2014年4月29日火曜日

永遠の0

2013年末に映画が公開され、私も遅ればせながら2月に鑑賞に赴いた。
公開後2ヶ月近くも経過しているにも関わらずほぼ満員で、老若男女問わずにスクリーンに向かっている光景を目にして不可思議な感覚に襲われていた。
私の隣に陣取ったのは右側が若いカップル、左側がひとりで来ていた女性。
辺りを見回せば老人もいらっしゃって、「永遠の0」は最早、作者の手を離れ、ムーブメントになってしまっているんだろうなぁ、なんて思いながら鑑賞した。

映画化された原作は読みたいと思っても結局手に取ることは稀だ。
私には交友関係はさほど深くないけれど友人がいる。
友人の誰もがこの「永遠の0」を読んでおり、「涙なしでは読めない」「まだ読んでないとね?」など、それは大層な大絶賛の雨あられ。
そんな経緯があって、手に入れた書籍だ。

マイナスイメージ(汚名)を着せられた人物をよくよく掘り下げていくと、とんでもないプラスイメージ(英雄)に変貌を遂げていく、というプロットはかつて読んだことがある。
「壬生義士伝」だ。
しかし、吉村貫一郎と宮部久蔵では、随分と印象が異なる。
貫一郎が官軍に斬込みをかけていくクライマックスと、久蔵が零戦で特攻に向かうクライマックスは、私の中ではどうしても印象が異なる。
久蔵のクライマックスへ至る動機が私にズシンと響いてこないのだ。
読み返してみて、「あぁ、なるほど、そうか」とは思えたのだが、「そうか!」という「!」がズシンともガツンとも来なかった。
私の感受性は麻痺しているのだろうか、それとも大多数の人とはズレてしまっているのか、と自分への疑心暗鬼に陥っている次第だ。

明治維新から第二次世界大戦敗戦までが80年、戦後の復興から70年。
歴史は繰り返すと言う。
歴史小説を愛読している身としてその言葉には頓首せざるを得ない。
あと10年すれば、またもや日本は世界を相手に徒手空拳を振り回す羽目になるんじゃないかと、昨今の歴史認識問題だとか、世界的な潮流への参加問題などを見ながら感じてしまう。

この本は、(例えば村上春樹のように)発売後一気にベストセラーになったわけではなく、じわじわと売上を伸ばしてきた昭和の演歌みたいな本らしい。
私らの祖父、或いは曽祖父が歴史舞台から退場しようとしているこの10年近く、確実に受け継がれてきた本なんだろう。
本の中で登場してきた主人公だとか井崎の孫のように、展望もなく日々を過ごしていく人びとは一瞬でも背筋が伸びることだと思う。
それでいいんだと思う。


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