2013年10月31日木曜日

トランス

原題「TRANCE」

アカデミー賞受賞者ダニー・ボイル監督作

ロザリオ・ドーソン
この画像はイマイチだが、美人
後半での彼女の表情がきれかった
  なのに、公開期間がとても短い。
よくも悪くも、定時退社を自分に課して、平日に鑑賞を果たせた作品
働きバチみたいに働いてしまっている昨今の事情を鑑みれば、こういうことで定時退社したことはとても良かった。

以前に「127時間」でも書いたように、ダニー・ボイルが撮る青色はとても好きで、今作でもプールに映える水の色とか、深夜での道に映える黒みを帯びた青、堪能しまくった次第。
ロンドンオリンピックでも発揮したダニー・ボイルの色の表現の才能は私の感覚にピタリとハマった。

さて、今作
ジェームス・マカヴォイ
ウオンテッドで初めて出会ったので
未だにヘタレキャラに映ってしまう
トランスという単語から思い浮かぶのは、混乱・困惑といった頭の中が整理できなくなる状態のこと
どこまで、観客の脳みそを混乱させてくれるのやら?と期待しながら待ちかねていた作品。
ストーリー展開はあれよあれよと進んでいくし、人物相関図はジェームス・マカヴォイとヴァンサン・カッセル・ロザリオ・ドーソンの3人を追っていけばいい。

その3名の関係は前半と後半では、全くもって変わってしまう。
私、現時点でもこの3人の相関がターンしていくポイントだとか、どこまでが現実でどこまでが過去で、どこからが夢なのかチンプンカンプン状態のまま。

ヴァンサン・カッセル
しゃくれ気味の口元が生意気そうに映る
悪徳刑事の役とか観てみたい
是非とももう一度観賞したい作品なのに、もう公開は終わってしまった。
なんで、こんなに面白い作品をかくも早く公開満了としてしまうのか解せない。
興業成績だとか、興行元の事情とかあるんだろうが、もっと長く公開してくれ。



2013年10月27日日曜日

ローマ人の物語 6 勝者の混迷[上]

ゆっくり、ゆっくりと読み進めている「ローマ人の物語」
春にハンニバル戦記を読み、夏い暑、いやいや暑い夏を乗り越え、日中は残暑が厳しくても夜になると並みの残暑になった頃から、ハンニバルの次時代のことを知りたい気持ちが湧き上がってきたピークを迎えてこの手に取る。

友人らに、この本を読んでいる画像を紹介すると「偉い」と褒められてしまい(誰かに褒められたい気持ちは確実にあった)、嬉しい気持ちを感じた。
同級生たちも歴史好きな輩が多く、世界史にしろ、日本史にしろ造詣が深い。
そんな中で歴史通という認識をされているのだが、私ほど歴史を知らない輩もいないだろう。
偏った思想には染まらないように生まれているんだと思う(或いは偏ってしまう自分にストッパー機能がどこかで働いているのかもしれないが)
何にせよ、知らないから知りたいと思う。
知識欲です。
「知りたがり」だと人は言う。
うん、そう。
歴史を知っておけば人と話すとき、ウィットに富んだ言葉が出るし、そのようなこじゃれた会話ができる人間でいたいなぁ、と願っている。

さて、この6巻、勝者の混迷。
冒頭のハンニバルの言葉、これに尽きる。
軍人としてのハンニバルは偉大だけれども、この言葉を遺した先見性の持ち主のハンニバルの偉大さに感服している。
グラックス兄弟の改革の挫折を読めば読むほど、腑に落ちていく深度がマリアナ海溝なみ。

グラックス兄弟
正しき道を進もうと考える人、そういう人に限って落命の道を辿る典型的な人。
正しい道を進もうとする人は、誰もが正しい道へ同調してくれるものだと幻想を抱く生き物なのかもしれない。
正しき道に進もうとする人は、蛇の道は蛇を知り尽くしている懐刀が必要なのだろうが、正しき道を進もうとする人はそのようなこと嫌う、という矛盾が横たわっている。

