2014年7月5日土曜日

グランド・ブダペスト・ホテル

14年鑑賞15作目
原題「The Grand Budapest Hotel」


TOHOシネマ梅田、メインゲートは8F
その8Fから7Fへ降りる階段には話題作品の予告が趣向を凝らした販促物で展開される。
レイフ・ファインズもいいが
ここはウィレム・デフォー!!
「ハンター」の孤独さとは別の孤独さ
怖いっす!!
この作品は、その販促物を眺めてから、面白そうだなぁ、というのが観賞動機。
ウエス・アンダーソン監督作品、昨年春に公開されて遂に観れずじまいだった「ムーンライズ・キングダム」での評価が高かったことが頭に残っていたことも大きい。

ただ、レヴューを読むと、恐らく自分の嗜好とはベクトルがピタリと一致しているわけでもなさげだという予感がしていた。
鑑賞に赴くと大変な鑑賞率で座席は予約満杯状態。
シアターに入ろうとすれば、空調の故障により大変暑くなっております、とのお詫びと無料のウーロン茶配布
後半頃、ひんやりとした空気が流れる。
空調修繕完了した模様でありがたかった。

「ラブリーボーン」のシャーナ・ローナン
少女から女子
クズれず美女になってね!!
この作品は色彩がとても綺麗
予告ポスターのエレベーターの「赤」のキレイなこと。

作品の展開はあんまり理解できないまま進んだけれど、着用しているファッションや、食べ物やそれを包むラッピングの色がとてもキレイ。

コメディカルなシーンが好きで、追いかけっこしているシーンは幼少期に観た「8時だよ全員集合」のようでした。

2014年7月4日金曜日

約束の橋

「The Bridge」
初出は「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」

FIFAワールドカップで、日本代表の戦績0勝2敗1分け、勝ち点1
予選グループ最下位で敗退

W杯以前での日本国内での盛り上がりは根拠に乏しい予選通過を予想。
敗退と途端に、予選でのプレイに批評が集まるのは日本の風土なのかもしれない。
歴史的な戦争でも、日本は根拠に乏しい戦果を無性に欲しがる国民性のようだ。

それは余談
敗退を終えて
長友の男泣き
本田の全自己否定
長谷部の潔い反省
どれもこれも観ていて、涙が流れてくる。
ザッケローニの離任にも潔さが伺えて、好ましい(憶測はしないことにする)

選手たちには、4年後に向けて、再びピッチに立ってもらいたい。
短い期間でのカップ戦なんだから、結果はふとしたことで大きく変わるもの。
今回は運が味方しなかった面だってある。

とにかく、もう一度。

今までの君は間違いじゃない
君のためなら七色の橋をつくり、川を渡ろう

一サポーターとして、この詩を今の日本代表に送る。

2014年6月28日土曜日

300 帝国の進撃

14年鑑賞14作目

原題「300: RISE OF AN EMPIRE」

ムキムキマンって死語、思い出す
前作はスクリーンでは未見で、CATVで視聴。テレビサイズでも「血湧き肉踊る」とアドレナリン全開状態へ誘ってくれた作品。
その続編だという触れ込みに、心を躍らせながら鑑賞に赴く。

この作品独特の血が破裂するような感じでの戦闘シーンの描写は健在だし、男性陣の筋肉の隆盛ぶりには同じ男性として「すげえなぁ」と感じ入る。
でも、何かこうパンチがないというか、迫力が薄っぺらいんだよね。
それは何が原因なんかな?と言えば、「300人で負ける戦だとわかっていても、戦い抜く」っていう前作のような気迫あるストーリーではないから、なんでしょうね。

実を言うと、前作300人が倒れた後の後日譚だとばかり思っていました。
見よ、この男らしさ!!
新たなスパルタ人たちが立ち上がり、ペルシャと戦う展開だとばかり。
ところがそうではなくて、前作と同時進行の展開なのです、それに気づくの時間が掛かったですし、「ん?」と、少々混乱してしまいました。

今作では「エバ・グリーン」が最も男らしい!!(笑)
とはいえ、エヴァ嬢が扮したアルテミシアは不幸な生い立ちだ。
思うのは、オンナはこの映画のように実家から冷たい仕打ちを受けたら、嫁いだ先こそが実家になるんだってこと。
オンナの恨みやおそるべし!!

クセルクセス1世
あれだけの出で立ちであり、オーラもあるんだけど、今作では登場させる意義に疑問を抱きます。
見せ場が...なかったよね。

ペルシャとギリシャとスパルタの立ち位置なり、友好関係を示すような一幕をキョーレツに序盤に展開するという一手もありなんじゃないでしょうか?
翻って言えば、今から鑑賞するひとは、三国の関係をサクっと予備知識に入れてから鑑賞されるといいと思います。

2014年6月22日日曜日

希望

「Hope」
初出は「THE SUN」

元春の詩にしては、とても具体的な単語が並ぶ
まるで、どこかの会社員の男性の周りに起きているようなことをスケッチブックに描いているかのよう。
この曲は「THE SUN」の中でも必ずといっていいほど聴いてしまう曲。
スケッチブックに書き出した具体的な風景の後に、普遍的な詩が並ぶ

中でも2フレーズ目

陽は昇り 陽は沈み
何も変わらないものを
そっと抱きしめて
そうさ 愛しい場所の向こうには希望
いつだって希望

週末この曲をBGMに家事をしているときに、、
この詩とメロディの奏でるハーモニーに、グっと来てしまった。

こういう瞬間は、誰にも奪われたくないし、誰にも説明できない。
言葉での表現を超越した感情が横たわっている。

希望
大好きな単語だ。

ワールドカップ、予選2戦ンを終えて日本の勝ち点は1点。
でも希望はある。可能性はある。
自分への励ましとしてこの曲を送るし、地球の裏側で重圧に押しつぶされそうな代表プレイヤーにも
こういう希望を唄いあげた曲があるんだって知って欲しいと思う。

2014年6月21日土曜日

NY ANNIVERSARY LIVE! ビリー・ジョエル「ライブ・アット・シェイ・スタジアム ザ・コンサート」

14年鑑賞13作目
「NY ANNIVERSARY LIVE! BILLY JOEL: LIVE AT SHEA STADIUM-THE CONCERT-」
原曲に忠実な演奏で耳に馴染みやすい


「ニード・フォー・スピード」を鑑賞しに行ったとき、「Billy Joel」の名前がポスターで目に入る。
中高生の多感な頃に最もよく聴いたミュージシャンの一人だ。
彼が紡ぐ歌詞はとても分かりやすい単語が並んでいて、歌詞カードを眺めているとおおよその意味が通じる。

鑑賞者の平均年齢はとても高くて、例えば鑑賞後にエレベーターで感想を言い合ってたのは老淑女お二人でした。

ライヴの模様をスクリーンで鑑賞するというのは、最近の映画業界の時流のひとつ。
鑑賞に赴いたのは佐野君の「No Damege」くらいしかないけど、観たいfilmは幾らもある。

ニューヨークメッツの本拠地シェイスタジアムで(恐らく)08年に開催されたもの。
ビリーの姿・形は80年代の頃とは大きく変わってしまって(横に大きく膨らんだ、髪が薄い)、うわー、声はどうなんだろう?って思っていたら、杞憂に過ぎなかった。
もう70歳くらいなんだろうに、声も若々しいしエネルギッシュだ。
ポールとの競演
もう言うことないっす!

以下、鑑賞時に頭を過ぎった感想などを羅列しておく。

(1)ニューヨークはとてもオシャレだ、是非一度行きたい。
人生の一つの目標に置いてみようかと感じる(元春のVISITORSを製作した地でもあるし)

(2)「ララバイ」という曲に涙した
この曲は父が娘に与えた曲なんだろうけど、普遍的な詩が並んでいてフッと涙が出た。

(3)米国で愛される曲は日本人には深くは刺さらない
「わが心のニューヨーク」に、観客は大歓声をあげる、勿論日本人の私だって曲は分かるけど。
でも、住んでこそ!のシンパシーポイントがあるんだろうな。

(4)ピアノが上手で、それも観客の楽しみなんだなぁ
元春には悪いけど、元春のギターソロに対しての観客の思いは「元春、よかったねえ」って温かい眼差しで迎え入れてあげる心境
ビリーのピアノは、聴かなきゃ!って思わせてしまうマジックがある。

(5)英語、勉強したいな
学生時代もっとも得意だった科目の英語、彼が歌う英語はとてもわかりやすくて字幕(歌詞)を追いかけながら口ずさめるし、意味も概ねわかるけど。
読解力、単語力の衰えはどうにもならないや、もう一回英語力を養ってみたい。

(6)We Didn't Start The Fire、やっぱ天才だわ
人名と事件を羅列しただけの曲なのにねー。
ノリノリで歌ったよ。

などなど。
冒頭にも書いたように、多感な中高生の頃の甘酸っぱい思い出も幾つも思い出されて(文化祭とか、片思いとか、カセットテープとか)懐かしい。
懐かしさだけに浸らず、普遍的な歌詞にも大きなパワーを頂戴しました。
前日までの研修出張だとか、休日返上して軽くワークをしてしまった自分への不機嫌さとか、そういうネガティブな気持ちを幾つか抱えながら鑑賞に赴いた。
他にも鑑賞したい作品は多く、上映時刻ギリギリに飛び込んで鑑賞した。
このfilmを選択して正解だったと思う。
「音楽は力」、心からそう感じた。

次はBON JOVIがあるので、それも鑑賞してみようかと考えている
(昨冬の大阪ドームLIVEは、不完全燃焼だったしな)

そういや、ビリーもボンジョビも「My Life」をテーマにした名曲がある
その違いがどう僕の胸に響くのだろう?


