2019年5月21日火曜日

ブラック・クランズマン

19年、6作目

映画館の予告編を観て、「面白そう」と意気込んで鑑賞に赴いた作品。
もうひとつ、主演の黒人俳優がデンゼル・ワシントンの息子さんだと知って。
今冬公開予定のスターウォーズのアダムドライバーも忘れていません。

予告編での印象はコメディタッチの作品の印象だった。
実際はコメディ要素はほぼ皆無に感じた(予告編でわたしは何を観ていたんだろう?)
「KKK」のことをよく理解していない身としては途中から「?」が点灯しながら鑑賞。
監督がスパイクリーというアクの強いひとだから、作品の結末での彼の主張は現代アメリカに巣食う闇をあぶりだしているんだなあと感じた。


運び屋

19年、5作目

三面記事に掲載された事件をクリントイーストウッドがイマジネーションを拡げていったのではないかなと感じた作品。
(事実を忠実に再現したわけではなかろう)

アメリカも日本ほどではないだろうけど、高齢者の独り暮らしが増えていっているのかな。
孤独な老人だからこそ手を染められた犯罪だし。
いつものようにイーストウッドはこの犯罪に対し「良い」とも「悪い」とも主張してこない。
ただ、目の前に裕福さを突き付けられると容易に悪いことに手を染めてしまう人間の性(さが)を淡々と映し出してきた。

一方、この主人公の口の悪さ!
黒人を蔑称で呼ぶシーンに思わずドキリとさせられる。
それにも関わらず、変な安心感。
なんだろう?この鑑賞者に起きる感情は?
と振り返って思うこと。
主人公は黒人は「黒人」としか思っていないだということ。
黒人は汚いとか、劣っているとか、人間ではないとか。
そういう感情をこの主人公には持っていない。
彼が若いときは黒人は差別される存在が当たり前の時代。
時代は移り、白人と同列に扱われる時代になっている。(わたしたち黄色人種も)
そういう時代の移ろいを理解させてくれるだけの存在がクリントイーストウッドの偉大さなんだろうと感じる。

願わくばまたスクリーンでクリントイーストウッドの姿を観たい。

2019年3月18日月曜日

グリーンブック

19年、4作目

巷間言われているようで、7年前に公開された「最強のふたり」に通じるような作風。
肌の色が異なる、そして地位や環境の異なるふたりが旅をするにつれ、「差別」と向き合う。
今作がアカデミー賞を獲得したのは、映画界からの無言の意思表明だと感じている。
「ひとをひととして遇し、そのひとの性格や能力をあるがままに見つめて受け入れる社会を!」
そういえば昨年2018年のアカデミー賞作品も半魚人という異端の存在を慈しむ女性とのラブストーリーだったし。

とかく何かと「かすまびしい」米国のトップ。
きっと彼の本音は「異端なものは排除していきたい」
誰しも異端なものを受け入れるにはそれぞれの心の障壁の高さによりけりなんだろうけれど、彼の障壁は宇宙に届くくらい高いのだろう。

黒人が差別されていることが当たり前の1960年代の事実をベースにした作品。
(エンドロールでふたりのショットが観れる。私は観ながらうっすらと温かい涙が出ました。どうもこのような作品には涙腺がもろくなってきた)

声高に「差別なんてしてはいけない!!」と訴えているわけではなく。
静かに「かつて世界には肌の色が異なるだけでこんなに理不尽なことが行われていた」
そのような眼差しを感じて、鑑賞後は穏やかな気持ちを得られた作品。

本人だってイタ公と差別されている境遇の移民系白人が天才ピアニストになったが故の上流階級に属する黒人の南部へのツアーへのボディガード兼マネージャーとして旅する。
この旅に欠かせないガイド本が「グリーンブック」
白人しか泊めることを許さない宿泊施設、黒人しか泊めることしかできない宿泊施設

中盤でのケンタッキー・フライド・チキンのくだりは本当に可笑しくて。
後半のレストランのくだりは本当に腹ただしくて。

中盤のパトカーと後半のパトカーが当時の現実を両方映し出しているのだろうか。
とことん侮蔑していく姿、フラットなスタンスで接する姿。

あんなガサツで無学な旦那さんがうっとりするようなラブレターを書けるはずもなく。
親愛なるの「Dear」と「Deer」とスペルを間違えるような旦那さん。
ところどころにクスリと笑える話が織り込んでいられて障壁が低い作品でした。

2019年3月10日日曜日

ちいさな独裁者

19年、3作目

自分なりにここ数年の世界のありように危機感を抱いている証なのか、ナチス政権を題材にした作品が目に付く。
同時期に公開されていた「ナチス第三の男」も気になったが、残念ながらタイミングが合わず観にいけず。
数年前には「帰ってきたヒトラー」、これは観た。
序盤のコメディタッチのようでありながら、時間を追うごとに(誇張も混じるけど)背筋が凍るような怖さを感じた。

