2013年1月26日土曜日

96時間 リベンジ

原題「Taken2」
単純明快、勧善懲悪。
スカっとする作風

親馬鹿もここまで来ればご立派
能力はCIAだけで培われるはずもなく、超能力を身につけたに相違ない。

終盤に、敵ボスとの会話で「こんなこと(復讐)はもうやめよう」と言い、「どうしてだ?」の問いに(←だったと思うのだが)主人公のセリフ
「もう疲れたんだ」
爆笑してしまった。

ここはひとつかっこつけて
「憎しみは憎しみしか生まない」とか「俺は人を殺したくないんだ」とか言えばいいものを(笑)

この作品、人と人だから笑って観れますけど、深読みすればアメリカ対イスラム国家と言えなくもない。
ほら、たちまちきな臭く感じてきませんか?
よって、「もう疲れたんだ」ってのは、アメリカ合衆国の言うに言えない本音を主人公ブライアンに託したんじゃないんだろうか?





ホビット 思いがけない冒険

原題「The Hobbit:Un Excepted Joueney」
サブタイトル「思いがけない冒険」と、かけて言えば「思いがけない面白さ」
鑑賞して3週間を経過しても、最初に抱いた感想が続いている。

絵を観ればすぐに「ロードオブザリング」と関連した作品ということが分かっていた、「ロード〜」は未鑑賞のため食指は僅かに動くのだけれど、劇場に足が向かなかった。
「連れ」が「観たい作品」でなければ、恐らく敬遠したまんま次作、3作目もスルーするか、1作目未鑑賞を後悔するところだった。

上映時間は「レ・ミゼラブル」と大差なく3時間近くと長丁場。
時間感覚は断然こちらのほうが早かった。
「ロード〜」以前の話だから、「ロード〜」未鑑賞でも何も問題なく楽しく鑑賞できる。
いっそのこと「スターウォーズ」のように、後期三部作を鑑賞してから前期三部作を鑑賞する方策もアリだと思う。

小学校までは公園で遊ぶ楽しみがあった。
近所のおニイちゃんたちと秘密基地を製作したり、闘いごっこをしていた小学校

中学以降がテレビの前でファミコンで遊ぶ楽しみ。
ソフトをツッコンで拡がる世界とキャラクターに感情移入していた中高時代
ホビットという単語を知ったのは「ファイナルファンタジー」
他にも「ドワーフ」やら「ゴブリン」といったものを知った。

「思いがけない面白さ」は小学校から就職以前までの「遊び」の要素が間断なく画面全体に映し出されていたから。
常套句、「童心に帰れる」作品
大人が観れば、懐かしさのノスタルジーにも浸れるし、そこから「勇気」やら「正義」などといった社会に暮らしていくうえではときどき大人の事情で諦めてしまうことを「諦めずに一歩前へ!」と感じる。

この作品、(小学校高学年あたりの)少年に見て欲しいなぁ、と思う。
「なんだかこ難しそう」なんて思うようであれば「RPGゲームの映像化」と、思ってもらえれば敷居は低い。
物語が進んで行くに従って仲間も増えるし、強敵も現れる。
序盤ではダメな勇者(?)「ビルボ・バギンス」がほんのちょっぴりだけれども、脱皮していく様を鑑賞して感じることは何なのだろうか?を聴いてみたい。
ねぇ、悪いニュースが続いているけれど君らの未来はグッドニュースが待っているのだろうし、グッドニュースを作っていくのは君らの「今」が未来へ作用していくのだから。









2013年1月23日水曜日

最後の喫煙者


筒井康隆には四半世紀前の大学生の頃、まるで熱病に罹患したかのごとく読み漁ったことがある。
20歳台、30歳台にはこの「エログロ」「ナンセンス」溢れる筒井ワールドとは距離を置き、時代小説・歴史小説方面に親しんでいた。
40歳台を迎える頃から再び筒井ワールドへ帰ってきた。
とはいえ、1年か2年に1冊程度のものではあるのだけれど。
大学生の頃に親しんだ本は全て転居の際に同居していた弟に任せたまま(だからきっと処分されているだろう)
…で、今我が本棚を眺めれば5冊ほど鎮座している。
この「最後の喫煙者」で6冊目だし、もう1冊購入したので7冊目となる、自分が感じているよりも筒井作品を読んでいる勘定になるのに些か驚く。