2014年6月15日日曜日

消えた女―彫師伊之助捕物覚え

時代背景、舞台は江戸の町なのに、頭で映像化されていくのは海の向こうの国、例えばアメリカやイタリアとかの「うらびれた町」

伊之助はミッキー・ロークとか、アル・パチーノとかロバート・デ・ニーロとか。
もう少し若目でいえば、ショーン・ペンとか
もっと若い人で言えば、ジェームズ・マカヴォイとかもいいかも。

女房に逃げられ、しかも情夫と心中された男に、かつての上役から愛娘の捜索を依頼される。
そんな彼には、幼少の頃から相思相愛な「おまさ」という女性がいる。

読んでいるうちに「おまさ」に計り知れない愛しさを抱く。
ずっと伊之助を想い続けている健気さが素敵だ。
男性視点で執筆されている(と思うのだが)、こういうチャーミングな女性はいないよ、って女性諸氏はおっしゃるのかもしれませんが。
こういう女性に慕われてみたいものです。

高麗屋の旦那、極悪人です。
ジョン・キューザックあたりに演じてもらいましょう。
能面のような顔で、頭の中は私利私欲にまみれているような男をうまく演じてくれるでしょう。

高麗屋の女将、色気たっぷりです。
「サイド・エフェクト」で魅せたルーニー・マーラーあたりでどうでしょう?


2014年6月14日土曜日

ニード・フォー・スピード

14年鑑賞12作目
原題「NEED FOR SPEED」
黄色いクルマです
車種を訊ねちゃダメですよ

TOHOシネマに向かう、この日(14日)はTOHOの日で、一律1,000円で鑑賞できる。
鑑賞したい作品は「ブダペスト・グランド・ホテル」なんだが、これが見事に完売。
おそるべし!!TOHOの日
幾ら2駅程度の距離とはいえ、わざわざ出向いてきてすごすごと帰宅に着くのもシャクというもの。
どうせ1,000円なら、なんでもいいから観ようと切り替えてみたはいいものの、空白の時刻帯で何も上映していない。
ということで、2時間先の今作のチケットを購入し、隣のファッションビルのスタバへ赴く
赤いクルマです
車種を訊いちゃダメですよ、その2
たかがスタバ、されどスタバ。カフェにありつくまで長蛇の列で30分近い所要時間
おいしいクランキークッキーフラペチーノをちびちびと飲んで時間をツブす。
そうしてようやく今作のスクリーンに赴いたという経緯で観賞した作品です。

ストーリーはもう古典的な勧善懲悪もの。
この映画元ネタはクルマを扱ったゲームなんだそうで。
道理で鑑賞マナーを知らない観客が多かったな。
真ん中の座席に陣取った観客のひとりはスマホをしょっちゅう出すし。
このショット、ゲームのオープニング的な
映像です

スクリーンでやたらと騒ぐ主催者のDJがウザいなあと観ていたら、なんかどこかで観た顔だな。
エンドロールで彼が「マイケル・キートン」だと知る。
ああ、キートンあんたはどこへ行こうとしているのだい??

ピカピカなクルマがいくつもいくつも登場してきて(上記の背景から映画化された作品だから当たり前だけれど)クルマが主役の映画でした。
色とりどりで、スタイルもとりどりのクルマを観るのも悪くはないですね。

2014年6月5日木曜日

大人のための残酷童話

こういった手合の本は、手に取るとなかなか手放せないです。
手垢のついた童話を下地に敷いておきながら、徐々に脱線さ
せていって、大人にしか分からない展開(エロスであったり、醜さであったり、おぞましさであったり)を拡げていく。
あれ?こんなんだっけ?と思いながら読み進めていくと倉橋ワールドに惹き込まれてしまっている、というパターンです。
日本昔なばし風にこの作品を映像化して欲しいなと思いますが、うーん深夜枠しか放映できんでしょうね。
一寸法師なんて、親子で鑑賞したら気まずくなること請け合いますよ。

この小説の引用元である原典を全て知っているわけでもありませんし、勿論未読の原典が多士済済状態です。
カフカの変身ですら、内容は大まかに知っていますが読んだことは「はて?」そんな状態です
そういや、大学生の頃西洋文学で読まさせられたような記憶もうっすら残っています。

もう50歳台に乗っかっているオヤジなのですが、今後原典を読む機会を見つけて、これと照らし合わせながら読んでみたいな、と思っている次第。



2014年5月31日土曜日

アメイジング・スパイダーマン2

14年鑑賞11作目
原題「The Amazing Spider-Man 2」

 すっかり前作のことなんて忘れておりました。(前作のエントリはこちら
いや、さすがにそれは言い過ぎで、主演のアンドリュー・ガーフィールドくらいは覚えていました。
いろんな人がこの格好してアップする
ので、ヒーローらしいヒーローに映らない
鑑賞し始めて、前作のことをいろいろと思い出しながら今作を追いかけていく感覚です。
(前作でも書いたのだが)サリー・フィールドがおばあちゃん役を演じているのに、自分の年齢を重ねてしまいます(ミセスダウトのときはまだ主婦だったのに...)

前作と同じ映画館で、同じシアタールームで、ほぼ同じ座席で鑑賞しました。
3作目をこの映画館では鑑賞することはないだろうなぁ(異動は今年度内に言い渡されるだろうから)なんてことも思い合わせながら、頭を空っぽにすればいいアクション映画なのに、ミョーにそういうことを考えて鑑賞していました。

さて。
今作のテーマは私の中では「喪失」への怖れ、そして「喪失」からの再生だと感じました。
鑑賞後に映画紹介サイトでのレビューを読めば、今作のテーマは「時間」だというのですが。
主人公は恋人の愛情と、恋人と過ごす時間を喪失することに苦悩(怖れて)いますし、エレクトロになっちゃうジェイミー・フォックスも職の喪失に怯えているし、自身の社会での存在意義を喪失することに怖れている。
高校生の頃の甘酸っぱい思いがよぎりました
とはいえ、高校時代にはこのようにお付き合いらしい
お付き合いの経験はなのですが...
対して、おばあちゃんは、息子(主人公の父)の思い出の品々から自身の存在を肯定して再生している。
ヒロインのグウエンは、彼氏との別れを為しながらも彼の愛情を常に感じながら留学へと決断していく。
次作では完全に敵役になってしまうであろうハリー・オズボーンも父を喪失し、彼自身も健康を喪失していくことで彼自身を喪失していく。

青春時代、まぁ概して言えば喪失との格闘の日々でもありますね。
少年少女から青年へのステップの際には、子供の頃の習慣だったり常識が喪失されていく頃ですし。
そういう世代に向けてのメッセージなのではなかろうか?と感じたのです。





2014年5月21日水曜日

平家物語の女性たち

何かの本で読んだ記憶がある言葉
男性は概ね平家物語に傾斜していく
女性は概ね源氏物語に傾斜していく
なるほどなぁ、と思った。

中学時代に習った「祇園精舎の鐘の声」、当時は流行していたアイドルたちの曲や、アイドル自身に置き換えたりして自分の中に取り入れた。

高校時代に習った「敦盛」、物語は衝撃的だし、文字の並びと音の哀調に恐れ入った。
古文では色んな古典から習っているはずなのに、私の中では敦盛がダントツに印象が強い。

成人して、30代後半に出会った吉川英治の新・平家物語を読み、40代で再読。
平清盛の印象もコペルニクス的転回したし、彼を取り巻く家族の絆を感じた.
その反面の位置づけとして源氏の物語が展開されていく。
ヒットしなかったが13年の大河ドラマ「平清盛」は家族という視点に集中特化すれば、あるいはもっと馴染みの深い番組になったのだろうに、と思う。
05年の「義経」はそのいい例。
(あの時代を描こうとすれば、公家やその周囲を語らなければ清盛たちの意気込みが理解できないのだから、言うは易し、なのですが)

