2013年12月8日日曜日

みんなの願いかなう日まで

発売されるというニュースを見たとき、「みんなの願いがかなう日まで」だとばかり思っていた。
「が」が抜けて「みんなの願いかなう日まで」が正しいタイトルだということに気づいた。
たったそれだけのことだけれども、佐野元春の詩へ向き合ってきた偉大さを感じ取っている。

Websiteで90秒の試聴が公開され、その時点でも相当にウルっときていたのだが、12月1週目の元春レディオショーで全編を聴いて、ウルウルとしんみりとした
「Zooey」の並ぶ詩と同様、とてもわかりやすい平易なセンテンスが並んでいる。
デビュー当時から数年間並んでいた綺羅星のような表現「瓦礫の中のゴールデンリング」だとか「君の瞳に映るタイニーレインボウ」といった単語はこの曲には存在しない。
普遍的な詩だ、NHKのみんなのうたで流してくれないものか、と。
(ずっと以前に佐野さん自身も自分の曲はみんなの歌で流してほしいんだということを言っている記事を読んだことがある)

1985年の「クリスマスタイムインブルー」はレゲエ調、クリスマスは冬の曲という常識を逆手にとって常夏の国ジャマイカのレゲエのリズムを取り入れて驚かされた。
また、当時はクリスマスといえば絶対的に「赤」が常識だったから、「ブルー」(ここでは気分のブルーがメインなんだろうが)という色の印象も常識を覆していた曲だ

そして、およそ30年ぶりとなる今度のクリスマス曲はハワイアンミュージックの代表楽器「ウクレレ」の弾きから始まる。
そして先に書いたように平易なセンテンスが並ぶ。
「~インブルー」が理想とする世界を希求していたのに比して、「~かなう日まで」は等身大の希望をメロディに載せている。
10代には10代の感じ方があるし、60代には60代のそれだけの長い人生経験に照らしわせて感じることが幾つも幾つも巡るんだろうな、と思う。

私、好きこのんでこの地にいるわけではない。
それも、二次人為的とでもいえばいいのか、つまるところ、恨みというか罠にハメられてしまってこの地に住まざるを得なくなった。
今でもその罠を仕掛けたヤツらの顔を思い出すと不愉快極まりない感情に襲われる。
ところが、3つ目のセンテンス「色んなことを知って、色んなことがあって」を聴いたときに、「あっ、あいつらもクリスマスぐらいは楽しく過ごしてもいいんじゃないの」
という感情が私の中に生まれた。

公式フェイスブックで、この曲のテーマは「献身」だと言う。
でも、私にとって献身より先に感じたテーマは「自身以外の者への赦し」であり、「自身の過去からの開放」だった。
この翌日、今まで捨てきれなかった思い出の品物を随分と捨て去った。



2013年11月24日日曜日

名盤ライヴ「SOMEDAY」

佐野元春の過去の曲たちを懐かしみたいなんて気持ちは薄い。
80年代であれ、90年代であれ、00年代であれ、10年代であれ、僕にとって佐野元春の曲はいつだって現在進行形の曲ばかりなので。
その日、その時々の気分によって、通勤電車の中で聞く曲はまちまちだ。
「Zooey」を聴いていても、気分が変われば「Back To The Street」の曲にすることなんてよくあること。

そういう僕にとって、このライヴは即座に参戦を決めることは難しかった。
元春が懐メロとしてのライヴを開催したいわけではなことは分かるけれど、集ってくる人びとには80年代の思い出と共に佐野元春を懐かしく眺めたい、という思いを抱いて参戦してくるほうが主流ではなかろうか?という推測があったから。

結果を先に言えば、そんなことは杞憂に過ぎなかった
誰も「昔の元春はかっこよかった」とか「あの頃は○○だった」なんていう会話は聞こえてこなかった。
ライヴ中は、80年代にタイムワープして手を振り上げるプリティフラミンゴがそこかしこに。
誰もが元春の髪が白くなった今であろうが、声がイマイチ調子が悪くても、「2013年の今」それぞれが迎えた「SOMEDAY」を、そしてまだ迎えていない 「SOMEDAY」を模索していこうというアティチュードで楽しんでいた。
開演前・開演後の寡黙さとは裏腹に、ライヴ中のオーディエンスのアツさはとんでもなく高い。
元春が80年代に綴ってきた詩は、エヴァーグリーンな証なんだと感じることができた。

さて、順に追って。
ライヴ前
参戦は大阪、堂島リバーフォーラム。
想像以上の人出、駅から向かう人びとの大半が元春ライヴへ向かう。
おかげで道に迷うこともなく。
川沿いに並んで待つように誘導。
50歳に到達しているような人も多く見受けられたから、平均年齢は40歳代後半くらいだと思われる。
元春ファンは、密教の信者のようなもので、あまりファン同士で会話を交わすことなんてない(らしい)
チケットが番号単位でのブロック分けにも関わらず、「すみません、何番ですか?」などと尋ねる人が極端に少なかった。

ライヴ かっこ内は僕の心の声です
観客側の照明が落ちる
ステージのスクリーンに映写される、カレンダー。
2013年11月24日、そう、今日だ。
(2日前に誕生日迎えたばっかりだぞ、来て良かった)
カレンダーは過去へ、1982年5月21日、そう、SOMEDAY発売の日。
(僕はこの日にSOMEDAYの存在なんて全く知らなかったのだけれど、今では知っているよ)
LPレコードのSOMEDAY、ビニールからレコードを取り出す手。
(ああ、そうだよ、LPレコードってこんなふうにして大切にサイドを持って扱ってたよなぁ)
プレイヤーへレコードをセッティング
針が落ちる
ブツッという針の音
(そうだよ、この針がレコードに落ちたときにこんな音がして、「さ、いよいよだ!」って思ってたものだ)
映像が終了。同時に演奏開始、元春はステージ上。
感激のあまり、ここでうっすらと嬉し涙が流れました。
かっこいいんだもん。
レコードを手に取ってくれたファンの気持ちや思い出をきちんと受け止め、察してくれているんだもん。

A面の曲が終わると、また映像が。
そう来るだろうと思っていたものの、丁寧な構成に嬉し涙が出る。

メロディは原曲とほぼ同じ、というか原曲。
曲の中でシャウトするフレーズすら、元春は丁寧にプレイしてくれた。
(ああ、レコードと同じフレーズだ)
そう感じたフレーズは幾つも幾つもあって、とってもとっても嬉しかった。
真夜中にヘッドフォンで聞いたフレーズ、昼間にラジカセやステレオのスピーカーから流れてきたフレーズ
街を闊歩しているとき、BGMで流れてきたメロディ
それらが、目の前で演奏される。
低音のドラムやベースの音はドカーーーンと腹に響いてくる
高音のギター、サックス(ダディ柴田)の音は耳に心地好い。



チケット代は高額だと思う。いくら名盤ライヴとはいえ。大好きなアーティストとはいえ。
元春の声もツブれ気味だったのも、頂けない。1.5万円のチケット代に見合うだけの声を用意してほしい。
ファンであればこそ、厳しい意見を述べたくなる。


セットリスト かっこ内は私の記憶やら感想
「SUGAR TIME」(出だしで理性ふっとぶ)
「Happy Man」(やっぱり原曲は大人しい印象だなぁ)
「Down Town Boy」(サックスの哀愁感、行き場を探しているBOYの姿が目に浮かぶ)
「二人のバースデイ」(うっひゃー、初めて聴けたよ!)
「麗しのドンナ・アンナ」(あれあれ、印象が薄い曲はライヴでも盛り上がらないんだなぁ)
「SOMEDAY」(ダディのサックスで聴くの、93年の北九州厚生年金会館以来だよぉ)
「I'm In Blue」(この曲は、メロディと詩のアンマッチがいいんだよなぁ)
「真夜中に清めて」(みーーない、とりっぱーーーー)
「ヴァニティ・ファクトリー」(いい感じにロックしてるんだけど、あと一歩パンチがあればなぁ)
「ロックンロールナイト」(ああ、この曲。やっぱいいわ。あ、腕振り上げないと!!)
「サンチャイルドは僕の友達」(銀次がおる!!)

アンコール
「バイバイCボーイ」(うわ、この曲演奏してくれる、レアやん、うわ。アレも再現してくれてる!!)
「彼女はデリケート」(いつものライヴではアレンジしまくり、原曲に近い演奏だなんて!!)





