2013年11月24日日曜日

名盤ライヴ「SOMEDAY」

佐野元春の過去の曲たちを懐かしみたいなんて気持ちは薄い。
80年代であれ、90年代であれ、00年代であれ、10年代であれ、僕にとって佐野元春の曲はいつだって現在進行形の曲ばかりなので。
その日、その時々の気分によって、通勤電車の中で聞く曲はまちまちだ。
「Zooey」を聴いていても、気分が変われば「Back To The Street」の曲にすることなんてよくあること。

そういう僕にとって、このライヴは即座に参戦を決めることは難しかった。
元春が懐メロとしてのライヴを開催したいわけではなことは分かるけれど、集ってくる人びとには80年代の思い出と共に佐野元春を懐かしく眺めたい、という思いを抱いて参戦してくるほうが主流ではなかろうか?という推測があったから。

結果を先に言えば、そんなことは杞憂に過ぎなかった
誰も「昔の元春はかっこよかった」とか「あの頃は○○だった」なんていう会話は聞こえてこなかった。
ライヴ中は、80年代にタイムワープして手を振り上げるプリティフラミンゴがそこかしこに。
誰もが元春の髪が白くなった今であろうが、声がイマイチ調子が悪くても、「2013年の今」それぞれが迎えた「SOMEDAY」を、そしてまだ迎えていない 「SOMEDAY」を模索していこうというアティチュードで楽しんでいた。
開演前・開演後の寡黙さとは裏腹に、ライヴ中のオーディエンスのアツさはとんでもなく高い。
元春が80年代に綴ってきた詩は、エヴァーグリーンな証なんだと感じることができた。

さて、順に追って。
ライヴ前
参戦は大阪、堂島リバーフォーラム。
想像以上の人出、駅から向かう人びとの大半が元春ライヴへ向かう。
おかげで道に迷うこともなく。
川沿いに並んで待つように誘導。
50歳に到達しているような人も多く見受けられたから、平均年齢は40歳代後半くらいだと思われる。
元春ファンは、密教の信者のようなもので、あまりファン同士で会話を交わすことなんてない(らしい)
チケットが番号単位でのブロック分けにも関わらず、「すみません、何番ですか?」などと尋ねる人が極端に少なかった。

ライヴ かっこ内は僕の心の声です
観客側の照明が落ちる
ステージのスクリーンに映写される、カレンダー。
2013年11月24日、そう、今日だ。
(2日前に誕生日迎えたばっかりだぞ、来て良かった)
カレンダーは過去へ、1982年5月21日、そう、SOMEDAY発売の日。
(僕はこの日にSOMEDAYの存在なんて全く知らなかったのだけれど、今では知っているよ)
LPレコードのSOMEDAY、ビニールからレコードを取り出す手。
(ああ、そうだよ、LPレコードってこんなふうにして大切にサイドを持って扱ってたよなぁ)
プレイヤーへレコードをセッティング
針が落ちる
ブツッという針の音
(そうだよ、この針がレコードに落ちたときにこんな音がして、「さ、いよいよだ!」って思ってたものだ)
映像が終了。同時に演奏開始、元春はステージ上。
感激のあまり、ここでうっすらと嬉し涙が流れました。
かっこいいんだもん。
レコードを手に取ってくれたファンの気持ちや思い出をきちんと受け止め、察してくれているんだもん。

A面の曲が終わると、また映像が。
そう来るだろうと思っていたものの、丁寧な構成に嬉し涙が出る。

メロディは原曲とほぼ同じ、というか原曲。
曲の中でシャウトするフレーズすら、元春は丁寧にプレイしてくれた。
(ああ、レコードと同じフレーズだ)
そう感じたフレーズは幾つも幾つもあって、とってもとっても嬉しかった。
真夜中にヘッドフォンで聞いたフレーズ、昼間にラジカセやステレオのスピーカーから流れてきたフレーズ
街を闊歩しているとき、BGMで流れてきたメロディ
それらが、目の前で演奏される。
低音のドラムやベースの音はドカーーーンと腹に響いてくる
高音のギター、サックス(ダディ柴田)の音は耳に心地好い。



