2012年6月23日土曜日

新・平家物語 りんねの巻


この巻での主たる人物は2人
源(新宮)行家
源頼政
両名とも映画やドラマに登場する場合には、どうしたって脇役としてしか登場し得ない。
トラブルメーカーの行家、忍耐一徹の頼政、どちらもメインキャストにするには花がない。
さはいいながら、2005年の大河ドラマ「義経」で源頼政を演じた丹波哲郎の横顔は忘れられない。
その頃の丹波さんは死の直前だった、だからだろうか、頼政が叛乱を起こして炎の中で映し出された横顔のシーンは放映から7年を経過して尚、私の頭に強烈に、そして鮮明に残っている。

さて。
この巻は「りんね」(輪廻)
何を指して輪廻としているのか、吉川英治の意図が私に読み取れない
悔しいかな、この巻はダラダラと読み進めてしまった感が強い。
栄華を極めた政権はやがて滅びるときを迎える、それを輪廻としているのだろうか?

都にて騒ぎを起こし続ける企てを考え、実行させる行家
その被害者とでもいうべき義経
新参の堅田族と古参の鞍馬族、義経の部下らがもめるくだりが、いつの世も保守的勢力と新興勢力との軋轢を見ているよう。

義経と平時忠の駆け引きのくだりはかなり引き込まれる。
義経と弁慶の遭遇場面
義経が後に時忠を赦免する(確かそうだったはず)伏線が張られている

この頃の平家一門は傲り栄えているのだとするのが定説なんだろうが、この小説では平家一門の傲りにはクローズアップしない。
ただ、歴史の中でこの政権は滅ぶべくして滅んだのだと、ごく自然に滅んでいったような印象を受ける。

平家政権というものは貴族政権と武家政権のちょうど中間点であり、武家政権の長所を導入することなく貴族政権の流れを受け入れざるをえなかったのだろう。
平家政権がなければ鎌倉政権も誕生することも叶わなかったのではないだろうか。
滅ぶ政権であれ、この時代に登場する必然性があったのだ、と感じる。


『本文より』のコーナー

偏屈親父、偏屈じじいと呼ばれないためにも(笑)

人は青年期の関門を危険な時代とするが、老境にかかり好い老人になってゆくのもなかなか難しい関門に違いない。
(6巻424頁)

池禅尼が子孫に遺した影響。
彼女は徳の深い女性だったのだろう。それが政権にとって必ずしもプラスに作用しなかった。
そう読めば、政治を司るのは母(女性)なのだ。

禅尼の良妻賢母型のつよい感化が孫の重盛をも、実子の頼盛をもまったく同じ教育の鋳型に打ち込んでいたのではあるまいか。
(6巻425頁)

清盛の性格分析
断固たる決断(後白河法皇を幽閉する)を下しながらも、その決断に自己を苛まれる性格。
多くの人がこの矛盾に苦しむし、そこに人間らしさ、というものを感じて私たちは同情する。
これを断固たる決断を下し、その決断に胸を張っているのが信長さま、最近では小泉純一郎とかかな。

これで、すんだ。まず、よかった、とするよりもひとり心を噛んで楽しまない気持ちのほうが強かった。
(7巻13頁)

うわっ、これって名言!

幻想が不平を育て、不平が幻想を培う
(7巻51頁)

【収録】
策士
結び文
形影
木の下
驢に乗る人
老兵晩夢
官倉の鍵
若き秋・老いの秋
高野川
反っ歯
高札けずり
二人義経
八方やぶれ
坂東訛り
人の子なれば
涅槃の宿
夕花
公達つどい
あわれ月夜かな
泣き弁慶
地震草子
「雪の御所」余震
法印問答
後白河遷し
池殿成敗
幽宮訪鶯記
びっこ
忘られ人
鶏鳴

2012年6月22日金曜日

君を待っている

「Waiting For You」
初出は「TIME OUT!」

会いたくても、会えない
(距離が離れているから)
触れたくても、触れられない
(これも、距離が離れているから)
話したいのに、話せない
(これはいくらでもツールはあるのに)

話をしたいのに話せないときが、時々訪れる
大抵は2人ともが忙しくなって、朝から晩まで馬車馬のように働き、くたびれてしまうから。
こんな状態になっているときを、もっと踏み込んで言えば。
男の疲労度はメンタルが大きい。
女の疲労フィジカルが大きい。

図式にすれば
---------------------------
男:フィジカル<メンタル
女:フィジカル>メンタル
---------------------------
①男は、女のフィジカルがマイッていることに気を配れない。
配れても、その程度がどれほどのものなのか、推察したり、アタリをつけることがいつも難しい。
②女はそこに苛立つ男を恐れ、無口になる(具体的には能動的なコミュニケーションを取ろうとしなくなる)
③男は、無口になる女に、更に苛立つ。
④そうして、2人とも話したいのに話せなくなってしまう。

