2012年7月27日金曜日

新・平家物語 三界の巻

平清盛の存在は歴史で学んだ際に受けた印象よりもずっと遥かに巨大であったのだろうということがこの巻でよく分かった。
清盛の死因、この小説では「瘧」現代で言えばマラリアによるものだとしている。
マラリアでは即死亡することは極めて低い可能性なので、幾度も清盛が寝込んだことも多かったのだろう。
寝込む都度「平家もこれまで」と、後白河院、公卿、山門、そして東国の源氏も蠢動を繰り返していたのではなかろうか。
露見してしまったのがたまたま鹿ケ谷の陰謀であり、以仁王の叛乱だけで、議案に乗るだけ乗って実現しなかった企てはもっとあるんだろう。
灰になってしまったから歴史の舞台には登場しない企て。
どんな人がどんな企てをしたのか?そういった下郎なことに清盛は関わっている時間もなかったのだろうが、そういった存在を根底から潰そうとして、日宋貿易、福原遷都だったのだろうに、と清盛に同情したくなる。

以仁王の叛乱から始まった打倒平家のムーヴメントに木曾義仲が名乗りを上げる。
およそ都とは大きく異なる風土の木曾で。
女も戦闘に加わり、獣を食す。
鎌倉とは一旦質子を出して和睦し、木曾は北陸を経て都へ向かう。



『本文より』のコーナー
義仲と葵の愛の深さを描いた文章。
とても美しい。
長いけれど、紹介しておきたい。
戦中は男女の愛がとことんプラトニックなのものが礼賛され、ともすれば恥ずかしいことと決めつけられていた時代の延長線にあった時代。
ともすればフィジカルな愛を否定していた時代であることを考えると、この文はとても刺激的なものにとして印象付けられたのではないか。

戦の日の葵は義仲の戦友であった。そういってもおかしくない。
戦友でありまた恋人でもあったのだ。
戦は死を賭すもの。恋も死を賭すほどなものである。
ふたりの愛の燃焼が世の常の契りでなかったのは当然であろう。あらゆる辛酸をともにし、生死も一つとちかい、あす知れぬ戦場のちまたを手に手をたずさえてゆく青春の男女がいかに強度な愛情を醸し出すか血の出るようなくちづけを味わうことか、他人のうかがいうる境地ではない。
(8巻171頁)

葵について
体育万能の別嬪な女という印象
2012年の今旬な女性で言えば女子サッカーの川澄選手あたりかな

義仲の性格について
野蛮なタイプの人でありながら皆に愛されるタイプって周囲に一人ぐらいはいるよねぇ。
他界されているけれど勝新太郎あたりがイメージしやすいかも。

この人の性としてじつに憎態にものをいう。
またよく傍若無人にあたりをあざ笑う。
けれど笑うにはいつも大口を開いて笑い、きゃっきゃっといって膝をたたいて笑うのだ。
天性美貌な人なのでそれが無邪気にも見え、天真爛漫といった美しさにすら見えることもある。
(8巻180頁)

.....それにしても源氏よー、とでも言いたくなる文章。

父たる義朝の代においてすでにもう源氏党では骨肉喧嘩の血みどろをやり合っていた。
(8巻189頁)

若い公卿らが、平家ばかりが栄えている現状に不満を持っている。
この事態の経緯は平家が強奪したのではなく、旧政権の腐敗にも遠因があるのだと言う。
現在でも若者らが不平不満を言うけれど、それは「大人が悪い」と決めつけるのはいかがなものだろうか?

かれらの年齢では貴族末期の腐えた世代と、その後の世代との比較が持てなかった。
社会が見渡せた時は既に平家全盛の時代だったから世に思う不平はすべて平家の悪さに見えていたのは是非もない。
(8巻289頁)

清盛の葬儀はひっそりと行われた。
後の信長同様、(出家こそしているが)清盛も無神論者
葬儀は盛大に行われることに越したことはないのだが、偉大なる為政者にとっては死んだ後のことなんてどうでもいいんだろうなぁ。
栄耀を一世に極むといわれた人にしては余りにもうら淋しいばかりな葬日だった。
(8巻341頁)

繰り返し繰り返し文体を変えては書かれる内容。
この時代の家族のことを考えていたけれど、作者吉川英治は企業活動でも一致団結する平家タイプの企業が日本的な望ましいと考えていたのかもしれない
平家は一門ことごとく一心同体の平家だが、源氏は一蓮托生の仲ではない。
(8巻374頁)

