2012年12月4日火曜日

悪の教典

2012年は極端に邦画を観ることが少なかった。
不作の年だと感じている。

2010年、2011年は2ヶ月に1本のペースで観ていたような感があるのに比して、2012年は「ロボジー」と「アウトレイジ ビヨンド」、としてこの「悪の教典」と3本目。
今年あと1本観るのかなぁ…。
候補は「のぼうの城」なんだけど、もう一歩背中を押す何かが足りないように思えて、躊躇う。
榮倉奈々が時代劇に出ることが引っかかっているのかなぁ、あの娘に時代劇は似つかわしくないし、早いよなぁ、と。


そんな中、「これは観にいかんば!!!」(九州弁)と思わせてくれた作品。
原作は未読。
原作を読もうと思わない私が、この原作は読んでみたいと思っている。
映画館での予告編で観たときから強烈なインパクトを残された。

そして、ようやく本編を観て、唖然。
「これは最早映画とは呼べない」
そう思った。
その理由は、詰まるところ「被害者も加害者も一切状況説明や経緯を語らず、心情を吐露もせず」ということだ。
大抵の映画であれば、加害者(犯人)が犯罪を行う、その理由や動機を被害者に語りかけたり、独白したりするもの(サスペンス劇場で「断崖をバックに」なんてその典型だ)
そこに観客は殺人者には殺人者なりの理由があることを知り(それに同情する、しないは別問題として)
そこに観客は被害者の立場や生い立ちに同情したり(邦画の場合、お涙頂戴が過度だというのは別問題として)

そういった、死の恐怖を役者に代弁させることもなく、観客の目の前に「死」は突如として訪れる。
蓮見聖司というサイコパスを演じた伊藤英明の「目」は何の感情も伝えてこない。
この目を見ていると、不思議なことに「カブトムシ」の目がチラついて仕方なかった。
そう、あの目は昆虫の目。
人間の目であれば感情や考えが宿るものなのに。

「怖い」の次元が異なる。
スプラッタとしての怖さよりも、殺戮することに何ら躊躇わずに殺せる人間がいるんだ、ということが「怖い」




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