そして、「ビギナーズクラシックス」に手を出し、「女嫌いの平家物語」と冒頭に書いたように男性である私は確実に平家物語に傾斜してきた。
何せ源氏物語に関連する本はただの一冊すら読んだこともない。

アラフィフィに到達した今(最近の私の同級生たちの中で再認識している言葉)、この本に出会う。
永井路子さんの本を読破したのはこの本はが初めて。
(太平記についての本を今「連れ」に借りて?いるのだが、未読)
男性によって運命を翻弄されていった(であろう)女性たちに焦点を当てて、当時の時代背景や用語や古文の解説を交えながら語りかけていらっしゃる。

吉川英治の新・平家物語に登場する人物像を思い出しては追いかけていくような感覚で読む。
新たな解釈があり、同様な解釈があり。
教養がついていくっていうのはこういうことなのかもしれないなぁ、と思う。
もっとも。読んでもすぐに抜け落ちていくのが悲しいですが。

人妻たちの篇が新・平家物語では充分に語られなかった平家に嫁いだ女性たちの気持ちを丁寧に綴られていて楽しい。
トンカツにカラシをつけて食べるとおいしいように。
蕎麦に柚子こしょうを入れて食べるとおいしいように。
基幹となるもの(新・平家物語)に、添えるもの(この本)を添えていくと、更に旨みが増していく。
永井さんご自身及びその周囲にいらっしゃった女性たちの太平洋戦争での強烈な体験と源平時代の動乱、歴史的大転換期に運命を翻弄されていく姿をシンクロさせながら執筆された姿が容易に想像できる。

ただ、静御前が登場してこなかったのは残念。
まぁ、彼女は源氏側の女性ではあるのだけれど。

二位の尼と建礼門院徳子の母子の篇も、鋭い考察でうんうんと頷きながら読む。
時子がドラマに仕立てあげやすいのに対して特子がヒロインとなりにくく、どんなドラマでも影が薄くなっていくのも道理だと感じ入る。
母は強し、その母になれない環境で安徳天皇の国母となった徳子。
その差が壇ノ浦での覚悟として違いが出たというのは的を得ている批評だと感じる。

恋人たち
  祇王 祇女 仏御前
  葵女御 小督局
  千手前
  横笛

妃たち
  祇園女御
  二代后

人妻たち
  小宰相
  維盛の妻
  巴
  大納言典侍(佐)

二人のヒロイン
  建礼門院
  二位の尼 時子

2014年5月17日土曜日

壬生義士伝

ゴールデンウイークに「連れ」が体調不良になったときに、為すこともない時間を過ごすとき(大した病状に至らず一安心)に再読した本。


自身で読み終えた本の記録にと起こした最初のblogに壬生義士伝のエントリーがなかったから、それ以前に読んでしまった本。
度々書いているけれど、04年の大河ドラマ「新選組!」の前後は予習復習で新選組ものを幾つも読んだので、そのうちの一冊。

再読に至った理由は「永遠の0」のプロットが壬生義士伝を参考にしているという書評を目にしたから。
確かに物語の序盤では印象が良くない人物が、物語を読み進めていくうちに悪い印象の理由には悉く善人たるが故の理由が伏線と張られているのはよく似ているなぁ、と思った。
しかし、「何か」が違う、「何か」が違う。と私の心にはわだかまりが残ったままで、スッキリと釈然としなかったからだ。
壬生義士伝に軍配が上がってしまう自分がいた。

再読してみて、よく分かった。
一番違う、というか軍配が上がる理由は
一つ目に、吉村貫一郎自身が話す、ということ。
独白調で篇が進むにつれ、彼の心は澄み切っていく。
行きたい欲求と、腹を切らねばならぬ理由が逆転していく過程と結果に涙が流れる。

二つ目に、大野次郎衛門の存在だ。
映画では次郎衛門を三宅裕司が演じ、しかもどちらかと言えば主役の外輪を為す人物として演出されていたけれども、壬生義士伝の味噌というか「肝」は次郎衛門だ。
吉村貫一郎よりも大野次郎衛門こそが主役なんじゃないか、という考えだって成り立つと思うし、賛成してしまう。
末尾の大野次郎衛門が新潟の豪商へ書き綴った書状は涙なくして読めない。

三つ目は、実在の人物と架空の人物をうまく使い分け、それによって貫一郎と嘉一郎の親子の
存在が際立っていくところ。
新選組生き残りと思われる居酒屋の親父はフィクション側だが、斎藤一と稗田利八は実在側の人物。
両サイドから責めるサッカーが大きな展開が臨めるように、それにより吉村貫一郎の姿が読み手によって作り上げられていく。

恐らく10年ぶりくらいに読んだ、そのキッカケを与えてくれた永遠の0に、機会を創出してくれたことに感謝している。








2014年5月11日日曜日

ペコロスの母に会いに行く

14年鑑賞10作目

生まれてから18年間育った長崎県出身の我が身、そして今は近畿は大阪に住みアラフィフィにもなれば、郷愁を抱く。
原田貴和子がいい
随分と齢を重ねてしまわれましたが。
都会へ憧れてしまう一方で、懐かしい故郷へ戻りたい里ごころに引き裂かれる。
昨夏は「爆心 長崎の空」を鑑賞した。
感想はここに書いたとおり。

この作品「ペコロスの母に会いに行く」の良さは「方言がまんまでしゃべられる」ところ
キャスティングを眺めてみると長崎県出身者が多くて、「爆心〜」とは方言へのマスター度のレベルが比較にならなかった。
方言だけの理由でもう一回観たいと思わせてくれる作品だ。
母(みつえ)の生まれは天草(熊本県)、幼少期の方言は熊本弁(角張った言い回しが特徴だ)でしゃべっているし、長崎弁と熊本弁が正確に使い分けられていて、満足度が高い。

認知症はもはや社会問題どころの問題ではなくなっているテーマ。
企業に勤める人は親の介護が理由で退職せざるを得ない人が増加傾向にあるというニュースもある。
このように深刻さに直面しつつある認知症と介護に焦点を当てることをしていない。
今作の清涼剤
竹中直人って、どうしてこうも
笑える男をコケティッシュに演じ
られるのでしょうか!
重苦しくせず、長崎らしい「どんげんかなるさ~」といった能天気、陽気な人柄をカメラを回すといったスタンスで撮影されており、却って自分の母がこうなってしまったらどうしていけばいいのだろうか?と頭を回転させながら鑑賞していた。
そして後半になると、母の自分が生まれる以前の人生はどうだったのだろうか?それをきちんと記録につけておかないと申し訳がないな、とも思う。
ボケててんやわんやしている前半の赤木春恵扮するみつえ婆さんと、後半の息子の顔すら見分けられなくなるみつえ婆の姿を観ながら、笑いながらもゾッとしながら鑑賞していた。
こういう両方の感情を抱かせながら鑑賞する作品のほうが、深く突き刺さる。

約4年しか住んでいない長崎市内
しかもこの作品のロケ地のメインはおそらく小島地区あたりで縁もゆかりも薄い場所。
それでも尚出てくる長崎のシーン、チンチン電車が懐かしい。
鳶は確かに長崎には多く生息しているんだなぁ、と。
大阪に住んで約5年(長崎市の生活年数を超えていることに今気づいた)、鳶の鳴き声を聴いたことなんてなかった。

原田貴和子と知世姉妹
貴和子姉さんをスクリーンで観るのは初めてで、テレビでも殆ど見かけることがなかったのでとても懐かしかった。
原田姉妹
長崎出身の典型的な美人さんの
顔です。
この手合の顔立ちは長崎にしか
おらんとです。
そしてこの作品での若かりしころのみつえ婆の演技は素晴らしい。
(寺島しのぶの顔と似通っているように見えた)
この作品での演技を機に、もっとスポットライトに当たって欲しいと願う。
知世妹、友情出演ではなく愛情出演というテロップが出ていたが、はて?
愛情物語の過去の作品を連想させたいだけ?
それとも知世さんの事務所とか大人の事情による理由?(多分これが理由なんだろうけど)
、ちえこさんが鬼籍に入ってしまっているのは予想外だったけれど、長崎と言えば原子爆弾がどうしても切り離せない。