①になった時点で、自分自身を制御できなくなり、深夜に居た堪れなくなり一方的なコミュニケーションを送り付けて女を疲労させていた。
今回は少しだけ、制御可能な自分がいて、一方的なコミュニケーションを送りつけないようにしてみた。
参考にしてみたのがこの曲の男。
暖炉に火をくべて
を、オンラインにしている、と置き換えてみた。
ところが女曰く、それでは女のことを分かっていない、わかろうとしていないと言う。
うむ、では①のステージを幾つかのステップに分解してみて、どの時点に解決できる事象があるのだろうか?と考えないといけないのだろう。

この曲の男にはそういう気振りがない。
比喩が不的確かもしれないが、『解脱』しているように感じる。
この境地に達せるかどうか、40歳を過ぎて尚届いていないが、50歳になる頃にはたどり着けるのだろうか?
あるいは生まれながら持ち合わせている性分のように思えるから、死ぬまでたどり着けそうもない気持ちもあるのだが。
「TIME OUT!」が発売されたとき、佐野元春は33歳くらい(私は21歳くらい)
43歳の私は33歳の頃の佐野元春には遠く及ばない。









2012年6月21日木曜日

新・平家物語 御産の巻


鹿ヶ谷の陰謀の顛末
多田行綱の存在、今も昔も得てして陰謀や極秘協議の機密が漏れていく原因。
そしてこの手合いの人物は栄光の極みを獲得するか、塗炭の苦しみを味わうかのどちらかに二分される。

鹿ケ谷の陰謀にて、清盛が処刑したのは西光のみ
あとは流罪、しかも一年で許してしまう輩もいたり、と、清盛の甘さを強調している。
その甘さを吉川英治は好意的に書いている。人間臭い人物だからこそできるのだと。
確かに考えてみれば、そうである。
己を滅ぼそうと企てたヤツを許す統治者は稀である。
対極の存在が織田信長ですな。

都から目を転じて
平泉から熊野へ渡った義経のこと。
どうも義経が平家への叛旗を翻したのは平泉あたりだから、この熊野行きがスッと頭に入ってこなかった。
義経が熊野に行くことで、幾つかの後の物語が通じていく。
弁慶との邂逅がそうだし、更に後の合戦での船戦での義経の戦上手はこの熊野で得たものがルーツとつなげていく。

策士、新宮十郎行家の登場。
自分の息子をにせ義経に仕立て上げ、都を混乱させようと企む。
小事で大事は覆せない、行家の思惑は達せられない。


『本文より』のコーナー

いわば、平家覆滅の陰謀は、平家の外のものではなく平家内部のできごとと彼(清盛)は考えていたのである。
木もあまりに樹齢が経つと虫が喰う。虫が喰った根や枝はこれを切って除くもまた仕方がないと思う。
(408頁)

清盛が福原にのめりこんだ動機の1つだろう。
現在、組織の中心にいて宮仕えさせられている人間にも味のある文章に読める。

都にいると、都の狭さ、うるささがやりきれなくなって来るものらしい。
知るまいとすることまで、見まいと思う些事まで頻頻と波状を描いて人間の複雑な心理と動きを神経に伝えてくる小盆地
(423頁)

ああ、歴史で天災の後に滅びる政権が多いのは、偶然ではなく必然ということか。
ならば、東日本大震災の日本は言うの及ばず、今の世界は滅びへのカウントダウンへ入っているのかもしれないと、厭世的な気分に陥る。

天災人災の連続こそ司権者の致命になろう
(6巻38頁)

およそ一国の支配者の衰運か興隆かには天候の順不順などがそれを左右する大きな力であることも否めない。
「悪いときには悪いことが重なる」という俗言は何か一国の変革にも当てはまるようである
(6巻179頁)

清盛と重盛の文化観の相違点について。
スケールがデカいのは清盛だということ。

重盛は我が家の黄金を~かの地に送って我が身一人の後世の幸福を祈らせたが、清盛は瀬戸内の航路を修し、港湾や市街を開き、幾世紀の鎖国主義を破ってかのちの文化を吸収しようとした。
(6巻147頁)

【収録】
おん猿楽
大野の火放け
鹿ヶ谷始末
西光斬られ
小松重盛
「教訓」の事
鴛鴦吟
鬼界ケ島
俊寛と・やどかり
足摺り
御産絵巻
鳴弦
那智の小机
新宮十郎
一つの白帆
にせ義経
鮫女
大宋水鳥図式
雁の驚き
天のとりふね
江の三郎
とある森蔭
燈籠大臣
みじか夜の門
蓮花の怪
仮住居
平大納言時忠
出た答え
唖蝉
堅田の湖族