チケット代は高額だと思う。いくら名盤ライヴとはいえ。大好きなアーティストとはいえ。
元春の声もツブれ気味だったのも、頂けない。1.5万円のチケット代に見合うだけの声を用意してほしい。
ファンであればこそ、厳しい意見を述べたくなる。


セットリスト かっこ内は私の記憶やら感想
「SUGAR TIME」(出だしで理性ふっとぶ)
「Happy Man」(やっぱり原曲は大人しい印象だなぁ)
「Down Town Boy」(サックスの哀愁感、行き場を探しているBOYの姿が目に浮かぶ)
「二人のバースデイ」(うっひゃー、初めて聴けたよ!)
「麗しのドンナ・アンナ」(あれあれ、印象が薄い曲はライヴでも盛り上がらないんだなぁ)
「SOMEDAY」(ダディのサックスで聴くの、93年の北九州厚生年金会館以来だよぉ)
「I'm In Blue」(この曲は、メロディと詩のアンマッチがいいんだよなぁ)
「真夜中に清めて」(みーーない、とりっぱーーーー)
「ヴァニティ・ファクトリー」(いい感じにロックしてるんだけど、あと一歩パンチがあればなぁ)
「ロックンロールナイト」(ああ、この曲。やっぱいいわ。あ、腕振り上げないと!!)
「サンチャイルドは僕の友達」(銀次がおる!!)

アンコール
「バイバイCボーイ」(うわ、この曲演奏してくれる、レアやん、うわ。アレも再現してくれてる!!)
「彼女はデリケート」(いつものライヴではアレンジしまくり、原曲に近い演奏だなんて!!)





2013年11月12日火曜日

ポール・マッカートニー OUT THERE ツアー参戦に寄せて

残された者の、残された時間を前向きに生きていく姿

遥か彼方の座席とはいえ、同じ場所にポールと僕は存在した。
存在した事実は何ものにも代え難い。僕の中での大きな勲章になるだろう。
(男の子がおもちゃの金バッジを胸に飾ってもらって、エッヘンな感じで誇らしく立ち回る姿を思い浮かべていただくといい)

プレイした曲の6割くらいしか知っている曲はなかった。
でも、それがどうだと言うのだろう?と感じてしまうほど、ポール・マッカートニーのライヴは楽しかった。
ステージ上にいるのはポール・マッカートニーという「人」ではなく、ポール・マッカートニーという「太陽」なんだ。
ごくごく一般的なことを言えば、詩があり、メロディがあって初めて音楽だと言えるし、そこから僕は何かを感じ取っていく。
しかし、ポール・マッカートニーには不要だった。
何も考えずとも、知ろうとしなくても、聴こうと構えなくても、ポールのプレイは僕の中に入ってくる。

曲と曲の間、たどたどしい日本語で挨拶をして、コミュニケーションを取ろうとするポールが可愛らしい。
そして和風な表現になるけれども、謙虚さと素直さこそがポールが誰もに愛される存在なんだろう、と感じた。
ギターを高々と掲げ、しかも玩具のように扱うポール。
裏方さんは、「ああ、落ちたらどうすんですか!?」なって、ひやひやしてたんじゃないかな。
そういうコケティッシュな面がポールの真骨頂なんでしょう。

ここまで書いてきたことと矛盾するけれど、参戦直前にNEWアルバムのタイトル曲「NEW」を聴いて、その歌詞を咀嚼していた。
そして彼がこの曲を歌いだしたとき、「あ、ポールはまだやりたいことがあるんだ!!」という意気込みが胸に響いてきた。

ライヴ中、何も考えないと言いながらも、別の頭は回転していた。
ポールがどういう気持ちで曲を演奏しているんだろう。っていうことに。
ジョン・レノンが80年にいなくなり、ジョージ・ハリスンが2001年にいなくなり、そんな運命を経て歌うビートルズナンバーをどんなことを感じながら演奏しているんだろうな?って。
ワインディングロードでは涙が流れる。僕が初めて手にしたビートルズアルバムの最後の曲で、いつもこの曲を聴くと今はなくなってしまった実家でのひとコマとシンクロする。
そう感じている中で、「ツギハジョンノキョクデース」「ジョージノタメニウタイマース」なんて言うもんだから、冒頭に書いた「残された者が、残された時間を前向きに生きる姿」の感想が染み込んだ。

