2019年1月28日月曜日

不安な童話

数か月前に読み終えていた作品。
さて、この本の感想を記録しとこうと思ってキーボードの前に座ってみたものの。
「サクサクと読めた」ことしか記憶がなかった。

そこでパラパラと頁を斜め読みしてもさっぱり内容を思い出せなかった作品。
仕方がないので、あらためて初めから読み直した。
登場人物の掘り下げ方に原因があるような気がする。
主人公と高槻倫子しか記憶になく、ほかの登場人物は「あれ?こんなひといたっけ?」というひとばかり。
人物の特徴は書かれているんだけれど(伊藤さんとか十詩子さんとか...。再々読から一日しか経過していないのに、もう苗字とか名前とかを忘れている)そのひとが何を考えたり感じたりしているのか?その感情の動きが読み取りにくいのかなあ。

恩田陸の作品はこれで三冊目。
どの作品もハッキリとした結末がなくてとても「もやもや」した気分になる。
この「不安な童話」も結末がモヤっとしている。

しかし、この再再読でフッとプロローグと結末を読んでみて気づく。
本編は事件の犯人を探すこと、知ることに読者の集中を向けているが。
肝心な輪廻転生のことをサラリと匂わせて物語を閉じている。
生まれ変わりなのか?
それとも記憶は伝染していくのか?
どっちなんだ??????

クリード2 炎の宿敵

随分と長いこと映画のこと書いていなかった。
できれば後日の自分のために書き残しておきたいと思って再開。

映画を観た以上は、内容に触れざるを得ない。
内容を知りたくない方はお読みにならないように。

19年、1作目
クリード2
邦題の副タイトル「炎の宿敵」は4の「炎の友情」を受け継いだ作品とアピール。
館内は白髪や輝く頭のひとたちが多かった。
わたしもそのひとり。
中には若者もチラホラ、黒人の若者も2名くらい見かけた。
若者はある程度ロッキーシリーズのことを知っていて見に来たのだろうか。

今作、つまるところ「家族のありよう」を問いかけてきた作品だと感じている。
クリードには結婚、子どもの誕生。
父はJ・ブラウンのLIVING IN AMERICAで入場してきたけれど、息子クリードは妻ビアンカを先頭にして彼女の歌と共に入場してくる。
(ちょっとだけ4を懐かしみたいわたしはLIVING---で入場してこないかなあと期待したんだけどね)
誕生した娘も妻と同じハンデがあるけれど、おばあちゃんだったかな「彼女にはそれが当たり前なのよ」というセリフが沁みたなあ。

ロッキー、壊れかけた息子との絆を繕っていく姿。
シーンでは一度しかなかったけれど、彼は毎日、妻エイドリアンの墓前に椅子を置いて語りかけているんだろうなあ。
ああ、ロッキーは妻の墓前には赴くがアポロの墓前には行っていない。
クリード家のことなんだからクリードが行けばいいのさ、と考えているんだろうな。

普段のロッキーはコンバースのスニーカーで街を闊歩している。
革靴など履かず、髪の手入れもしない。
老いたロッキーはこれから先どうなるんろうとチラリと頭をよぎる。

そしてドラゴ。
この作品で涙が出たシーンはひとつだけ。
父ドラゴがリングにタオルを投げ込んだシーン。
ポロポロと泣いてしまった。
敗戦が決定的になり、ボロボロに負けてしまう息子のためにドラゴはタオルを投入する。
それでまでのトレーニングでの「走れと言ったら走れ」と老いた自分は車に乗って息子を追い立ていていく父が、かつて自分が味わった敗戦のショックで息子が廃人にならないようにと願って投げた(と、わたしは感じている)
その後のトレーニングに励むドラゴ父子はふたりとも自分の脚で走っている。
そこに感激した。
もう一度一からやり直していこう。
国家に対する恨みとか母親への慕情を断ち切って。
自分たちが闘う理由は自分たちのためにあるんだ、というシーンではなかったか。

クリードとドラゴはもう一度再戦するんだろうか?
シルベスター・スタローンはどうこの物語を紡いでいくのだろう。
若いふたりに再戦してほしいけれど、それぞれの道を歩いていくのも悪くない脚本だと感じてる。
次作があるとすればロッキーとドラゴの物語も少しだけ続きを期待したいんだけど。
ドラゴとロッキーも30年以上を経過し、お互いのネガティブな感情から抜け出せたらなあ。