2012年6月10日日曜日

新・平家物語 火乃国の巻


治承元年、清盛は還暦、頼朝は30歳を超えた頃。

伊豆の頼朝を取り巻いている者達に、新しいムーヴメントが起ころうとしている
若者の血気盛んな団結、恋、老いゆく父母は新しいムーヴメントに呑み込まれていく。
「打倒平家」のスローガンは、平家が憎いわけという理由ばかりではなく、自分たちに陽の当たる場所を求めているような感想を持った。

洛内では、人災により多くの無辜なる民草が路頭に迷い、奪い合う。
貴族は冠位を奪い合い、民を治めることを忘れている
僧侶は利権を院に求めて、民を救うことを忘れている。

この世相は、現在の日本に通じているように感じて仕方がない。
貴族や僧侶を政治家・実業家の類と読み替えれば、どうだろう?


北条政子と北条時政。
政子は頼朝に恋し、許嫁山木を謀ろうとする。
時政は山木へ嫁がせようとするまではぐずぐすするが、山木ではなく頼朝へ嫁がせようと決心する。
その2人を評して、男女の相違点に含蓄。

女は、行うまでは盲目であり、男は事の行われたときからいやおうなしに腹が座る
(230頁)
だから、北条父子の野望の踏み出しは彼女の恋が導火線だったといってよい。
(230頁)

清盛のこと。
結果を知る我らからすれば清盛は政治家おtしては不向きだったと思う人が多い。
では、清盛とは何だったのだろう?というアンサーがこれ

かれは、天性、偉大な道楽者であったといってよい。
(244頁)

当時の世相。この世相を変えることができなかったのだから平家政権は崩壊したのだ。
源氏が打倒平家に燃えたからではない、仮に源氏が立たなければ源氏に変わる別の者が立ち上がり、平家政権を叩き壊すしかない。

地方は原始の野に近いままであり、政治は暴力に動かされ、武力のない人間はすべてあわれなる土民か流民でしかない。
(258頁)
かれら(囚人たち)の素質や環境もよくないが、しかし春の宴舞、秋の管弦とこの世を殿上だけで楽しんで来た古都平安が生んだものだ
(339頁)

山門のこと、今のお寺とは全然異なる、例えていえば暴力団が近い(別の頁でも吉川英治は断定的にそう書いている)
信仰の砦に武力と財力を蓄え、ややもすれば政治的に動く集団があったとしたらこれほど始末の悪いものはあるまい。
(269頁)

【収録】
初暦・治承元年

頼朝のほくろ
政子
虫の垂衣
市に出た馬
初対面
佐々木兄弟
亀の前
雲は遊んでいる
あねいもと
男親
かの女の処理
冬山は燃えやすい
火の国の花嫁
夜の富士
いつくしまの内侍
雪ノ御所
山門猿
土下座陣
「方丈記」断片
菖蒲葺き
虎口
座主流し
怒め坊
弁慶下山記
人里
百面相
鬼若童子

シュガータイム

 「Sugartime」
初出は「SOMEDAY」

フッと、この曲が脳内再生された。

「SOMEDAY」は今年発売30周年だと、佐野さんは6月1週目のMRSで振り返っていた。
昨年(2011年)30周年記念LIVEをしたばかり、1年ほど辻褄が合わないのだが、そういう細かなことにこだわらない大らかな佐野元春に改めて謝意を表明する。
或いは佐野さん、あまり年数の勘定ができないのかもしれないのだが。
まぁ、いいんです。詩人に年月の勘定はさほど重要ではないのだから(笑)

佐野元春フリークとして知られている作家小川洋子さんはこの曲への愛着が高じて同じ題名の小説を執筆おられる(未読)

10年前(2002年のこと)に「SOMEDAY」発売20周年記念盤がCDショップのポスターで告知されていたのが昨日のように感じる。

とはいえ、この曲に出会ったのは「No Damage」、84年の頃か。
今、改めて「NO DAMAGE」を聴き直している。
古びた家で新しいステレオコンポでカセットテープで聴いていたことを思い出す。
B面の「アンジェリーナ」から「彼女はデリケート」までは心地よく聴いていたことを思い出す。
スピーカーを通しても聞いたし、夜はヘッドフォン越しに聴いたことも思い出す。
POPなメロディ、84年、最初に聴き始めた頃は単純にPOPな曲に過ぎなかった。
もうあの頃の瑞々しい感覚を僕は100%取り戻すことはできない。
喪失したがゆえの悲哀。
そして
喪失したがゆえに取得する喜び。