温水洋一と竹中直人(それから主人公を加えて)のハゲトリオ
この映画の笑いのエッセンスはここに集約されているだろう

赤木春恵の前半と後半での演技の変貌ぶり
上でも書いたけれど、前半ではおしゃべりばかりしている母が後半ケアハウスでの生活で過去への邂逅を重ねていくうちに寡黙になっていくのもこの映画でいろいろ考えさせられた人も多いのだろう。
序盤は笑い声がしていた今作は後半でのみつえ婆の寡黙さと苦労していた時代とのエピソードで涙の音があちこちから漏れてきていた。

加瀬亮の昭和の親父っぷり(及び長崎っぽい生真面目ながらどこか田舎っぽさを醸し出す雰囲気)
ああ、この顔って長崎によくおりんしゃったじいちゃんの顔やなあ、と。
(加瀬さんは長崎県人ではありませんが)



2014年5月10日土曜日

とらわれて夏

14年鑑賞9作目
原題「Labor Day」

あらすじを簡単に読んでから鑑賞していると、原題の「Labor Day」のタイトルが登場

最初、家に押し込まれたときは
袖がある衣装
肌を露出したくない(オンナ)を
捨てている
ここで「Labor」を「隷属」と自分の中で誤訳してしまった。
正しくは「労働」なんですね。
ただ。鑑賞を終えて、あながちこの解釈もありなんじゃない?と思っている。

Labor Dayとは労働者の日というアメリカの休日の1つ。
これがこの映画のタイトルになる理由がアメリカ人ではない私にとってはピンと来ない。
夏の終わりの休日で、新学期が始まるという感覚は夏休みが40日もある日本の文化からは想像がつかなくて、少年がアダルティな同級生女子と接するシーンをどのような感覚で観ればいいのかよく分らなかった。
アダルティな女子への憧憬のようなものは、万国共通なのはよくわかったけれど。

さて。
袖が残っている
押しかけられた男を嫌悪するなら
こういう袖ではない
母がオンナを意識しだした
誤訳の「隷属」という意味で解釈した感想はがあながち誤りでもなかろうという理由は、登場人物の3人ともそれぞれの「過去」に隷属されていると感じたからだ。
母は、離婚
子供は、離婚に起因する家族との日々
犯人は、事件を起こした罪

Websiteであらすじを読んだときにイメージしていたのは、犯人に囚われている家での「奇妙な関係」が延々と紡ぎ出されていくというものだった。
その「奇妙な関係」よりも、3人が過去からの呪縛(または過去への隷属)から解き放たれていく過程、そして解放を得た結末に感じ入った。

だから「ああ、なるほどこの5日間が彼らにとって『とらわれて夏』だったんだな」と感じたのだ。

この3人の視点から映画が構成されていて、感情移入する対象が3人のうちの誰に行くか?で、鑑賞ポイントが異なるんではなかろうか。
袖がなくなり、露出度が高い
この時点で二人の間には
愛を確認しあったことが伺える
私は息子の視点で鑑賞している時間が長かった。
父親が離婚により不在のところに、男(脱獄囚)が現れる。
彼はキャッチボールを教えてくれる、クルマを修理してくれる、家の不具合を修繕してくれる。
少年にしてみれば、たくましい父に置き換えしていく。
母はそういう男に対して母の顔から女の顔に戻っていく、その描写を子供(少年)の視点から映されているシーンにとてもドキッとさせられた。
脱獄囚と母が交わっているシーンはない。
ないだけに、想像がたくましくなって制御できずに眠れないとか困るといった経験は大抵の少年には訪れる(訪れた)
思春期に感じた「性への興味心と恐怖心」が鑑賞している間、瑞々しく私に戻ってきた。

ケイト・ウィンスレットは「タイタニック」以降、この手合の地味な作品で、尚且つ薄倖なタイプの女性を演じることが多い。
そして、またよく似合うなぁ、と思う。
あの頃少女だった彼女が今では熟女(←こう書くといやらしいけど、でも熟しているなぁ)が似合うようになっている。
エイミー・アダムスやジェニファー・ローレンスよりも好きな顔なので、公開期間が長い(つまり人気作品)にも出演してほしいなぁ。
いや、違うな。
配給会社なり製作会社はケイト・ウィンスレットを登用しなければならんのだ。
いや、私から登用するように要望してやるっ!(何の力にもならんか...)

ジョシュ・ブローリンを初めてスクリーンで観た
うーん、ちょっと前のジェフ・ブリッジズみたいなイメージとかぶってしまう印象
ヒゲ顔と、ヒゲを剃った後の印象がガラリと変わってしまう俳優さんだった。





2014年4月29日火曜日

アメリカン・ハッスル

14年鑑賞8作目
原題「American Hustle」

ゴールデンウイークの中途半端な中日の休日に鑑賞に赴く。
3月の封切り後に鑑賞に赴けなかった作品。
隣のH県T市の映画館がちょい遅れ目で公開していることをたまたま映画館情報Websiteで発見して鑑賞に赴く。
昔ながらの映画館で、館内にはなんだか懐かしい昔の映画館の香りがしていました
あんまり好きな香りではなかった香りですが、懐かしさに包まれていました。
スタッフの対応がありがたいんだか迷惑なんだか、よく分からない「おもてなし」で、次に鑑賞に行くときは時間に余裕をもって観察したいと考えております。

芸達者な顔ぶれ
ハリウッドは常に様々なスターが。
邦画は...

どうして鑑賞時刻に遅れてしまったかというと。
ゴールデンウイークの始まりから起こした、「連れ」と激しいバトルの決着を着けることができなかったから。
モヤモヤとした気分の中で、無理矢理時間を切り上げて鑑賞に赴いたことと、初めての映画館で所在地を確認できすに、開始後10分経過したくらいでようやく館内に入場。

アメリカ独特の司法取引を扱う作品は、最初から鑑賞しないと話がチンプンカンプンになってしまう。

この映画自体には、レビューらしいレビューが思いいたらない。
ロバート・デ・ニーロ
B・クーパーの出演作にデ・ニーロは
よく出演してくれる
何か縁があるのだろうか?
上記のバトルのことも頭から離すことも難しかったため、ストーリーを追うことを諦めて、今をときめくスターたちの演技を堪能することに集中した。

いずれ、機会があれば事前にこの映画の元ネタである事件を理解したうえで鑑賞できればなぁ、と考えている。

地上放送で、この手合の映画をノーカットで放映することは難しいだろう。
レンタルはショップの衰退とクルマがない自分自身の住環境からして難しい。
ネットでのレンタルも検討したこともあるけれど、元を取れそうもない(ケチな性分)
そもそも、そこまでして映画を家で鑑賞するようなタイプでもない。
ジェニファー・ローレンスとエイミー・アダムス
どちらもタイプの女性ではないけれど
演技はうまいっす
しかしながら見逃した映画をどうやって鑑賞したい、これは、ここ数年の私の軽いストレスになりつつある。

3月に見逃したのがこの「アメリカンハッスル」と「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で、「ウルフ〜」がとても気になっているにも関わらず、今のままでは鑑賞できない可能性が高い。
おっきなスクリーンで鑑賞できなくても、おうちのテレビでも観賞したい作品なのだ。

永遠の0

2013年末に映画が公開され、私も遅ればせながら2月に鑑賞に赴いた。
公開後2ヶ月近くも経過しているにも関わらずほぼ満員で、老若男女問わずにスクリーンに向かっている光景を目にして不可思議な感覚に襲われていた。
私の隣に陣取ったのは右側が若いカップル、左側がひとりで来ていた女性。
辺りを見回せば老人もいらっしゃって、「永遠の0」は最早、作者の手を離れ、ムーブメントになってしまっているんだろうなぁ、なんて思いながら鑑賞した。

映画化された原作は読みたいと思っても結局手に取ることは稀だ。
私には交友関係はさほど深くないけれど友人がいる。
友人の誰もがこの「永遠の0」を読んでおり、「涙なしでは読めない」「まだ読んでないとね?」など、それは大層な大絶賛の雨あられ。
そんな経緯があって、手に入れた書籍だ。

マイナスイメージ(汚名)を着せられた人物をよくよく掘り下げていくと、とんでもないプラスイメージ(英雄)に変貌を遂げていく、というプロットはかつて読んだことがある。
「壬生義士伝」だ。
しかし、吉村貫一郎と宮部久蔵では、随分と印象が異なる。
貫一郎が官軍に斬込みをかけていくクライマックスと、久蔵が零戦で特攻に向かうクライマックスは、私の中ではどうしても印象が異なる。
久蔵のクライマックスへ至る動機が私にズシンと響いてこないのだ。
読み返してみて、「あぁ、なるほど、そうか」とは思えたのだが、「そうか!」という「!」がズシンともガツンとも来なかった。
私の感受性は麻痺しているのだろうか、それとも大多数の人とはズレてしまっているのか、と自分への疑心暗鬼に陥っている次第だ。