2013年11月12日火曜日

ポール・マッカートニー OUT THERE ツアー参戦に寄せて

残された者の、残された時間を前向きに生きていく姿

遥か彼方の座席とはいえ、同じ場所にポールと僕は存在した。
存在した事実は何ものにも代え難い。僕の中での大きな勲章になるだろう。
(男の子がおもちゃの金バッジを胸に飾ってもらって、エッヘンな感じで誇らしく立ち回る姿を思い浮かべていただくといい)

プレイした曲の6割くらいしか知っている曲はなかった。
でも、それがどうだと言うのだろう?と感じてしまうほど、ポール・マッカートニーのライヴは楽しかった。
ステージ上にいるのはポール・マッカートニーという「人」ではなく、ポール・マッカートニーという「太陽」なんだ。
ごくごく一般的なことを言えば、詩があり、メロディがあって初めて音楽だと言えるし、そこから僕は何かを感じ取っていく。
しかし、ポール・マッカートニーには不要だった。
何も考えずとも、知ろうとしなくても、聴こうと構えなくても、ポールのプレイは僕の中に入ってくる。

曲と曲の間、たどたどしい日本語で挨拶をして、コミュニケーションを取ろうとするポールが可愛らしい。
そして和風な表現になるけれども、謙虚さと素直さこそがポールが誰もに愛される存在なんだろう、と感じた。
ギターを高々と掲げ、しかも玩具のように扱うポール。
裏方さんは、「ああ、落ちたらどうすんですか!?」なって、ひやひやしてたんじゃないかな。
そういうコケティッシュな面がポールの真骨頂なんでしょう。

ここまで書いてきたことと矛盾するけれど、参戦直前にNEWアルバムのタイトル曲「NEW」を聴いて、その歌詞を咀嚼していた。
そして彼がこの曲を歌いだしたとき、「あ、ポールはまだやりたいことがあるんだ!!」という意気込みが胸に響いてきた。

ライヴ中、何も考えないと言いながらも、別の頭は回転していた。
ポールがどういう気持ちで曲を演奏しているんだろう。っていうことに。
ジョン・レノンが80年にいなくなり、ジョージ・ハリスンが2001年にいなくなり、そんな運命を経て歌うビートルズナンバーをどんなことを感じながら演奏しているんだろうな?って。
ワインディングロードでは涙が流れる。僕が初めて手にしたビートルズアルバムの最後の曲で、いつもこの曲を聴くと今はなくなってしまった実家でのひとコマとシンクロする。
そう感じている中で、「ツギハジョンノキョクデース」「ジョージノタメニウタイマース」なんて言うもんだから、冒頭に書いた「残された者が、残された時間を前向きに生きる姿」の感想が染み込んだ。

僕の隣に座った男性は、きっと会社ではそこそこの地位の方。
友人と2人で参戦、「俺がライヴではしゃぐわけにはいかんだろう」そんなオーラが漂っていたのだが、最後のほうでは微かに歌ったり脚を踏み鳴らしていた様子。
「うん、そうだよ。会社では部長とか呼ばれているかもしれんけど、ブチョー、それでいいんすよ」
と、何故か彼の部下になった若者に成り代わり、ほっこりとしながら隣の男性を観察していた次第



30年以上前のことになる。
1982年、中学2年生の僕の音楽教師(女性)はビートルズマニアだった。
当時彼女が為した授業を、今の時代にやればかなりな大問題になるだろう
彼女の授業の大半はビートルズの曲を演奏させ、聴かせることだったから。
リコーダーで吹いた「オブラディオブラダ」、最早英語の授業になってしまった「エボニー&アイボリー」、「ハローグッバイ」は中学2年でも分かる平易な歌詞だったし、「愛こそはすべて」も聞かされた。
音楽の授業は週に1回程度(45分だっけ)、単純に52週とすれば、彼女が教えてくれた総時間は40時間に満たない。
必須科目のような類もあったから(ソーラン節を歌わされた記憶が鮮明に残っている)、僕が思っているよりもずっと少ない時間だったことに驚いている。
反抗期真っただ中、押しつけられる行為には悉く反抗。
ビートルズの曲なんて喜んで受け入れるわけはなく、大嫌いで仕方がなかった。

上記がポールと僕のファーストコンタクト。
押しつけられることは嫌いなのに、このメロディには抗えなかった。
いつだったか記憶があやふやだが、中学2年から3年の頃にかけて、レンタルレコード店でビートルズのアルバム「20グレイテストヒッツ」を借りてダビングして聴きまくった。
カセットテープはSONYのBHF(グリーン)だったことを今でも憶えている。

その1982年の頃ですら、ビートルズは伝説だった。
ジョン・レノンは既に他界し、ポール・マッカートニーはマイケル・ジャクソンと一緒にデュエットした「The Girl Is Mine」がヒットしていた。

ポール・マッカートニーのLIVEに参戦できる機会は、きっと今回が最初で最後になるだろう。
僕自身いつまでも大阪で生活できることもないだろうから。
ポール・マッカートニーが来日することだって可能性は低い、そしてポールにも老いが訪れ、いつかは天国へLET IT BEになるんだから。

恩師の音楽教師は聞くところによれば既に鬼籍に入られているとのこと。
あの頃は本当に反抗ばっかりしていてごめんなさい。
先生のおかげで僕はビートルズに出会えたし、先生が願っても叶うことができなかった「ポール・マッカートニーと同じ場所に存在する」ことができたよ。
ありがとう。




2013年11月10日日曜日

ローマ人の物語 7 勝者の混迷[下]

下巻の裏主人公はミトリダテス王(笑)
きっと大半の人が同意してくれるだろう。
なにしろしつこい。とにかくしつこい。

ミトリダテス王のしつこさから翻って考えられることは、この時代のローマにはつけこめるだけの隙があったのだろうし、近隣諸国に反感を抱かせてしまうような政策も進めていたんだろう、ということ。
ま、もっともミトリダテス王が嫉妬深い専制君主だったんだろう、という推測だってあるんだけれどね。

スッラ
生存中に必死に現体制を維持し続けた男
死してすぐに築き上げたシステムが自身の後継者たちによって葬り去られていくことを、彼は頭の片隅で予測していたような気がする。
予測は当たることになるだろうと思いながらそれでもなお、保守的体制が続く可能性を信じて非情な振る舞い、政策を打ち続けていたんだではないか、と感じている。

私自身はかなりな保守的思考の人間なので、スッラの採った政策には頓首してしまうのだけれど。

塩野七生さんが書いてきたこれまでの「ローマ人の物語」を読んで、【時代は常に変革していき、その時代によって古いものは新しいものに取って変わっていく】ということを学んでしまったので、このスッラの政策のフォロワーではいられないもう1人の自分が芽生えている。
もう一人の自分がスッラと同じ時代に生きていたら、きっと粛清されることになるんだろうけど。

ポンペイウス
エリート中のエリート、そんな感じです。
それ以外にこれといったイメージが湧いて来ない。
この人の感想は8巻以降にもっと具体的に抱くことになるのかな。

奴隷のこと
この本を読んでいて目からウロコなのが、奴隷の扱い方が漫画や映画で観ていたものとは全く異なるということ。
労働を強いられ、自由を奪われている存在だとばかり思っていたのだが、彼ら彼女らにもある程度の自由があり、場合によっては立身出世への可能性も生まれていることに、とても驚いた。


2013年11月9日土曜日

清須会議

公開初日にいそいそと鑑賞に。

うつけ者、織田信雄
ああ、猪狩りが観たかった
原作は先に読んでいる身としては、猪狩りのシーンをどう撮影してくれているのか?
が、最大の楽しみ。
本当に残念なことに、猪狩りは登場せず、かけっこ対決に替えられてしまい、残念至極もここに極まれり。
まぁ、原作のはちゃめちゃな猪狩り(何せ、猪が自分の気持ちを語る)を映像化できるなんて芸当はどなたであれ、できませんし。
織田信雄(妻夫木聡)の馬鹿っぷりの残像を噛み締めながら、再び原作を読み返せばゲラゲラ笑いながら読めることだろう。
妻夫木クン、とことん馬鹿になりきってくれてありがとう!

原作では、登場人物の個性がイマイチ不明瞭だったものが、映画で明瞭になった。
偏屈者、織田信包
彼をここまで表舞台に出してきた
三谷さんの慧眼には恐れ入る
前田玄以(でんでん)は徹底した実務屋
前田利家(浅野忠信)は徹底したダンディぶり
織田信包(伊勢谷友介)は徹底した変わり者
上の三人、「徹底した」と書いたとおり、どこまでもその個性を極めさせていた。

反対にねね(中谷美紀)の描き方には異論あり、です。
原作では、夫秀吉の膨張していく彼の野心に気づき、苦悩する姿も伺えた
ねねというフィルターを通して羽柴秀吉の野心を感じ取ることができたのだから。
映画では、恋女房、賢妻にしか映らなかったのは残念

うーん、ねねが陽気に過ぎる
お市の方(鈴木京香)によって描かれた女の情念の怖さ、これは原作どおり、或いは原作以上に震えた。
映画の展開と、私の気分とがお市の描写にピタリとハマったんだろうとは思う。
兄の部下によって、夫と息子を殺された身
その怨念たたるや、凄まじいものがあったんだ。
この事実に三谷幸喜は柱を建てた。
この大黒柱から物語を展開させたのだから、清須会議そのものよりもお市と秀吉の関係をもっとえぐり出して欲しいところ。
そうなると、きっとR15とかにせざるを得なくなる描写が出てくるんだろうけど。
ポルノティック、サディスティック。そういった類ですね。
ホラーサスペンス作品に仕上がっちゃうか。


2013年11月8日金曜日

謝罪の王様

井上真央にこんな格好をさせた
クドカンが偉いのか
クドカンのリクエストを受けて立った
井上真央が偉いのか

2013年の一大ブーム、連続テレビ小説「あまちゃん」
私の同世代の多くがこぞってこのドラマを楽しみに毎日を過ごしていた。
感化されて、夏季休暇のある晩、宿泊先でたまたまこれまでの放送からのダイジェスト版のようなものをオンエアされていたのを視聴した。
「うん、確かに面白い」
だけど、電源を切ってしまった。
その日は疲れていたという事情もあったのだけれど。