今になって思う。
10台後半に筒井康隆を読んだことは、今の私の人格形成に少なからず影響を及ぼしているんだろうな、ということ。
それまでの私は「性」の話題はタブーとして振舞ってきたのだけれど、筒井康隆が書くSF・パロディの半分ほどは「性」を扱った作品だ。
そんな作品を読み耽った結果として「所詮、どんなにかっこつけていたってオトコもオンナもヤることしか考えてねえんだよぉ」という考えに至った。
だからといって性犯罪者にまで至っていませんよ。
つまり、人間も生物である以上、生殖に関しては無縁でいられるはずもなく、生殖とは神聖な行為であるということをストレイトに気づかされた。

この短編集の中でも「問題外科」は「エロ」と「グロ」が混在していて気持ち悪い。
読み進めるのも億劫になるくらいのグロさがあり、そのグロの先にエロがある。
生殖と死を隣合せに描かれるのは気持ち悪い。

「ヤマザキ」と「万延元年のラグビー」
歴史を題材とした嘘物語、正攻法で攻めてこられていると思いきや(いや、実は思ってないんだけれど)思わぬところから背負い投げを食らわせられた。
中川清秀へ電話をする秀吉、新幹線で天王山へ向かう秀吉。
桜田門外の変の実行動機が近江牛が食べられなくなったからとする。
こういった「嘘」は思いつこうとしても思いつかないし、凡才にはおよそ思い至らない発想だ。
筒井康隆、恐るべき天才だとつくづく感じ入る。

「喪失の日」
チェリーボーイ必読のドタバタコメディ
既にチェリーボーイ卒業して四半世紀を経た私には、自分もこういった「落ち着きのない時間を過ごしていたよなぁ」と喪失した当時の自分の心の有り様などを懐かしく思い返した次第だ。

【収録作品】
急流
問題外科
最後の喫煙者
老境のターザン
こぶ天才
ヤマザキ
喪失の日
平行世界
万延元年のラグビー







2013年1月22日火曜日

本所しぐれ町物語


「新・平家物語」の合間に読もうと手に取っては再び鞄の中に、積読の山に戻して、と。
そんなことを繰り返していたので、読み始めてから、読み終えるまでの期間はおおよそ半年近く掛かった本だ。
おかげで表紙がかなり擦り切れてしまった。

連作長編。
特徴は一編では主役だった人物が次の二編目では脇役で登場する、という趣向。
狂言回しは大家の清兵衛さんと書役の万平さん。
万平さんの「あっちが痛い、こっちが痛い」発言には目の前に実在する人物なら辟易するところかもしれないが、文章で読むと(つまり客観的立場でいられると)微笑ましい愚痴だ。

「猫」連作の主人公、栄之助の話にクスリとさせられる。
適役は少し以前の「市川染五郎」あたりが瞼に浮かぶ。
作者藤沢周平という人は堅物のイメージが強いんだけれども、「男の浮気な心」をよーく見抜いているなぁ、と。

「日盛り」や「約束」では、幼い少年少女の頃の無垢を思い出させてくれる。
大人になれば分かってしまう大人の嘘を見抜けない少年の後悔。
経緯がどうであれ交わした約束をきちんと果たそうとする健気な少女の一途さ。

そんな幼い頃を思い出せておいて「秋」で人生の「秋」をズシンと感じさせる。
こちらの適役は「中村梅雀」なんてどうだろう?
過去を懐かしみ元恋人と会ったはいいが、年月を埋められないままで虚しさを覚える「政右衛門」と現在を生きる(過去は過去でしかない)「おふさ」の平行線の会話を読む。
我が身に置き換えると、最近Facebookで繋がった幼馴染の女の子、繋がるのはネットの世界だけにとどめておいたほうが賢明だろうな。