明治維新から第二次世界大戦敗戦までが80年、戦後の復興から70年。
歴史は繰り返すと言う。
歴史小説を愛読している身としてその言葉には頓首せざるを得ない。
あと10年すれば、またもや日本は世界を相手に徒手空拳を振り回す羽目になるんじゃないかと、昨今の歴史認識問題だとか、世界的な潮流への参加問題などを見ながら感じてしまう。

この本は、(例えば村上春樹のように)発売後一気にベストセラーになったわけではなく、じわじわと売上を伸ばしてきた昭和の演歌みたいな本らしい。
私らの祖父、或いは曽祖父が歴史舞台から退場しようとしているこの10年近く、確実に受け継がれてきた本なんだろう。
本の中で登場してきた主人公だとか井崎の孫のように、展望もなく日々を過ごしていく人びとは一瞬でも背筋が伸びることだと思う。
それでいいんだと思う。


2014年4月28日月曜日

愛のためにできたこと

「Things We Did For Love」
初出は「Zooey」

出だしから、私の中にある欺瞞を突いてくるようなフレーズが奏でられる

愛しているとは口にすれど、信じているとは口にはしない
清らかなものがうとましくなることも、ときとしてあることだ。
会う人全てはないけれど「運命の人」かも?とは思ってしまうこともある。
昔夢見たことが実現するかも、という気持ちを隠しながら人に接している

それらを「二人がやったこと」と過去形にして、「忘れないで」と懇願しているように聴こえるこの歌詞
また、「きみがやったこと」と過去形にして「忘れないよ」と約束しているように聴こえるこの歌詞
この詩に登場している二人には未来を閉ざして、過去を振り返っているのだろうか。
自身のライナーノーツでも、そのような節が垣間見えるので、そうなだろうと考えている
では「愛」とは一体なんぞや?
という普遍的な疑問に行きつく。

「Zooey」は未来を見据えた曲が多い(虹をつかむひと、ポーラースタアなど)の中にあって、
この曲はとてもアルバムの前半の曲に馴染まない詩だと感じている。
哲学的な曲なんだろう。


2014年4月27日日曜日

相棒

この本は発売されたとき、日本経済新聞の書籍紹介欄(だったと記憶している)を読んで、発想の面白さに興味を惹かれた。
いつかは読もう読もうと考えていたけれど、人事異動、職種変更、更に職種変更とカメレオン並みの変体をさせられて(そして対応して)すっかり忘れていた。
多分あれから6年くらい経過しているんじゃないかな。

古本屋さんでこの本を見つけたとき、当時のことを思い出しながら本棚から引っ張り出して手に取っていた。

坂本龍馬と土方歳三
どちらも、私にとっては永遠のアイドルであり続ける二人。
2004年の大河ドラマ「新選組!」でも龍馬(江口洋介)と歳三(山本耕史)が京都で過ごすときには旧知の仲だという設定に「そんなわけはない」とブツブツ言いながら、三谷幸喜の脚本にまんまとハマって毎週正座しながら視聴していた。

さて、この本の物語。
上記の日経新聞の紹介時に、私はもっとファンタジー的な要素かSF的要素が盛り込まれているのかと勝手に思っていた。
死の淵に立った龍馬をオートバイに載って歳三が救済に向かうとかね(オートバイの歳三はブラックレインの松田優作をイメージしていただけるといい)
ところがどっこい、時代考証はしっかり為されている。
徳川慶喜の載る籠が誰かに狙撃される。
慶喜は無傷だけれど、狙撃犯は誰か?を突き止めなければ大政奉還が頓挫してしまう。
勤皇側から龍馬、佐幕側から歳三に白羽の矢が立ち、二人して薩摩藩や会津藩を調査(取り調べ)を進めていくというもの。

幕末の知識があれば充分に楽しめる展開だし、作者も折りに触れて丁寧に説明を加えてくれる。
それが、プラスに作用するか、マイナスに作用するかで本への印象が変わってくると考えている。
私は幕末史に19歳の頃から読み続けているので、今更その説明は不要なんだよなぁって感じる箇所がとても多く、辟易してしまった感じは否めない。
そういう文面のところは読み進めるのが却って遅くなってしまった。
だから、今の高校生あたりが受験勉強の箸休めに読んでくれたら知識が身につくんじゃないかと思う。
(女子は源氏物語の漫画をよく読んでいるから古典への理解が早いように)

また、幕末の主要人物がオールキャストで登場してくるので、大味になっちゃったよなぁ感も大きい。
幕末の物語をオールキャストで紡いだ本といえば司馬遼太郎の「十一番目の志士」が挙げられる。
(同書は司馬作品に中で最も印象が薄い本)
作者は非常に盛り上がって執筆しているのだけれど、大きくしすぎて収拾がつかない印象が残る。
西郷は?大久保は?半次郎は?
桂は?伊藤は?
登場してきた人物がこの本の中できちんとピリオドが打てずに去ってしまう展開が物足りない感じを強くしているんでしょうね。

例えが稚拙になるけれど、幼少の頃仮面ライダーやウルトラマンで、オールキャストの回っていうのは予告編ではものすごく面白そうに映るのに、いざ本編を視聴すると、「あれ?」っていう感じに拍子抜けしたことがある(私と同じ世代は頓首してくれると確信している)
それに近いんですね。

両雄並び立たず
これに尽きます。

と、けなしているばかりが感想でもないんです。
作者の五十嵐さんの龍馬像は「竜馬がゆく」からだし、歳三像は「燃えよ剣」からだと、私は感じている。
この二人が同じ本の中で、同じ道を歩き、同じ目標のために動き回るっていうのは、頭の中での活劇が繰り広げられ、とってもとっても楽しい。
そして最後の嬉しい展開。
思わず、涙がポロリと流れてしまいました。


2014年4月26日土曜日

サンチャイルドは僕の友達

「Sun Child」
初出は「SOMEDAY」

2人の地理的な距離が変わることが決定して以来、及び変わってしまって以来、僕の心は常に不安定さの内側にあり続けている。

思うようにならない現実が、自分の望む未来に雲をかけてしまっているときに、どうしても側にいてほしいと願い、それが叶わなず。
望みが叶わなくなてしまったとき、いつも望むこととは反対のことを言葉にしてしまい、愛する女性を傷つけ、泣かせてしまう。

愛しているから心が動く。
愛しているから涙が流れる。
愛しているから心に蓋をしてしまう。

愛は色んな行為を人に与え、そこで二人の愛を試す。

そういう一夜が明けて、生きていくための行為をしている
シャワーを浴び、通院し、食し、読みかけたままの本を読むetc
そういうときでも愛する相手に愛していることを伝えようとしている。
お互いにそういうときの文面はシンプルで、味気ないけれど、心の有り様が文字から
いくらでも滲み出ていることがわかってしまう。

14年のゴールデンウィークは今日から。
そんな日に、僕の愛する女性は自分自身でもなく、僕でもない人の為に捧げている
こんな日に、僕の愛する女性は自分自身でもなく、僕でもない人に光を奪われている

ひとりぼっちのSun Childは僕の愛する女性
ひとりぼっちのSun Childが僕自身

誰にも何も言わせない
と、この詩は結んでいる。
今、この詩は二人の愛のことなんだと感じながら、ひとりぼっちの夜を迎えている。




2014年4月4日金曜日

鬼平犯科帳(4)

数年ぶりに読み返し、更にまた読み返してしまったほど、のめり込んでしまった篇が多い。
これ以降の鬼平ワールドに必要不可欠な人物たちが続々と登場してくることを当時の池波正太郎になったつもりで分析してみると、この頃の池波正太郎の頭脳には鬼平と相対する盗賊どもよりも味方となる人物たちの背景や心もようが夏の入道雲のようにいくらでも膨らんでいったのだろう。

・霧の七郎
人は見かけで判断してはいけない

・五年目の客
思い込みや勘違いによって人生は転がっていく

・密通
上に立つ者ほど、恥を知らねばならない

・血闘
おまさ初登場(?)
この篇ではとてつもない凌辱が加えられているストーリーでありながら、全くエロ・グロといったエッセンスが削ぎ落されている。
池波正太郎の小説は文章だけでありながら、とてつもない色気・エロティシズムが滲み出てくるのに。
冒頭からクライマックスのような緊迫感が綴られているからなのだろう。

・あばたの新助
美人局によって人生が狂ってしまう男の物語
新助に残っていた最後の良心が素敵だと感じている

・おみね徳次郎
結びでの男女の描写が秀逸だと感じる
男は惚れた女と離れると、あっという間に弱ってしまう生き物だ(我が身を振り返ってもそうだと思う)
女は惚れた男と離れてもしたたかに生きていける