そんなこんなで、宮藤官九郎が撮影したという触れ込みが頭から離れず、未鑑賞のままで後悔するくらいなら、鑑賞して後悔したほうがいいや!!という気持ち、つまり「エイヤッッッ」ってな意気込みでこの作品を観賞した。

作品のプロットは、うまいなぁと思う。
宮藤官九郎の作品を初めて観たのはテレビドラマ「木更津キャッツアイ」だったのだが、時間軸を自由自在に操り、観客をあっと言わせる技術には舌を巻くしかない。
この標語、名言です
そう思えば、頭下げよう、って気持ちが
芽生えるかもしれん
今作でも、「なるほど、そういう風に仕込んでたのか!!」というものがそこかしこに散りばめられており、楽しい。
楽しいのだけれど、うーん。
うーん、ちょっと鼻につくよなぁ、と感じてしまう。

時代の寵児な今だから鑑賞できる映画ではなかろうか。
仮に数年後、この映画を観ようという気にはなれない予感がする。
宮藤さんには、観客が元ネタ(タレントの不機嫌発言やら、友好国家からの王子の訪日など)が分かるから楽しめるんであって、元ネタがわからなくなってしまった近い未来のことを考えてみてほしい、と願う。
私ら凡人には及ばない才能の持ち主なんだから。

うんうんと頷いたシーン
ラーメン屋が湯きりのお湯をお客に浴びせないように様々の行き過ぎた施設を整備していくあたり。
客の阿部サダヲが、いや、そうじゃなくて。と連呼していくシーンは、昨今の何か事が起きる度に過剰に防衛していく企業風土を揶揄していて風刺が効いている。
しかしながら、そうでもしないと、企業がリスクを負い続け、一部の心無い客の「言ったもん勝ち」な風潮への警鐘とも受け止めてしまう。

日本人の美徳、この映画が言う「心を込めた謝る」という行為は確かにマニュアル化されていっている。
礼の仕方なんて下手くそでもいい。
肝心なのは心をこめて頭を下げること。
その美徳を思い出すように促していることを宮藤さんが伝えたいと考えているのなら、私は彼が投げたボールはしっかり受け止めて鑑賞できた。





2013年11月3日日曜日

ゴーストエージェントR.I.P.D

原題「R.I.P.D」


誰もこう言う
「ゴーストバスターズ」と「メン・イン・ブラック」を足して2で割ったような作品だと。
キャッチコピーでもほぼ同じようなことを掲げているようだ。

私もそうなのかなぁ、とか思っていたけれど、フッと80年代に公開された「ハワード・ザ・ダック」を思い出している。
この2人が
何がどう似通っているのか、通じているのか、どうにも他者に適確に説明できないけれど、「ノリ」っていうものが似通っているよなあ、と。

真面目にコメディを撮影し、真面目に演じるハリウッドに脱帽する次第。
邦画だと、このあたりは演じ手も撮影者もどこかしらに「照れ」を感じながら撮影されているように感じるのだが、今作の主演2人及びそのアバター、撮影者も照れを排除して演じ、撮影している。
保安官のアバターである美人モデルがタクシーの窓にグチャっと衝突するシーン、実に素晴らしい!


現世に生きる我々には
こう映る
というギャップが表現しきれてない
ただ、この作品が思うほど大ヒットに至っていない。
その主たる要因はゴーストエージェントとアバターのギャップを鑑賞者にうまく伝えきれていないことに尽きるんだと思う。
ゴーストだろうが、エイリアンだろうが、ゾンビだろうが、エージェントが逮捕する相手は誰だっていい。
何せ、西部開拓時代の保安官のアバターは性も変わった21世紀のモデルになっていることがミソなんだから。
何せ、エリート白人刑事が、アジアのサエない老人になっていることがミソなんだから。

道行くナンパなニイチャンが、モデルを口説いてきているけれど、観客には道行くナンパなニイチャンは保安官に♥な目線で迫っている。

白人刑事のギャップは現世での妻とのコミュニケーションでギャップを伝えることはできていたんだけど、ね。
そこは笑いどころではなくて、切なさが垣間見えてしまったから、観客としてはノーテンキにゲラゲラと笑えないんだよね。

つまり、本筋と関連することでないシーンを活用して、ギャグにしたギャップの表現があればねえ。
この表現が盛り込まれたシーンがを用意してくれんかな。
クスクスとさせるシーンをドッカーーーンとメインに据えて観客に食べさせてくれたら、館内は爆笑の渦に包まれるのに。
そこを小ネタ系で演出しているのがとっても勿体ないと感じる。




2013年10月31日木曜日

トランス

原題「TRANCE」

アカデミー賞受賞者ダニー・ボイル監督作

ロザリオ・ドーソン
この画像はイマイチだが、美人
後半での彼女の表情がきれかった
  なのに、公開期間がとても短い。
よくも悪くも、定時退社を自分に課して、平日に鑑賞を果たせた作品
働きバチみたいに働いてしまっている昨今の事情を鑑みれば、こういうことで定時退社したことはとても良かった。

以前に「127時間」でも書いたように、ダニー・ボイルが撮る青色はとても好きで、今作でもプールに映える水の色とか、深夜での道に映える黒みを帯びた青、堪能しまくった次第。
ロンドンオリンピックでも発揮したダニー・ボイルの色の表現の才能は私の感覚にピタリとハマった。

さて、今作
ジェームス・マカヴォイ
ウオンテッドで初めて出会ったので
未だにヘタレキャラに映ってしまう
トランスという単語から思い浮かぶのは、混乱・困惑といった頭の中が整理できなくなる状態のこと
どこまで、観客の脳みそを混乱させてくれるのやら?と期待しながら待ちかねていた作品。
ストーリー展開はあれよあれよと進んでいくし、人物相関図はジェームス・マカヴォイとヴァンサン・カッセル・ロザリオ・ドーソンの3人を追っていけばいい。

その3名の関係は前半と後半では、全くもって変わってしまう。
私、現時点でもこの3人の相関がターンしていくポイントだとか、どこまでが現実でどこまでが過去で、どこからが夢なのかチンプンカンプン状態のまま。

ヴァンサン・カッセル
しゃくれ気味の口元が生意気そうに映る
悪徳刑事の役とか観てみたい
是非とももう一度観賞したい作品なのに、もう公開は終わってしまった。
なんで、こんなに面白い作品をかくも早く公開満了としてしまうのか解せない。
興業成績だとか、興行元の事情とかあるんだろうが、もっと長く公開してくれ。



2013年10月27日日曜日

ローマ人の物語 6 勝者の混迷[上]

ゆっくり、ゆっくりと読み進めている「ローマ人の物語」
春にハンニバル戦記を読み、夏い暑、いやいや暑い夏を乗り越え、日中は残暑が厳しくても夜になると並みの残暑になった頃から、ハンニバルの次時代のことを知りたい気持ちが湧き上がってきたピークを迎えてこの手に取る。

友人らに、この本を読んでいる画像を紹介すると「偉い」と褒められてしまい(誰かに褒められたい気持ちは確実にあった)、嬉しい気持ちを感じた。
同級生たちも歴史好きな輩が多く、世界史にしろ、日本史にしろ造詣が深い。
そんな中で歴史通という認識をされているのだが、私ほど歴史を知らない輩もいないだろう。
偏った思想には染まらないように生まれているんだと思う(或いは偏ってしまう自分にストッパー機能がどこかで働いているのかもしれないが)
何にせよ、知らないから知りたいと思う。
知識欲です。
「知りたがり」だと人は言う。
うん、そう。
歴史を知っておけば人と話すとき、ウィットに富んだ言葉が出るし、そのようなこじゃれた会話ができる人間でいたいなぁ、と願っている。

さて、この6巻、勝者の混迷。
冒頭のハンニバルの言葉、これに尽きる。
軍人としてのハンニバルは偉大だけれども、この言葉を遺した先見性の持ち主のハンニバルの偉大さに感服している。
グラックス兄弟の改革の挫折を読めば読むほど、腑に落ちていく深度がマリアナ海溝なみ。

グラックス兄弟
正しき道を進もうと考える人、そういう人に限って落命の道を辿る典型的な人。
正しい道を進もうとする人は、誰もが正しい道へ同調してくれるものだと幻想を抱く生き物なのかもしれない。
正しき道に進もうとする人は、蛇の道は蛇を知り尽くしている懐刀が必要なのだろうが、正しき道を進もうとする人はそのようなこと嫌う、という矛盾が横たわっている。

マリウス
軍人あがりの政治家
このような人はいつの時代にも存在しているようだし、その存在意義は他の人びとからすれば非常に短いし、存在意義そのもの決して高いものでもなさそう。
マリウスの為してきた功績を読んでいると、我が国の山縣有朋の顔がチラついてしまう。
軍を私していく過程がよく似通っているように感じている。



グランド・イリュージョン

原題「NOW You See Me」
作中でも「近づいてみるとわからなくなる」という台詞で訳されている。
この映画を鑑賞して、社内で研修会をする機会があり、現場にどっぷり入りこみすぎている営業に一つの警鐘の言葉として紹介した。
上手に紹介できず、ショボくなってしまい「うーむ。うまくはいかないものだ」と、反省。

