2011年11月28日月曜日

カウボーイ&エイリアン

原題 COWBOYS AND ELIENS

過去の古臭いものと未来の想像クリーチャーを素材にした作品
日本映画で例えれば武士&ロボットみたいなものかなぁ、と。
双方が未知なるものとして邂逅し、そこからどのような感情が芽生えていくのか?
そんな展開を私なら書いてみたいかなぁ。
武士が科学技術に驚き、洋才の便利さに戸惑いながらも便利さを認める。
ロボットはメーターでは測ることができない、誇り、意地、根性を学びながら最先端の技術に計算不能な気持ちを盛り込んでいく。
友情であったり、嫉妬であったり、愛情なんてのもいいかもなぁ。
これを書いている2011年11月、読書では「ローマ人の物語」(塩野七生)なので、古代のローマ人がプレデターに出会うなどとかいう今作から何のヒネりもないアイディアも浮かぶ。
おっと、脱線はここまで。本線に戻る。

西部劇を舞台にその時代には絶対存在しないエイリアンを登場させている設定。
「連れ」はインディ・ジョーンズ大好き、ハリソン・フォード大好きという女性なので、早々におひとりさまで鑑賞しちまった(苦笑)
先に鑑賞された場合こちらにとって都合がいいことがある、「連れ」はパンフレットを必ず買い込んでくる。
おかげで私は鑑賞前にパンフレットを眺めることができる(ネタバレを先に知ってしまうリスクもあるので、読むのではなく、眺めるようにしている)
さて、今作のパンフレットを眺めると、「どうやら正統派の西部劇らしい」
上記のことのみを頭に叩き込んで鑑賞に赴く。

平日の月曜日、観客はまばら、しかし、平均年齢はかなり高め。
SFものでありながらこの年齢層(というか若年層が少なすぎる)に戸惑いすら覚えながら本編スタート。

序盤は「誰?」から始まり、右手にあるキャノン砲兼GPSみたいなものは「何なんだ?」
「私は誰?」「ここは何処?」の滑り出し。
地元の美女が登場し、偏屈オヤジが登場して、ダメ息子が登場してきて・・・・・・
これって西部劇の王道なんですよね~

「カウボーイとエイリアンが不釣合いだ」とその点に視点を合わせれば、今作は「荒唐無稽」だけしか感じられなくなる公算が高い。
だからこのカウボーイが闘うハメになったのがたまたまエイリアンだっただけのことだ、と割り切って鑑賞するのが楽しい鑑賞への方策の一つだと思う。
カウボーイが闘う相手は何でも構わなかったんだ、きっと。
尊王攘夷の志士でも構わないし、スパルタ軍でも構わない。
ウーパールーパーでも、エリマキトカゲでも。
いっそのこと、ドラえもんでも構わない(ドラえもんなら空気砲対決もできるじゃん!)
続編製作の暁には「カウボーイ&ドラえもん」で!(何せ2011年のクルマのCMでは実写版ドラえもんにはジャン・レノが演じている時代だもの)

2011年11月23日水曜日

沈まぬ太陽(5)会長室篇・下

この本を手に取るあなたへ
「目に余る組織の腐敗に目を向ける読み方だけではなく、その腐敗した組織に自分が属していると仮定して、不条理と闘う『勇気』と『気力』が維持できるか(Can I Keep?)のではなく、維持できる人間になりたいか(Would I Like To Be?)」で読んでみよう

腐敗の構造とディティールが克明に記されており、文章だけでは理解できない。自ら図解してみても経済学が苦手の私にとってこ難しいカラクリ。
まぁ、でも。
思いっきり端よれば「ネコババ」している輩が企業にせよ政治家にせよ官僚にせよ存在し、そのネコババしたお金が世の中を動かしている側面もあるという。
それは悲しいかな「事実だ」と認めざるを得ないのだろう。
汚れた金を手にしたくはないけれど、汚れた金は世の中で回っている。知らずにその恩恵を受けていることもあるのだと。

和光監査役の「5シンの戒め」(91頁)が正しい方角を照らす道標。
逸脱すれば、利権構造と人間の物欲は真実と正義を埋もれさせてしまい(314頁)、「The Most Dangerous Animal in the World」(167頁)を見てしまうことになる。