「Sugartime」の詩は、とても深い。

そばにそっといるだけで
永遠の恋を感じてる
そうであれば、次に続くのは
Baby,I Feel Your Love
でいい。
なのに、佐野元春は
Baby,I Need Your Love
としている。
それも2回とリフレインする。(それはメロディラインとの兼ね合いかもしれないけれど)
そして
いつでも、いつもMad Love
と、結ぶ。
「いつでも」=Enytime
「いつも」=Always
敢えて英語にしてみたけれど、「いつでも」と「いつも」は言葉の持つ意図が異なる。
それほどMad Loveを希求している。
Madという単語は決してプラスのイメージではない。
「狂おしいほどの愛」とでも訳せばいいのだろう。


出だしの1コーラスだけを考察しただけで、時間が経過していく。
なぜだかとっても今の気持ち、きっと寂しい気持ちを相手にぶつけそうになっている自分をいっぱいいっぱいになりながらも制御しようとしているのだろう。
I Need Your Love
のフレーズをハミングして聴いている深夜

そんな夜も必要なのだろう。





2012年6月7日木曜日

新・平家物語 みちのくの巻


義朝の遺児の一人、牛若を主人公に迎える。
牛若の反平家の種子を育て上げようと都の北部で堅い結束を固めながら牛若を見守る源氏の家臣たち
天狗と呼ばれる存在は牛若を大切に崇めながら成長を見守る義朝の遺臣らだと定義づけている。

牛若は長じて悲劇のヒーロー義経となる。
だが挙兵するまでの彼の足跡は平泉だけだと言わず、途中で関東に寄ったり、那須与一との邂逅があったりする。
平泉で挙兵のときを待つわけではなく、和歌山へ向かう。
このあたりが新鮮に読める
何よりも驚くのが義経の人となり。

2005年大河で滝沢秀明が演じたような儚げで純真無垢ないい子ちゃんなイメージが義経にはあるのだが、そうではなく、「わがまま気ままなボンボンちゃん不良少年」な印象。
母親の愛情を受けることができずに、養護施設で成長した少年を思い浮かべれば当たらずとも遠からずではなかろうか。

義経と対照的に静かに伊豆で暮らす頼朝
彼の周りにも、文覚上人が流されてきたり、と。何やら静かさを打ち破る何かが萌芽しつつある。





義経の肖像画をご覧になった方は、タッキーはじめ美男子が演じているのに、どうしてこんなにイケてない肖像なのかしら?と思った方も多いはず
その理由を肉体的成長のプルーフとして。

この子には、このように父母との縁も、乳も食も肉体的な幸福は何一つ人並みに与えなかったが、それに耐えうる強靭な意志と智とをさずけてはいた。
(266頁)

平泉へ金売吉次に連れられながらも決して一筋縄で行かない義経。
その人となりに驚くが、所謂グレかけた少年を思い合わせながらいいのかな、と思う。

源氏にとっての平泉。

広大にして平家の勢力もそこまでには及び得ない奥州藤原氏の領野こそは、日陰に生きる彼ら源氏の仲間には陽当りのいい魅惑の天地だったに違いない。
(301頁)

もし、こうした彼に母なる人がなかったとしたら、後の源九郎義経は有り得たかどうか分からない。
たとえ鞍馬を出ても羅生門に巣食う不良の一人となる環境と素質は多分にもっていた
(377頁)

義経のイメージ崩壊、その2
これでみると、牛若の九郎冠者は、剽悍な匪賊か野武士のようで世間にとって油断も隙もならない物騒な乱暴者みたいである。
(13頁)

その不良少年とでも言うべき九郎義経、生々しい敗者の現実を見て感じたこと。
これが、打倒平家の九郎の原動力の最大のものになっている。
この文は第二次世界大戦後の日本の世相と交錯させて執筆されたのだろう。

この武蔵野の一年余。彼はつくづく敗者の生活と敗土の貧しさを見た。
(23頁)

時代に翻弄される女性。常盤御前や皇室関係に嫁いだ女性意外にもこういう女性がいた。
後に義経に仕える継信・忠信の母のこと。義朝と契り、後に佐藤元治に嫁ぐことになる。
つまり、義経と佐藤兄弟は血縁こそ繋がらないが、縁の深い関係。
だからこそ、後の屋島の合戦で身を挺して義経を護衛するわけだ。

この母もまた、この時代の風習がそして男女の社会的結束がどの女性にもひとしい宿命を否みなくさせているように。
奇異な女性の開花をとげて二人の良人を換えていた。
(39頁)

【収録】
天狗道場
童心一途
山祭り
白粉まだら
大天井
吉次隠し
花龍胆
昔噺五条の橋
阿修羅の子
悲母

先物買い
熊坂
吉日
足柄越え
草の実党
醜女ぜめ
浅草寺夜泊
牧の仔馬
春風坂東歌
きのうの船
巡りぞ会わん
比企の局
枯野の青侍たち
ゆかり紫
継信・忠信
奇縁と奇なる日
鳥かご嫌い
黄金曼陀羅
藤原三代
寒流暖流