3年前に観賞した「ゾンビランド」の主演2人が今作でも共演
フォースメンたち
ジェシーの存在感は増したが
ハレルソンにはまだ及ばない
1人は「ソーシャルネットワーク」でスターダムに躍り上がったジェシー・アイゼンバーグ
1人はお馴染み(最近はクレイジーな役どころが多い)ウディ・ハレルソン
そして、私の中では現在最も銀幕に映える「メラニー・ロラン」嬢
予告編で観た、「あれあれ、なんとまあ」な舞台でのマジックが銀行強盗(正確には強盗ではなく、窃盗?)のカラクリは一体なんなんだ?
どうして彼らは金を盗む?愉快犯なんか?それとも何か高尚な目的があってのこと?
期待に胸を躍らせながら鑑賞。


その期待度の沸点までは到達しなかったけれど、まずまず及第点は挙げられる満足度。
ただ、途中途中でネタ明かしをしてしまうのが、好みが分かれるところかなんだろうな。
私自身を客観的に自己分析してみれば、今作の途中下車してのネタあかしは「ふむ。ふむふむ。」と合点承知のすけ、と納得してから鑑賞を進められる作品で満足度はもっと高くなるものなんだが。
いざ、鑑賞し終わって10日ほど経過していこうとしている今思うのは、全てのネタあかしはクライマックスでパタパタパタパタとドミノ倒しのように解かれていく展開のほうが爽快な作品に仕上がって、満足度は高かったんじゃなかろうか?という感想が生まれている。

大御所2人、モーガン・フリーマンとマイケル・ケイン。
ハルクの主人公やってたマーク・ラファロ
うーむ、ドカーンと私のハートには
響かなかったなあ
12年のダークナイトライジングでも拝顔しました。
以前も書いたが、モーガン・フリーマンの顔は食傷気味、好きとか嫌いの感情のことを言ってるんじゃなくて、鑑賞する映画にかなりの確率で拝顔してしまうのは、「またーーー」と思わずにはいられない。
モーガン・フリーマンか、國村隼
これ、私のこのところのいい役者なのは分かるんだけど、あまりスクーリーンでは拝顔したくない顔。
マイケル・ケインはまだ、そこまで至ってないけど。
ハリウッドでも、酸いも甘いを噛み分けてジャンルを問わずにどんな役でも完遂できるカメレオン大御所という人材不足に陥っているんだろうなぁ。






2013年10月21日月曜日

緋色の研究

「シャーロック・ホームズの冒険」の解説を読むと、時系列に整理すれば「緋色の研究」がスタートなんだと。
(発刊順ではないのかもしれないけれど)
「〜冒険」では、既にワトソンとホームズは周知の仲で、かくも親密になった経緯はどういうものがあるんだろう?という疑問が湧いていた。
という訳で緋色の研究を手に取った。
有名(らしい)2人の初めての出会いのシーンが描かれているし、ワトソンがホームズのことを、多かれ少なかれ「ウザッたい」一面を感じ取って辟易しているくだりが微笑ましい。
こんな2人が映画でのロバート・ダウニー・JRとジュード・ロウの顔とイコールになってきてしまった。
2013年(つまり現在)、舞台を現代に移した海外ドラマがスマッシュヒットを放っている。
暇があれば、鑑賞してみたいなぁ、と思っている次第
いずれにせよ、私にとっての2人の像は映画版の2人の姿がしっかりインプリンティングされてしまっている。
パート3が公開されるまでには、他にも数冊を読んでおきたいと考えている次第

勝手なことを書くと、この本の構成は前篇、後篇、そしてエピローグという構成。
前篇での突然の犯人逮捕劇に戸惑い、後篇の始まりに戸惑い、「へ?」となりながらも読み進めて、エピローグを迎えて、全てが腑に落ちていく。

そして例によって例のごとく再読したのだが、再読のときのほうがドキドキ、ワクワク感が高い。
安っぽいミステリーではなく、格調高い謎解きパズルのような感じ。
ひとつ謎が解けていけば、次々と知恵の輪のリングがハズレていくような感覚が残る。


2013年10月19日土曜日

フローズン・グラウンド

原題「THE FROZEN GROUND」

邦画では「凶悪」、そして洋画では今作と2013年の10月は「残忍」をテーマにした映画を鑑賞した。
「凶悪」はぜひとも鑑賞したいというモチベーションがあったのだけれど。

(アヤしい)芸達者二人
キューザックの変態犯人ぶりには
恐れ入りました
今作は芸達者の二人が目当てで鑑賞に。
ニコラス・ケイジとジョン・キューザック。

米国の事件、それも性的な動機から発している事件を土台にしているだけに「ここまで残忍な人間がいるんだなぁ....」、と背筋が凍る思いをしながら鑑賞した。
セックスと殺人は欲望の果てとして共通する何かがあることは、頭では理解できるし、実際そうしたいと思うことだってあるが、行動には起こさない。
それが心身ともにノーマルな状態なんだろう。
そのノーマルがアブノーマルへと転換するのは先天的なのか?後天的なのか?
いとも簡単にこれが解明されれば、この世から性犯罪の多くが撲滅できるんでしょうが。

滅多に視聴する機会はないのだけれど、テレビ番組の「奇跡体験アンビリーバボー」などで取り上げられていそうな殺人事件を、この芸達者な二人が演じてくれた。
それだけで満足しないといけない作品なんだろう。
事件が全て解明されているわけでもなさそうで(犯人の近辺で失踪している女性はまだいるとのことだった)、存命している人もいることからなのだろうか、「奥歯に物が挟まった」ような人物の掘り下げ方になってしまっていた。

若さゆえに過ちを犯し、生命の危機を
乗り越えた娼婦を演じたヴァネッサ嬢
入れ替わりの激しいこの世界でも生き
残ってほしい
事件そのものには惹きつけられたのだけれども、鑑賞者が感情のベクトルを「誰に」「何処に」向けていけばいいのか悩むし、不明なままで終わってしまった。

ということで、完成度・メッセージ性で「凶悪」には数枚落ちる仕上がりになっている。

生き残りのシンディを演じたヴァネッサ・ハジェンズ嬢が今後どういう役を演じてステップアップしていくのかを楽しみにしていきたい。







2013年10月18日金曜日

風立ちぬ

何かと話題に事欠かない宮崎駿監督作品、しかも監督が今作を以て引退する旨を表明したもんだから、いつにも増して話題に事欠かない。
良い面での影響は、公開期間が更に長くなる(だろう)ということ

悪い面での影響は、とにかく多種多様の批評・評価・感想の類がメディアに現れてくるということ。
鑑賞するまではこういう類からは身を遠ざけておきたかったのだが、唯一インプットされてしまった情報が、日曜日の昼下がりにオンエアされる放談番組で、喫煙シーンが多いため禁煙の団体のひとつからクレームを受けている、という内容。
「夢」で始まる
確かによく喫煙するカットが多かったけれど、目くじらを立てて言うことのほどではあるまいに、と、感じた。

逆に、この情報しか仕入れていなかったので、その他については物語の進行、展開を純粋に楽しめた。
①「夢」に始まり、「夢」に終わる。
素敵な作品だ、と感じる。

主人公が製造する飛行機は、どう考えても兵器としてしか製造されることはないのに、それでも製造へつき動かされていく過程に違和感を覚えていたのだが、エンディングで彼が飛行機製造の本来の夢をイタリアのカプローニと語り合う、このエンディングで彼が製造したかったものは兵器の飛行機ではなく、夢の飛行機なんだなぁ、と。
まるで生き物のように映ってきた
飛行機

②膨らみの比喩がわくわくする
改めて思った。
宮崎駿が描く、車の動きはユーモラスである
そのうえで、車が停止するとき、タイヤがボアッと膨らむカットに、微笑んでしまう。

③ヒロインの退場に涙
突然だった。それだけに美しかった。
彼女の退場について、仲人(となってしまった)上司の妻が説明のようにつぶやくセリフ、これは不要かなぁ。
このセリフを無くして、鑑賞者に察してくれるように仕上げてくれるほうが、私の嗜好に合う。
まぁ、でも。子供たちが鑑賞することを踏まえれば、上司の妻のセリフは必須ではあるんだろうけれども。

④日本語が美しい
正しい日本語、というか、美徳感が巷に溢れていた時代だったんだなぁ、と、甚く感じ入ってしまった。
言葉は時代に応じて変化していく。
だから古文なんて学科が生まれていくんだけれど、この時代の言葉は美しく、清々しい気分が訪れる。
私はこの作品を鑑賞したのは夜だったけれども、朝方に鑑賞すればその日一日が清々しく生きていけるのではなかろうか、と感じている。








2013年10月12日土曜日

そして父になる

帰りの列の中でパンフレットを見かけたら「LIKE FATHER LIKE SON」と書かれていた。
この洋題のつけ方は、シンプルで至極的を得ている、と感じ入った。
福山雅治と尾野真千子
龍馬はおりょうをフッたんだなぁ
(龍馬伝ネタ)

何せ、この作品の触れ込みは凄かった。
カンヌ国際映画祭の審査員賞獲得のニュースに湧き、いつのまにやらハリウッドでのリメイクまで決まっている。

老いも若きもこぞって今作を鑑賞に赴くというのは、数年前の「おくりびと」以来なのではなかろうか?
この夏公開されたジブリの「風立ちぬ」は、若い世代には圧倒的な支持を得ているだろうけれど、老いゆく世代への支持は、孫がいることが前提でしょう?