・敵
五郎蔵の登場
読者も五郎蔵と同じく、何が何だか分からない状況だから読み解いていくのでドキドキする

・夜鷹殺し
人のこころの底には何がひそんでいるか知れたものではない。

そして、夜鷹とて人ではないかと叫ぶその人柄に尊敬の念を抱く。
現代でも、春を鬻ぐような女性にお世話になりながら、心のあちこちで蔑視している自分を見透かされているようで、心が痛む台詞だ。



2014年3月30日日曜日

それでも夜は明ける

原題「12 Years A Slave」
14年観賞7作目
マイケル・ファスベンダー
イングロリアスバスターズでは英国スパイ
プロメテウスでは謎の乗組員
どちらも端正なお顔立ちだったのに
この作品での鬼面ぶりに腰が抜けた



鑑賞して1ヶ月近く経過して、ようやくこの映画について書いておこうという気になった。
公私に亘り、様々な事柄が起きて(起こして)しまい、心が落ち着かない日々が過ぎている。
そういうときにこの映画を鑑賞して、心が張り裂けそうになってしまった。

原題からわかるように、12年間奴隷として生きた人の実話がベースにある。
現在5年間ほど自分の望まぬところで勤務しているが、それが何だって言う!!
家に帰宅すれば誰にも干渉されない時間を過ごせるし、好きな女性とSkypeで話もできる
行きたいところに行こうと思えば行ける。
主人公のように名前を変えさせられていないし、文字が書けることを隠さなくてもいい。
女が女へ与える仕打ちは誠に誠に
恐ろしい
雇い主の愛情を受ける奴隷女性へ
雇い主の妻が与える仕打ちは映画
とは言え、目を開けていられない
(文字が書けることを隠すシーンには、人間の尊厳をここまで奪ってしまう奴隷制度に憤りを覚え、そして雇い主の心に巣食う悪魔に哀しみを覚えた)

この映画を観る直前にクエンティン・タランティーノの「イングロリアスバスターズ」をテレビで鑑賞した。
昨年には同監督の「ジャンゴ 繋がざる者」を観賞した。
連れ曰く、タランティーノは虐げられた人びとへのカタルシスを与えるための映画を撮っているんだと、教えてくれた。
「キルビル」は女性、「イングロリアスバスターズ」はユダヤの人びと、「ジャンゴ」は奴隷黒人の人びとへのカタルシス(魂の浄化)というのは、その通りだと感じ入る。

私が鑑賞したときに左前側に黒人男性が鑑賞に訪れていらっしゃった。
時代の寵児になりつつある
ベネディクト・カンバーバッチ
理解ある雇い主として登場
この人、もっと大きくなっていきそう
映画が終わり、照明が点灯したときには既に座席にはいらっしゃらなかった。
きっと多くの黒人の方々がご覧になり、痛々しい気持ちで、心をズタズタにされながら帰路につかれるのだろう。
エンドロールに流れた主人公の末路は、どう考えても彼は殺害されたとしか思えないから。
1841年、日本だと開国以前
12年後の1853年、ノーサップが自由を再び手にする年にペリーが浦賀に来航している。
そんなに昔の話ではなく、且つ、19世紀から21世紀にかけて、人類は確かに文明を推し進めていくことはできたけれど、相も変わらず差別と憎しみからは解放されていないんだなぁ、と感じいった。

龍馬は偉大な人物だという理由のひとつに、彼はいわゆる被差別部落の人びとにも自由を与えようとしていたいう史料があるらしい
或いは龍馬が暗殺されたのは、ノーサップと同じように差別を受け入れることができない側の人間だったのではないか?
ということをこの映画の裏側で考えている。

しかし、私の心にだって、差別意識は当然のように働く。
「区別」と「差別」、これを的確に判断し、反省できる人間になろうと思う。


2014年3月28日金曜日

LIFE!

14年鑑賞6作目
原題「The Secret Life Of Walter Mitty」



この映画で心に残ったのは美しいアイスランドの風景でもなければ、ユキヒョウの登場シーンでもない。
スケボーでアイスランドの道を滑降
妄想ではなく、現実
(でも、どちらもとても美しかった)

主人公ウォルターは最後に解雇され、解雇手当を受け取って社を去る。
ここでのウォルター(B・ステイラー)の表情がとても晴れやかで印象深い。

入社以来23年社名は変われども一つの会社に勤務しつづけてきている。
ぺいぺいだった頃からすれば成長もしたし、それに見合うだけの報酬だって頂戴している。
荒地に佇むウォルター
「等身大な男」に映っている
だけれども、ここ数年の会社のありようを客観的に眺めてみれば、斜陽なのである。
その斜陽なり凋落への降下を食い止めようと経営者たちは様々な手を打っているのけれど、私にはそれが各経営者の自己存在のアピールをしたいだけのパフォーマンスにしか映らない。
ま、四半世紀も会社勤めをしてきて、サラリーマン生活に疑問を感じてしまう場面が増えてきているんですね。
終身雇用で勤め上げることが、若かりし頃から保守的な私の人生における目標の一つでもあった。
そういう保守的な考えから脱してみてもいいのかな。
解雇手当をもらうウォルターの姿を眺めながら私に去来していたのは、背負うものがなければ、そうしてみたいと思わずにいられなかった。ということだ。
この映画の(ちょっと誇大広告だとは思うのだが)「あなたの人生を変える一本になる」はあながち間違いではなかった。

LIFE!では出版業界が舞台でIT化に傾斜している業界のため、主人公たちは新しく社に迎えられた幹部により存在を否定されていく。
ショーン・ペン扮するカメラマンと
ユキヒョウをファインダー越しではなく
肉眼に納めるシーンが素敵だ
社が目指すスローガンをマクドナルドのスローガンと言い間違えるような幹部によって。
臨席の女性がドッと笑っていたけれど、報酬への固執とエゴに溢れているような人間たちが牛耳るような社に居続けることが私の人生にプラスに作用することはないよ!ってこの作品は諭してくれているように映ってきた。


社は誰のために存在するのだ?
社は何のために存在するのだ?

理想的な社に帰属できたとして、そこで私が果たせるミッションは何なのだろう?


2014年3月14日金曜日

さよなら渓谷

14年鑑賞5作目

アンコール上映されていたものを観劇に赴いた。

この寂しげで虚ろな目。
彼女が何者なのか?をこの表情だけで
鑑賞者に語りかけている
鑑賞に赴く以前のおよそ2週間近くが次年度への資料づくりに追われていて、心身ともに健全な状態を維持しているわけではなかった。
そのため、この映画鑑賞後の週末に発熱し、完治しないままに無理をしてしまって、ぶり返しが来て翌週末まで唸っていた。
私の中ではそういう「曰くつき」の映画


吉田修一の原作といえば、テレビで観賞した「悪人」がある。
どちらも性犯罪が物語のキーポイントになっており、これが非常に自分の中にあるサディスティックで自分勝手な欲望を覗き込まれているような感覚に襲われてしまう。
とにかく後味の悪い映画になってしまう。
ある意味この後味の悪さが、直後の発熱に多少ならずとも作用していると自己分析している。

自慢に聞こえてしまうかもしれないけれど、物語の要(またはミステリーの最大要素)は、そんなに推理を働かせなくても、ピンと来た。
(WEBに書き込まれているレビューを眺めてみたら、そういう人のほうが多い)
真木よう子が扮した主人公の女の心情が男性側からすれば、理解するには難しい。
憎悪と愛情は紙一重「Thin Line Between Love And Hate」という曲が「The Pretenders」の持ち歌にあるけれど、そういうものなのかなぁ、と。

男の方に視点を合わせてみると。
女優さんでありながら、足をピカピカに
することなく、生活感の溢れるような
ちょいとくすんだ感じの足
まったくもって心憎い演出方法である
自分自身が起こした罪により、被害者である女性がボロボロになっていく姿を見るのは慚愧に耐えないことはよく分かるし、彼を遅い続けているであろう後悔と、償いへの気持ち。
後悔を感じさせるシーンを見いだせなかった。
償いの気持ちは、彼が「幼児殺害事件」の罪を認めるシーンが帰結点。
ただ、個人的にはこの行為は、男の自己満足的な印象に映る。
かつて90年代に流行したトレンディドラマで吉田栄作がミルクまみれになって赦しを乞うシーンを連想してしまい、男であれ女であれ、かほどまでにマゾヒスティックな振る舞いには嫌悪感が強く作用してしまう。

