原題「J.Edgar」
FBIの創始者、名は「フーバー」のほうが通りがいい。「J・エドガー」という名を見てもピンと来なかった。
どうせなら「フーバー」としたほうが万人受けするわかりやすさを持つのに、クリント・イーストウッドは偏屈者だよなぁ、と感じていた。
作品を鑑賞すればイーストウッドが偏屈者というのは若輩者の私の浅はかな考えであったことがよく分かる。
イーストウッドがこの人を通じて炙出したかったものは「公のフーバー」ではなく「私のJ・エドガー」の内面なんだということ。
FBIを創設したのは彼の義憤が発端ではなく、母親の言葉「お前は国で最も権力を持つ男になる」が発端になっているように私は受け止めた。
おそるべくは母親なり。
FBIにせよ、警察にせよ、取り締まる権力を保有する組織。
司馬遼太郎の「翔ぶが如く」は冒頭に警察組織を築いた川路利良が登場する、そして彼が模範としたであろうJ・フーシェの考え方もこの小説で語られる。
この二人のことが、鑑賞中頭の片隅で駆け巡っていた。
秩序の維持、統制を図っていく組織、その組織のトップに君臨する人間は得てして、他者を疑ぐり深くなり、ありとあらゆる権力を欲し、その権力の維持に汲々とし、自身の地位を奪われることを怖れ、更なる権力を欲して自己肥大化していく。
そんな輪廻の中で人間らしさ、自分らしさを確立していくのは不可能に近いこと。
人生の晩秋にエドガーは相棒のトルソンからエドガーが為してきた功績は実はエドガーの妄想であったと告げられる。
どちらが真実だったのかイーストウッドは観客に提示しない。
彼の作品は中立を貫く。
私自身は、トルソンの言を信じてみたい。
エドガーは権力に呑み込まれ、ブラックホールに陥っていった。
自分が為してきたことが錯覚・妄想の類であるとすれば、それまで送ってきた人生を否定せざるを得ない。
そんな人生は究極の無意味な人生だと、背筋が凍る思いがする。
エドガーの関わってきた主要な事件は日本人はともかく母国アメリカでもアーカイブとして多くの米国人の忘却の彼方にあるのだろう。
例えば僕らが「義展ちゃん事件」や「トニー谷の子供誘拐事件」を聞いても過去に起きた出来事だと受け止めるように、この映画での「リンドバーグの子息誘拐殺人事件」だとか「キング牧師の公民権運動」は今を生きている米国人にとっては歴史の一部分でしかない。
「フォレスト・ガンプ」が米国の青春を陽気な側面で描いたものだと定義付ければ、「J・エドガー」は米国の青春を陰の側面から描いたものだと定義付けられないだろうか。
「開放」と「閉鎖」
幾人かの方のレヴューを読むと、事件のことに無知だったが故にあまり楽しめなかったという内容があるが、私はそうではないと感じる。
事件のことを描きたいのではなく、事件を解決したと自負する男の心を描きたいのだから、事件のことを予備知識で保有しておく必要はない。
例えば回顧録を作成する記者に向かって「当時誰もが知っている有名人は誰だか知っているか?」と訊ねるシーン
エドガーに答えは一人しかいない。「リンドバーグ」だけ。
記者に否応なくリンドバーグと答えさせたい、このあたりにエドガーの虚栄心を表現している。
母親とのダンス、トルソンとの殴り合い、JFKとモンローの情事の盗聴など、エドガーにはネガティブなイメージがつきまとっており、どうやらその真実性も高そうなのだが、ここでもイーストウッドは「そうだ」とも「そうではない」とも主張しない。
イーストウッドが焦点を当てたいのは「事実」ではなく「心」だから。
だからいつもイーストウッドの作品を鑑賞すると心にズキズキとしたイタミを感じさせられる。
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