最後にこの映画はブラックミュージックがスクリーンに流れる。
(わたしはちょっとこの手の音楽は苦手)
これはクリードの物語なんだからブラックミュージックで。
当たり前だけど、そういう気の利かせ方がシルベスター・スタローンなんだろうなあと。
いや、実は音楽は門外漢だから好きにしていいよ!って言ったのかもな。笑

2019年1月26日土曜日

雷神の筒

尾張の一守護時代から石山本願寺攻めまでの物語。
主人公と信長以外にも魅力的な人物が多数登場してくるけれど、今一つ彼らの特徴が伝わって来ず、輝きが薄い。
特にそれを感じたのが雑賀孫市と王直。

司馬遼太郎の作品に「十一番目の志士」があり、主人公は架空の人物、天堂晋助。
彼が幕末の至る所に登場し、主要な人物と関わっていく物語。
これが幕末オタクの私にはあまり面白く感じなかった。
なんでだろう?と原因を考えてみたとき、あまりに多くのものやひとを盛り込んでいくと印象が薄くなるんではないか、と感じたことを思い出した。

山本兼一は既に鬼籍に入られている。
だから、天国にいる山本先生に伝えたい。

いっそのこと短編にしよう。
舞台設定は信長が尾張の派遣争いを繰り広げている頃。
橋本一巴がどのようにして鉄砲の価値を見出し、信長に説いて、戦で試行錯誤を繰り返す。
技術者と殿様の命に対する考え方や価値の相違点について炙り出す。
新しい技術にのめりこんでいく橋本一巴
新しい武器により制覇への思いを強くしていく信長
その対比を語ってくれたらなあ。

信長死すべし

2020年の大河ドラマは「麒麟が来る」明智光秀を主人公にする。
このニュースを見たときの衝撃はかなりなものだった。
それは例えば大阪で「もんじゃ焼き」のお店が繁盛している光景を目の当たりにしたような。
つまるところ、主人公に据えるにはあまりに「信じられない」「ありえない」人物だから。
将来のことを考えずに主人に反逆し「三日天下」で落命した官僚武将が明智光秀の日本人のプロトタイプ。
ニッポンの若者が目指す人物像でもないし、ニッポンのお父さんが憧れる上司でもない。
彼の政治能力や治世への情熱や貢献した事実はもっと日の目を浴びていいんだろうな。
あ、この小説ではその面は語られていないから、「麒麟が来る」の原作に期待する。

この「信長死すべし」、本能寺の変を朝廷黒幕説で書き進められている。
先年、本能寺の変の動機の大きなものとして四国の長宗我部攻めに光秀が苦悩した末の反乱だという史料が表れた。
その史料だけにフォーカスすればこの小説は「フェイクストーリー」と断じることもできる。
もちろん、そんなことは思わない。
ありきたりなことをを書くが、この小説はとても面白かった。
他にもたくさん書かれた歴史素材としての本能寺の変を朝廷と風流人たちの関わりから紡いでいく視点とその綿密な構成と溢れる知識!
もうこれが真実なんじゃ?と思いながら読み進めた。

里村紹巴。連歌師の生い立ちと地位の低さ。
このひとのことを深く知ることができた。

今から先も本能寺の変に関わる史料は出てくるだろうし、小説にも執筆されていくことだろう。
それほど本能寺の変って想像力を掻き立てられるし、謎の多い出来事。



2019年1月23日水曜日

悪魔が来りて笛を吹く

わたし、小学生のころ「昭和5*年」横溝正史原作の推理小説が続々と映画化された。
「八つ墓村」「犬神家の一族」そしてこの「悪魔が来りて笛を吹く」、あと「病院坂の縛り首」だっけ。
前者2作は有名なシーンには強烈な記憶。
湖面に突き刺したように足が二つ伸びている
真っ白い仮面の男とか(助清デスネ)

今にして思う、あのころは高度経済成長期のピークを越え、昭和時代が安定。
敗戦によるショッキングな出来事や戦前のころを懐かしむ世代(明治生まれの頑固爺もそこかしこにまだ身近にいた)にとって「あの頃、あれはあれでよかった」という懐古主義な映画がたくさん製作されたんだろうと。