上記に感想を述べた編が好み。


鼬の道

朧夜
ふたたび猫
日盛り
約束
春の雲
みたび猫
乳房
おしまいの猫
秋色しぐれ町



2013年1月21日月曜日

ビギナーズ・クラシックス日本の古典 平家物語


新・平家物語は幾つもの古典を原典にしている。
平家物語に限らず、義経記、源平盛衰記、義仲記、吾妻鏡、保元物語、玉葉など、様々な立場に置かれた人々が書いた記録・回想などを吉川英治が一手に引き受けて物語として紡ぎ出したもの。
だから、新・平家物語を読み進めるのに多大な時間を費やした。
2009年以来わずか3年で読み返したのは2012年の大河ドラマが「清盛」だったことがそもそもの動機。
それに加えて完全には平家物語のエピソードを理解しているわけではない、ということ。
歌舞伎にせよ、能にせよ、芸能の多くに由来する物語が多いのに、知らないままでいるのはもったいないことだ。
期待に反して大河ドラマは史上最低の視聴率で推移し、悪いニュースばかりが先行したがたためにドラマの内容もフラフラして筋がグチャグチャになってしまったような印象
従って中盤以降は殆ど視聴することがなく、2012年の半分を平家物語に費やしたことを「なんだかなぁ」と感じている自分がいる。
それでも思う。
2009年初めて新・平家物語を読んだとき、原典の「平家物語」を読んでみたかったのだ。
だから、絶好の機会だったんだろうと、いつか人生を振り返る日が来れば好意的に思い出すことだろう、と。

こうしてビギナーズクラシックを手にとって、声に出して読んでみた(だって、そうしなさいって編集者が書いているんだもん)
念仏みたいで夜に読むと不気味な感は否めないし、文語体の文章を二十数年ぶりに読んでも「噛みまくる噛みまくる」(笑)
だけど、声に出して読むって清々しい気分になれるし、文章が言いたいことは何なんだ?って真摯に考えた。

平家物語は中学でも高校でも習った。
中学の国語の授業で「祇園精舎の鐘の声」から始まる基本のキを学んだ時、「あ、そんなもんだろうな」という感想のみでそこには感激だとか感情移入といったものとは無縁だった。
社会人になり、様々な企業や人びとが栄えては衰えていくことを目の当たりにしてつくづく思うのとは別にして。
テストに出るから無理矢理にでも覚えていただけ、「古典で学ぶ文法なんてなんて無意味なものだろう」と思いながら。

時が下って高校の古典で学んだ「敦盛」
音感、リズム、テンポが心地良いこと。
心地良いばかりの音感に反して物語の哀れさ。
討たれる敦盛の哀れさ。
そして、子供と同じような年齢の貴公子の首を取る「もののふ」の哀れさ。
この哀れさは例えようもなく日本人の心を揺さぶる。
新・平家物語では早々に熊谷次郎直実が登場する、敦盛を討つまでに伏線が張られていて、「知っていて読む楽しみ」を得られた。

こうして、この原典を読んでみて思うこと。
敦盛の衣装が書かれていることから、平家物語は当時のファッション雑誌であったのだろうということ
練貫の鶴縫うたる直垂、萌葱匂の鎧、金作りの太刀、葦毛なる馬、金覆輪の鞍。
写真はおろか、絵ですらも(画材や塗料が高価だった)時代に、如何にして文字で彩りを伝えるか、ということにこの平家物語ほど瞼の裏で色を感じさせる文章はないだろう。

次に感じるのが旅行記的な要素
○○(土地)の××(名前)の名乗りは、文字にすることで郷土自慢もあるけど、土地の出身者が来れば「ああ、あの○○の!」と訪れた地の人らへの、故郷紹介または旅行記のようなものだったのでは?ということ。
観光で旅行に行く時代ではないのだし、土地のことを語るだけで「るるぶ」のように感じながら聴いていたんだろうなぁ、ということ。


平家物語は誰が執筆したのか?という考察がこの本の巻末でも語られている。
けれど、こうして眺めて思うのは、「平家物語の成立したのは1つのルートではなく、複数のそれも幾つもの糸が寄り合わさって綱になるようにして出来上がったのでは」
巻の二が祇王のことなのは、平家滅亡直後に源氏を礼賛するための阿諛として書かれた。
とにかく、清盛を悪者に仕立て上げなければならなかった源氏・北条氏は、ありとあらゆる清盛に関するマイナスな風聞・過去を暴き出していった。
それは栄華を究めたスターが凋落し始めると途端に栄華時代に笑い事で済ましていたことを大事件のようにまくし立てる芸能ニュースを思い起こしてみれば分かりやすい。