【収録】
葵と義仲
君見ずや
大地の乳
大夫坊牛鞋録
岩茸と運は危ない所にある
権守返上
巴と葵
木曾殿稼ぎ 異聞頻々
「玉葉」筆者
右京大夫がよい
入道発病
二位どの看護
医師詮議
火の病
無事是貴人
麻鳥拝診
白眼子
往生三界図
三界図その二
征野管弦回向
叔父御と甥御
墨俣渡し
渦の中
山岳遁走
踊りの輪
朝めし前
露団々
聞こゆる木曾を眼に見ばや
謎めく卿
弁財天喧嘩
内訌

アメイジング・スパイダーマン

原題「THE AMAZING SPIDER-MAN」

前3部作は映画館では未鑑賞、テレビでチラチラと鑑賞したことがある程度。
幼い頃(小学3年くらいかな)戦隊もの(ゴレンジャーとか)のつなぎとしてスパイダーマンが放映されていた。
大人のおじさん(とはいえ20代の若者の設定なんだろうが、小学3年にしてみれば20代はおじさんダ)の勧善懲悪もの。
そのスパイダーマンがプロトタイプの私にとって前作のスパイダーマンが普段は弱々しい草食男子という設定に馴染めなかったことも相まって、印象が薄い。
敵役のウイレム・デフォーに「えぇ!もうちょっとシリアスな映画に出たほうがいいんでないのー?」と思ったことぐらい。

今シリーズを観に行こうと思ったのは、
①スパイダーマンのスーツの質感がかっこいい
②予告編で観たスパイダーマン自身の目線でNYのビルや街を跳躍する
③主演の男の子の表情がイイ感じ
上記3ポイントに加えて、連れが「3Dで観てよかった」ということば。

さて、連れは「3Dだけ(楽しめばいい)、ストーリーはどうでもいいのよ」との談。
だが、私はいろいろと感じたのだ、別に感動というような大層なものではなく。

懐かしい学園ものとしての要素
舞台設定は(前作同様)高校。
遥か25年前に感じたトキメキを僅かに思い出す。
主人公と想われ人がめでたくキスをするシーンがあるのだが、初キスした事実ではなく、高校生の頃に大好きだった片思いの彼女とキスをすることになっていれば、こんな感じでキスしたいなぁ、と。

そして次に。ヒーローものとしての要素
高校生よりも遥かに時を遡り「仮面ライダー」に憧れていた幼児の頃の気持ちを思い出した。
男の子であれば、誰しも変身願望がある。
この作品の上映前には「アベンジャーズ」の予告も相乗効果(笑)
観ながら、変身願望が高まってしょうがなかった。
ウルトラマンではなく、仮面ライダーに憧れる理由が分かった。
それは「等身大」であるということだ。
「アベンジャーズ」でも惹かれるのは「アイアンマン」、巨大になる「ハルク」には魅力を感じない。
そこにリアルさを感じられるかどうか?その尺度が等身大なんだなぁ
ヒーローものですらリアリストな側面があるということか、クソッ!!(苦笑)

鑑賞動機でもあったのだが、主演のアンドリュー・ガーフィールドの表情が予想以上に良かった。
この人も「ソーシャルネットワーク」が出世作の人とのこと。今更ながら鑑賞に赴けなかったことが悔やまれる。
......それにしても、この人の表情はいい。
スパイダーマンでありながら、マスクをしている時間よりも外している時間のほうが長かったように思えるのだが、それは彼の表情を監督が求めたからなんだろうなぁ

ガールフレンドのグエインを演じた女の子(エマ・ストーン)も目元パッチリで好みのタイプだ。
ジョディ・フォスターに似ているかな。
現在23歳、うーん、淫行罪には問われないナ、よし(喜)

この作品の前に鑑賞した「崖っぷちの男」ではエド・ハリスが老けてしまっていたが、今作ではサリーフィールドもおばあちゃんになってしまってた。
可愛い甥っ子(ピーター)の秘密に気づきながら見守るしかない叔母さん役。
叔母さんと呼ぶには....もうちょい若づくりしたらいいのに。