全5巻の物語、ジャンボジェット機墜落事故が小説の軸であり、事故以前からの企業体質と事故以後の利権を巡る輩どもの話で愉快な気分にはなれない。
物語の終わり方は希望を僅かにしか感じられない、スカっとした結末ではない。だから世の中は自分が感じているよりも遥かに汚濁しているんだという残酷な現実を突きつけられているかのよう。

時代小説家池波正太郎は「悪いことをしながら善いことをする。善いことをしながら悪いことをする。どちらも人間であり、矛盾を抱えながら生きていく」というようなことを説いた。
鬼平犯科帳に現れる盗賊にそんな輩が多いのだが、この「沈まぬ太陽」ではそんな手合の輩が登場してこない。
悪いことをする輩はとことん悪いことをする下司でしかない。
主人公恩地元や国見会長はどこまでも正義の人だし、主人公のライバル行天や轟らはどこまでも悪の人だ。
限りなくノンフィクションに近いフィクションだから、敢えて善人・悪人を明確に区分けして執筆されたのだと思いたい。
読み手は誰もが主人公側に感情移入させやすい、古代から日本は「賄賂は必要悪」という国家体質の国柄だという。
この国の体質に一石を投じた作品だと後世に伝えられるのかもしれない。

最後に。
事故によって尊い命を落とされた521名(胎児の話に涙しました)の魂とご遺族に思いを馳せる。
合掌

2011年11月16日水曜日

沈まぬ太陽(4)会長室篇・上


この本を手に取るあなたへ
「責任とは何か?
利権と関与したいか?したくないか?
その2点だけで構わない、読んでみよう」

この巻でどういうことを感じたか、それを言葉に、文字に替えて下書きしよとするも、ペンが遅々として進まなかった。
「御巣鷹山篇」で「命」の尊さを否が応にでも考えさせられ、この流れを汲みながら国民航空が新たな一歩を踏み出す改革を成し遂げていく姿を期待していた。
第1章、第2章あたりまではその期待に沿った展開であったが、第3章あたりから様相が一変していく。
520名の命を奪った事故などそっちのけで己の利権、保身、出世に汲々としている輩に激しい嫌悪感を抱く。

新会長に就任した国見、主人公恩地元の清廉潔白に肩入れしながら読んでみるものの、この小説は「勧善懲悪」が成立するような雰囲気を感じ取れない。
小説にせよ、史実にせよ結末がどうなったのか知らないのだが、恩地らに女神が微笑んでくれるとは思えない。

社会の裏側を暴き出している。
国民航空が半官半民とはいえ、「官」がことあるごとに優遇されるシチュエーション。
その「官」も紐どけば多岐にわたる「官」が存在し、反目したり、利権を貪ったりしている。
「JFK」、1990年代に観たオリバー・ストーンの映画と重なる。
どちらも、国民が豊かで実りある生活を遅れるように労苦を取らねばならない輩がその使命を置き去りにして我が身を最優先にしている姿だ。
そして使命を真剣に考え、国民のことを憂慮している人々が異端児として扱われるところも同じ。

性善説と性悪説では性悪説を採る私としては「金」「利権」らとは無縁なままで構わない。
「STAR WARS」の「アナキン・スカイウォーカー」になってしまう。
アナキンにはなりたくないと思っていても、いざ目の前に巨大な利権がぶら下がり、見たこともないような札束が積まれれば、私はダークサイドに堕ちる。

だから、この下書きを認(したた)めながら佐野元春の「希望」を聴く。
「ありふれた男」で「ありふれた日々」を過ごして「何も変わらないものをそっと抱きしめたい」と願っている。

第1章 新生
第2章 朝雲
第3章 黒い潮
第4章 曙光
第5章 波紋
第6章 狼煙
第7章 弔鐘

2011年11月14日月曜日

沈まぬ太陽(3)御巣鷹山篇

この本を手に取るあなたへ
「人間が、便利な文明の利器を手に収めれば相応するリスクを背負うことにもなる。
私たちは加害者にも被害者にもなりえる確率の下で暮らしていることを肝に銘じて読んでみよう」