だが、次第に時が経過し、政権が確固たるものになればなるほど、懐古主義が蔓延し、清盛を褒め出した。
法然・親鸞らの布教が奏功し仏教が定着していく中で、救済に目を向けた僧侶たちが琵琶法師という修行増を駒にして平家を担ぎ、浄化させていく究極が灌頂の巻
そんな考察をしてみた。

古典は原典を読むことはとても大切なんだな、と感じ入った。
ずっと無縁の源氏物語にも手をだしてみようと思っている(本当に手に取る日が来るかどうかは自信はないけれど)







2013年1月16日水曜日

のぼうの城(上)(下)


主要人物が誰一人として頭に入ってこない物語。
最初から最後まで誰一人として私の中で「人物像が描けない」
上巻途中から「これはおかしい」疑問を、抱き続けた、というのが偽らざる感想であり私が下した書評。

大抵の小説は、物語が進むにつれて人物像が固まっていくものだけれども、誰一人として固まっていかなかった。
成田長親という主人公の名前だけはフルネームで覚えているが、取り巻く家臣やら武将やら領民たちの名前を覚えていない。
私のビジネス能力の一つに「固有名詞を覚えるのが早く、且ついつまでも忘れない」特技がある。
自分で言うのもなんだが、この特技が全く活かせない、稀有な小説だ。

何故だかこの小説を漫画に例えて説明したくなった。
まずは
①コマ割りして規則正しく8分割(何分割でも構わないんだけれど)したカット割りを想像してほしい。
次に
②人物の顔やヘアスタイルはそれぞれの表情を持っているんだけれど、遠近が全く同じ。
最後に
③台詞は全て同じフォントサイズ、擬音であれ重大な発言であれ一切合財が同じフォント。
そんな漫画(ないと思うけれど)に読者が感情移入できるだろうか?

登場人物がいる場所や位置取りが近いのか?遠いのか?
喜怒哀楽の度合はいかほどなんだろうか?
時間軸がどれほど時間が掛かることなのか?或いは反対に短い時間での状態なのか?
この小説は読み手が頭の中で空想したりイマジネーションを広げていけるだけの「素地」を感じさせることを拒絶しているような構成だし、文章だ。
更に私にとって追撃ちをかけられたのが中途半端なネタばらし、話の出処(原典)の講釈。
興味が湧いたところで、講釈を述べられると教養が身についていく感覚を覚えるものだが(司馬先生とか)この作者の講釈は鼻についた。


上巻の中盤くらいでこの小説を読む楽しみをどこにも見つけることができなかくなり、以降は「文字を読む」という作業でしかなく、それすらも諦め挫折しようとする自分を奮い立たせて文字を読み終えた。
最早「本を読んだ」という事実を自分の中に残したいだけ、それだけがモチベーションでしかなかった。

どうしてもこの本が「本屋大賞を受賞」した理由が知りたくて、書評を幾つかのサイトで読みあさった。
読書メーターでは大半の方が「面白い」などと好意的な感想を記録されており、「私にはエンターテイメントな小説を楽しめるだけの素地は失われたのではなかろうか?」と自信喪失に陥るほど。
ところがAmazonでは「何が面白いのか分からない」といった感想が主流、素直に「ホッと」した。












2013年1月9日水曜日

アームストロング砲



四半世紀ほど以前「竜馬がゆく」に感激した。
今になって思えば、幕末史のことが完璧に分かった錯覚に陥っていただけ。
「竜馬がゆく」を読破後、教科書では学んでいないことが書かれている本、歴史の奔流をもっと示してくれる本、坂本龍馬よりも興味深い人物を描いている本を求めて書店に赴いた。
そして手に取った本がこれ。
超一流の人物が登場するわけでもなく、歴史の奔流を示唆してくれるような雰囲気には遠かったこの本をアッサリとスルーして別の本を漁ったことを思い出す。