「悪魔が来りて笛を吹く」を読もうを思い立ったのは、NHKのBS放送でリブートされたこの作品を途中まで観たから、というのが直接のきっかけ。
最後まで観れなかったからこそ、気になって手に取った。

それにしても、横溝正史が書くこのどろどろとした人間関係の阿鼻叫喚ぶりには言葉もない。
犯人が何故殺そうとしたのかという動機が、、、やるせなさすぎる。

この小説を読破したのちに、再放送で全部観れたんだが。
NHKだからということもあるのだろう、犯人の心を救済しようとした構成にそれでは犯行に至るほうがおかしい、と思わざるを得ない「???」な結末に思えた。

この小説で一番気持ち悪いのは「上流階級に巣食う虚栄心」
敗戦後しばらくは貴族、華族を言われたひとびとが街を闊歩し、敬われていた時代だからこそこういう物語を紡ぐことができたんだろうと思って読んでいたけれど。
今だって人の上に立つような世界観のひとびとも(〇〇族とか言われるひとびとや、仮想通貨で一攫千金を得たりと、つまるところ身の丈を知らないひとびと)似たような欲望の権化になっていくんじゃないかと。
いつかわたしが老いて、魂を天に返還するころ、わたしの孫の世代が「AI草創期のころにはあたりまえだったことって、私たちにはおぞましくて気持ち悪い」と感じながら読むような。
その時代にはガソリンスタンドとかレンタルショップとかが前時代を表すキースポットとして登場するんだろうな。
あー、なんかもっとインスピレーションがあればへっぽこ推理小説が書けるのになあ!

さて次に横溝正史を読むとすれば、何を手に取ろう。

2019年1月22日火曜日

疾走(下)

上巻を読んでいる時点で、頭の中心ではわかっていた。
『シュウジは下巻になっても境遇が上向くことはないんだろう』と。

「くちぶえ番長」とは違うんだ、人と人はいつか、どこかで善意で繋がることができるなんてことは夢物語なんだと。
それでもなお、その善意に満ちたひとが現れてくるんだと信じていた。
神父さんは善意に満ちたひとだけど、彼はシュウジに経済的援助をすることもないし、精神的支柱のような存在でもない。
シュウジに救いの手を差し伸べる存在はエリなんだろうけど、彼女と繋がることはなさげだなあ、と思いながら読む。

下巻でもっとも強烈だったのは新田の登場。
彼の圧倒的なバイオレンスとセクシャル、読んでいるとその情景が目に浮かびとても気持ち悪く、自分の心の居心地も悪い。
なのに読み進めてしまう筆の巧みさ。

シュウジ、15歳くらい。
自分の15歳のころと重ね合わせてみると、ツテもない大都会でたった一人で生きていこうとする姿に加えてあまりにも悪意に満ちたタフな現実が相まって読んでいて涙が流れるほど。
もう止めてくれ、と。

そしてエピローグ。
上巻から書かれてきた幾つもの伏線たちが回収されて救いのある結末、それはそうなんだろう。
作者にも止めることができない、タイトルどおり作者もシュウジと共に疾走してきたのだろうから、この結末にならざるを得なかったのだろう。

でも。
あまりにこの結末は悲しい。

疾走(上)

重松清の小説、例えば「くちぶえ番長」のような中学生の教科書に登場するお手本のような味わいの小説を数冊読んできている。

そんななかでこの「疾走」を手に取る。
発売当時、駅ナカの書店で平積みされ、表紙に描かれる「黒い背景に叫ぶようなひと」
随分と怖い表紙だから怖い小説なんだろうと思って購入に至らず。

その疾走を読み終えて
「くちぶえ番長」と「疾走」の作者が同じひとだとはどうしても信じられない。
この上巻、主人公の環境は日に日に劣化していく。
「くちぶえ番長」を書いた作者なら、きっと何かがきっかけでシュウジには誰かから具体的な救いの手が差し伸べられていくだろう、と。
それは、進学費用の援助するひとの登場、孤立する環境を改善する熱血教師の登場、心を満たすような愛を与えてくれるひとの登場。
そういったひとがきっと、という期待は上巻では実現されない。

下巻ではシュウジや彼の周りが今よりも上向いていくのだろうと思いながら読み進めた