエイリアンじゃ?」と。
そして最後に「あー、こいつがリプリーを襲うエイリアンになるんじゃないか!!!??」と怒涛のクライマックス。
仕方がないので、二度目の鑑賞に赴いたほどである(笑)

映画というものは概ね100分~120分で上映終了してしまうもの。
限られた時間の中で全てのことを盛り込むことは物理的に不可能だし、作品のモチーフや監督が観客に伝えたい内容をギュッと集約しなければピントが合わない作品に終わってしまう。
前者は尺を長くすればいいというわけでもないし、後者は駄作と言われる確率がグンと上昇していく。

とはいえ、映画で伝えたいものが明確である必要はない。
色んな示唆に富んだ作品、それが私にとっては好み。
所謂人生訓みたいな映画なんて、どこか嘘くさい。
どんな偉人だって見えないところで何かしらの悪さをやらかしているんだし、聖人のような暮らしを送れるほどこの世は澄みわたっていない。
示唆に富んだ作品を独自の世界観を提示してくれる、そういう稀有なことができる監督がリドリー・スコットだろう。
序盤の白い人間らしきものが液体を飲み干し、自身の体を粉々に破滅させていき、DNAを撒き散らす。
このシーンをどう解釈すればいいのだろう?
ノーマルに解釈すれば、実にノーマルな解釈が巷間で幾つも語られている。
でも、本当かな?
ストーリーの中でも幾つもの解釈のしようがある人物・シーンがわんさかとある。

シャーリーズ・セロンが演じたヴィッカーズは人間なのかアンドロイドなのか?
デイヴィッドは何故に謎の液体をホロウエイ博士に飲ませた?
洞窟の彫刻は何故に人の顔?
エイリアンにまつわるエピソードには枚挙に暇がないほどの疑問が巻き起こる。

それぞれに対して、私たち観客側はいかようにでも解釈の仕方があるし、リドリー・スコットは今のところそのような観客の疑問には何もアンサーを提示してくれない。
それが商業主義に塗れた次作への引導だとは思えない。
自身が提示した作品に対して空想することを彼自身が楽しんでいるように思える。
そして、推察するに観客が抱く全ての疑問に対して彼自身も全てのアンサーはないのだろう。
世の中のことは全てに理由があるわけでもないように、彼が撮った様々なシーンにも明確な理由がある必要もないのだろう。

もう上映している映画館もごく僅かになった今、既に続編製作のニュースが流れ始めている。
「Paradise」というらしい。
いやはや、リドリーがParadiseに召される前にクランクアップしてほしいものだ。








ダークナイト・ライジング


原題「Dark Knight Rises」

公開と同時に鑑賞に赴いた。
その日には近所の港で花火祭りがあることを忘れてしまって、せっかくの機会を失ってしまった。
海の向こうから花火が上がるのを見上げてみるのも悪くないと思ってたから、残念な気持ちはどこかで今も残っている。

だが、この作品はそんな機会を喪失しても全く後悔することのないほどの素晴らしい出来栄えだった。
公開初日を待ち構えていたかのように、NAVYの軍人が結構な人数で連れ立って鑑賞に来ていたのも頷ける。

何が素晴らしかったかって、これでもか!とスクリーンの向こうから叩きつけてくる巨大なる「絶望」
以前ローランド・エメリッヒ監督の「2012」を観たとき、地球が至るところで壊れていく様を観ても尚、ここまでの絶望は味わなかった。
幼少の頃の体験はなかなかに強烈なものが残っている人が多いという、私にすれば「ウルトラマン」が「ゼットン」に敗北するシーンは本当に絶望を感じたもの。
このダークナイトライジングはそれほどの衝撃度に勝るとも劣らないほどの絶望感を私に突きつけてきやがった!!

出だしのジェット機の翼がもがれてただの金属の塊になっていくシーン。
劇場CMでも何回も見てきたスタジアム爆破のシーン
ブルースがベインに囚われ、殺されずに生かされ、牢獄塔で味わされる絶望
その他絶望をありとあらゆる場面で突きつけてくる。
一旦希望を一瞬見せておきながらの絶望感をズドンと落とし込んでくるから、衝撃度が増す。
鑑賞しながら、自分の体から力が抜けて「へなへな」なっていくのが分かった。

ただ。
あれほど強いベインが物語の後半ではさほどの強靭さを見せずに終わっていったのは減点要素。
どこまでも対ベインの戦闘で進めて欲しかったなぁ。


キャットウーマンのアン・ハサウェイ。
アリスインワンダーランドでは可愛らしい白のプリンセスだった人が蠱惑な佇まいを醸し出しながら盗みを行い、気まぐれな言動をなすあたり、彼女の芸域は広がっていくんだなぁ、と感じる。
唇が「ぬれぬれ」(by池波正太郎)としていて、とても魅力的である。
かつて90年代のシリーズでミシェル・ファイファーが演じ、彼女の顔貌からしてもお似合いだったのだが、アン・ハサウェイ嬢のキャットウーマンは容貌よりも「気まぐれさ」と「誰がホントのご主人さまか」を瞬時に分別してすりよっていくキャットぶりはこちらが上だったように感じる。

そして
前作で他界してしまったジョーカーのヒース・レジャー
彼が存命であれば、この作品はどうなっていたんだろう?
物語の途中、ベインらは囚人たちを解き放つのだが、ジョーカーの存在を前提にしていればこの展開はどうなっていったのだろう?
ベインとジョーカー、ジョーカーとキャットウーマン。
想像してみるとそれだけで幾つかの派生作品が誕生しそうだ。
或いはやがてパスティーシュが生まれるのかもしれない。