久しぶりに司馬遼太郎を読みたくて古書店で発見したので、購う。
私の本棚を新潮文庫・講談社文庫・文春文庫の司馬遼太郎の作品が所狭しと占拠しているが、この作品もとうとう仲間入り。
他の短編集で既読の作品が3作ほどある「壬生狂言の夜」「太夫殿坂」「理心流異聞」、3作とも新選組もの。
9作品のうち、新選組が関わっている作品が多い(脇役で登場するものまで含めれば5作品が新選組ものだ)

新選組の歴史評価はここでは省くとして、この短編集の主人公は教科書にも登場してこなければ、メジャーな歴史小説、時代小説にも登場することのないような人ばかりだ。
(例外は理心流異聞の沖田総司くらいか)
功績があるのかないのか?判断に困るような人ばかり。
だから、この本で「少年大志を抱く」ような壮大な物語は紡がれていない。
幕末の巨大且つ高速な時代のうねりの中で、「面」ですらもない、「点」での活動をしたような人たちの物語。

壮大な夢を抱いていた20代の頃には読めなったけれど、40歳を超えてありきたりな会社生活を繰り返している今になってようやく読めたのだろう。
後世になって結果論で「誤った決断・進路を選択している人だ」というのは容易い。
だけれども、あの右も左も信じられない幕末に於いて己の信念を貫いた人を、今も信念すら持てず会社に、社会に流されっぱなの私は笑うことなんてできない。
この人たちも偉大な人だと感じ入る。

長編にもなっている「侠客万助珍談」が気に入った。
豪胆が故に命を縮めた肝付又助の薩摩隼人ぶりに感心した。
「壬生狂言の夜」は大河ドラマ「新選組!」の松原忠司の末路はこの物語へのオマージュが込められているに相違ない。
「斬ってはみたが」、上田馬之助の物語は「竜馬がゆく」で竜馬が剣術修行をしている頃の巻にチラリと登場していた。ようやく積年のモヤモヤがスッキリした。



収録作品
「薩摩浄福寺党」
「倉敷の若旦那」
「五条陣屋」
「壬生狂言の夜」
「侠客万助珍談」
「斬ってはみたが」
「太夫殿坂」
「理心流異聞」
「アームストロング砲」


2013年1月4日金曜日

女嫌いの平家物語

およそ半年前の夏休みに購入して、都合3回ほど読んだ。
2012年の半分を費やした「新・平家物語」のサイド本として。

コミカルでとっつきやすいカバーに反し、内容はなかなかに難しい。
作者大塚ひかりさんは「源氏物語」に造詣が深いとのこと。
古典に明るい彼女が「平家物語に登場する女性は後世の男性によって都合よく描かれている」と断じている。
しかもその男性はホモセクシャルに相違ない、と。
ホモとまで断言しないけれど、平家物語はその成立の過程で琵琶法師(つまり僧侶)によって手を加えられているのだし、とかく男という生き物は中央に住む女=美人と定義づけたがるものだろうし。
彼女らの実体とは随分かけ離れた描かれ方もされているんだろうと、確かにこの本を読んで気づいたし、彼女らを通じて清盛はじめ男性の登場人物に対して多面的に捉えることができたように思える。

母が主権を握っていた平安貴族時代から、父が主権を握る鎌倉武家時代へと変遷してしまった鎌倉時代に平家の女性が描かれているから、実体が掴みづらい、歪曲されているだろうという説。
読んでいるとそうかもしれないな、と思うところも多い。
千手、建礼門院、二位の尼の解釈は「ううむ、なるほど」と感嘆させられた。
反対に、静と磯の禅尼=祇王、仏御前と結びつけるのは、強引かな、と。
空想することは自由だし、こういう解釈を読むのは平家物語を楽しむ幅が広がる。

この本を読んで感じたことは、登場する女性・男性よりも、平家物語の成立の過程のこと。
歴史が積み重ねられていく中で史実を記録していくことの素晴らしさ。
そして平家物語の出だしの文章に集約されていくのだろう
諸行無常、盛者必衰。
清盛が平治の乱で勝利を収めてスターダムにのし上がってから約20年その間に幾つかの危機に見舞われながら栄え、そして清盛が死ぬ。
その5年後には壇ノ浦で平家は泡と消える
たかだか四半世紀のことなんだと、改めて巻末の年表を眺めている。





