ゴールデンウイークに「連れ」が体調不良になったときに、為すこともない時間を過ごすとき(大した病状に至らず一安心)に再読した本。
自身で読み終えた本の記録にと起こした最初のblogに壬生義士伝のエントリーがなかったから、それ以前に読んでしまった本。
度々書いているけれど、04年の大河ドラマ「新選組!」の前後は予習復習で新選組ものを幾つも読んだので、そのうちの一冊。
再読に至った理由は「永遠の0」のプロットが壬生義士伝を参考にしているという書評を目にしたから。
確かに物語の序盤では印象が良くない人物が、物語を読み進めていくうちに悪い印象の理由には悉く善人たるが故の理由が伏線と張られているのはよく似ているなぁ、と思った。
しかし、「何か」が違う、「何か」が違う。と私の心にはわだかまりが残ったままで、スッキリと釈然としなかったからだ。
壬生義士伝に軍配が上がってしまう自分がいた。
再読してみて、よく分かった。
一番違う、というか軍配が上がる理由は
一つ目に、吉村貫一郎自身が話す、ということ。
独白調で篇が進むにつれ、彼の心は澄み切っていく。
行きたい欲求と、腹を切らねばならぬ理由が逆転していく過程と結果に涙が流れる。
二つ目に、大野次郎衛門の存在だ。
映画では次郎衛門を三宅裕司が演じ、しかもどちらかと言えば主役の外輪を為す人物として演出されていたけれども、壬生義士伝の味噌というか「肝」は次郎衛門だ。
吉村貫一郎よりも大野次郎衛門こそが主役なんじゃないか、という考えだって成り立つと思うし、賛成してしまう。
末尾の大野次郎衛門が新潟の豪商へ書き綴った書状は涙なくして読めない。
三つ目は、実在の人物と架空の人物をうまく使い分け、それによって貫一郎と嘉一郎の親子の
存在が際立っていくところ。
新選組生き残りと思われる居酒屋の親父はフィクション側だが、斎藤一と稗田利八は実在側の人物。
両サイドから責めるサッカーが大きな展開が臨めるように、それにより吉村貫一郎の姿が読み手によって作り上げられていく。
恐らく10年ぶりくらいに読んだ、そのキッカケを与えてくれた永遠の0に、機会を創出してくれたことに感謝している。
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