この作品、公開初日に一度、それから夏休みの8月18日頃にもう一度観賞した。
同じ作品を日にちを異にして鑑賞に出向いたのは、あやふやな記憶を辿ってみたところとんと記憶にないので人生初だと思う
(いや、正確には殆ど時を同じくして「プロメテウス」も二度鑑賞したのだが)
但し、こちらは同じ映画館だ(プロメテウスは別の映画館で鑑賞)

この映画館、10月で私を取り巻く環境が変わったため、恐らくもう二度と赴かない映画館である。
別に大した設備があるわけでもないし、歴史も短い。
ただのありふれたワーナーマイカルシネマの一つに過ぎないのだが、溢れるほどの思い出が詰まった映画館だ。








2012年10月3日水曜日

豊臣家の人々

加藤廣の「信長の棺」シリーズを読んでいるときに古書店で見つけ、購ったもの。
小説かと思いきや、随筆もの。
秀次、秀長、小早川秀秋、旭姫、宇喜多秀家、寧々、淀殿、結城秀康、八条宮、秀頼ら、秀吉によって人生がうねった人々のことを司馬遼太郎が考察し、推測しながら紡ぎ出している。
その他の司馬先生が書いた小説(例えば「関ヶ原」例えば「城塞」)の余話で語られるエピソードがてんこ盛りに盛られている。
それが食傷気味に感じる面もあるし、新鮮に感じることもある。
まぁ、それだけ司馬先生の作品を読み耽った証なんだろうな。

ここに登場してくる人々、その人生をあまねく知っている読者は非常に稀なのではなかろうか。
小早川秀秋は関ヶ原のときの裏切りしか知らない人が大半だろうし、宇喜多秀家だって関ヶ原のときに西軍で勇猛に戦い敗れたのちに八丈島に流された人だというくらいの認識がある人だって少ないのではなかろうか?
そう、とても断片的な事象・事件のときにしか名が出てこない人ばかり。
一代で築き上げた秀吉が偉大過ぎたが故なのか?それとも秀吉が敢えて彼らの人生に蓋をするように仕向けたのか?
考えるに前者も後者もどちらの要素も相まって彼らが後世に遺しているメッセージが極端に少なくなっているよう(少なくさせられているように)に感じる。

秀吉のコンプレックスというか、人生設計で犯した狂いは2つある
①己の出自の卑しさ、及び卑しさを覆い隠す嘘がなかったこと
②生殖能力の欠落
①の犠牲になったのが秀次ら「秀」の名前がつく人々、②の犠牲者の筆頭は正妻の寧々、皇室の八条宮が挙げられる。
一代で名をなした男にとって、彼の右腕になるべき人材を身内に求め、思うように事が進まずフラストレーションが溜まった挙句に無謀な拡大策を採っていき、破綻への末路の導火線を準備してしまった。
後世の我らからしても、当時の客観的に観察できた武将(家康など)からすれば愚挙としか思えない行為なのだが、当の本人は大真面目だったから始末に負えない。
ナンバー2のときにはキラキラと輝いていた専務が、いざ社長になると暴君に変化してしまうという企業は規模に関係なく、いくらでも存在しているだろう。

秀吉は信長に仕えるために生を受けた人物であった。
信長が本能寺で紅蓮の炎に消えたときに、秀吉の能力も消滅した。
光秀は信長だけでなく、秀吉も殺したと言える。
この考えは飛躍しすぎだろうか?

信長亡き後、天下を統一するまでの秀吉は亡き社長のビジョンを受け継いだ専務に過ぎず。
天下統一後、彼にはどんなビジョンも見えていなかった。
ビジョンがない男が社長になれば、財にものを言わせてひれ伏すことを強要していくようになるだろうし(朝鮮出兵)、名無しだった頃に憧憬を抱いたもの(お市の娘として淀殿)へ執着していくようになる。

ナンバー2のポストにいる人への戒めとでも読めるだろう。
翻って言えば、ナンバー1の座にいる人間が謙虚さ、誠実さ、心の平明を喪失しないように(喪失しているときは思い出すように)する1つのバイブルとして読むべき本んだろうと思う。









2012年9月20日木曜日

99ブルース

「99blues」
初出は「Cafe Bohemia」

歌詞に言う。
フェイクしたスマイルはとても淋しい
フェイクしたスタイルはとても淋しい

私が属する今の組織、何もかもが表に浮かび上がる事象、現象を並べ立てて「できている」「できていない」と区分けし、選別し、その結果に対して責任を転嫁しているように感じる。
あるいは、転嫁すらすることなく、責任を放棄しているのではないか?と感じることも増えてきた。
経営者は目の前の効率を希求し、組織を縦割りにし、セクショナリズムに溺れている。
Aという結果はXという組織が為した結果だと決めつける。
その裏にはYやZといった協力者がいるかいないか、それはどうでもいい。
そんな風潮が蔓延している(ユーモアもない、真実もない)

そこで成功したといって笑っている経営者(得意げな顔したこの街のリーダー!!)の笑顔は淋しいを通り過ぎて「さもしい」と映る
高効率で高生産な結果を出したという資料(シナリオのちぇっくに忙しい!!)を作成することを義務づける組織のスタイルは淋しいと通り過ぎて「呪わしい」

3ヶ月に一度の本来大切なことは打ち出した方針に対して正しく進めているのか、いないのか?
を確認しあうこと。
それがすり替えられている、経営者にとって都合のいい事象(ビジネスのSexuality!!)に。

でも。
この文章は何も私が属する組織に留まらず、これを読んだ人の組織にも当てはまるのではないだろうか?
そして、もっと想像することが怖いのだが。
この日本という国家組織にも当てはまるのではなかろうか?