僕の隣に座った男性は、きっと会社ではそこそこの地位の方。
友人と2人で参戦、「俺がライヴではしゃぐわけにはいかんだろう」そんなオーラが漂っていたのだが、最後のほうでは微かに歌ったり脚を踏み鳴らしていた様子。
「うん、そうだよ。会社では部長とか呼ばれているかもしれんけど、ブチョー、それでいいんすよ」
と、何故か彼の部下になった若者に成り代わり、ほっこりとしながら隣の男性を観察していた次第



30年以上前のことになる。
1982年、中学2年生の僕の音楽教師(女性)はビートルズマニアだった。
当時彼女が為した授業を、今の時代にやればかなりな大問題になるだろう
彼女の授業の大半はビートルズの曲を演奏させ、聴かせることだったから。
リコーダーで吹いた「オブラディオブラダ」、最早英語の授業になってしまった「エボニー&アイボリー」、「ハローグッバイ」は中学2年でも分かる平易な歌詞だったし、「愛こそはすべて」も聞かされた。
音楽の授業は週に1回程度(45分だっけ)、単純に52週とすれば、彼女が教えてくれた総時間は40時間に満たない。
必須科目のような類もあったから(ソーラン節を歌わされた記憶が鮮明に残っている)、僕が思っているよりもずっと少ない時間だったことに驚いている。
反抗期真っただ中、押しつけられる行為には悉く反抗。
ビートルズの曲なんて喜んで受け入れるわけはなく、大嫌いで仕方がなかった。

上記がポールと僕のファーストコンタクト。
押しつけられることは嫌いなのに、このメロディには抗えなかった。
いつだったか記憶があやふやだが、中学2年から3年の頃にかけて、レンタルレコード店でビートルズのアルバム「20グレイテストヒッツ」を借りてダビングして聴きまくった。
カセットテープはSONYのBHF(グリーン)だったことを今でも憶えている。

その1982年の頃ですら、ビートルズは伝説だった。
ジョン・レノンは既に他界し、ポール・マッカートニーはマイケル・ジャクソンと一緒にデュエットした「The Girl Is Mine」がヒットしていた。

ポール・マッカートニーのLIVEに参戦できる機会は、きっと今回が最初で最後になるだろう。
僕自身いつまでも大阪で生活できることもないだろうから。
ポール・マッカートニーが来日することだって可能性は低い、そしてポールにも老いが訪れ、いつかは天国へLET IT BEになるんだから。

恩師の音楽教師は聞くところによれば既に鬼籍に入られているとのこと。
あの頃は本当に反抗ばっかりしていてごめんなさい。
先生のおかげで僕はビートルズに出会えたし、先生が願っても叶うことができなかった「ポール・マッカートニーと同じ場所に存在する」ことができたよ。
ありがとう。




2013年11月10日日曜日

ローマ人の物語 7 勝者の混迷[下]

下巻の裏主人公はミトリダテス王(笑)
きっと大半の人が同意してくれるだろう。
なにしろしつこい。とにかくしつこい。

ミトリダテス王のしつこさから翻って考えられることは、この時代のローマにはつけこめるだけの隙があったのだろうし、近隣諸国に反感を抱かせてしまうような政策も進めていたんだろう、ということ。
ま、もっともミトリダテス王が嫉妬深い専制君主だったんだろう、という推測だってあるんだけれどね。

スッラ
生存中に必死に現体制を維持し続けた男
死してすぐに築き上げたシステムが自身の後継者たちによって葬り去られていくことを、彼は頭の片隅で予測していたような気がする。
予測は当たることになるだろうと思いながらそれでもなお、保守的体制が続く可能性を信じて非情な振る舞い、政策を打ち続けていたんだではないか、と感じている。

私自身はかなりな保守的思考の人間なので、スッラの採った政策には頓首してしまうのだけれど。

塩野七生さんが書いてきたこれまでの「ローマ人の物語」を読んで、【時代は常に変革していき、その時代によって古いものは新しいものに取って変わっていく】ということを学んでしまったので、このスッラの政策のフォロワーではいられないもう1人の自分が芽生えている。
もう一人の自分がスッラと同じ時代に生きていたら、きっと粛清されることになるんだろうけど。