マリウス
軍人あがりの政治家
このような人はいつの時代にも存在しているようだし、その存在意義は他の人びとからすれば非常に短いし、存在意義そのもの決して高いものでもなさそう。
マリウスの為してきた功績を読んでいると、我が国の山縣有朋の顔がチラついてしまう。
軍を私していく過程がよく似通っているように感じている。



グランド・イリュージョン

原題「NOW You See Me」
作中でも「近づいてみるとわからなくなる」という台詞で訳されている。
この映画を鑑賞して、社内で研修会をする機会があり、現場にどっぷり入りこみすぎている営業に一つの警鐘の言葉として紹介した。
上手に紹介できず、ショボくなってしまい「うーむ。うまくはいかないものだ」と、反省。

3年前に観賞した「ゾンビランド」の主演2人が今作でも共演
フォースメンたち
ジェシーの存在感は増したが
ハレルソンにはまだ及ばない
1人は「ソーシャルネットワーク」でスターダムに躍り上がったジェシー・アイゼンバーグ
1人はお馴染み(最近はクレイジーな役どころが多い)ウディ・ハレルソン
そして、私の中では現在最も銀幕に映える「メラニー・ロラン」嬢
予告編で観た、「あれあれ、なんとまあ」な舞台でのマジックが銀行強盗(正確には強盗ではなく、窃盗?)のカラクリは一体なんなんだ?
どうして彼らは金を盗む?愉快犯なんか?それとも何か高尚な目的があってのこと?
期待に胸を躍らせながら鑑賞。


その期待度の沸点までは到達しなかったけれど、まずまず及第点は挙げられる満足度。
ただ、途中途中でネタ明かしをしてしまうのが、好みが分かれるところかなんだろうな。
私自身を客観的に自己分析してみれば、今作の途中下車してのネタあかしは「ふむ。ふむふむ。」と合点承知のすけ、と納得してから鑑賞を進められる作品で満足度はもっと高くなるものなんだが。
いざ、鑑賞し終わって10日ほど経過していこうとしている今思うのは、全てのネタあかしはクライマックスでパタパタパタパタとドミノ倒しのように解かれていく展開のほうが爽快な作品に仕上がって、満足度は高かったんじゃなかろうか?という感想が生まれている。

大御所2人、モーガン・フリーマンとマイケル・ケイン。
ハルクの主人公やってたマーク・ラファロ
うーむ、ドカーンと私のハートには
響かなかったなあ
12年のダークナイトライジングでも拝顔しました。
以前も書いたが、モーガン・フリーマンの顔は食傷気味、好きとか嫌いの感情のことを言ってるんじゃなくて、鑑賞する映画にかなりの確率で拝顔してしまうのは、「またーーー」と思わずにはいられない。
モーガン・フリーマンか、國村隼
これ、私のこのところのいい役者なのは分かるんだけど、あまりスクーリーンでは拝顔したくない顔。
マイケル・ケインはまだ、そこまで至ってないけど。
ハリウッドでも、酸いも甘いを噛み分けてジャンルを問わずにどんな役でも完遂できるカメレオン大御所という人材不足に陥っているんだろうなぁ。






2013年10月21日月曜日

緋色の研究

「シャーロック・ホームズの冒険」の解説を読むと、時系列に整理すれば「緋色の研究」がスタートなんだと。
(発刊順ではないのかもしれないけれど)
「〜冒険」では、既にワトソンとホームズは周知の仲で、かくも親密になった経緯はどういうものがあるんだろう?という疑問が湧いていた。
という訳で緋色の研究を手に取った。
有名(らしい)2人の初めての出会いのシーンが描かれているし、ワトソンがホームズのことを、多かれ少なかれ「ウザッたい」一面を感じ取って辟易しているくだりが微笑ましい。
こんな2人が映画でのロバート・ダウニー・JRとジュード・ロウの顔とイコールになってきてしまった。
2013年(つまり現在)、舞台を現代に移した海外ドラマがスマッシュヒットを放っている。
暇があれば、鑑賞してみたいなぁ、と思っている次第
いずれにせよ、私にとっての2人の像は映画版の2人の姿がしっかりインプリンティングされてしまっている。
パート3が公開されるまでには、他にも数冊を読んでおきたいと考えている次第