この曲は何度も連呼する
「いつも本当に欲しいものが手に入れられない」と。





クライマーズ・ハイ

「新・平家物語」を読むスピードが、何をどうしても上がらず、我が読解力は老化の方へ向い始めたのだろうか?
ということを確かめたくなった。
結果を書くと、読み進めるスピードは概ねこれまでと同じだったので安心した次第。
一冊ものでベストセラー、現代を舞台にしたものがよかろうと思い、この「クライマーズ・ハイ」を手に取る。
およそ一年前に読んだ「沈まぬ太陽」と同じ「日航機墜落事故」を扱ったこの本も「沈まぬ太陽」同様、数年前には映画化されている

あちら(「沈まぬ太陽」)が事故に向かって求心的なのに比して、こちら(「クライマーズ・ハイ」)は素材として扱っているように感じる。
こう書くと作者が事故に対して真摯に向き合っていないように感じる方もいらっしゃるかもしれないが、作者自身がこの事故時にリアルタイムで取材の当事者になられた経緯があることを思えば、当時の生々しさをありのままに伝えることが「悼む」ことではないという思いが強いのだ、と考える。

文中に、群馬県に墜落したもらい事故だとボヤく主人公らの声があるけれども、それだって決してあの事故に遭われて命を落とした方々やご遺族に対して冒涜しているような表現には感じられない。

チャンス、成功、栄光、そういった類を目前にして主人公は時に決断を誤り、時に決断ができずに挫折を味わい、コンプレックスに苛まれる。
結果として彼は名声を得ることはなく、一地方の記者で社会人人生を終えてしまう。


「降りるために登るんさ」という親友の言葉。
様々な考えがよぎった。
誰もが人生のピークを迎える。その頂から足元をふらつかせずに降りていくことは想像以上に難しいい。
いや、頂から降りるときのことを考えて生きている人は稀だろう。
私、現在この主人公悠木と同じくらいの年齢を迎えている。
仕事面でいけば、今が一番巷間に言われる「脂の乗り切った時期」なんだと思う。
いつかは衰え、後輩に座席を譲るときが来る。そのときに潔くありたいと考える。
それができるかどうかは未知のことだが、「降りるために登るんさ」の答えは私にとってはそういったことだ。






2012年9月2日日曜日

ラ・ヴィータ・エ・ベラ

「La Vita e Bella」
次作アルバムで初お目見え予定

3.11の大震災の翌日に佐野元春は自身のWebsiteで詩を披露した。
「それを希望と名づけよう」という詩、それがこの「La Vita e Bella」の源泉なんだと信じている。

震災の2日後に迎えた誕生日、人々がただただ途方に呉れて、被害に遭われた方々への哀悼の意を表す手段としてあらゆるものを自粛していこうとする中で、佐野元春は
「君が光を放つことで、友を弔うんだ」
と、メッセージを発した。
受動ではなく能動で行け!というメッセージに、私は衝撃を受けたし、勇気づけられた。

私には大震災ほどの劇的な出来事は発生していないけれども、それでもこれまでの人生には幾つかの劇的な出来事が起きて、今がある。
今でもトラブルも抱えているし、思うようにいかなくて自暴自棄になることだってあった。

この曲を初めてZeppなんばで聴いた。
「君が愛しい、理由はない」
「言えることはたったひとつ、この先へもっと」
にシビれた。

次に聴いたのはBlue Live Hiroshima
「朝は誰にでも訪れる」
ごく当たり前の事象を佐野元春は力強く歌い上げた。

絶望に打ちひしがれている人に、その先に待っているのは絶望ではないかもしれない、希望が待っているかもしれない。

大震災に発した災害、事故で途方にくれている人に。
命を軽く扱おうとしている加害者に、被害者に。

佐野元春、生の賛歌、渾身の詩。





2012年8月2日木曜日

新・平家物語 一門都落ちの巻


 巻名のとおり、一門が都落ちする。
維盛、忠度、経正らの都落ちには涙が溢れる。
中央を追われる人間の悲哀に私たち日本人は事のほか涙腺が脆くなってしまう。

入洛した義仲は統治する能力が欠落している。
こんなシンプルな人が、権謀術策の塊のような後白河法皇と相対しても釈迦の手のひらの上の孫悟空のようなものだ。
せっかく入洛したにも関わらず、鎌倉の頼朝、平家に義仲追討の令が発せられる。
義仲の物語は駆け引きが薄く、面白みに欠ける。
地域のいる間は輝いている人が中央に出ると全く面白みに欠けてしまうことがある。
政治だったり、スポーツだったり。それを人は二流と言うのだけれども、二流であることが悪いわけではない
人には向き、不向きがあるのだから、向いているほうに進路を取ればいい。
義仲は、木曾の冠者として君臨していれば良かったのだ。

『本文より』のコーナー

健礼門院に目を向けると彼女の境遇に唖然とする
父、兄、夫が6年で他界している女なのだ。

兄の重盛は逝き、父清盛は亡く、わけて彼女にとってまたなき夫君の高倉天皇も若うして崩御られた
あまりにも人の命の明滅ははかなすぎる
(9巻234頁)


私は詩が好きなんだろうと思う(ふっと自覚することもある)
詩の魅力とは行き着くところこれだ

歌には興亡もなく栄枯もない
(9巻274頁)