ポンペイウス
エリート中のエリート、そんな感じです。
それ以外にこれといったイメージが湧いて来ない。
この人の感想は8巻以降にもっと具体的に抱くことになるのかな。

奴隷のこと
この本を読んでいて目からウロコなのが、奴隷の扱い方が漫画や映画で観ていたものとは全く異なるということ。
労働を強いられ、自由を奪われている存在だとばかり思っていたのだが、彼ら彼女らにもある程度の自由があり、場合によっては立身出世への可能性も生まれていることに、とても驚いた。


2013年11月9日土曜日

清須会議

公開初日にいそいそと鑑賞に。

うつけ者、織田信雄
ああ、猪狩りが観たかった
原作は先に読んでいる身としては、猪狩りのシーンをどう撮影してくれているのか?
が、最大の楽しみ。
本当に残念なことに、猪狩りは登場せず、かけっこ対決に替えられてしまい、残念至極もここに極まれり。
まぁ、原作のはちゃめちゃな猪狩り(何せ、猪が自分の気持ちを語る)を映像化できるなんて芸当はどなたであれ、できませんし。
織田信雄(妻夫木聡)の馬鹿っぷりの残像を噛み締めながら、再び原作を読み返せばゲラゲラ笑いながら読めることだろう。
妻夫木クン、とことん馬鹿になりきってくれてありがとう!

原作では、登場人物の個性がイマイチ不明瞭だったものが、映画で明瞭になった。
偏屈者、織田信包
彼をここまで表舞台に出してきた
三谷さんの慧眼には恐れ入る
前田玄以(でんでん)は徹底した実務屋
前田利家(浅野忠信)は徹底したダンディぶり
織田信包(伊勢谷友介)は徹底した変わり者
上の三人、「徹底した」と書いたとおり、どこまでもその個性を極めさせていた。

反対にねね(中谷美紀)の描き方には異論あり、です。
原作では、夫秀吉の膨張していく彼の野心に気づき、苦悩する姿も伺えた
ねねというフィルターを通して羽柴秀吉の野心を感じ取ることができたのだから。
映画では、恋女房、賢妻にしか映らなかったのは残念

うーん、ねねが陽気に過ぎる
お市の方(鈴木京香)によって描かれた女の情念の怖さ、これは原作どおり、或いは原作以上に震えた。
映画の展開と、私の気分とがお市の描写にピタリとハマったんだろうとは思う。
兄の部下によって、夫と息子を殺された身
その怨念たたるや、凄まじいものがあったんだ。
この事実に三谷幸喜は柱を建てた。
この大黒柱から物語を展開させたのだから、清須会議そのものよりもお市と秀吉の関係をもっとえぐり出して欲しいところ。
そうなると、きっとR15とかにせざるを得なくなる描写が出てくるんだろうけど。
ポルノティック、サディスティック。そういった類ですね。
ホラーサスペンス作品に仕上がっちゃうか。


2013年11月8日金曜日

謝罪の王様

井上真央にこんな格好をさせた
クドカンが偉いのか
クドカンのリクエストを受けて立った
井上真央が偉いのか

2013年の一大ブーム、連続テレビ小説「あまちゃん」
私の同世代の多くがこぞってこのドラマを楽しみに毎日を過ごしていた。
感化されて、夏季休暇のある晩、宿泊先でたまたまこれまでの放送からのダイジェスト版のようなものをオンエアされていたのを視聴した。
「うん、確かに面白い」
だけど、電源を切ってしまった。
その日は疲れていたという事情もあったのだけれど。

そんなこんなで、宮藤官九郎が撮影したという触れ込みが頭から離れず、未鑑賞のままで後悔するくらいなら、鑑賞して後悔したほうがいいや!!という気持ち、つまり「エイヤッッッ」ってな意気込みでこの作品を観賞した。

