2013年8月27日火曜日

インシテミル

推理小説は、二度目に読むと伏線がどう張られているのか?をチェック(粗探し)をしながら読む楽しみ方がある。

インシテミルは2年前の秋頃、日曜日出勤、翌日休みという勤務パターンのレイトショーで観劇した(主役の綾瀬はるかよりも準主役級だった石原さとみのあんよにモえた覚えがある)

映画と原作では登場人物の設定が異なる
原作では2名増えて12名、そして残りの10名も原作に忠実なのは綾瀬はるかが演じていた女性くらい。

そのように映画版と原作では人物設定で読者を混乱させているのだけれど、暗鬼館の建物の構造だとか湾曲している建物内部の見え方といった類が頭で再生されて、ビビッドなイメージが湧いてきた。
リアリストな私にとっては、とても嬉しいことだ。

但し、映画ではどうしたって観客に俳優の表情を見せないと話にならないから、白っぽくしながら非日常っぽさを演出していてけれど、原作の雰囲気はもっと暗いんだろうなぁ、と。

中盤の謎解きから展開が加速する(推理小説ってそうだよね)んだけれど、その加速とミステリーが解かれていく過程が頭の中で追いつかず。
従って、結末だとか、誰がどうなって死んでいったのか?ということがもう忘却の彼方にある。

うーん、もう一つ何かパンチが欲しいところではある。
ミステリー小説愛好家の皆さんには色々とオマージュが散りばめられているようだけれど、そこまで至らない私にしてみれば、「それって何の意味が?」ってところがあって。
インディアン人形とか、チラリと出自を触れてくれないかなぁ、と感じる。

この本からミステリーが好きになる人は少なくて、ミステリー愛好家が寄り道したい本を探しているときに手に取られるような本なんだろう。

ま、ミステリー小説は悪くないもんだ、と思えただけでも私の人生の糧になった。
そういうことだ。


2013年8月18日日曜日

懲戒の部屋

夏休みに読んだ本の一つ

序盤の3作は、マニュアル車両で例えてみるとロー・セカンド、サード、そしてトップといった感じで、狂気が加速して、ブレーキをかけても止まらなくなるような感覚に陥る。
日常的で誰にでもあるような、ふとした落度のような類から物語は始まる。
あなたのことを言っているわけではないのに、あなたのことを言っているように受け止められて気まずくなった。
いつもと違うルートで電車に乗って、切符を買い損ねた。
痴漢の冤罪。
中でも表題にもなっている「懲戒の部屋」は、痴漢撲滅に向けて過剰なまでのキャンペーン(痴漢を擁護しているわけじゃない)が叫ばれている中、シャレにならない、シャレの物語。
こういう未来が訪れることを予測して、そのとおりの未来が訪れているのだから、筒井康隆は「たいしたもん」だし、本当にリスペクトしてしまう小説家だ。

「顔面崩壊」と「蟹甲癬」(蟹工船のもじりですね)は、描写のグロテスクさと、その考証の正確さに驚いてしまう
感想などをエントリーしているサイトを覗くと、この篇を読み終えることができない人も多いらしく。
それをスラスラと読んでしまう私って、感覚が麻痺しているのかなぁ、と、自分の視覚・知覚・触覚が一般的なレベルから逸脱しているんじゃないかと、心配になってきた。

シュールな怖さが訪れるのは「熊の木本線」
登場してくる住民たちに大きな秘密があるのかと思いきや。


「かくれんぼをした夜」は、年齢を重ねて還暦を迎える頃になってから読み返してみたら、人生の儚さだとか、生への感謝だとかをもっとズシンと受け止められるんじゃなかろうかと思う次第。


≪収録作品≫
走る取的
乗越駅の刑罰
懲戒の部屋
熊の木本線
顔面崩壊
近づいている時計
蟹甲癬
かくれんぼをした夜

都市盗掘団


2013年8月9日金曜日

燃えよ剣(上・下)

「菜の花の沖」を読んでいる最中に何度か挫折しそうになり、「どうしてなんだろう?、好きな司馬遼太郎の作品がこんなにも読めないなんて...」という考えが頭を渦巻いていた。
行き着くところ、その主たる理由は菜の花の沖のエントリーでも書いたように、主人公が人物ではなく商品経済だということ。

とことん人間が主人公な本を読みたくなって、燃えよ剣を読み返す。
およそ8年ぶりの再読。
2004年の大河ドラマ「新選組!」での土方歳三はこの本へのオマージュが幾つも捧げられているなぁ、と改めて気づく。
「うぐいすや はたきの音も ついやめる」の駄句とか、ドラマでのシーンが鮮やかに甦る。