私の身の回りも巡り巡って鑑賞に赴いている人が多い。
①仕事の合間に1000円で観賞した同級生女子
②夫婦の何かの記念日に鑑賞に赴いた同級生男子
真木よう子に私も抱きしめられたい(笑)
自分が抱きしめられているように
錯覚してしまった。いいシーンです
③職場から何かの縁でチケットを渡されて無料で鑑賞させられた(した?)女性社員
多種多様な人が異口同音に「感動した」(感激した)と言う。
それならば鑑賞に赴く価値はあるのかな?と思いながら劇場へ脚を運んだ。

今作、いいですね。
ありきたりな表現しかできない、語彙の少なさに自己嫌悪に陥るけれど、よかったです。

過剰な演出は無し、妙なスローモーションみたいにして、無理矢理に観客の涙腺を緩ませようとする演出が無い。
悪く言えば淡々と進んでいくのだけれど、このペースが事実のように観客に誘ってくれている。
野々宮家と齋木家のスタイルの違い
特に母親のファッションと手の組み方に
表れる
よく見る画像だが、鑑賞後に観ると
この一枚に込められた意図を理解できる
無駄な言葉を費やさず。説明過剰な邦画にしては驚くほどに静かな作品だった。
音楽も主題歌とか無理矢理な挿入歌も無く、これは私にとって大きな満足ポイントだ。

テーマは「共に過ごした時間」か「血(遺伝子)」か?
どちらを選択するのか?というテーマで、主人公(野々宮良多)を我が身に置き換えてみても、答えが出てこない。

否、客観的な私は脳内でこう言っている。
「我が血を受け継ぐ者を手元に残すのが筋だろう、我が子と思った子供との6年間が貴重なのはもっともだが、早く我が血を受け継ぐ者との生活をスタートさせねば。子供の順応性は高い、今の子との別離は辛いけど、あっというまに子供は本当の親に馴染んでいくだろう。」
しかし、主観的になれば、「そして」となるシーンのくだりで
「凶悪」の木村(先生)を演じた
リリー・フランキー
こっちでは気のいい電気屋のおっちゃん
ギャップ激しすぎ!
「嗚呼、客観的な思いは所詮は主観の前には無力だ」と、感嘆してしまう。
是枝監督は、観客に「答え」を提示せずに、観客に委ねてこの映画に幕を降ろした。

主人公(野々宮良多)を取り巻く環境も複雑で、このバックボーンがあればこそ、彼の苦悶・苦悩する姿が、味わい深い。

鑑賞者の性別によっても、頭に残る言葉も全く異なるんだろう、と思う。
妻が夫に激昂したセリフ、私は頭に入っていませんでした。
そして、きっと同じ言葉を吐くことになるだろうと思っている。
男(オス)にとっては、種を撒くことしかできない性だからこそ、あの言葉が出てくるんですが。
女(メス)にとっては、種を受けて畑で成長させる性だからこそ、あの言葉が許せない。

馴染んで来ない実の息子に心の何処かで扉を閉ざす父
優秀な俺の血を受け継いでいる息子なのに、といらつく父

触れあえば触れ合うほど母性が目覚めていく母
育てた息子への愛と実の息子への愛の狭間で揺れる母
私は男だが、この母(ゆかり)のどうしようもないやるせなさ、どうしようもない愛の多方向へのベクトルが胸に迫ってきた。

主人公家族ばかりでなく、取り違えの主たる原因を為した女性の義理の息子の登場だとか、主人公の義母だとか。
実の血の繋がりはなくとも、家族として生活している人びとの登場で、「血」ばかりでもないよなぁ...と男(オス)に気づきを与えてくれている作品だよなぁ、と受け止めている。

作品全体を通して涙腺は緩くなるけど、バルブから溢れることはなかった。
(ま、涙脆くはないタイプですから)
劇中後半になると、後方や横からすすり泣く嗚咽が幾つも聞こえてきた。
鑑賞後に見回してみたら、大半が年老いた女性(子育てを終えて、孫らの世話をするような世代)だった。
きっとゆかり(尾野真千子)のセリフに、バルブを捻られ。
良多(福山雅治)の表情に、蛇口を回されましたね。

色んな受け止め方があって、いいんじゃないかな。
鑑賞して、私の頭に流れるのは「太陽」(佐野元春)だ。
こういう作品にはBGMは不要だ、鑑賞する人(受け手)の頭の中で流ればいい。
それがイマジネーションにも繋がるし、新しい文化・趣味・嗜好の起点にもなるんだ。
そう感じている。









2013年10月6日日曜日

ビザンチウム

原題「BYZANTIUM」

鑑賞に赴いた理由を3つ挙げる

①シアーシャ・ローナン
「ラブリーボーン」(2010年)で観てから、彼女の芸域がどれくらい広がっていっているのか知りたいから。
この年頃の女子の成長には目を見張るばかり、ラブリーボーンでは幼さの領域が残る少女だった彼女が、今作では成人女性の領域が広がっている。
芸域の感想は、才女とまでは至らないんだろうなぁ、ということ(大根じゃないことは断言する)
これって赤ずきんちゃんだよなぁ
ヴァンパイアと赤ずきんちゃんを
重ねているとしか思えん
なんか理由なり由来があるのかな?
まぁ、生まれながらの芸達者なんてザラにいるわけではないんだし、日々精進されていくことを期待する。

②紹介サイトで観た、ビザンチウムの看板の黄色
黄色がこんなにも映えるなんて!
こんなにも黄色に惹かれる自分がいるなんて!
とにもかくにも、この黄色の看板(ネオン)の色はアヤしく、美しい

③ヴァンパイア
私は、あんまりヴァンパイア作品には興味を抱かない。
どうです?この「ZA」の黄色
なんか、惹かれたんです
「インタビューウイズヴァンパイア」だって、レンタルビデオで借りたし、トム・クルーズがアヤしく美形だったなぁ…。というくらいの感想しか浮かんでこない
(永遠に生きる生命への悲哀ってのがテーマだったよね?)
でも、シアーシャ嬢のような女性のヴァンパイアなら、観てみたいなぁ、と。
その辺り、私は男だもの。性的な欲求として女と交わりたい。
性器を通じない交わりでも充分なエロスは感じられるだろうという推測から。
今作ではモロな性的なシーンは「なきにもあらず」で、清く、涼やかにエロスを堪能できた次第。

実は4つ目の理由もある。
「凶悪」の後味を悪さを引きずったまま帰宅したくなくて、今作へとハシゴした次第。


ラブリーボーンから3年
かなり大人になってきた
ローナン嬢
女性姉妹が、何故か逃げまくる。その理由は何なんだ??ということを追い求めていくことが大筋の展開。
一見ミステリー自立ての作風でありながら、次第次第に登場人物が幾つかの役を担っていることに気づいてからが大変だった。
「え?さっき観た顔だけど」「え?あの顔の人は過去に遡って別の役を担っているのか?」と。
そのあたりを理解したときには大団円に向かっていた...。
うーん、そのあたりの相関図を理解してうえで、もう一回観たいよなあ。

ああ、そうでした、今作はミステリー自立てに見せながら、そうではなくて、「純愛物語」なんですね。

1つ目
文章中では全く触れなかった
ジェマ・アータントン
007やら、タイタンの戦いで観たこと
があるのだが、印象に薄い
今作で認識度UPしました
主演の二人の女性の愛(レズビアンじゃないですよ)
2つ目
エレノアの初恋物語

3つ目
最後の愛は、クライマックスのお楽しみに未記載にしておきます。
クライマックス直前に「ああ!!!」と叫びながら観たけれど、「ああ????」「おおおぉ、そういうことか!!!」と幾つもの感嘆符が頭を飛び交いました。
映画通の人はきっと、ある程度どこかで予測できるんでしょうけれどね(苦笑)

鑑賞動機の理由2での黄色も美しかったけれど、孤島の滝の水が赤い血で染まっていく、その赤がとても美しかった。
「黄色」と「赤色」といえば、欲求が表面に出てくる色だ。
欲望を駆り立てる色が印象に強く残っているわりには、静かな気持ちで帰宅できた。
なんか不思議な映画だ。




2013年10月5日土曜日

凶悪

鑑賞に赴いた最大の動機は2つ

山田孝之、彼のヒゲが濃くなっていく
のが、今作での焦燥感や繁忙感を
醸し出している

①山田孝之を観たい
「世界の中心で愛を叫ぶ」のドラマか映画で主演を演じていた頃の彼は、役柄もあって、「なよなよした」草食男子の代表格として映っていたのだが、2011年の「十三人の刺客」でスクリーンに映る彼は男臭い男。
一瞬にして惚れ込みました。
テレビドラマでもあまりみかけないので(違うかな?)、主戦場をスクリーンや舞台にしているんだろうと踏んでいる。
こういう役者はひいきにしていきたいと考えているから、ということが1つ。