2012年7月22日日曜日

新・平家物語 かまくら殿の巻

 新宮行家が令旨を無節操と言っていいほどに東国の源氏に撒いたことで、各地の源氏に波紋が起こる。
最たるものが頼朝であるものの、石橋山で敗北した報を聞くと次は木曾義仲へ頼る。
関東地方を地盤にする源氏は次第に頼朝を棟梁と仰ぎ、義朝らが地盤を固めていた鎌倉を本拠地にに定め、勢力を増強していく。
対する平家、清盛の老化は進み彼を継ぐべき跡継ぎが見当たらない。
老化が進んだ清盛にとって敵は源氏ばかりではない、山門も危険な存在であり、それに繋がる院にも目配りをしなければならない。
四面楚歌状態の清盛にとって、関東や木曾の勢力よりも比叡山や奈良の山門こそが平家を危うくする存在だと認識していたのではなかろうか。
そういった考えの清盛にしてみれば富士川の戦いでの敗北は身内の情けなさに憤慨しまくっただろうし、同時にガクッと来たことだろう。
自分がしっかりしなければならないという責任感を負うには清盛の肉体は耐え切れなかった。
引退した社長が経営再建に再び就任してもあまりうまくいくことは少ないように、平家は次第に弱体化していく。

『本文より』のコーナー
斎藤実盛、という老武将
この人は先に義朝に仕え、この時点では宗盛に仕えている。
この時代の忠義は後世の忠義とは異なり、その時点で仕えている棟梁にこそ仕えることこそが誠の忠義だとする。

おたがいの立場と考え方は自由であった。充分理解しあえる仲の友であった。
(7巻409頁)

頼朝は偉大である、王者とはこうでなければ精神がもたないのかもしれない。
いや、或いはこの時代はまだ根絶やしにするということが定着していなかったのかもしれない。
「家」を根絶やしにする、という発想は「織田信長」からなのかもしれない。

頼朝の真意はたれにも分からなかった。人々はただこの主君の反面に奇異な一性格を見出しただけである
(7巻441頁)


義経悲劇の前哨戦

下部と下部との感情はまた違う。鎌倉殿の直臣たちは九郎殿山の家人というと陪臣か外者のように差別した。
(8巻61頁)

源氏は平家から政権を奪っても僅か三代で滅びる、その主因は詰まるところこの言葉に要約される
これは佐竹を滅ぼした頼朝に向かって佐竹の家臣が吐露する言葉
「主家の滅亡を悲しむのは多年その家に仕えた人間の自然の情です、別にみっともないとは想いません。それよりも元を正せば佐竹一族も源氏です。なぜこんな同族の合戦に訴えないで和の道をおとりくださらなかったのか」

頼朝の性格

必要に応じては時に人命を断つことさえなんともしない風がある。峻烈かと思えば優しく、冷酷と思えば温かそうでもあり
(8巻67頁)

吉次の存在意義は武器商人

この戦争を能うかぎり大きくさせ、また長引かせるにある
(8巻77頁)

清盛の敵は何も武力をもった勢力とは限らない。
武力もなく、思想もない民衆の怨嗟も反平家の勢力になるには充分であった、ということ。

都心を追われた浮浪や餓民は蝗のように農家の貯穀を食い荒らしてゆき、あらゆる悪事と悪風をまいて歩いた。

いつの世も、同じことの繰り返し。今日もきっとどこかの会社で、学校で、官庁で武闘派と文官がもめているだろうし。

しょせん文官と武官とは一朝一夕には解け合えませぬ
(8巻123頁)

偶然は偶然ではなく、必然だというときがある。文章が綺麗

人為のほかな人為がある。何か眼に見えないものがこの世を動かしているのではないか。そう疑われもするような偶然や不可思議な作用がこの世にはある。
(8巻138頁)

意思とは別の次元で決めることがある。世間で言うところの「神の声」これも文章が綺麗

自分以外のものが自分をしてこうさせたのだと思う。日頃の小心な自分では決断しえないことである。
自分に代わって何ものかの力が二人(重衡と通盛)を呼び寄せたものだろう。
(8巻144頁)


【収録】
中立圏
日和見くずれ
北上
広常参陣
野彦
月見る人びと
怪異譚
征鈴
斎藤別当実盛
風流陣
御台所返り
けだもの処分
水鳥記
維盛不戦顛末
ちぢに思いを
黄瀬川対面
かまくら日誌
九郎殿衆
創府手斧屑集
死の商隊
露衣風心
夢野の夢
龍虎相泣く
浮巣の都
髷切り事件
馬と鹿
灼身大仏・嘲人間愚
耳に飼う蝉
春なきおん国母