作品のプロットは、うまいなぁと思う。
宮藤官九郎の作品を初めて観たのはテレビドラマ「木更津キャッツアイ」だったのだが、時間軸を自由自在に操り、観客をあっと言わせる技術には舌を巻くしかない。
この標語、名言です
そう思えば、頭下げよう、って気持ちが
芽生えるかもしれん
今作でも、「なるほど、そういう風に仕込んでたのか!!」というものがそこかしこに散りばめられており、楽しい。
楽しいのだけれど、うーん。
うーん、ちょっと鼻につくよなぁ、と感じてしまう。

時代の寵児な今だから鑑賞できる映画ではなかろうか。
仮に数年後、この映画を観ようという気にはなれない予感がする。
宮藤さんには、観客が元ネタ(タレントの不機嫌発言やら、友好国家からの王子の訪日など)が分かるから楽しめるんであって、元ネタがわからなくなってしまった近い未来のことを考えてみてほしい、と願う。
私ら凡人には及ばない才能の持ち主なんだから。

うんうんと頷いたシーン
ラーメン屋が湯きりのお湯をお客に浴びせないように様々の行き過ぎた施設を整備していくあたり。
客の阿部サダヲが、いや、そうじゃなくて。と連呼していくシーンは、昨今の何か事が起きる度に過剰に防衛していく企業風土を揶揄していて風刺が効いている。
しかしながら、そうでもしないと、企業がリスクを負い続け、一部の心無い客の「言ったもん勝ち」な風潮への警鐘とも受け止めてしまう。

日本人の美徳、この映画が言う「心を込めた謝る」という行為は確かにマニュアル化されていっている。
礼の仕方なんて下手くそでもいい。
肝心なのは心をこめて頭を下げること。
その美徳を思い出すように促していることを宮藤さんが伝えたいと考えているのなら、私は彼が投げたボールはしっかり受け止めて鑑賞できた。





2013年11月3日日曜日

ゴーストエージェントR.I.P.D

原題「R.I.P.D」


誰もこう言う
「ゴーストバスターズ」と「メン・イン・ブラック」を足して2で割ったような作品だと。
キャッチコピーでもほぼ同じようなことを掲げているようだ。

私もそうなのかなぁ、とか思っていたけれど、フッと80年代に公開された「ハワード・ザ・ダック」を思い出している。
この2人が
何がどう似通っているのか、通じているのか、どうにも他者に適確に説明できないけれど、「ノリ」っていうものが似通っているよなあ、と。

真面目にコメディを撮影し、真面目に演じるハリウッドに脱帽する次第。
邦画だと、このあたりは演じ手も撮影者もどこかしらに「照れ」を感じながら撮影されているように感じるのだが、今作の主演2人及びそのアバター、撮影者も照れを排除して演じ、撮影している。
保安官のアバターである美人モデルがタクシーの窓にグチャっと衝突するシーン、実に素晴らしい!


現世に生きる我々には
こう映る
というギャップが表現しきれてない
ただ、この作品が思うほど大ヒットに至っていない。
その主たる要因はゴーストエージェントとアバターのギャップを鑑賞者にうまく伝えきれていないことに尽きるんだと思う。
ゴーストだろうが、エイリアンだろうが、ゾンビだろうが、エージェントが逮捕する相手は誰だっていい。
何せ、西部開拓時代の保安官のアバターは性も変わった21世紀のモデルになっていることがミソなんだから。
何せ、エリート白人刑事が、アジアのサエない老人になっていることがミソなんだから。

道行くナンパなニイチャンが、モデルを口説いてきているけれど、観客には道行くナンパなニイチャンは保安官に♥な目線で迫っている。

白人刑事のギャップは現世での妻とのコミュニケーションでギャップを伝えることはできていたんだけど、ね。
そこは笑いどころではなくて、切なさが垣間見えてしまったから、観客としてはノーテンキにゲラゲラと笑えないんだよね。

つまり、本筋と関連することでないシーンを活用して、ギャグにしたギャップの表現があればねえ。
この表現が盛り込まれたシーンがを用意してくれんかな。
クスクスとさせるシーンをドッカーーーンとメインに据えて観客に食べさせてくれたら、館内は爆笑の渦に包まれるのに。
そこを小ネタ系で演出しているのがとっても勿体ないと感じる。