レ・ミゼラブル

原題「Les Misérables」
ミュージカル映画を銀幕で鑑賞するのは初めて。

「ああ、無情」の原作は未読で、ジャン・バルジャンがパンを盗んで投獄される くらいしか知らない輩でありながら鑑賞に赴いたのは「ああ、無謀」(笑)

2012年最後に観た映画なのだが、主要な登場人物は奇しくも2012年の鑑賞作品に登場しており、感慨深い。

以下記しておく
名前(作品)
ヒュー・ジャックマン(Real Steel)
アン・ハサウエイ(Dark Nnight Rises)
アマンダ・サイフリッド(In Time)
エディ・レッドメイン(My Weeks With Marilyn)
ヘレナ・ボナム=カーター(Dark Shadows)

2012年ではないけど。
ラッセル・クロウ(Robin Hood)

先にも書いたけれど、ミュージカル映画を鑑賞するのは初めてのこと。
VTRやDVDでも鑑賞した作品は僅かだと思うし、パッと出てくるのがマドンナが演じた「エヴィータ」くらい。
原作の予備知識もなく、ミュージカルの体験もない者がこの作品を観ると、少々気恥ずかしいところがあるし、150分強の時間を集中力を維持したまま鑑賞することは難しかった。
後半一時間は、心のどこかでそろそろフィナーレに向かってくれんかなぁ、という感情はあったので。

感激したのは
①フォンテーヌ(アン・ハサウエイ)が歌う「夢やぶれて」
②エポニール・コゼット・マリウスの三重奏。

原作を読んでいつか観返したいと感じている。


2013年1月3日木曜日

007 スカイフォール

原題「SKYFALL」
主題歌は今をときめく歌姫「ADELE」
彼女の歌声をスクリーンで聴きたいというのが一つの鑑賞動機。
米国の歌姫が(異論反論はあるにせよ)「レディ・ガガ」に比して、ADELEの歌声のほうが好み。
落ち着いた歌声に傾斜していっているのかなぁ、なんて自己分析もある。

「007」を映画館で鑑賞したことは少なく、実はこれが3回目。

初体験が中学一年の頃、塾の先生に連れて行かれた「YOUR EYES ONLY」
英語を勉強し始めて半年を経過していた頃。
中一で受験することが無謀と笑われた英検三級を受験前にナマの英語を見聞することを目的(今になって思えば先生が単に観たかっただけなんだろうが)として鑑賞しに行って、劇画の内容は全く覚えておらず、とにかく本当にただの一つも単語を聴きとれず落ち込んだ思い出のみ。

次に鑑賞したのが、この前作「慰めの報酬」
これは前々作の「カジノロワイヤル」の続編であるにも関わらず、勢いで鑑賞したはいいがカジノロワイヤルの内容を全く予習もせずに観たものだから、全くわけが分からないままアクションシーンだけには感激しただけ、というお粗末な鑑賞。

で、ようやく3本目で納得できる鑑賞ができた。
本編スタートから始まるアクションの連続には、「うわっ」「どひゃっ」と小声で叫びながら。
ボンドガールの色っぽさには「あひゃん」と小声で喜びながら。
ハビエル・バルデムの悪役ぶりが素晴らしい。

「M」のジュディ・デンチの後ろ姿を観ると、「さすがに年老いたなー」と感じてしまった。
今作で卒業するのも、引き際として英断だと思う。

「Q」がおじいちゃんでなく、ITオタクの草食男子。とはいえこの俳優(ベン・ウィショー)は今後更に伸びていくような予感がしている。

そしてジェームス・ボンドことダニエル・クレイグ
この人の顔立ちを観て今までロシア系・東欧系だとばかり思っていたのだが、れっきとした英国紳士なのに驚いた。
これまでの007のイメージを制作側が払拭しようとしての登用かと思いきや、出自にはそのイメチェンを求めていなかったんだと気づいた次第。
ロジャー・ムーアがインプリンティングされている私からすれば、ダニエル版のボンドはオシャレ度が薄く、泥臭いイメージが強かった。
でもようやく、これはこれで「あり」かなぁ、と。
孤高の人、ジェームス・ボンド、そして苦悩するボンド