2012年7月21日土曜日

崖っぷちの男


原題「MAN ON A LEDGE」

素晴らしく面白いわけではない。クソっとつぶやくほどつまらないわけでもない。
サム・ワーシントン、アバターでの成功がアダになっているのかなぁ、スターと呼ぶには風格が滲み出てこない。
序盤は特に眠たい展開が続いたし、実のところ10~15分は眠っていた。
だが眠っていてもノープロブレムだったかもしれん
と、いうのも。
人物像の掘り下げ方が甘い。
誰も彼もが中途半端だと感じる(←「寝てたお前が言うな」って声を無視)
ニックが自殺するわけじゃないことはすぐに分かるんだから、「じゃぁ、今からどんなことが起きるのだろう」スリリングな場面を設ければ、かなり面白くすることができる。
スリルは別にニックに限定せずとも、女性交渉人が失敗してしまった過去の事件でもいいし、エド・ハリス扮する悪徳実業家の周囲で何か一つ彼が悪徳ぶりを遺憾なく発揮するような事柄とか。
スリルが欠落しているから眠たさを増長している。
本当に序盤に一つの山場をドン!と打ち上げていれば、印象はもっと上昇可能。

中盤に入る頃になり、弟と恋人が向かいのビルでやろうとすることは理解できるけど、そのスキルが不明
恋人の色気は男性客にはありがたいサービス。
彼女のショッキングピンクなランジェリー姿がGOOD!!
でもね。
それよりも盗みのテクニックとか美学のシーンが欲しかった
ルパン三世でも峰不二子の色気は、ルパンたちの美学があればこそ映えるのだから。

女性交渉人、ニックとの交渉を深めていくことで彼女の中に芽生える感状やシンパシーが盛り込まれていない
この映画のもうひとりの主人公だからこの事件を経て彼女の成長や心の回復に触れられていないのも寂しい

序盤に眠ってしまっても、後半にニックたちが追いかけている目的の「もの」がないことが分かってからの展開の頃にようやく目が覚めてもいいかもしれない。

ドキュメンタリーを舞台としてきた監督さんだという。
そんなキャリアの持ち主なだけに群衆の動きが変化していく姿がうまく表現できてないと監督自身も不本意なんじゃないかな
女性レポーターもしかり、最後にニックに手助けをする群衆の一人もしかり。
ニックが群集の集団心理を操作していく過程が表現できれば、と残念に感じる。

エド・ハリスが老けてしまっていた。
もともと皺の深い人ではあるのだけれど、登場したときに「あ、おじいちゃんになってしまった」と感じた。
ね、製作会社の皆さん!!もうちょっと過激な役どころ演じさせて若返らせなきゃ!!






2012年7月18日水曜日

荒地の何処かで

「Wasteland」
初出は「COYOTE」

佐野元春を語るうえでは欠かせない単語が幾つも登場してくる
「荒地」「何処か」「口ずさむ」「君」「月」

「2012初夏のツアー」でこの曲をPLAYしてくれた。
COYOTEツアーのときは原曲に忠実にPLAYしていたけれど、今回は少しアレンジが加わった。
キーボードの渡辺俊介クンの伴奏が心地よかった。
その伴奏時に俊介クンの隣でノッている元春クンがかっこよくて、あぶなっかしくて、素敵だ。
そう、このときの元春は56歳ではなく、まるで少年のよう。
だから「クン」づけで呼びたくなる。
もう一ひねり加えてくれたら、LIVEで栄える曲に仕上がっていくような予感がしている。

感激のLIVEから3週間を経ようとしても尚、あのキーボードのフレーズが脳内で再生されているので書き留めておく。

2012年7月17日火曜日

スノーホワイト

原題:「SNOW WHITE AND HUNTSMAN」

シャーリーズ・セロンを観るために出掛けた。
主役の女の子には大した興味はない。
(クリステン・スチュワートと言うらしい)