この作品、たかだか20歳の小僧がナチス将校の制服を手に入れたがために起こる惨劇。
彼が手に入れたことで人生が狂う「悲劇」ではない。
彼が自ら人生を狂わせて多くのひとびとから略奪し・殺戮する「惨劇」
囚人を濠のなかに入れて銃で殺戮していくシーンに眼をそむけたくなった。
そして劇中に彼が偽ナチスだと気づいていながら彼の惨劇に参加し、加担し、能動的に邪悪な道へ踏み込んでいく。
頭脳を誰かに預けてしまえば楽だ、自分もこの仲間入りが容易にできるだろうと思う。
まさに「肝が冷える」思いをした映画。

どうやら事実ではこれ以上の惨劇を指示したらしいと聞く。
それがどのような事実なのか聞く勇気の持ち合わせがない。
人間はどこまでも残酷になっていける。どこまでも、どこまでも。

ドイツは国策で過去のドイツが他国に与えた苦痛を目を背けずに教育していると聞く。
パロディですらヒトラーを模倣することも禁じられているそう。
ドイツは真正面から自国の過去の姿を見つめる。
ドイツの国のありようには敬意を感じる、良心をなくすことなくユーロを守っていってほしい。

ヘレディタリー 継承

19年、2作目

連れがホラー映画を観に行こうということで。
こういう手合いのホラー映画(家族が舞台設定されている)は小学校から中学校のころに金曜ロードショー(当時は木曜か水曜だったかな)などでみた「悪魔が棲む家」(たぶんこんな感じのタイトル)で、タイトルどおり悪魔が家に潜り込んでいて、最後は地下室で父親が対峙して必死に格闘して退治、祓うという作品。

ヘレディタリーも家族四人(父・母・息子・娘)が悪魔と対峙して父親が最後には退治に乗り出す、それに似たような作品なんだろうと思いきや。
主役は母。
母が悪魔と対峙する?80年代とは今では女性の立場も随分と変わったし、ちょっとひ弱な感じがぬぐえない父よりも強面(女優さんごめんなさい)の母が矢面に立つのだろうか?
娘もヘンな子、だけど息子は今風なちょっとヤンチャな奴だし。
という序盤・中盤を乗り越えていく。

決定的に違うのは物語が進むにつれて、家族の結束が解かれていくところ。
80年代の記憶の作品では父(つまり親)は子どもを守るために斧や銃を手にしていくのに、この作品は父親は母を錯乱したと嘆くし、息子は母へ不信を募らせる。
家族の崩壊。これがいちばんの怖さなのかもしれない。

日本人の宗教への知識が乏しいわたしにはこの作品の悪魔の存在の衝撃度の温度感は測りかねるのだけれど、キリスト教に造詣が深いひとにはものすごい衝撃なんだろうなあ。

エンドロールで場違いなほど爽やかな曲が流れた。
爽やかな朝の訪れと共に聴きたくなるようなメロディ。
バッドエンディングにこの曲。
映画は架空だから、鑑賞し終えた今は爽やかな気持ちを取り戻してください。
とでも言いたいのだろうか?

2019年2月4日月曜日

満願

10年近く前に読んだ「インシテミル」の作者。
あのとき読んだ感触とこの満願も似ていて、この米澤穂信という作家の伏線の張り方は上手いなあと唸る。
インシテミルは、アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」へのオマージュ作品、どうしても作者が自縄自縛な印象を抱いた。
まぁ、好きな作品へのチャレンジって何かの制約や自分で決めたルールのもとに書きたくなるんだろうし。

久しぶりに米澤穂信の名前を見かけたのは2017年の夏、NHKでこの「満願」がドラマになったとの報。
しかもこの本、山本周五郎賞を受賞しているとのこと。
それじゃあ!という勢いで手に取る。

冒頭に結末を出して、そこから起承転と展開していく。
特に「万灯」はその典型的な一編。
主人公が殺人を2件も犯している、承が巧みに綴られて。
結のことを忘れてしまった。
そして「あ!」と転で閉じる。

「夜警」と「満願」の2編が読み応えが高かった。
特に「夜警」、読みながら「イヤーな風」が耳元に吹いてきているような感覚がつきまとってきていた。

沈黙

Blogを復活しようと思ったのは、映画を観て感じたものと本を読んで感じたことを記録しておきたいと思ったから。
一昨年(2017年)この「沈黙」がマーティン・スコッセッシ監督、アンドリュー・ガーフィールド主演で映画化され、鑑賞した。

原作は10年ほど前に一度読んでいたので、あらましは理解していたし、原作に忠実な作りだった。
おかげでもう一度原作を読み返そうと思った。

「穴吊り」という拷問のおぞましさ。
映像化されていてもなお、文字で読み進めるほうが耐えられないほどの痛みを心に突き刺してくる。
フィジカルな痛みではなく、メンタルな痛み。

井上筑後守が言う「この国は泥沼のように根付かぬ」
当時の日本におけるキリスト教の布教に限定すれば、その通りだと思う。
このひとが神父たちに棄教を迫っていく理屈に抗えない自分がいた。
今回の読み返しでは井上筑後守のことばがやけに重たく突き刺さってきた。