性犯罪は残念ながら増加傾向にある。
男と女が存在する以上、根絶することはできない。
男である身としては、そういう歪んだ欲望を抑えるためにこのような正面から性犯罪による加害者と被害者の物語を観賞できたことを糧にしていきたい。
劇中に加害者の男が、既に過去のものとして、且つ彼の武勇伝として語り出す。
このような輩が増えないように願うしかない。

父親としての身としては、陽の当たる場所で生きていって欲しいと願う。


大森南朋が演じた記者と、鶴田真由が演じた冷えきった夫婦関係に、どうしてそうなってしまったのか?を考え込んでしまった。
劇中では、かつてラグビーの花形だった渡辺(大森南朋)がけがによるリタイアから転職へと至り、そこでの軋轢を残したままに妻(鶴田真由)との関係が希薄になり、愛情の領域が小さくなり憎しみの領域が拡大してしまったのだとしていたけれど。
寧ろこの夫妻の関係の変化をもっと観てみたかったなあ、と思っている。
原作を手に取ってみようと思うのは寧ろこちらの夫妻のことが行間からでもいいので何か滲んでいてれば、と考えている。



2014年2月24日月曜日

朝顔草紙

かれこれ10年近く山本周五郎の小説を読み漁っている。
周五郎作品に出会った頃は、読む篇読む篇のどれもが新鮮で、面白いものは腹を抱えて笑ってしまったし、泣ける篇にはほろりとさせられてきた。
本の厚さに比べても、あっという間に読めてしまうだけの魔力が収められている。
その中で頁をめくるスピードが落ちてしまうのが、私の場合平安時代ものとか、現代を舞台にしたもの。
「朝顔草紙」は平安時代ものはなく、現代ものが数篇あるけれど、「青べか物語」(未読)の前段になっている作品であり、これは読みやすかった。

このところ、山本周五郎作品に対してかつてのような感受性を抱ける作品に巡り会えていない。
感性が鈍ってきたのか?それとも新潮文庫に収録されている文庫のうち46番目でもあり、落ちてしまっているような篇ばかりが収録されてしまっているのか?
どうも、手前勝手なことを言えば後者のような気がしてならない。
作者自身も熱心に推敲して書き上げているような作品とは言い難いような印象を受ける。
書きたいものを、勢いでどーんと書き上げました、というような。
何故そう思うかと言えば、読んだあとに「じーん」と来るものがとても薄くにしか広がっていかない。
例えば短編ではないが、「五瓣の椿」や「赤ひげ診療譚」は、結末がわかっているにも関わらず読み返したときにでも、暖かい涙や、主人公たちの孤独が読み手の私にも広がっていくのだけれど。

「無頼は討たず」の主人公の言動、結末を読んだときに「え?どうして?」と感じてしまった。
これまで読んできた周五郎の作品であれば、もう少し途中で主人公の不可解な言動であってもそれなりに伏線が張られていたり、矛盾しているようだけれど筋がピシっと通っているような展開がなされるのだけれど。
天国にいる作者は、きっとこの短編集に収録されている作品が世の中に出回っていることに、「うーん、お金払ってまで読んでいただくような篇ではないのだが...。」と口にしているのではなかろうか、と勝手に考えている。

朝顔草紙、ピュアな作品で嫌いではない。周五郎作品ではよく見かけるような展開なのだが、主人公、ヒロインとも出来すぎた秀才チックな振る舞いに面白みが欠けているし、ここまでの清廉さというものに私自身が共鳴できないでいる。

本棚に沢山詰まっている山本周五郎の本を、そろそろ取捨選択しなければならない時期に来ているんだろう。

・無頼は討たず
・朝顔草紙
・違う平八郎
・粗忽評判記
・足軽奉公
・義理なさけ
・梅雨の出来事
・鍔鳴り平四郎
・青べかを買う
・秋風の記
・お繁
・うぐいす




2014年2月17日月曜日

司馬遼太郎の日本史探訪

2013年の冬、私本太平記(吉川英治)を読んだ。
軍記物語だし、さぞかし興味深い本であるだろうと期待して読み始めたのだが、全八巻を読み終えるのは
これが…。苦行でしかなかった。
読んだ本のレビューをここで書き起すのが、一つの道楽なのだが、これは何の感想も起こることもなく、とにかくチンプンカンプンだったという感想しか残っていない。
ある程度の予備知識を仕入れてから、読むべき本がある。
まさしく、この場合がそうだった。

太平記の時代を描いた小説は極端に少ない。
司馬遼太郎がこの時代の物語を書いていないのか?と思いながら探してみたが執筆されている形跡がなかった。
WEBで色々情報を漁っていると、この本で楠木正成のことを執筆されているということだったので、7年ぶりくらいに読み返してみた。

鎌倉時代から室町時代への転換期。
価値への概念が、名誉や美徳とか道徳といったものから、経済への傾斜へ至る。
欲望への歯止めを知ることがなく、剥き出しのナマな人間がそこかしこに存在していた時代なんだろう。
ここで書かれている楠木正成は、そのような時代での一服の清涼剤のような清廉な人物であったなのだろうと司馬先生は推察していらっしゃる。
それを宋学の影響だとおっしゃっている。
でも、それだけでもなかったのだろうと思う。
欲望に取りつかれた人びとの中にあって、厭世的な思考が正成の中には蟠踞していたからではなかろうか、と。


この本はNHKでの司馬遼太郎の対談集を文字に起こしたもので、厚さのわりにはサクサクと読める。
私の場合、原作を読んでいたから、復習としてこの本を読んでいる。
逆の人もいらっしゃるだろう。
この本を読んでから、「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」などを手に取る人もいらっしゃるだろう。
司馬遼太郎の作品を読む以前に予備知識を仕入れるには、この本はとてもオススメしたい本だと思う。

書かれている人物たちは以下

源義経
楠木正成
斉藤道三
織田信長
関ヶ原
朱印船
シーボルト
緒方洪庵
新選組
坂本竜馬
幕末遣欧使節
大村益次郎
新世界”蝦夷地開拓使”


この本、実は連れがセキュリティ系の試験を受験したときに、寒い空の下などで読んだ。
非常に寒かったのだが、会場内も非常に寒かったらしく、直後に連れが寝込んでしまった。
そういう思い出が残っている本でもある。



ホビット 竜に奪われた王国

原題:「THE HOBBIT: THE DESOLATION OF SMAUG」
14年鑑賞4作目

前作からほぼ1年後の公開で、楽しみに待っていた作品。
ただし。コスプレをしたり、あと○○日と勘定するほどまではない。

生まれて初めて試写会に当選した(応募したことを忘れていて、当選ハガキがポストで見つけたとき、誰のいたずらよ?と疑った。)
序盤では蜘蛛との闘いがあったのですが
それは夢の彼方に消えました
急流くだりのこのシーン。
わくわく・どきどきしちゃうのです
週の始めの月曜日にいろいろなしがらみをかなぐり捨てて試写会に赴く(貧乏性なだけ?ケチな性分なんだよな)
仕事でパソコンの画面で眼を酷使したうえで、3Dでのおよそ3時間の鑑賞はきつかった。
序盤の30分ぐらいは夢の中に消えてしまった...。

これは前作のときにも書いたのだけれども、RPG「ファイナルファンタジー」の初期の頃の世界観が余すことなく繰り広げられていて、懐かしさと共に鑑賞している自分がいる。
正確に言えば、この映画の元である原作をFFが模倣し、オリジナルの世界をゲームで演出しているんだけれど。
プロトタイプが人に与える影響の大きさに感じ入る。
前作ではビルボ・バギンスが堂々の主役だった印象が残っているのだけれど、今作ではトーリンが主役に就いている印象。
魔法使いが、岩窟で何かの呪文を唱える
ような場面がゲームの世界では常套シーン
この画像に胸が熱くなる、元ゲーマーな私
13人のドワーフたちがそれぞれに個性があり、鑑賞者の印象に残りやすいように設定されていて、前作のことを思い出す。
自分の頭にある記憶と目の前のスクリーンでてんやわんやしているドワーフたちの像がきちんと繋がっていく、一致していく。
この映画の製作者の皆さんに尊敬の念を抱かずにいられない。
いつぞや観た「スノーホワイト」の7人のこびととは大違いだ。

さて、RPGで言えば今作は中盤から終盤へ向かう過程の物語。
いよいよ最終章に向かって「さぁ!!」というところで今作はエンディング。
巨大なストレスを抱えながら、楽しみである。
でも、コスプレやあと○○日イベントには参加はしませんが(笑)