鑑賞に赴いた日は週末の土曜日。
仕事を終えて、勢いで出掛けた、従って決して体調は万全ではない、何せ一日立ちっぱなしでいたのだから、足はパンパンだった。
従って、この作品にはプラスに作用する感想が乏しい。
いくらそんな状態だったからという事情を差し引いても、この作品で映画の素晴らしさを感じることは難しいと思う。

起伏のない映画だという印象。
おとぎ話をベースにしているからファンタジーものとして位置づけられるのだろうだが、ファンタジーものにしては真面目に作られすぎている印象。
「起伏がない」というのは「アソビがない」ということの裏返し。
その代表的な例が七人の小人の存在と彼らの言動。
どうしたって彼らの存在はコミカルなもの。
無理せずに観客がクスリと笑えるエピソードなどを交えながら彼らの存在感を際立たせる。
どうしても真面目に映したいのなら七人の中でもトンガったキャラクターを一人に集中させて観客の意識を向ければいいんじゃないのかな。
監督さんはとっても真面目な人なんだろう、だからあれもこれも「きちんと」撮影しないといけない、という声が聴こえてきそう。
それが、私にしてみればメリハリがない。いつ場面が変わるんだろう?ということばかり考えながら鑑賞している始末。
ひいてはこの映画いつになったら終わるんだろうということを考えながら観賞していた。
映画館で途中退場をした経験はないのが一つの自慢なのだが、2回ほど途中退場しようかと考えた。

登場人物に強烈な個性を放つ者がいない。
シャーリーズ・セロン演じる黒の魔女が僅かばかりの異彩を放つ程度、スノーホワイトに至っては売り出し中の女優さんにしてはキラっと輝くオーラをスクリーンの向こう側から放たれているようには思えない。
44歳になろうとするオジサンからすれば「このこわっぱめが!!」といったところだ。
セロンにはもっと肌の露出を増やしてほしかったところだが、鑑賞のターゲットが若年層だから過度な露出を回避したのは理解できるのだが。
若さを喪失したくない。美貌を保ちたいという古今東西を問わず女の願いは行き着くところ裸体に言い表されるのだから、セロンの裸体ってのは重要な演出なんだけどな。
老いていくシーンはあるのだけれど、そういったCGの演出よりも綺麗な裸体が観たかった。
(エロな気持ち抜きで)

悪者を討伐するためにお姫様が家臣と王子様を引き連れていく映画といえば…
そう。
私の永遠のアイドル、薬師丸ひろ子様が犬姫を演じた「里見八犬伝」とカブる。
カブるのだが、以下の3点に於いて私は里見八犬伝に軍配を上げる。
①姫様から発せられるオーラ
1983年の頃の薬師丸ひろ子のオーラは一等星並の輝きがあった。
②姫以外の人物の際立たせ方
これはエキセントリックさと置き換えてもいいかもしれない。
③姫に恋する男の苦悩
翻って言えば、深作欣二は偉かった!!!ということか。

いくら女性が強くなった時代とはいえ、お姫様が兜もつけずに先陣切って軍隊を引き連れていくのはやりすぎだと思う。
里見八犬伝は姫様は「玉」として家臣らに護られながら敵方へ攻め込んでいったし、それがスタンダード。
そのスタンダードを崩すべきではない。
そんな様々な違和感から「別にシャーリーズ・セロンの黒魔女の統治下でもこの世界はさしたる不都合なこともなく廻るんじゃないの?」と思った次第である。

監督さん、もっとガスを抜いたり、力点を置くところを決めてから撮影しようよ!!!



2012年7月7日土曜日

ドライヴ

原題「Drive」


主人公の氏素性を詳らかにするか、しないか?
映画の方向性を決定するうえで、大切なファクターだと言える。

この夏公開される「ダークナイト・ライジング」
バットマンこと、ブルース・ウエインの場合、彼の苦悩を観客に見せる一方、映画の世界での民草には彼の苦悩を見せない。
だからこそ私たち観客は主人公に感情移入していくことになる。
「皆が悪者と扱うバットマンこそ、実は善人なのに」というジレンマのようなもの。