上海、香港やスコットランドの風景も美しかった。
今でこそ、海外旅行は目新しいものではなく、日常茶飯事のように海外旅行している人もいるし、テレビでも海外の至るところのスポットが紹介されているけれど、映画館で観る海外は5割増しで美しく見える。

次作で007の周囲を固める人も刷新されるのだろう。
ダニエル版4作目、大きく期待して鑑賞に赴きたいと思っている。



エクスペンダブルズ2

原題「The Expendables 2」

前作は未鑑賞
興味は高かったのだけれど、縁が薄く上映期間が終わってしまった作品。

今回の「2」も縁が薄くなりかけて、上映最終日の最終回に滑り込んで鑑賞した次第。

80年代から90年代にかけての肉体派ヒーローが集結し、おバカな映画を製作し作り上げているのが素晴らしい。
中でもジャンクロードヴァンダムの回し蹴りに、(彼は悪役だったのだけれども)拍手喝采。
主演のシルベスタースタローンの大根役者ぶりに脱帽。
スタローンの大根ぶりってのは、酷評ではなく、もはや礼賛の意味合いで。

ロッキー4で対決していたドルフラングレンがスタローンの味方というだけで十分に楽しい。
全盛期はライバル関係だったアーノルドシュワルツェネッガーも少し格落ちした位置づけで銀幕復帰というのも楽しい。
そのほかも肉体派俳優のオンパレードで、アツくなれる。
牛丼と豚丼と鶏丼が合わさったような作品だと言ったら、面白い表現だと、お褒めのメッセージを頂戴した。
肉食男子(老人?)ばかりなんだから、この比喩は直接的で安易なんだけれどね。

ただ、ストーリーはどうだったのか全く覚えていません。
というか、そんなストーリー展開なんてこの手合の作品に誰も求めていないんでしょうけれどね。





五辦の椿

新・平家物語に読み疲れたとき、及び読み飽きてきたとき(13巻くらい)に本棚を眺めたときに目についた小説。

「法では裁けない掟」がこの小説のテーマ。

2008年に初めて読んだ。
大きく衝撃を受けた。
それは、山本周五郎の作品を数冊読み、「周五郎=人生訓の語り手」にカテゴライズした頭脳を混沌とさせられたから。
それ以来の再読だ。

この小説を手に取った背景がもう一つある。
それは2012年10月中旬くらいにNHKにて再放送されていていたこと。
残念ながら、全5回のうちの4回目ぐらいが放映されていたものをたまたま見つけたに過ぎず、全放映を鑑賞しているわけではない。
放映中に観た顔は竹中直人と国仲涼子、そして阿部寛ら。
竹中直人が演じる絵師の存在がどうしても思い出せず(このエントリを起こすにあたりWikipediaで調べたらドラマだけのオリジナル人物とのことでホッとした次第)気になっていた、ということもあった。

読んでいくと、読者の期待(こうなるだろうという期待)を悉く裏切る展開に舌を巻く。
殺さないだろうという期待に反して殺す
殺すだろうという期待に反して殺さない。
そういった類の展開ばかりで、読み進める頁がもどかしく感じる。
「まさか、まさか」
「あれあれ、あれれ」
「嗚呼、嗚呼」
そんな言葉を口ずさんみながら読んでいく人も多いだろう。
主人公が手をかける被害者(母親、そして怠惰な男ども)のような存在は私の身の回りには存在しておらず、そのような人間が存在していることをニュースで知る程度。
そんな環境に生まれ、生きていることに感謝したい。

おぞましい事件でありながらも、主人公「おしの」の純粋さが血清成分となり、おぞましさを打ち消す。
主人公の自栽により物語は終結してしまうのが残念。
とはいえ、過去に自分が抱いた感想(下記)がなかなかGOODだ。
「山本周五郎は敢えてこの主人公に自栽させ、読み手が青木与力であれば彼女をどう裁くのか?」
を考えさせたいからなのではないか。

うん、確かに。