FFというより、ドラゴンクエストの竜の印象。
B・カンバーバッチ(ようやく名前憶えたゾ)が
声の主
竜とバギンスのシーンはもう少し短くても
いいな。
この映画、中学生が鑑賞するには早いのかなあ?高校生くらいの世代には鑑賞して欲しいなぁと願ってしまう。
ここで繰り広げられるドタバタチックなコメディ要素で幼少期を思い出してほしいし、語学力UPの一助にもなると思うのだ。

試写会で、本編開始前に流れたニュージーランド航空のコマーシャルfilmがとてもイカしているぜ
きっとロードショウでも流れていると思うのだけれど、こういう国を挙げて一つのファンタジーを国まるごとで築き上げていこうとする心意気に「あぁ、いいなぁ」と感激している。




2014年2月16日日曜日

鬼平犯科帳(3)

久しぶりに鬼平犯科帳ワールドに浸りたくなって再読を再開。

文句なく面白い。
盗法秘伝では、クスリとさせられる。
何もかもが法律なりルールで縛りつけられていく「現代」に生きる私にとって、このアナログチックな世の渡り方に深い羨みを持たざるを得ない。
司法長官が、窃盗団のOBと組んで阿漕なIT企業へ盗みに入るような物語だ。

そして「むかしの男」
久栄さんもいい女だが、久栄さんの過去を一切斟酌しない長谷川平蔵を見習いたいと願う。
惚れた女の過去は、どうしたって気になる。
好きだから、知りたい、全部知りたい。と願う自分がいる
その一方知らずにいたほうが幸せなことだってある。
女だって忘れてしまいたいこともあるのだろうし。
私にとっては、バイブル的な一篇だ。


麻布ねずみ坂
盗法秘伝
艶婦の毒
兇剣
駿州・宇津谷峠
むかしの男


2014年2月11日火曜日

フラニーとゾーイー

言うまでもなく、佐野元春が好きだ。
最新アルバムのタイトルが「ZOOEY」、このタイトルはJ・Dサリンジャーの「フラニーとゾーイー」からなんろうという人が多い。
ファンたるもの、これは読まなければならんだろう。
読めば佐野元春の詩や世界観に近づけるんではなかろうか、という期待を持って手に取った。

ところが、向き不向きってあるんだろうなあと。
まるで何の話を繰り広げているのか、サッパリ分からない。

この本を読んだ元春がどうやって詩を紡ぐのか想像できなかった。

と。
この本を、村上春樹が訳して出版する動きがあるらしい。
春樹が訳した本を読んだことがある。
「心臓を貫かれて」だった。
難しい本だったのだが、読み進めることができたのは春樹の訳のおかげだったのだろう。
春樹が訳す「フラニーとゾーイー」、そこで再挑戦してみようと考えているところだ。




2014年2月8日土曜日

ラッシュ

原題「Rush」
14年観賞3作目


およそ10年ぶりくらいにF1を観た。
テレビの画面ではなく、スクリーンで。
生のレースではなく、作り物のレースを。
とても作り物とは思えない臨場感

真実の物語だけに重みが違う。
ニキ・ラウダの決断のことも、ジェームス・ハントのプレイボーイぶりも、富士スピードウエイでの結果のことも知らずに鑑賞したことは、作り物ではなく生のレースとして目の前に繰り広げられる。

予想よりもレースのシーンは短かったけれど大満足である。
パイロットの視点から見えるコースや他車とのバトルには、月並みな表現だが自分自身がF1パイロットになれたような夢が体験できたし、サーキットの縁石付近からのショットにはのけぞってしまうほどの迫力がある。
サイドバイサイドの闘い
F1の醍醐味だ
実際のF1レースのライブ映像は技術進歩がすさまじくオンボードカメラなどでレースの迫力も、他車とのバトルも分かるようになっているのだが、Rushでの映像はライブ感があったしそれ以上の出来栄えだと感じた。
ロン・ハワードはこのような実話をベースにした作品を撮影させたら右に出る人はそうそういないんじゃないか!!と思う。
「アポロ13」も素晴らしかったし、実話ではないけれど「バックドラフト」の炎の動きを目に焼きついている。
対して「ダ・ヴィンチ・コード」は全然印象に残っていない。
雨に濡れるマシン
とても綺麗だ

70年代、F1パイロットの死亡率が2割を超えていた時代。
2010年代は0%、94年のアイルトン・セナ以降、死者は出ていない
それだけマシンの安全性が向上したことは大変喜ばしいことである。
ただ、冒頭に10年ぶりにF1レースを観た、という私なりの理由は2000年代以降のレースはコンピュータがマシンを制御していて、レースの主役はパイロットではなくなり、監督やコンピュータメカニックによるデータ偏重主義になってしまった。
こうなってしまうとパイロットは誰でもよくて(実際はそんなことないのだけれど)レースにドラマティックさが薄くなってしまった。
コンピュータがない時代のレースはとても人間臭い。
そこに幾つもの泣き笑いがある。
今作中にもピットレーンでのトラブルがある、まさしくそういったヒューマンエラーや意思疎通を画面越しに感じられるレースほど面白いものはなかった。
F1はレギュレーションの変更を云々する前に、コンピュータ使用を禁ずる、または制限をかけていくほうが絶対面白くなると思うのだが。

主役二人がそれぞれ対称的な人物を演じてくれて非常に分かりやすいドラマツルギーの進行だった。
クリス・ヘムズワースの印象がだいぶん好転した。
ライターのカチカチ演出はプレイボーイの表の顔の裏側に存在している常に死との恐怖と向き合いながらイライラしている、ジェームス・ハントがファンには見せなかった一面なんだろう。
ダニエル・ブリューレは益々スターダムを駆け上っていくような予感がする。
本物のニキ・ラウダと区別がつかないほど彼の演技は素晴らしかった。
また、それぞれの妻を演じた二人の女優もとてもキレイだった。
何より衣装が素敵だった。
あまり服のことに詳しいわけではないのだが、ニキが奥様と始めての出会いのときの白いドレス。
....あと、飛行機の中でハントがエロ視線を送ったスチュワーデス(まだキャビンアテンダントという単語は日本になかった時代だもん)の素晴らしいヒップラインと、脚のライン。

ああ、最後にちょっと真面目に。
「プライドと友情」なんて陳腐なサブタイトルは不要だ。
日本語吹替えではKinki Kidsが吹替えしているという。
最近の吹替えの文化は本物志向からタレントの知名度で客引きをしようとする姑息な手段に出てきており、不愉快な気分に見舞われる。
起用されるタレント側が嬉々として応じているようにも思えない。
声優さんたちの領域は彼らに任せてあげないと吹替えという文化が廃れていくのではないかと危惧している。

2014年2月7日金曜日

殉死

二編から構成される

「要塞」
坂の上の雲を読む以前、特に小学校のときに教科書かマンガ日本の歴史あたりで記憶したのが「乃木将軍という人は大層偉い人」、そう。偉人の範疇にいる人だった。
ところが、坂の上の雲で書かれた旅順攻撃の際の二百三高地を巡っての乃木将軍の無能っぷりに、口をあんぐりしながら読み進めた。
対する児玉源太郎のことは坂の上の雲で初めて知った名前だったが、乃木との対比的な書き分けが更に乃木将軍の無能っぷりが顕著だった。

もうここでの司馬センセの乃木希典への嫌悪感は隠しようももないほどで、他の作品では客観的且つ冷静に人物像を紡ぎ出す人がかくもこう感情を制御できずに書いている様は、司馬青年が陸軍へ進み、その陸軍の無能ぶりの遠因或いは近因が乃木にあるのだ、と思い至ったからなのだろう。

「腹を切ること」
この小説(?)というか考察のようなもので書かれた乃木希典の主要素を形成する彼の内面を炙り出したもの。

大きな功績もなく、未来への可能性も感じられない人間がたまたま属した団体(この場合は藩閥)の勢いに乗せられて重責を全うしなければならない地位に就いたときに起こる悲劇の物語だ。
誰も死なずに済めばコメディの領域なのだが、何せ日露戦争での指導者として実務もできなければ大局を捉えることもできない人が選択して追求していくのが「形式美」「形式主義」に至ったのだとすれば、この追求によるものが太平洋戦争敗戦まで大きく作用し続けたと考えられるし、また私が学生だった頃のリベラルを無視したような戒律的な校則や生徒手帳のありようにも作用していると考えられる。
乃木の外形美への傾倒、生活規律への傾斜は敗戦後も脈々と学生への戒律を支配し続けているようにも思える。

陽明学に殉じた者は司馬作品によく登場する
大塩平八郎、西郷吉之助、河井継之助、赤穂浪士、そしてこの乃木希典なのだが、乃木以外には彼らには民衆なり同胞の救済が目的で決起することになるのに比して、乃木の決起は自己陶酔によるものではなかろうか、と感じる。