②実録犯罪シリーズの類は結構好きだ。
半クールなり、年末になると「警察24時」といった冠を掲げた番組がオンエアされる。
龍馬伝での朗らかな溝淵広之蒸の姿は
欠片も感じられないピエール瀧
仕事がある日は熱心にテレビを観ることが少ないため、滅多に観ることがない。とはいえ、こういった番組は「遠い現実」として眺めるのが好きだ。
まぁ、要はミーハー根性ということが理由の2つ目。

そうして、鑑賞に赴いた。
「なんとまあ、後味が悪い」
偽らざる感想であり、今作に対する私なりの最高の賛辞でもある。

実際の事件をベースに、フィクションに仕立てているけれど、事件そのものの概要はノンフィクションなんだもの。
これを鑑賞して「私もお年寄りが金塊に見えるよー」なんていう輩が現れてきたら大事(おおごと)だもの。

リリー・フランキー扮する「先生」とピエール瀧扮する「須藤」の2人の所業に目を奪われてしまうのは勿論。
人仕事終えた直後の2人
鑑賞者が次第次第に感覚が麻痺して
いく転換ポイントのシーンだ
いつの間にか「須藤」に同情してしまう鑑賞者は結構多いのではないだろうか?
(私も同情してしまった1人)
冷酷で無慈悲な殺人者に同情して、彼が信仰心を持ち始めたことに、「いいこと」だと感じてしまった。
許される範疇を超越した殺人者に、彼が改心を抱くことを許容することは「善」なんだろうか?
それとも、主人公藤井が吐き捨てたように、許容しないことが「善」なんだろうか?

犯罪に手を染めていない人物も凶悪だ。
主人公藤井。
彼の心に次第次第に巣食っていく、邪悪な心の芽生え。
「先生」宅に不法侵入してしまう、あの心は本人では止めようがない。
正義心のあまり、とは言えない、何かが彼の心に巣食っていった(何かが、凶悪と断じることは安易に過ぎるように感じる)

そしてその妻
リリー・フランキー。ありふれた不動産屋
が表の顔で、人の命を金に替えていく
その思考回路が凶悪だよ。
彼女の終盤での告白は伏線からすれば至極当たり前の展開なのだが、台詞を聴いたとき、「背筋が凍る」ような感覚に襲われた。
池脇千鶴の演技にもヤラレたのもあるのですが...

映画そのものとは関係ないのだが、私は大都市の交差点を歩くとき、フッと「これだけの人が生きているんだから、1人くらい殺しても分かりっこないんじゃない?」という、恐ろしく自己中心で邪悪な心が芽生えることがある。
実際に人を殺すことはしない、その理由を自問自答してみれば「捕まってクサイ飯を食べたくない。」「(逮捕されて)自由を奪われることが苦痛だ」という理由。
そこには「他者の生を尊ぶ」という思考は浮かんでこない。
自分の中にいる凶悪な自分にゾッとする。
この映画を観て、後味の悪さを感じた究極の理由は内なる自分の凶悪を見つけて対峙せざるをえなかったということだ。

凶悪な事件は決して「遠い現実」ではなく、「近い現実」になりかねないという事件への認識。
そして、その「近い現実」は、或いは自分の中に秘められているのかもしれない。







2013年9月28日土曜日

エリジウム

原題「Elysium」

公開前「第九地区」(斬新なアイディアで、映画史に残る秀作)の監督作という触れ込みを打っていた。
うーむ、「ニール・ブロムカンプ」という人名での触れ込みになるように、これからもせっせと鑑賞に行って応援していこうと考えている次第。

その「第九地区」ほどの衝撃度がないことは予告編でおおよその見当はついていて、寧ろそういうド定番なSF作品を楽しみたかったので、満足度は高い。
宇宙の見え方だとか、ドロイドの動き、主人公が纏う機械とか。
第九地区ではヘタレ
今作ではとことん悪
(気づくのに暫く時間がかかった)
芸達者へ邁進してくれ、コプリー
今、この目の前に起きることに対して、生きることに多かれ少なかれ疲れている「私」にとって現実・リアルを忘却の彼方に誘ってほしかったのだから。

貧富の差により、住む世界がかくも異なるのか、というのは「タイム(In Time)」の世界観に近い。
栄える者はとことん栄え、落ちぶれている者はどこにも救いがない。
そういえば、その昔ハマってプレイしたファイナルファンタジーの7作目もこの世界観に近い。
そして、こういう世界観を舞台にした仮想体験には、知らず知らずに心惹かれてしまう自分がいる。

格差の拡大は、グロバールで起きている事実であり、今のところ有効な手立ては見つかっていない。
初の悪役、という触れ込みだった
ジョディ・フォスター
眼が綺麗だから、悪役に映ってこない
役柄もあって老け顔でした
共産主義、社会主義は資本主義には勝てないと思うし(努力する者が得て、努力しない者は得られないというのは概ね正しいと信じている)。
その一方で一旦富んでしまった者が「臭いものには蓋をしろ」よろしく、手段を選ばずに栄え続けていく事態に、貧しき智恵者が乾坤一擲の一撃を食らわす。

何をどうしても、心にヒットしてこない
マット・デイモン
嫌いになれればいいのだが。
好悪の感情が起きない稀有な俳優
痛快だし、せめて仮想体験で「よっしゃ」「うっし」と拳をギュッとしたい人の為の映画だ。
その後が「どうなるか?」なんてのを考えたりするのは無粋というもの。

2013年9月25日水曜日

楽園(上・下)


私にとっては、実に久しぶりの宮部みゆき作品。
2011年の「孤宿の人」以来。
帯に「模倣犯」の続編のような触れ込みに惹かれて手に取った。

私の常の慣例どおり、この本も再読したのだけれども、初読、再読も含めての所要時間は3日前後。
これは遅読の傾向(自分ではそう思っている)の私にすれば驚異的な速度。
いえ、もう実に。実にこの作品には読まされました。
3日のうち、1日は徹夜に近い状態で。
夏季休暇の「のんべんだらり」と過ごした夜、連れが先に眠った後に手に取って、朝方の3:30ぐらいまで読んでいたような...。

この世は邪悪なものに囲まれている。
それと同じように救いにも囲まれている。
両者を隔てる壁は私たちの意図しないところで、意図しないときに、意図しない事情で壊れかねない。
誰だって、壊れないことを願おうが願うまいが、思いもかけないところで、思いもかけない事情で壁はいとも簡単に壊れてしまう。

この作品に登場してくる人は、誰もが「壁を壊されてしまった人」ばかり。
痛みを伴いながら読んだし、痛みのまま残ってしまう展開もある(誠子と達夫とか)けれど、カタルシス(浄化)されていく展開もある(敏子とか)

主人公前畑滋子と作者宮部みゆき。
解説でも触れられていたのだけれど、(模倣犯の事件によりダメージを負ったという)2人はシンクロしてくる。


2013年9月18日水曜日

マン・オブ・スティール

原題「Man Of Steel」


敬意を込めて言いたい。
「たかだかスーパーマンではないか!」
なのに、ここまで重厚に、且つ苦悩を抱えたヒーローを生み出してしまうなんて。
折しもこの夏、邦画では私が幼少の頃の日曜日の18:00のヒーロー「ガッチャマン」が実写化されるもグダグダな批判を浴びる中である。
アメリカの健全な幼児向けのマンガから生まれたヒーローが、かくも骨太な物語として「はい、どうぞ」と提示されてきた事実に「日本よこれが映画だ!」と12年の「アベンジャーズ」の触れ込み言葉を突きつけられた、としか言いようがない。

脇を固めるオヤジ俳優の2人がいい感じである。
うまい蕎麦には、いい出汁が必要だし、いいツユが必要だ。加えて薬味は重要なアクセントを与えてくれる。さもなければ蕎麦を食い続ければ飽きが来る

ラッセル・クロウ
「レ・ミゼラブル」で見せた恐るべきジャベール警部の歌声に封をして、クドいほどの登場回数。
ね!
ケビンにはこういう田舎にいるオッサンが
良く似合うって
「あんたは死んどるとやろおもん」と、心の中で博多弁でツッコミを入れながら(笑)

ケビン・コスナー
ああ、いいですねえ
ケビンにはトウモロコシ畑が良く似合う。
ファーマーこそが彼の最も似つかわしい舞台だよ
「フィールド・オブ・ドリームス」以来、久方ぶりに観れて、しみじみと納得した次第だ。

それから、エイミー・アダムス
ね!
エイミー嬢のお鼻はトンガリ帽子みたい
中盤になって、ようやく彼女だと気づきました。
「人生の特等席」で個体認識した彼女、客観的自己分析によれば好みのタイプではないエイミー嬢に抱いた感想は「おおぉ、エイミー嬢、お鼻とんがってるなぁ...」というもの。

ああ、それから最後に、主人公。(一番扱いが雑ってのはどうなんだろうか(笑))
成年になってからのクラーク・ケントの役ヘンリー・カヴィル。
現時点では未知数かなあ、「良い」とも「大根」とも言えない。
寧ろ子供時代を演じていた子役に存在感を感じた。
それから、過去にない素晴らしい質感のコスチューム。
主人公スーパーマンに最も感激したのはこのコスチュームやったよ。

戦闘シーン
超越した力。これはよく伝わってきたんだけど、ややクドい感があった。
でもね、勝手なもので短ければ短いで、きっともうちょっと長くてもって言うんだよね、私。