平家の「甘さ」でもあり「思いやり」でもある
こういう側面に平家に哀れみを憶えてきたんだし、これからも憶えていくんだろう。
これが日本の国民性でも繋がっているのかもしれない。

平家は在京中の東国武者を監禁した。当時斬るべしという世論もあったほどである。
しかし、平家はこれを斬らなかった。それのみか行状によって捕虜の扱いさえ解き自由の身として六波羅において来たものだった。
(9巻319頁)

後白河院、この人がこの時代に存在したことが混乱の根源なのかもしれない

世の転変に当たっては院のこういう無節操もまたやむを得ないものなのか。
(9巻349頁)

義仲、行家。両雄並び立たず。(二人が両雄と呼べるかどうかは別として)

木曾入洛のその日、初の院参に、もう光長といい、兼実といい義仲、行家の両者のあいだにどっちもおのれひとりが良い子になろうとする増上慢のきざしがあったといみじくも看破していたのである。
(9巻351頁)

追い詰められた義仲が色情に溺れていく姿、三国志の董卓や呂布もこういった傾向に陥る。
男の本能とて子孫を残そうとする。それが色情にうつつを抜かすというように見えるのだろう。
実際、この立場に置かれれば私だってそうなる可能性は高いように思える。

なぜかかれは享楽に性急だった
(10巻24頁)

おん母建礼門院
主上都落ち
古巣焼き
維盛都落ち
読み人知らず
「青山」別離
池殿引返し
歯がゆいお人
赤とんぼ
墓前管弦講
政変後白河記
義仲入洛
公卿座の眼
やどり木
万戸の戦き
肉縄
朝日将軍
冬姫
猫間の中納言
御鞭
二人の小天子
ただよう平家
宇佐祈願
水島合戦
慮囚の将
瞋恚の帳
質子消息
なぶられ孤児
御簾一重
冠放棄
雪泥
天魔の府
姫秘事


新・平家物語 くりからの巻



木曾義仲を中心にした物語となる。
平家から源氏へ政権が移る中間に存在した覇者の物語
彼が信濃から北陸を経て京に入って行くまで。
武辺の人でありすぎ、また無邪気な人であり、同時に無頓着な人でもある。
こういう無垢であり、同時に野蛮な人が、策士の行家とは協調していくことは難しい。

木曾義仲に対して、あまり好意的な感情が湧いてこない。
こういうタイプに人は私の周囲にもいる、体育会系の自己中心的な人。
そんな人とはどうしても肌が合わないので、読むペースも上がらない。

斎藤実盛の忠義が美しい。

『本文より』のコーナー

行家のことをバッサリと言い切る頼朝の書簡

いわゆる獅子身中の虫と申すべき軽薄な士で頼朝の迷惑もひとかたではない。
(9巻23頁)

そうなのである。
「そう」とは平家から戦を仕掛けたことはないということ。

もとより戦は平家の好むところではない。従来いつどこに起こった戦いでも平家方から手出しして起こした例は一度もないのである。
 (9巻28頁)

時忠の印象が随分と変わった。
只のヤンキー兄ちゃんが、幾つもの修羅場を乗り越えて大きな人物に変わっていくような印象

むかし鶏持ち小冠者と呼ばれた頃の不良少年魂が良く磨かれて元来のふてぶてしさに、学問と気品を加えたものが今日の時忠であった。
(9巻42頁)

頼朝と義仲の人物比較
確かにズケズケ文句を言われても、それが尾を引かないように聞こえる人がいる。
この点に関しては、義仲に対して好意を感じる

義仲に比べるとおなじ甥でも鎌倉の頼朝ははるかに行家に対して慇懃だし、扱いも応対も物柔らかで丁重である。
だが時によるとその頼朝の温言にはむっと腹が立ってくる。そして意趣遺恨の根にもなるのだった。
ところが義仲の場合は今のような毒舌にかけられてもなんとなく腹は立たない。
(9巻134頁)

【収録】
揺れ山吹
質子
御車返し
龍爪
仙童
虹に染まる手
耳遠き武者
燧合戦
にらみあい
美しき奴隷
倶利伽羅迷路
火牛
半弓禍
将軍と長き黒髪
軍婢
若やぎの壺
安宅・篠原
実盛最期
入洛布石
閨房陣
堂上堂下
痴夫と剛妻
かれの国造り
前夜相


2012年7月27日金曜日

新・平家物語 三界の巻

平清盛の存在は歴史で学んだ際に受けた印象よりもずっと遥かに巨大であったのだろうということがこの巻でよく分かった。
清盛の死因、この小説では「瘧」現代で言えばマラリアによるものだとしている。
マラリアでは即死亡することは極めて低い可能性なので、幾度も清盛が寝込んだことも多かったのだろう。
寝込む都度「平家もこれまで」と、後白河院、公卿、山門、そして東国の源氏も蠢動を繰り返していたのではなかろうか。
露見してしまったのがたまたま鹿ケ谷の陰謀であり、以仁王の叛乱だけで、議案に乗るだけ乗って実現しなかった企てはもっとあるんだろう。
灰になってしまったから歴史の舞台には登場しない企て。
どんな人がどんな企てをしたのか?そういった下郎なことに清盛は関わっている時間もなかったのだろうが、そういった存在を根底から潰そうとして、日宋貿易、福原遷都だったのだろうに、と清盛に同情したくなる。