で、今作。
この主人公の氏素性は観客にも劇中の登場人物の誰一人として知らない。
自動車工場のオヤジさんが最も彼との付き合いは古そうだが、そのオヤジさんですら主人公の過去については深くは知らないようだし。
何せ、主人公の名前は分からないままだ。
天才的な運転技術の持ち主である彼、何故表の顔が「自動車整備工」や「スタントマン」なのだろう?
裏の顔「強盗の手助けをするドライヴァー」なのだろう?
過去・経緯が全く説明されない。
説明されなければされないほど、彼の過去に思いを馳せてしまう。
隣の人妻と子供への深い愛情の注ぎ方
(まして、人妻とはセクシャルな関係がない様子)
暗殺者の顔をグシャグシャにしても尚踏み潰そうとする激情。
そういった彼の言動の底辺に流れているものは何なのだろう?
彼は何故ここに住み、さほど裕福でない生活に満足し、夜になると犯罪者の手助けをするのだろうか?
何があったのか?あるいはなかったのか?
何を失ったのか?あるいは得たのか?
ドライヴァーの「これまで」について思いを巡らせるだけでも十二分に見ごたえがあるのに、終わり方がまた小憎らしいほど。
「これから」の物語に思いを馳せてしまう。
続編を製作して欲しい気分も少々あるのだけれど、これは観賞した各自の脳内で製作すればいい。
ひとつの映画によって語られる事柄を仲間と語り合えることが、映画の醍醐味だし、ひとつの映画によってその醍醐味を失ってしまうこともある
きっとこの映画は前者であり、仮に続編ができれば後者に当てはまってしまうように感じる。


表題の筆記体から始まる英文字が筆記体を基調としていたり、流れる音楽が80年代を連想させるようなテイストで、高校生の頃故郷の映画館で鑑賞しているような錯覚を覚えた。
1年半ぶりくらいに訪れたこの映画館、こだわりを感じられる映画館でゆったりと鑑賞できて心地いい。
また、音響施設もいいのだろう、発泡するシーンがあるのだが、2度ほど本当に弾丸が館内で発射されたように聴こえた。


2012年7月6日金曜日

新・平家物語 断橋の巻


以仁王と源頼政の話。

これまで以仁王が反旗を翻した相手は後白河法皇(父親)だという誤った解釈をしていた。
父親(後白河法皇)が実権を握る院に対し、息子(以仁王)がずっと忍苦に耐えていた源頼政に唆されて挙兵したものだと。

そうではなく、反平家という共通の思惑が一致したものが二人には底流にあり、後白河法王からの声なき声を聞き取った王が挙兵し、頼政が流れに抗しきれずに同調した叛乱だという。

強大な「力」が唯一なものとして存在する場合、概ねその「力」に正義があろうがなかろうが、対抗する「力」が生まれる。
塩野七生の「ローマ人の物語」にそれに近いようなことが書かれていたような記憶。

平家政権側を擁護しようとすれば、荘園(農業)によってしか経済が流通していない時代に、その荘園を支配しているのが王家側であり政権の経済基盤が危うかったということだろう。
清盛が福原に手を加えて日宋貿易を盛んにし、貨幣による経済を構築するには時間が足りなかった。
後継者である重盛が清盛の意思を受け継ぎ、宋との関係を深くすることができなかったことが、平家政権の限界、そして滅亡の起算点なのかもしれない。

そして。
平家政権を打倒することになる頼朝側。
王者の風格を備えている頼朝ではあるものの、嫁側の実家北条家は決して一枚岩の結束で頼朝を盛り立てていこうというわけではない。
幸先良く山木を倒したものの、鎮圧に乗り出した平家の前に石橋山で頼朝は敗北を味わう。

『本文より』のコーナー

以仁王が挙兵したくなった背景を人間臭い動機で表す。


皇族であっても権勢の外なる“忘られ人”の境遇に置かれると殿上の交わりはおろかお顔を知る人すらまれであったらしい。
そういう不合理な宿命に対しおりには忿怒を覚え、反逆の血を沸かされたことか想像に難くない。
(7巻150頁)

清盛が遷都を決めた理由は地の利を得たかったからだという。
吉川英治は書いてないけど、上記の経済基盤を貨幣にしようとすれば山に囲まれた都では不都合が多いという判断もあったのではなかろうか。

かれが遷都を決意した第一の理由は西八条や六波羅の地勢のまずさである。
京を囲繞している僧兵組織に対し到底勝ち目のない盆地の狭隘に一門甍を並べている状態はつねに累卵の危うさにあるものというほかない。
(7巻153頁)


