原題「Labor Day」
あらすじを簡単に読んでから鑑賞していると、原題の「Labor Day」のタイトルが登場
最初、家に押し込まれたときは 袖がある衣装 肌を露出したくない(オンナ)を 捨てている |
正しくは「労働」なんですね。
ただ。鑑賞を終えて、あながちこの解釈もありなんじゃない?と思っている。
Labor Dayとは労働者の日というアメリカの休日の1つ。
これがこの映画のタイトルになる理由がアメリカ人ではない私にとってはピンと来ない。
夏の終わりの休日で、新学期が始まるという感覚は夏休みが40日もある日本の文化からは想像がつかなくて、少年がアダルティな同級生女子と接するシーンをどのような感覚で観ればいいのかよく分らなかった。
アダルティな女子への憧憬のようなものは、万国共通なのはよくわかったけれど。
さて。
袖が残っている 押しかけられた男を嫌悪するなら こういう袖ではない 母がオンナを意識しだした |
母は、離婚
子供は、離婚に起因する家族との日々
犯人は、事件を起こした罪
Websiteであらすじを読んだときにイメージしていたのは、犯人に囚われている家での「奇妙な関係」が延々と紡ぎ出されていくというものだった。
その「奇妙な関係」よりも、3人が過去からの呪縛(または過去への隷属)から解き放たれていく過程、そして解放を得た結末に感じ入った。
だから「ああ、なるほどこの5日間が彼らにとって『とらわれて夏』だったんだな」と感じたのだ。
この3人の視点から映画が構成されていて、感情移入する対象が3人のうちの誰に行くか?で、鑑賞ポイントが異なるんではなかろうか。
袖がなくなり、露出度が高い この時点で二人の間には 愛を確認しあったことが伺える |
父親が離婚により不在のところに、男(脱獄囚)が現れる。
彼はキャッチボールを教えてくれる、クルマを修理してくれる、家の不具合を修繕してくれる。
少年にしてみれば、たくましい父に置き換えしていく。
母はそういう男に対して母の顔から女の顔に戻っていく、その描写を子供(少年)の視点から映されているシーンにとてもドキッとさせられた。
脱獄囚と母が交わっているシーンはない。
ないだけに、想像がたくましくなって制御できずに眠れないとか困るといった経験は大抵の少年には訪れる(訪れた)
思春期に感じた「性への興味心と恐怖心」が鑑賞している間、瑞々しく私に戻ってきた。
ケイト・ウィンスレットは「タイタニック」以降、この手合の地味な作品で、尚且つ薄倖なタイプの女性を演じることが多い。
そして、またよく似合うなぁ、と思う。
あの頃少女だった彼女が今では熟女(←こう書くといやらしいけど、でも熟しているなぁ)が似合うようになっている。
エイミー・アダムスやジェニファー・ローレンスよりも好きな顔なので、公開期間が長い(つまり人気作品)にも出演してほしいなぁ。
いや、違うな。
配給会社なり製作会社はケイト・ウィンスレットを登用しなければならんのだ。
いや、私から登用するように要望してやるっ!(何の力にもならんか...)
ジョシュ・ブローリンを初めてスクリーンで観た
うーん、ちょっと前のジェフ・ブリッジズみたいなイメージとかぶってしまう印象
ヒゲ顔と、ヒゲを剃った後の印象がガラリと変わってしまう俳優さんだった。
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