以前読んだときは、歳三の組織の構築手法に舌を巻きながら読み耽ったものだが、今回では前半での「猿渡佐絵」と、後半での「お雪」の二人の女性の描き方に興味を持った。

司馬遼太郎は離婚の過去があり、離婚した妻のことを佐絵になぞらえ、後に結婚する奥様のことをお雪になぞらえたのではないだろうか?
何の根拠もないのだけれど、そう思った。
結婚という単語に魅せられて娶り、そして現実の生活に直面したときに、こんなはずではなかった...。という思いが京都での佐絵との再会と情交に結びつけているように感じたし。
大阪で別れを告げたはずのお雪が函館まで訪れてくる話は、男の願望がチラチラと垣間見えているよう、実はこの函館での再会の話は余計な話だと思っている。
大阪での西昭庵での二日が美しく、そこで歳三とお雪は永遠の愛を胸に刻み、別れたはずなのだから。
でもどうしても好きな女には会いたいという作家司馬遼太郎ではなく、男福田定一の願望(であり煩悩)が消えなかったことが投影されているんではなかろうか、と。

今回はそんな、誰もが感動する副長土方歳三の組織の築き方とか、合理的なものであれば新しい知識を受け入れる素地とかのことよりも、2人の女性について考察をしてみた。

また、いつかこの本を読み返すときが来る。
そのとき、どんなことに思いを巡らせることになるんだろう。
まさか七里研之助について考察することになるのかなぁ...


2013年8月4日日曜日

ポルノ惑星のサルモネラ人間

副題に「自選グロテスク傑作集」と記載されている。

文章を読み、場面を想像すると非常に気分が悪くなる描写が見受けられる。
セクシャル的なもの、スカトロ系なもの、スプラッター系なもの。
何でもやりたい放題の描写であり、その描写が事実かのように冷静且つ客観的に筆を進める才能につくづく感嘆させらている。

そして、筒井康隆が如何に多数の本を読み、そこからヒントを得てオリジナルな発想をしていることに尊敬の念を抱かずにはいられない。
「創造」とは、いきなり雷ように閃くものでもないとは思うのだけれど、筒井康隆にはこの推測は当てはまらないように思えてくる。


スラリと読めた作品
妻四態
イチゴの日
偽魔王








2013年8月2日金曜日

終戦のエンペラー

原題:「EMPEROR」
マシュー・フォックス
しゃくれた顎がキュートです
軍服よりスーツがよく似合ってた

2013年、今年は第二次世界大戦時を主題にした作品が多い。
今作もしかり、メジャーどころだと「少年H」「風立ちぬ」マイナーどころでは「爆心 長崎の空」
予告編しか知らないのだけれども、「少年H」も「風立ちぬ」も、戦争に突入していく国家の盲進と国民感情の偏りに警鐘を鳴らしているように感じる。
ここ数年来のアジア諸国との関わり合いがきな臭いし、憲法改正議論、TPP、そして米国との同盟、ロシアとの歩み寄りなど、日本は160年ぶりに開国か鎖国かの選択肢を迫られてきているような状況に置かれていたんだ、と、後世の人たちは学ぶことになるのかもしれないと考えている。

この映画は、エノラゲイが広島に原子爆弾を投下するシーンから始まる。
日本を感じさせる竹の演出
絵になるシーンでした
長崎県出身の私としては、長崎投下のシーンも数秒でも構わないからスクリーンに映して欲しかった。

終戦を迎えて、ダグラス・マッカーサーがタラップを降りるシーンから、いよいよこの作品が展開し出す。
主人公の恋愛を物語の一つの軸とし、天皇に戦争責任があるのかないのか調査することをもう一つの軸としている
前者は余計だ、後者だけに特化したほうがいい、という意見も散見される。
お馴染みの写真
よく再現できていると思うけど
違和感は否めない
けれど、私は両軸で進められたから、この重苦しいテーマから肩の力を抜くことができたんだと感じている。

自分のことは自分以上に他者のほうがよく見えているということが、個人ではよくある。
それを国家に置き換えて提示してくれたなぁ、というのが素直な感想。
日本人は本音と建前で生きているし、曖昧さの持ち合わせは美徳ですらある。
世界基準からすれば、そんな白黒はっきりしない、のらりくらりとしているように写るんだなぁ、というのがよく分かった。
近衛文磨(中村雅俊)、木戸幸一(伊武雅刀)関屋貞二郎(夏八木勲)らの演技を観ていて、巧いなぁと思いながらもどこかしらもどかしい感情が残った。
日本人である私ですらそう思うんだから、日本人以外の人は理解不能な言動に映るんだろうなぁ、と。

真実か、真実でないのか?といった議論をするための映画ではなく、国民性を理解するための映画なんだと思う。
米国人が日本のことをを理解できなくてもいい。
けれども、日本「人」ってはこういった特性があるんだなぁ、ということを知ってもらえれば。

そのような他国人の「特性」に焦点を当てた映画がこのように偏った考えに寄らずに製作される世界であれば、今のこのきな臭い状況も幾らか歩み寄りができていくのかもしれない。