ほどよく、緊張し。
ほどよく、憧れる。
ほどよく、同情する。
うん、スパイスとして、ユーモアがあればいいかな。
そうはいいながら王道な作品です。

次作はバットマンも登場するとのことだけど。対角線に存在しているようなヒーローが2人登場して物語が成立するのかなぁ…。

例えばさ。
仮面ライダーとゴレンジャーが同時に登場してほしいけど、いざ登場してみたら「???」こんなはずでは…。とかなならないかな。
心配しすぎかなぁ。

2013年9月17日火曜日

ワールド・ウォーZ

原題「World War Z」
勘違い、その1
この壁をよじ登っているのは人⇒×
実はゾンビでした



半年近く、映画鑑賞に赴けば2回に1回ぐらいの確率でこの映画の予告を目にしていた。
主人公の車のバックミラーを警官が破壊し、ドアを出て文句を言おうとする傍から別の警官が...というシーン
そして大量の人びとがとてつもなく高い壁を超えようとしていていくシーン
この2つのシーンは印象に強く残っていたし、その2つのシーンと「ワールド・ウォーZ」というタイトルから、これはとてつもないSFスペクタル大作にちげーねー。インディペンデンスデイ以上のとんでもなエイリアンが来襲してきて、ブラッド・ピット扮する主人公が徒手空拳状態から遂には世界を救うことになるんだろう、と。

どうです?大枠は外していないでしょう?
勘違い、その2
この虚ろな目をしているのは主人公の家族⇒×
主人公が出会った兵士でした
倒すべき相手が、エイリアンでなく、それがゾンビ(zombie)であることを除けば。
何せ「Z」だもん、アルファベット最後の文字ですよ。
そこから推測するものは人類最終戦争と解釈してしまう人が大部分だと思う。
人類が戦う相手は「人類」か「異星人」だというのが映画のド定番ではなかろうか?

だから、「Z」=ゾンビと聞いたとき、心のどこかで「ぷしゅーーー」と楽しみにしていた気分から空気が抜けていった。
…。だって、ゾンビ映画って、ねえ。ほら。ビミョーでしょ?(同意を求める私)
ああ、もう、この作品、どうしようかなぁ、やめとこうかなぁ...と、ウダウダ悩んでいる間に、およそ3週間無休で働く羽目になってしまい、いよいよこの映画の公開期間にラストのフラグが立ち始めた平日に、「えいやぁっ!!!」と鑑賞に赴いた次第。
勘違い、その3
ここが主戦場かと思った韓国⇒×
通過点に過ぎなかった

いざ、蓋を開けてみれば。
面白かった(アッサリと言い切ってしまう)
そして、思ったこと「ああ、これはゾンビを素材にして成功した作品だったなぁ」
SF映画の側面よりも、パニック映画と受け取った。
コンティジョンのような疾病ものだと、急速に拡大していくスピード感に欠けるし(現実にそうなると人類は滅亡するんだけどね)、異星人ものだと、現実性が薄まっていくし。
ゾンビという、ブードゥー教にも登場するような「実はどこかにいるんじゃないか??」なものを登場させることで、こういう事態が起きるんではなかろうか?と。

何せ、スピード感がいい。
「何が起きてるの??」と訳が分からないままに事態が進展していき、とりもなおさずその場から避難する、逃げる。
その一方で世界の至るところが冒されていく、逃げ場はどんどん狭まる。
逃げるにも何処にも逃げる場所はない…。
途方に暮れる暇も無く、とにかくこの場にいることは落命に直結するんだ、頭をフル回転させて未来を模索していくだけ。

一転し、ワクチン獲得に向けた展開は動から静へ、緊張を強いてくる。
ここで主人公が餌食になるはずはないんだけど。ド定番な展開だけど、ドキドキしながら鑑賞した次第です。

ゾンビ映画はこの作品を契機に、市民権を完全に手中にしていくんではなかろうか。







2013年9月15日日曜日

サイド・エフェクト

原題「Side Effects」
シャーロック・ホームズではワトソン君の
ジュード・ロウ
目指せ!ショーン・コネリーの後釜(頭髪面)!

スティーブン・ソダーバーグ監督の引退作だという。
これまで縁が薄くて殆どソダーバーグ監督作を鑑賞したことがない。
気になって検索して調べてみたら「トラフィック」「エリン・ブロコヴィッチ」「インソムニア」をDVDで視聴したことがある程度。

ソダーバーグ引退作云々よりも、本格サスペンスという触れ込みに心を惹かれていた。
おまけに公開期間はとても短い様相で、観賞した週を逃せば多分鑑賞できるタイミングを逸するだろう、という読み。
(多分当たっている)
すっかり生え際が危なくなってきた「ジュード・ロウ」の画像に惹き込まれて、どうしようか悩んでいる心を見透かされたかのように、「行きたいの」と宣う「連れ」
ルーニー嬢
この子の口元はきゃわゆい(かわゆい)
顔では「そっかー、お前が観たいのなら仕方ないよなぁ...」と言いながら、心中「うっしっし」
で、いそいそと鑑賞に赴く。

いやあ。
この手合いの「ん?どうもおかしいような?」といったものを心に留めながら鑑賞するのは実に頭を使う、そしてこの手合いの作品は20代の頃に観賞した作品(1990年頃に上映されていた「ゆりかごを揺らす手」のようなもの)よりも幾重にも伏線が張り巡らせられていて、実のところ終盤からの展開には置いてけぼり状態、で、今もよく分かっていない展開が幾つか残ったまま。
アンニュイな佇まいのルーニー嬢
ブロンド髪もいい(でも黒髪のほうが好き)
うーむ、私のような「知りたがりで、納得しないと気が済まないタイプ」の人間の場合、こういう作品は落ちまで知り、そして解説の類を読み漁ってから鑑賞すべきなんだろうなぁ、と思う。
少々、消化不良の感が否めない。

しかし、俳優陣はかなり豪華
ジュード・ロウ、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、ルーニー・マーラー、チャニング・テイタムと新旧ほどよいバランスのキャスティング。
セットだとかアクションが目玉ではなく、演じ手たちの演技一本で魅せる映画ってのは少なくなってきとりゃせんかいな?
というのが映画館を出て頭に出てきた感想。
実はもっとエロいシーンもあったのだが
ゾクリとさせられたルーニー嬢のあんよ
脚フェチにはたまらないショット
で、このシーンはちょいとした展開の
キーになってたりした

毛色は異なるけど、80年代後半に観た「エンジェル・ハート」(ミッキー・ロークとロバート・デ・ニーロ)のような、
「おお?」
「ん??」
「これからどうなるのよ???」
と推察させる余裕は与えながらも、惹き込ませていくような映画が良作としての地位を固めることが稀になってきているように感じるのは、気のせいなんだろうか?

こういった類はケーブルテレビ業界では幾つも良作があるらしく、しかも「シーズン○」と数年に亘って引っ張り続けているので、あるいは米国でも日本でもサスペンスものはテレビ側に委ねて、そこから未来の銀幕のスター(表現が古い)の育成も兼ねているのかもしれない。
キャサリン嬢
今作では年増な役どころのためか、
美貌よりも加齢に比重を置いたメイクだった?
(穿った考えかなぁ)

それにしても、女って怖いですねえ。
心と体は別に分けることができる生き物なんだなぁ...って思いながら観てました。





2013年9月14日土曜日

パシフィックリム

原題「Pacfic Rim」

真ん中がエネルギーの源なのかな?
できれば、ブレストファイヤーが観たかった
予備知識をかなり仕入れてからの鑑賞。
というのも、この手合の作品には、あまり心惹かれないので。
昨年の夏、業務の都合で二日間ほど「トランスフォーマー」「千と千尋の神隠し」を繰り返し鑑賞せざるを得ない事情があった。
千と千尋の神隠しはときどき見入ることがあったにも関わらず、トランスフォーマーはまるで興味が持てなかった。
「ロボットが戦う」というと、私の世代以降の大代表は「機動戦士ガンダム」、なのに私は興味が非常に低い。
いえ、中学生の頃はプラモデルで「ザク」とか「ゲルググ」とか作った憶えはあるんですよ。
でも、ただそれだけ。感情移入もしなかったし、クルマやオートバイのプラモデルのほうがモーターを付ければ動くので、ガンダムに対しての興味が本当に低かった(今も低くて、同世代とガンダムについて話すとき、私の反応は大変に珍しいそうである)

なんてってって、ロボットと言えば、「勇者ライディーン」であり「マジンガーZ」であり、「ゲッターロボ」であり「鋼鉄ジーグ」
そう、私の場合、ロボットはもっと年代を遡り、超合金で遊んでいた時代のロボットこそが私のヒーローロボットなのである。

予備知識によると、この映画はそういう人の為だという
予備知識によると、この監督はそんなアニメを観て育ったメキシカンだという(メキシコで日本アニメがオンエアされていたことにも驚く)
予備知識によると、アニメで観たようなシーンが幾つも登場するのだという。