以仁王の叛乱から始まった打倒平家のムーヴメントに木曾義仲が名乗りを上げる。
およそ都とは大きく異なる風土の木曾で。
女も戦闘に加わり、獣を食す。
鎌倉とは一旦質子を出して和睦し、木曾は北陸を経て都へ向かう。



『本文より』のコーナー
義仲と葵の愛の深さを描いた文章。
とても美しい。
長いけれど、紹介しておきたい。
戦中は男女の愛がとことんプラトニックなのものが礼賛され、ともすれば恥ずかしいことと決めつけられていた時代の延長線にあった時代。
ともすればフィジカルな愛を否定していた時代であることを考えると、この文はとても刺激的なものにとして印象付けられたのではないか。

戦の日の葵は義仲の戦友であった。そういってもおかしくない。
戦友でありまた恋人でもあったのだ。
戦は死を賭すもの。恋も死を賭すほどなものである。
ふたりの愛の燃焼が世の常の契りでなかったのは当然であろう。あらゆる辛酸をともにし、生死も一つとちかい、あす知れぬ戦場のちまたを手に手をたずさえてゆく青春の男女がいかに強度な愛情を醸し出すか血の出るようなくちづけを味わうことか、他人のうかがいうる境地ではない。
(8巻171頁)

葵について
体育万能の別嬪な女という印象
2012年の今旬な女性で言えば女子サッカーの川澄選手あたりかな

義仲の性格について
野蛮なタイプの人でありながら皆に愛されるタイプって周囲に一人ぐらいはいるよねぇ。
他界されているけれど勝新太郎あたりがイメージしやすいかも。

この人の性としてじつに憎態にものをいう。
またよく傍若無人にあたりをあざ笑う。
けれど笑うにはいつも大口を開いて笑い、きゃっきゃっといって膝をたたいて笑うのだ。
天性美貌な人なのでそれが無邪気にも見え、天真爛漫といった美しさにすら見えることもある。
(8巻180頁)

.....それにしても源氏よー、とでも言いたくなる文章。

父たる義朝の代においてすでにもう源氏党では骨肉喧嘩の血みどろをやり合っていた。
(8巻189頁)

若い公卿らが、平家ばかりが栄えている現状に不満を持っている。
この事態の経緯は平家が強奪したのではなく、旧政権の腐敗にも遠因があるのだと言う。
現在でも若者らが不平不満を言うけれど、それは「大人が悪い」と決めつけるのはいかがなものだろうか?

かれらの年齢では貴族末期の腐えた世代と、その後の世代との比較が持てなかった。
社会が見渡せた時は既に平家全盛の時代だったから世に思う不平はすべて平家の悪さに見えていたのは是非もない。
(8巻289頁)

清盛の葬儀はひっそりと行われた。
後の信長同様、(出家こそしているが)清盛も無神論者
葬儀は盛大に行われることに越したことはないのだが、偉大なる為政者にとっては死んだ後のことなんてどうでもいいんだろうなぁ。
栄耀を一世に極むといわれた人にしては余りにもうら淋しいばかりな葬日だった。
(8巻341頁)

繰り返し繰り返し文体を変えては書かれる内容。
この時代の家族のことを考えていたけれど、作者吉川英治は企業活動でも一致団結する平家タイプの企業が日本的な望ましいと考えていたのかもしれない
平家は一門ことごとく一心同体の平家だが、源氏は一蓮托生の仲ではない。
(8巻374頁)

【収録】
葵と義仲
君見ずや
大地の乳
大夫坊牛鞋録
岩茸と運は危ない所にある
権守返上
巴と葵
木曾殿稼ぎ 異聞頻々
「玉葉」筆者
右京大夫がよい
入道発病
二位どの看護
医師詮議
火の病
無事是貴人
麻鳥拝診
白眼子
往生三界図
三界図その二
征野管弦回向
叔父御と甥御
墨俣渡し
渦の中
山岳遁走
踊りの輪
朝めし前
露団々
聞こゆる木曾を眼に見ばや
謎めく卿
弁財天喧嘩
内訌

アメイジング・スパイダーマン

原題「THE AMAZING SPIDER-MAN」

前3部作は映画館では未鑑賞、テレビでチラチラと鑑賞したことがある程度。
幼い頃(小学3年くらいかな)戦隊もの(ゴレンジャーとか)のつなぎとしてスパイダーマンが放映されていた。
大人のおじさん(とはいえ20代の若者の設定なんだろうが、小学3年にしてみれば20代はおじさんダ)の勧善懲悪もの。
そのスパイダーマンがプロトタイプの私にとって前作のスパイダーマンが普段は弱々しい草食男子という設定に馴染めなかったことも相まって、印象が薄い。
敵役のウイレム・デフォーに「えぇ!もうちょっとシリアスな映画に出たほうがいいんでないのー?」と思ったことぐらい。

今シリーズを観に行こうと思ったのは、
①スパイダーマンのスーツの質感がかっこいい
②予告編で観たスパイダーマン自身の目線でNYのビルや街を跳躍する
③主演の男の子の表情がイイ感じ
上記3ポイントに加えて、連れが「3Dで観てよかった」ということば。

さて、連れは「3Dだけ(楽しめばいい)、ストーリーはどうでもいいのよ」との談。
だが、私はいろいろと感じたのだ、別に感動というような大層なものではなく。

懐かしい学園ものとしての要素
舞台設定は(前作同様)高校。
遥か25年前に感じたトキメキを僅かに思い出す。
主人公と想われ人がめでたくキスをするシーンがあるのだが、初キスした事実ではなく、高校生の頃に大好きだった片思いの彼女とキスをすることになっていれば、こんな感じでキスしたいなぁ、と。