遺族の気持ちが分かる、とか、遺族の立場になって考えるとか言うのはあまりにも空々しい、軽々しい、おこがましい。

1985年8月12日から始まったジャンボジェット機墜落事故のnews、当時九州の片田舎に住み、飛行機に搭乗したこともなく、また生涯飛行機搭乗することなんて無縁のことと考えていた高校2年生の私にとっては遠い世界のnewsに聞こえていた。
飛行機になんて乗らないでおこうと思っていたものだ。
この後10年後、鹿児島や宮崎、沖縄そして東京出張で飛行機に乗ってきている。
あの頃、「乗らないでおこう」と考えていたことを忘れてしまっていた。
この本を読んで、事故の記憶が風化している自分に冷や汗が出てくる。
但し、この事故から4半世紀を経過した今でも「ダッチロール」「しりもち事故」「圧力隔壁」といった単語は強烈なインパクトを残し続けている。

「アフリカ篇」とは全く異なる物語。
主人公恩地元が日本へ帰国して11年も経過している。
アフリカ篇を読まずとも「御巣鷹山篇」だけで充分過ぎるほど小説の読み応えはある。
丹念な取材と緻密な構成に「よくもまあ」と、取材の幅の広さと克明な内容に簡単させられる。
中でもアメリカ、ボーイング社での内容には作者山崎豊子の作家根性にひれ伏す。

自動車事故、鉄道事故、船舶事故、この後にも起きた航空機事故、そして原子力発電所事故。
人類は生活を便利にするために、快適になるために機械を製作し、活用し、改良するサイクルを廻しながら事故を防ごうと努力している。
それにあたり、常に「安全」を最優先にしなければならないというごく当たり前のことを、頭に、胸にDNAに刻みつけるテキストとして本書は読み継がえていくことだろう。
万が一本書が軽んじられる時が到来するのだとすれば、人類は機械を製作してはいけない。

第1章 レーダー
第2章 暗雲
第3章 無情
第4章 真相
第5章 鎮魂
第6章 償い
第7章 紫煙
第8章 怒り
第9章 御霊

2011年11月9日水曜日

新選組血風録

この本を手に取るあなたへ
「誰にも負けない組織を築きたいのに、嫌われたくないなどといった邪念があなたを惑わせるのなら心を鬼にするために読んでみよう」

今秋司馬遼太郎記念館に足を向けた際の最大動機が、今春BSで放送されていた新選組血風録展示があったから。
(ドラマは未見)
展示の中で最も興味をそそられたのが当時の地図と物語の事件現場をマッピングしているという謳い文句。
大抵の入場者が10分もすればその地図の前から離れるのに、私ときたら45分はじっと腕組みをしたり、唇に人差し指を当てながらウンウンと頷きながら眺めたりして楽しみました。

組織を築き上げる「鬼の副長」土方歳三、その有能な筆頭部下山崎烝、ギスギスと窮屈な鉄の組織に緑風の存在沖田総司
この3人が特に印象深く残る
山崎烝が主人公の「池田屋異聞」は「忠臣蔵」に関わる物語を読んでいたことで、ニヤリとさせながら読めた。

関西に住み始め、尚且つ京都界隈をルートセールスしていたことも相まって京都市内の地理が僅かながらに理解できるようになった。
北から南へ一条から十条
西から南へ烏丸、河原町
京都人からすれば3歳児でも分かるようなことでも、九州から出てきた田舎者の私にとっては本に書かれている地理が脳内でマッピングされ、事件の舞台が「あのあたり」と見当をつけながら読み進められるようになった。
この悦びは時代小説愛好家としてその末席には座る資格は取得できたかな、と思える。

元々は2004年に大河ドラマ「新選組!」の視聴前に読んで以来の再読。
三谷幸喜がどう味付けをしていくのか興味津々で視聴した。
例えば。
斎藤一による谷三十郎、武田観柳斎の暗殺
近藤一派による芹沢鴨の暗殺
同じく近藤一派による伊東甲子太郎の暗殺とそれに続く油小路の決闘
中でも芹沢鴨の暗殺に至るストーリーと人物描写、芹沢鴨の心の深淵を描ききったドラマはこの「新選組血風録」の物語とはコペルニクス的転回の物語。
対比しながら読むのも一興。
「新選組!」には登場しなかった物語でもドラマ化、舞台化されている篇も幾つかある。
大島渚監督の「御法度」は「前髪の惣三郎」「胡沙笛を吹く武士」を土台にしている
舞台になったのかどうか不明だが、私が鑑賞してみいのは「沖田総司の恋」
コメディでも構わないし、シリアスでも構わない。