で、鑑賞に赴いてみれば。
おお「パイルダーオン!!」ではないか!!
出撃シーンは、どこかで観たことがあるようだ、岩が開いて出撃するような作品があったはず(ライディーンだっけ)
操縦士は1人ではなく、2人。ああ、2人の呼吸が合わないと機能しないのね。そんな作品もあったような憶えがあるぞ。(それもライディーン?)
(阿吽の呼吸をもうちょっと科学的に説明してドリフトと名づけていた)
ああ、でも1人で運転するのもかっこいいんだけどなぁ、なんて思っていると、不慮の事態が起きて艱難を乗り越える主人公は1人で運転しやがる、いや、運転なさるではないか。
うひゃ、生命の危機にはあるのだけれど、かっちょよかじゃなかやっか(かっこいいではないじゃないか!!の意←これも紛らわしいか)

主人公の父の死だとか、ヒロインのボスに対する忠誠心のバックボーンだとか。
3人で運転する主人公以外の存在とか。(それが雑技団の国、中国というのも一興)
ロシア産のロボットはスピードはないけど、パワーはMAXだとか。
もう、日本アニメでよくあるような典型的な「お約束」が満載、つまりストーリーの展開にはなんの不思議も違和感もなく、入り込めるような作りになっているんですね。

映像には全体的に黒っぽい画面が多くて、「KAIJU」たちのシルエットがぼんやりに目に映ってしまってきたのが残念。
それでも「KAIJU」たちの動きってのは、ウルトラマンで観ていたような、「あ、中に人が入っているよな」感、つまり手作り感(今作ではSFX演出のようですが)、子供の頃に感じた「ギャオオオーーン」な動き、KAIJUの咆哮を懐かしく、且つ新鮮に堪能したことでした。



2013年9月12日木曜日

秘太刀馬の骨

時代小説が舞台だけれど、中身は推理小説の要素がかなり強い。
読み手はいつのまにか「秘伝の技が誰に伝授されているのか?」という興味を抱かせられる。
中でも家僕の存在に私が藤沢周平に「一本取られました!!」

読み手が最初に抱く「何故家老はその技を受け継ぐ者を知りたがるのか?」という疑問は、コボしながら仕えざるを得ない主人公半十郎と、家老の甥でやんちゃなきかん坊の石橋銀次郎が探し求めた藩士との立ち合いが続いていくうちに、知らず知らずのうちに忘れさせられて、物語の終盤に迎える急展開を目にして「あ!最初に抱いた疑問はこっちだった!!」と。

言葉の使い分けが絶妙だ。
「公」のときと「私」のとき
秘技の遣い手を探り、その相手と木刀で一歩間違えば死に直結する、こういう緊張を強いられるような展開の中で、主人公半十郎とその周囲の人たちが繰り出す東北弁(きっと山形弁なんだろうけど)に、「フッ」と緊張した肩の力が抜けていく。
九州出身の私にとって、東北の言葉はとても田舎臭く感じる(よくも悪くも)し、それでいて、主人公を身近に感じる。

病気を患う妻の存在が藤沢周平らしい
気鬱の病を抱えている妻
そんな妻の回復を願いながらも距離を量りかねる夫(主人公)
夫婦の絆を取り戻す物語でもある。
......。でも解説の末尾に書かれている内容に、「いや、それはちょっと。さすがにそれはないでしょう」と感じた次第。

先にも書いたけれど、終盤の急展開を整理するのが少々大変だけれど、小気味よく読み進められる一冊です。
あ、あと登場人物は名前書いておいたほうがいいかも。
登場人物の大半が剣士で、注意して読めば年齢や特徴も丁寧に書かれているんですけどね。
最初は混乱しました。




2013年9月7日土曜日

Film No Damage

元春&ダディ柴田
最高の掛け合いだ
公開が決まったときから、考えていたことは
「いつ行くか?」
「見ようか?」「見るまいか?」、その自問自答は存在しなかった。
「いつ」は公開初日が土曜日の出勤日だったから。
結局土曜の仕事は深夜まで掛かったので初日は行けず、翌日の日曜日に鑑賞に赴いた。
これは一人で。
翌週は二人で鑑賞。素直に誘えずに緩やかな変化球を投げて誘うあたりが自分らしい(褒め言葉ではない)

どちらも、私と同じような世代がいるし、上の世代の方もいらっしゃる。
夫婦で連れ立っている姿も見かけたし、男の子と二人で来ていたお父さん、素敵でした。

公開が決まったときから、考えていたことは、その2
観客が少なかったらどうしよう?
嗚呼、でもいっそのこと自分1人だけで鑑賞できるんだったら、それもいいよなぁ(恐ろしく自己中な思考)と。
今更、佐野元春の、しかも30年前のLIVE映像を鑑賞するために遠方からわざわざ出てくる人なんているのか?
いて欲しいけど。そういった自己矛盾めいたものを幾つも抱えながら公開日と鑑賞する日を待っていた。
いざ鑑賞に赴いてみれば、半数以上の座席が予約時点で埋まっており、劇場に入っている人数を
眺めれば、それは杞憂に過ぎなかった。

深夜の首都高速はクルマが少ない。
若者にはクルマが手に届かないシロモノだった証拠

赤いギターが綺麗
今ではもうボロボロになっているギター、ずっと使い続けている元春って素敵だな。

それぞれの人生を経て、今がある。
30年前の元春のLIVEを観て、30年前の自分に戻りたいと願うのか?
単に懐かしみたいのか?
それとも30年を振り返ってそして今からまた踏み出そうと考えるのか?
人それぞれの人生があるから、答えは「これでなければならない」ということもないし、元春だって「30年前の僕のLIVE、観てくれて嬉しいです、どうもありがとう」くらいしか言わない人だ。
Facebookで能地さんのインタビューに真摯に回答している元春だけど。
ちなみに僕自身はこれを観て、さぁ、もう一歩前に進もうと考えた。
ただ、がむしゃらに頑張ることが前に進むというわけでもなく。
今までと違う前の向き方があるんじゃないか?ぼんやりとだけど、そう思った。

1982年、僕はN県S市で親の目を盗んではゲームセンターでドンキーコングやパックマンに戯れていた。
ながら勉強をしながら流れてきた「グッドバイからはじめよう」
そこから、僕の元春への傾斜は始まった。
今にして思えば、自分で見つけて、自分の意思で聴きたいと願った最初のアーティストなんだろう。
僕が元春を見つけたとき、佐野元春はこの映画を撮影し、記録し、そしてニューヨークへ旅立つ。

このフィルムに映る佐野元春は、パワフルでエネルギッシュ、きっとこういうパフォーマンスは画期的だったのではなかろうか。
30年を経過した今ですら、これほどステージからほとばしってくる情熱を感じられるLIVEパフォーマンスは少なかろうと思えるもの。
そして元春のパフォーマンスはまるで言葉という言葉を直球ストレートで150km以上の剛速球で投げ込んでくるような勢いで迫ってくる。
観客は必死で打ち返すのに精一杯だし、中には打ち返せない人もいらっしゃったのだろう。
30年を経過した今のLIVEを体験している身としては、今の元春のスタイルはまるで絶妙なベルベットタッチのパスを供給してくれるミッドフィルダーのよう。
過去5年ほど、元春は第一級の都市だけでなく、所謂ローカルな都市でもLIVEを行なってくれたのだけれど、幾つもの会場で高齢者がLIVEに参戦している姿に驚く。
でも、今の元春だから70歳代のおばあちゃんだって参戦できる。
No Damageの頃なら、70歳のおばあちゃんは参戦することはかなり困難なことだろう

ああ、もし許されるなら。
劇場に訪れてきた人びとと会話してみたかった
「今日はどうしてこのfilmを?」
「今も元春聴いているんですか?」
「No Damageの頃、あなたはどこで何をしていたんですか?」
「これを観て何を感じました?」
色んな人々の元春との出会いや、ターニングポイントだとか、このフレーズをここで思い出した、とか。
多岐に亘って語り合ってみたい。
元春ファンは陰でひっそりしている人が多い(私もその1人なんだが)のだけれど、このfilmに関しては語り合える場があってもいいんじゃないか、と。

元春クラシックが元春NOWな頃のLIVE
初めて鑑賞できて、とても嬉しい。
音の響き方(例えばキーボードの鳴り方)なんてのはさすがに「ああ、80年代ーーー」なものもあるけれど、ここから90年、00年、そして10年と時代を経て今の元春クラシックが存在する。
そのLIVEに私自身、元春ともに生きて会えることに深く感謝しなければならない。
元春、いつもどうもありがとう。

元春がいつも元春クラシックをPLAYするのは80年代からずっと不変であり、それはきっと普遍なメッセージが込められているからなんだ。
言葉にすれば「喪失を経ての成長」ということなんだろうけど。
しっくりこないな。
普遍なメッセージは元春クラシックの歌詞の中にあり、ピアノの中にあり、元春のパフォーマンスにある。
そうとしか言いようがない。


二回鑑賞して、どちらも
足を踏み、手をだして、指をパチンと鳴らしながら、口ずさんだ。
そうせずにはいられなかった。

そしてそんな姿を元春は「嬉しいです、どうもありがとう」と言ってくれるに相違ない。
いえいえ、こちらこそ。

30年前のあなたを観れて、僕はとても幸せです。
30年前のあなたを観れて、僕は人生を考え直しております。
30年前のあなたを観れて、僕はこれからもあなたのファンであり続けます。

いつも、どうもありがとう!