そして次に。ヒーローものとしての要素
高校生よりも遥かに時を遡り「仮面ライダー」に憧れていた幼児の頃の気持ちを思い出した。
男の子であれば、誰しも変身願望がある。
この作品の上映前には「アベンジャーズ」の予告も相乗効果(笑)
観ながら、変身願望が高まってしょうがなかった。
ウルトラマンではなく、仮面ライダーに憧れる理由が分かった。
それは「等身大」であるということだ。
「アベンジャーズ」でも惹かれるのは「アイアンマン」、巨大になる「ハルク」には魅力を感じない。
そこにリアルさを感じられるかどうか?その尺度が等身大なんだなぁ
ヒーローものですらリアリストな側面があるということか、クソッ!!(苦笑)

鑑賞動機でもあったのだが、主演のアンドリュー・ガーフィールドの表情が予想以上に良かった。
この人も「ソーシャルネットワーク」が出世作の人とのこと。今更ながら鑑賞に赴けなかったことが悔やまれる。
......それにしても、この人の表情はいい。
スパイダーマンでありながら、マスクをしている時間よりも外している時間のほうが長かったように思えるのだが、それは彼の表情を監督が求めたからなんだろうなぁ

ガールフレンドのグエインを演じた女の子(エマ・ストーン)も目元パッチリで好みのタイプだ。
ジョディ・フォスターに似ているかな。
現在23歳、うーん、淫行罪には問われないナ、よし(喜)

この作品の前に鑑賞した「崖っぷちの男」ではエド・ハリスが老けてしまっていたが、今作ではサリーフィールドもおばあちゃんになってしまってた。
可愛い甥っ子(ピーター)の秘密に気づきながら見守るしかない叔母さん役。
叔母さんと呼ぶには....もうちょい若づくりしたらいいのに。


2012年7月22日日曜日

新・平家物語 かまくら殿の巻

 新宮行家が令旨を無節操と言っていいほどに東国の源氏に撒いたことで、各地の源氏に波紋が起こる。
最たるものが頼朝であるものの、石橋山で敗北した報を聞くと次は木曾義仲へ頼る。
関東地方を地盤にする源氏は次第に頼朝を棟梁と仰ぎ、義朝らが地盤を固めていた鎌倉を本拠地にに定め、勢力を増強していく。
対する平家、清盛の老化は進み彼を継ぐべき跡継ぎが見当たらない。
老化が進んだ清盛にとって敵は源氏ばかりではない、山門も危険な存在であり、それに繋がる院にも目配りをしなければならない。
四面楚歌状態の清盛にとって、関東や木曾の勢力よりも比叡山や奈良の山門こそが平家を危うくする存在だと認識していたのではなかろうか。
そういった考えの清盛にしてみれば富士川の戦いでの敗北は身内の情けなさに憤慨しまくっただろうし、同時にガクッと来たことだろう。
自分がしっかりしなければならないという責任感を負うには清盛の肉体は耐え切れなかった。
引退した社長が経営再建に再び就任してもあまりうまくいくことは少ないように、平家は次第に弱体化していく。

『本文より』のコーナー
斎藤実盛、という老武将
この人は先に義朝に仕え、この時点では宗盛に仕えている。
この時代の忠義は後世の忠義とは異なり、その時点で仕えている棟梁にこそ仕えることこそが誠の忠義だとする。

おたがいの立場と考え方は自由であった。充分理解しあえる仲の友であった。
(7巻409頁)

頼朝は偉大である、王者とはこうでなければ精神がもたないのかもしれない。
いや、或いはこの時代はまだ根絶やしにするということが定着していなかったのかもしれない。
「家」を根絶やしにする、という発想は「織田信長」からなのかもしれない。

頼朝の真意はたれにも分からなかった。人々はただこの主君の反面に奇異な一性格を見出しただけである
(7巻441頁)


義経悲劇の前哨戦

下部と下部との感情はまた違う。鎌倉殿の直臣たちは九郎殿山の家人というと陪臣か外者のように差別した。
(8巻61頁)

源氏は平家から政権を奪っても僅か三代で滅びる、その主因は詰まるところこの言葉に要約される
これは佐竹を滅ぼした頼朝に向かって佐竹の家臣が吐露する言葉
「主家の滅亡を悲しむのは多年その家に仕えた人間の自然の情です、別にみっともないとは想いません。それよりも元を正せば佐竹一族も源氏です。なぜこんな同族の合戦に訴えないで和の道をおとりくださらなかったのか」

頼朝の性格

必要に応じては時に人命を断つことさえなんともしない風がある。峻烈かと思えば優しく、冷酷と思えば温かそうでもあり
(8巻67頁)

吉次の存在意義は武器商人

この戦争を能うかぎり大きくさせ、また長引かせるにある
(8巻77頁)

清盛の敵は何も武力をもった勢力とは限らない。
武力もなく、思想もない民衆の怨嗟も反平家の勢力になるには充分であった、ということ。

都心を追われた浮浪や餓民は蝗のように農家の貯穀を食い荒らしてゆき、あらゆる悪事と悪風をまいて歩いた。

いつの世も、同じことの繰り返し。今日もきっとどこかの会社で、学校で、官庁で武闘派と文官がもめているだろうし。

しょせん文官と武官とは一朝一夕には解け合えませぬ
(8巻123頁)

