「本」について書くのが1ヶ月ぶり
この「鬼平犯科帳(2)」を読み終えたのはそれ以上も前のことだ。
Blogに書きたいと思いながらも、3月は怒涛の仕事ラッシュ、たまの休日には映画館で現実逃避を繰り返す。
本業である本(自称)については後からでも書けるけど、映画については早めに書かないと記憶も薄れるし。
従って3-4月にエントリしているのは映画についてばかりになってしまった。
ハハハ(失笑)
さて、言い訳及び経過報告は以上にして。
この2巻、以前に読んだ時の粗筋をかなり覚えていたのに我ながらびっくりした。
中でも「女掏摸お富」「妖盗葵小僧」は読みながらストーリーを思い出しながら読み進めた。
結果は知っているのだ。
お富は逮捕されるし、被害に遭った女性らの名誉を守るために長谷川平蔵は即断即決で葵小僧を打首にする。
結果を知っていながら読み進める楽しみ。
葵小僧の話は大抵の男に眠る野卑た欲望を満たすポルノの要素も大きい。
朝の通勤電車の中で読み返すには刺激が強烈過ぎる(笑)
邦画作品もハリウッドでリメイクされることが珍しくなくなっている今、葵小僧の話をリメイクしてほしい。
最近観た映画の監督を候補に挙げてみよう。
デヴィッド・フィンチャー(ドラゴンタトゥーの女)
葵小僧が女を犯すシーンが目を背けたくなるような描写になりそうで、パス。
ジョージ・ルーカス(スターウォーズ)
ルーカスの美女の感性と私の感性は相容れない(あ、エピソードⅠのナタリー・ポートマンは美女ですよ)
ルーカスは自分で空想した物語は上手く映像化できるけど、他者が描いた空想を映像化することは二流の人、パス
スティーブン・ダルドリー(ものすごくうるさくて、ありえないほど近い)
この監督に生々しい性交のシーンを撮影させるわけにはいかない、パス
クリント・イーストウッド
おお。
葵小僧の心の闇をどう描くのだろう?
長谷川平蔵の即断即決ぶりをどう描くのだろう?
オファー!!
ガイ・リッチー
節目節目でヒントを散りばめる作風。
逆回転方式とでも言えばいいのか、後半になって前半の尺がドドドドっと来る感じ
「これはこれであり」かなぁ。
「蛇の眼」
「谷中・いろは茶屋」
「女掏摸お富」
「妖盗葵小僧」
「密偵」
「お雪の乳房」
「埋蔵金千両」
気に入った文章
①15頁
人間と、それを取り巻く社会の仕組みのいっさいが不条理の反復、交錯である
そうなのである。
昨今の日本は不条理を不条理として許さないことが先走りすぎているように思える。
その不条理に遭遇しないように自助努力をしても尚、不条理に遭遇する可能性を抱えて私たちは生きている。
生きていくことは、その不条理とどれだけうまく付き合えるか?
②40頁
女の場合、男の裏切りを知ったとき、男よりも相手の女を憎む
なるほどなぁ。
③57頁
どんな豪傑でも、そのときの気分ひとつ、躰の調子ひとつで、ふるえが来るものさ。
なるほどなぁ、その2
④76頁
(ああもう、たまらぬ)
木村忠吾の言葉。
鬼平で癒やし系とでもいうべき存在、木村忠吾のことば。
馴染んだ遊女のところに行けないときに発した忠吾の心の言葉。
これ、とてもよく分かるんだよなぁ。
⑤119頁
ゆびが呼んでいるのだ
お富が万引きをするときの描写
主語を人間ではなく、名詞にしているのが心憎い。
罪はお富にあるのではなく、彼女に巣食った闇だとする表現。
⑥120頁
習慣は性格になる
なるほどなぁ、その3
⑦266
今日いちにちで、これだけ平気になれたのだから、半年もたてば、もっと平気になれるでしょう
木村忠吾のことば、その2
失恋したときのことを思い出した言葉だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