頼朝は猜疑心の深い男だという印象が強いのだが、その理由は父義朝が家臣(しかも縁者)の手にかかって謀殺されたという事実がトラウマになっていたからだとする。
これは、そうだなぁ、って気づいた

さまざまなことばや姿をもって近づいてきた人々に対しても彼(頼朝)が人を観る眼は必ずその細くて冷たい心配の網を通っていた

(7巻238頁)


三井寺入り

笛と蛇
八十宇治川へ
断橋
馬いかだ
楚歌
都遷し
走り湯の君
恋の巣の朝
紙燭
御家人集め
夜雨瀟々
葦手仮名
三島夜祭り
土倉開闢
少年恨
風孕む
石橋山
佐奈田余一
朝の来ない夜はない

伊豆山月騒記
彼岸と此岸
ばらばら千鳥
鎧虱





2012年7月4日水曜日

ダーク・シャドウ

原題「DARK SHADOWS」


ティム・バートン&ジョニー・デップ
この二人の作品は最早ひとつのブランド。
「とりあえず映画でも」といったエチュード時期のカップルは無難にデートを楽しもうと思うだろうし。
映画マニアまであれば多種多様な鑑賞ポイントがあるのだろうし。
で、私といえば、脳みそをフル活用し終わった後、あまり考えずに直感的に脳みそがゲラゲラと狂ったように笑える作品なんだろうと思って鑑賞しに行った。

そもそも。
この作品の劇場予告編では「ホラーをベースにしたコメディ作品」だと感じたし、感じない人のほうが稀であろう。
・ジョニー・デップの志村けんのバカ殿様のような白いメイク
・彼の背中が燃えて水をぶっかけるシーン
・今は何年か?と尋ねて1972年と答えるくだり
・カーペンターズの歌が流れるテレビを魔法箱だと弄るくだり
そんな類のものを見せつけられれば、誰だって「笑い」を求めてスクリーンに足を運ぶでしょう?
テレビコマーシャルでも、その基調は変わらなかったし。
T-REXの「GET IT ON」がBGMなのも、パンク基調のクレイジーさを醸し出していた。

ところが、いざ劇場で鑑賞してみればこの映画にコメディの要素は薄い。

従って、「う~~~~~ん」ってな感想しか浮かばない。
クロエ嬢は「ヒューゴの不思議な発明」のとき同様愛くるしい。
ミシェル・ファイファーは「ニューイヤーズイブ」のときほど輝いてはいなかった。
キャラクターに際立った「特徴」が植え付けられていなかったように感じる。
エヴァ・グリーンは美しい魔女だったけれど、鑑賞し終わって「これ」といった印象が残らない。
美しいのは美しかったのだけれど……。

人気テレビドラマのリメイクだという。
そのドラマの概略を掴んでからもう一度鑑賞すれば、楽しめるポイントも出てくるのだろうが。
もうそろそろ劇場公開はLAST週になりつつあるのだが、笑いを求めて鑑賞に赴かないほうが賢明。

ただ、チャーリーとチョコレート工場でも今作でも「工場」での生産ラインを無機質に撮らずにイキイキと生命力あるものに撮る才能は素晴らしいなぁ、と感じ入った。
そういや、マーズアタックの火星人が沢山登場するあたりもあれはあれで素晴らしい才能だよねぇ。

あ、私、ああいったなんだか「アホらしくも秩序を保っているクレイジーさ」というものをもっと求めているんだな。
それに気づいたことだけども今作を鑑賞してよかったということだ(笑)




2012年7月2日月曜日

キラー・エリート

原題「KILLER ELITE」

実話だという触れ込みは二の次で、この作品を鑑賞に行った最大の動機は「ロバート・デ・ニーロ」
デ・ニーロがかっこいい役回りだと聞いて、いそいそとおでかけ。

話の展開は、私にはよく分からなかった。
暗殺の世界から足を洗った主人公が旧友の危機を突きつけられて再び闇の世界に戻っていくところまでは分かった。
そこから先の展開は、「???」なまま進んでいく。

3人目の暗殺あたりから加速的に展開していく。
分からないけれど、ものすごい危機感は体感できる。

恋人の枕元に弾丸が置かれているシーンまでの見せ方にヤラれました。
ドキドキ、ビクビク。

デ・ニーロが最後まで死なず、主人公の恋人のガードとして駅にて暗殺者を反対に迎え撃つシーンにシビれた。