偶然は偶然ではなく、必然だというときがある。文章が綺麗

人為のほかな人為がある。何か眼に見えないものがこの世を動かしているのではないか。そう疑われもするような偶然や不可思議な作用がこの世にはある。
(8巻138頁)

意思とは別の次元で決めることがある。世間で言うところの「神の声」これも文章が綺麗

自分以外のものが自分をしてこうさせたのだと思う。日頃の小心な自分では決断しえないことである。
自分に代わって何ものかの力が二人(重衡と通盛)を呼び寄せたものだろう。
(8巻144頁)


【収録】
中立圏
日和見くずれ
北上
広常参陣
野彦
月見る人びと
怪異譚
征鈴
斎藤別当実盛
風流陣
御台所返り
けだもの処分
水鳥記
維盛不戦顛末
ちぢに思いを
黄瀬川対面
かまくら日誌
九郎殿衆
創府手斧屑集
死の商隊
露衣風心
夢野の夢
龍虎相泣く
浮巣の都
髷切り事件
馬と鹿
灼身大仏・嘲人間愚
耳に飼う蝉
春なきおん国母





2012年7月21日土曜日

崖っぷちの男


原題「MAN ON A LEDGE」

素晴らしく面白いわけではない。クソっとつぶやくほどつまらないわけでもない。
サム・ワーシントン、アバターでの成功がアダになっているのかなぁ、スターと呼ぶには風格が滲み出てこない。
序盤は特に眠たい展開が続いたし、実のところ10~15分は眠っていた。
だが眠っていてもノープロブレムだったかもしれん
と、いうのも。
人物像の掘り下げ方が甘い。
誰も彼もが中途半端だと感じる(←「寝てたお前が言うな」って声を無視)
ニックが自殺するわけじゃないことはすぐに分かるんだから、「じゃぁ、今からどんなことが起きるのだろう」スリリングな場面を設ければ、かなり面白くすることができる。
スリルは別にニックに限定せずとも、女性交渉人が失敗してしまった過去の事件でもいいし、エド・ハリス扮する悪徳実業家の周囲で何か一つ彼が悪徳ぶりを遺憾なく発揮するような事柄とか。
スリルが欠落しているから眠たさを増長している。
本当に序盤に一つの山場をドン!と打ち上げていれば、印象はもっと上昇可能。

中盤に入る頃になり、弟と恋人が向かいのビルでやろうとすることは理解できるけど、そのスキルが不明
恋人の色気は男性客にはありがたいサービス。
彼女のショッキングピンクなランジェリー姿がGOOD!!
でもね。
それよりも盗みのテクニックとか美学のシーンが欲しかった
ルパン三世でも峰不二子の色気は、ルパンたちの美学があればこそ映えるのだから。

女性交渉人、ニックとの交渉を深めていくことで彼女の中に芽生える感状やシンパシーが盛り込まれていない
この映画のもうひとりの主人公だからこの事件を経て彼女の成長や心の回復に触れられていないのも寂しい

序盤に眠ってしまっても、後半にニックたちが追いかけている目的の「もの」がないことが分かってからの展開の頃にようやく目が覚めてもいいかもしれない。

ドキュメンタリーを舞台としてきた監督さんだという。
そんなキャリアの持ち主なだけに群衆の動きが変化していく姿がうまく表現できてないと監督自身も不本意なんじゃないかな
女性レポーターもしかり、最後にニックに手助けをする群衆の一人もしかり。
ニックが群集の集団心理を操作していく過程が表現できれば、と残念に感じる。

エド・ハリスが老けてしまっていた。
もともと皺の深い人ではあるのだけれど、登場したときに「あ、おじいちゃんになってしまった」と感じた。
ね、製作会社の皆さん!!もうちょっと過激な役どころ演じさせて若返らせなきゃ!!






2012年7月18日水曜日

荒地の何処かで

「Wasteland」
初出は「COYOTE」

佐野元春を語るうえでは欠かせない単語が幾つも登場してくる
「荒地」「何処か」「口ずさむ」「君」「月」

「2012初夏のツアー」でこの曲をPLAYしてくれた。
COYOTEツアーのときは原曲に忠実にPLAYしていたけれど、今回は少しアレンジが加わった。
キーボードの渡辺俊介クンの伴奏が心地よかった。
その伴奏時に俊介クンの隣でノッている元春クンがかっこよくて、あぶなっかしくて、素敵だ。
そう、このときの元春は56歳ではなく、まるで少年のよう。
だから「クン」づけで呼びたくなる。
もう一ひねり加えてくれたら、LIVEで栄える曲に仕上がっていくような予感がしている。

感激のLIVEから3週間を経ようとしても尚、あのキーボードのフレーズが脳内で再生されているので書き留めておく。

2012年7月17日火曜日

スノーホワイト

原題:「SNOW WHITE AND HUNTSMAN」

シャーリーズ・セロンを観るために出掛けた。
主役の女の子には大した興味はない。
(クリステン・スチュワートと言うらしい)

鑑賞に赴いた日は週末の土曜日。
仕事を終えて、勢いで出掛けた、従って決して体調は万全ではない、何せ一日立ちっぱなしでいたのだから、足はパンパンだった。
従って、この作品にはプラスに作用する感想が乏しい。
いくらそんな状態だったからという事情を差し引いても、この作品で映画の素晴らしさを感じることは難しいと思う。