・油小路の決闘
・芹沢鴨の暗殺
・長州の間者
・池田屋異聞
・鴨川銭取橋
・虎徹
・前髪の惣三郎
・胡沙笛を吹く武士
・三条碽乱刃
・海仙党異聞
・沖田総司の恋
・槍は宝蔵院流
・弥兵衛奮迅
・四斤山砲
・菊一文字

2011年11月8日火曜日

沈まぬ太陽(2)アフリカ篇・下


この本を手に取るあなたへ
「10年間という時間の始点、終点を想像せずに無期限の時間を過ごさなければならないと思って読んでみよう」

主人公、恩地元は「カラチ」「テヘラン」「ナイロビ」と転勤させられる
地理的には、西へ西へと日本から離れる一方
職場環境は、集団から孤立へ
海外赴任してから10年間というゴール(到達期間)を知っている読み手ですら、主人公の孤独感とやりきれなさは想像を絶する。
まして、主人公そしてその家族は10年という終点が判らずに過ごしていたのだ。
それを思い合わせると「ナイロビ篇」で主人公が狂気に陥り、自身が撃った剥製を銃で木っ端微塵に撃ちまくるくだりは恐ろしくもあり。
狂気に陥る心境も朧げながら分かる。
というのも、自分自身も主人公の境遇には及ぶべくもないが、望まぬ転勤を強いられたことがある。
転勤の糸を引いた当事者の顔を思い浮かべると、運転していればアクセルを目一杯踏み込んだし、手に持った「モノ」を投げつけたくなったこともあるからだ。
しかし、それでも。それほど絶望的な状態であっても、いやあるからこそ。
人は何かしらの生きる楽しみを模索していく。
主人公恩地元の場合は「狩り」
我々読み手からすればずいぶんと荒っぽく、暴力的な趣味に映る。
平和で身近に生物による命を脅かされるリスクもなく暮らしているからだ。
なんども書くが、「終点がいつ来るのか分からずに暮らすやるせなさ」、加えて「自然への畏怖、尊敬」といったものがないまぜになって主人公を「狩り」という趣味に走らせたのではなかろうか。
終わりが見えない中で信念を貫き通し続ける主人公に感激する。
私は恩地元のような「貫く覚悟がある」人間ではないが、究極の選択を強いられる場面でそうでありたいと希う。

私は国民航空の上層部に巣食う「エゴイズム至上主義」の企業体質を憎む。
そんな企業にあって、反骨心の塊であり、主人公を公平に扱ってくれる島津支店長の存在に胸をなでおろす。
それからアフリカに住んでいる日本人たちの人生の送りようが清涼剤のように爽やかで清々しい読み応えを与えてくれる。

アフリカ篇
第7章 テヘラン
第8章 ナイロビ
第9章 春雷

2011年11月7日月曜日

マウス・オブ・ザ・マッドネス

連れがネットで手に入れたというシロモノ。
なんでも高値で取引されているらしく、原価よりも3倍の値段以上でも平気で売れていく、と、連れの声

行方不明者を捜索し、その結末は如何に?
という手合の作品の一つに「エンゼル・ハート」があります、作中に伏線が仕掛けられており結末で「うわぁ、おぞましい!!」と感じさせられる作品なのですが、今作の結末は悩ましいです。
狂気に始点はどこからなのか?
現実と非現実の境界線はどこだったのか?
登場人物は実在なのか、しないのか?
鑑賞し終わって数日経過しますが、未だにスッキリしません、気になります。
嗚呼、しかし、この手の作品に正解なんて存在しないんでしょう。

映像が安っぽくて、見せ方が「ウルトラQ」「ウルトラセブン」なんですね。
Qにせよセブンにせよ、その世界観を具体的に書けるほど造詣が深くないのですが、通じるものはあると感じてしまったのだから仕方がありません。

もう一回観てもいいかな、と思い始めています。
なるほど、高値で取引されるだけのことはある。