起伏のない映画だという印象。
おとぎ話をベースにしているからファンタジーものとして位置づけられるのだろうだが、ファンタジーものにしては真面目に作られすぎている印象。
「起伏がない」というのは「アソビがない」ということの裏返し。
その代表的な例が七人の小人の存在と彼らの言動。
どうしたって彼らの存在はコミカルなもの。
無理せずに観客がクスリと笑えるエピソードなどを交えながら彼らの存在感を際立たせる。
どうしても真面目に映したいのなら七人の中でもトンガったキャラクターを一人に集中させて観客の意識を向ければいいんじゃないのかな。
監督さんはとっても真面目な人なんだろう、だからあれもこれも「きちんと」撮影しないといけない、という声が聴こえてきそう。
それが、私にしてみればメリハリがない。いつ場面が変わるんだろう?ということばかり考えながら鑑賞している始末。
ひいてはこの映画いつになったら終わるんだろうということを考えながら観賞していた。
映画館で途中退場をした経験はないのが一つの自慢なのだが、2回ほど途中退場しようかと考えた。

登場人物に強烈な個性を放つ者がいない。
シャーリーズ・セロン演じる黒の魔女が僅かばかりの異彩を放つ程度、スノーホワイトに至っては売り出し中の女優さんにしてはキラっと輝くオーラをスクリーンの向こう側から放たれているようには思えない。
44歳になろうとするオジサンからすれば「このこわっぱめが!!」といったところだ。
セロンにはもっと肌の露出を増やしてほしかったところだが、鑑賞のターゲットが若年層だから過度な露出を回避したのは理解できるのだが。
若さを喪失したくない。美貌を保ちたいという古今東西を問わず女の願いは行き着くところ裸体に言い表されるのだから、セロンの裸体ってのは重要な演出なんだけどな。
老いていくシーンはあるのだけれど、そういったCGの演出よりも綺麗な裸体が観たかった。
(エロな気持ち抜きで)

悪者を討伐するためにお姫様が家臣と王子様を引き連れていく映画といえば…
そう。
私の永遠のアイドル、薬師丸ひろ子様が犬姫を演じた「里見八犬伝」とカブる。
カブるのだが、以下の3点に於いて私は里見八犬伝に軍配を上げる。
①姫様から発せられるオーラ
1983年の頃の薬師丸ひろ子のオーラは一等星並の輝きがあった。
②姫以外の人物の際立たせ方
これはエキセントリックさと置き換えてもいいかもしれない。
③姫に恋する男の苦悩
翻って言えば、深作欣二は偉かった!!!ということか。

いくら女性が強くなった時代とはいえ、お姫様が兜もつけずに先陣切って軍隊を引き連れていくのはやりすぎだと思う。
里見八犬伝は姫様は「玉」として家臣らに護られながら敵方へ攻め込んでいったし、それがスタンダード。
そのスタンダードを崩すべきではない。
そんな様々な違和感から「別にシャーリーズ・セロンの黒魔女の統治下でもこの世界はさしたる不都合なこともなく廻るんじゃないの?」と思った次第である。

監督さん、もっとガスを抜いたり、力点を置くところを決めてから撮影しようよ!!!



2012年7月7日土曜日

ドライヴ

原題「Drive」


主人公の氏素性を詳らかにするか、しないか?
映画の方向性を決定するうえで、大切なファクターだと言える。

この夏公開される「ダークナイト・ライジング」
バットマンこと、ブルース・ウエインの場合、彼の苦悩を観客に見せる一方、映画の世界での民草には彼の苦悩を見せない。
だからこそ私たち観客は主人公に感情移入していくことになる。
「皆が悪者と扱うバットマンこそ、実は善人なのに」というジレンマのようなもの。

で、今作。
この主人公の氏素性は観客にも劇中の登場人物の誰一人として知らない。
自動車工場のオヤジさんが最も彼との付き合いは古そうだが、そのオヤジさんですら主人公の過去については深くは知らないようだし。
何せ、主人公の名前は分からないままだ。
天才的な運転技術の持ち主である彼、何故表の顔が「自動車整備工」や「スタントマン」なのだろう?
裏の顔「強盗の手助けをするドライヴァー」なのだろう?
過去・経緯が全く説明されない。
説明されなければされないほど、彼の過去に思いを馳せてしまう。
隣の人妻と子供への深い愛情の注ぎ方
(まして、人妻とはセクシャルな関係がない様子)
暗殺者の顔をグシャグシャにしても尚踏み潰そうとする激情。
そういった彼の言動の底辺に流れているものは何なのだろう?
彼は何故ここに住み、さほど裕福でない生活に満足し、夜になると犯罪者の手助けをするのだろうか?
何があったのか?あるいはなかったのか?
何を失ったのか?あるいは得たのか?
ドライヴァーの「これまで」について思いを巡らせるだけでも十二分に見ごたえがあるのに、終わり方がまた小憎らしいほど。
「これから」の物語に思いを馳せてしまう。
続編を製作して欲しい気分も少々あるのだけれど、これは観賞した各自の脳内で製作すればいい。
ひとつの映画によって語られる事柄を仲間と語り合えることが、映画の醍醐味だし、ひとつの映画によってその醍醐味を失ってしまうこともある
きっとこの映画は前者であり、仮に続編ができれば後者に当てはまってしまうように感じる。


表題の筆記体から始まる英文字が筆記体を基調としていたり、流れる音楽が80年代を連想させるようなテイストで、高校生の頃故郷の映画館で鑑賞しているような錯覚を覚えた。
1年半ぶりくらいに訪れたこの映画館、こだわりを感じられる映画館でゆったりと鑑賞できて心地いい。
また、音響施設もいいのだろう、発泡するシーンがあるのだが、2度ほど本当に弾丸が館内で発射されたように聴こえた。