勝手なことを書くと、この本の構成は前篇、後篇、そしてエピローグという構成。
前篇での突然の犯人逮捕劇に戸惑い、後篇の始まりに戸惑い、「へ?」となりながらも読み進めて、エピローグを迎えて、全てが腑に落ちていく。

そして例によって例のごとく再読したのだが、再読のときのほうがドキドキ、ワクワク感が高い。
安っぽいミステリーではなく、格調高い謎解きパズルのような感じ。
ひとつ謎が解けていけば、次々と知恵の輪のリングがハズレていくような感覚が残る。


2013年10月19日土曜日

フローズン・グラウンド

原題「THE FROZEN GROUND」

邦画では「凶悪」、そして洋画では今作と2013年の10月は「残忍」をテーマにした映画を鑑賞した。
「凶悪」はぜひとも鑑賞したいというモチベーションがあったのだけれど。

(アヤしい)芸達者二人
キューザックの変態犯人ぶりには
恐れ入りました
今作は芸達者の二人が目当てで鑑賞に。
ニコラス・ケイジとジョン・キューザック。

米国の事件、それも性的な動機から発している事件を土台にしているだけに「ここまで残忍な人間がいるんだなぁ....」、と背筋が凍る思いをしながら鑑賞した。
セックスと殺人は欲望の果てとして共通する何かがあることは、頭では理解できるし、実際そうしたいと思うことだってあるが、行動には起こさない。
それが心身ともにノーマルな状態なんだろう。
そのノーマルがアブノーマルへと転換するのは先天的なのか?後天的なのか?
いとも簡単にこれが解明されれば、この世から性犯罪の多くが撲滅できるんでしょうが。

滅多に視聴する機会はないのだけれど、テレビ番組の「奇跡体験アンビリーバボー」などで取り上げられていそうな殺人事件を、この芸達者な二人が演じてくれた。
それだけで満足しないといけない作品なんだろう。
事件が全て解明されているわけでもなさそうで(犯人の近辺で失踪している女性はまだいるとのことだった)、存命している人もいることからなのだろうか、「奥歯に物が挟まった」ような人物の掘り下げ方になってしまっていた。

若さゆえに過ちを犯し、生命の危機を
乗り越えた娼婦を演じたヴァネッサ嬢
入れ替わりの激しいこの世界でも生き
残ってほしい
事件そのものには惹きつけられたのだけれども、鑑賞者が感情のベクトルを「誰に」「何処に」向けていけばいいのか悩むし、不明なままで終わってしまった。

ということで、完成度・メッセージ性で「凶悪」には数枚落ちる仕上がりになっている。

生き残りのシンディを演じたヴァネッサ・ハジェンズ嬢が今後どういう役を演じてステップアップしていくのかを楽しみにしていきたい。







2013年10月18日金曜日

風立ちぬ

何かと話題に事欠かない宮崎駿監督作品、しかも監督が今作を以て引退する旨を表明したもんだから、いつにも増して話題に事欠かない。
良い面での影響は、公開期間が更に長くなる(だろう)ということ

悪い面での影響は、とにかく多種多様の批評・評価・感想の類がメディアに現れてくるということ。
鑑賞するまではこういう類からは身を遠ざけておきたかったのだが、唯一インプットされてしまった情報が、日曜日の昼下がりにオンエアされる放談番組で、喫煙シーンが多いため禁煙の団体のひとつからクレームを受けている、という内容。
「夢」で始まる
確かによく喫煙するカットが多かったけれど、目くじらを立てて言うことのほどではあるまいに、と、感じた。

逆に、この情報しか仕入れていなかったので、その他については物語の進行、展開を純粋に楽しめた。
①「夢」に始まり、「夢」に終わる。
素敵な作品だ、と感じる。

主人公が製造する飛行機は、どう考えても兵器としてしか製造されることはないのに、それでも製造へつき動かされていく過程に違和感を覚えていたのだが、エンディングで彼が飛行機製造の本来の夢をイタリアのカプローニと語り合う、このエンディングで彼が製造したかったものは兵器の飛行機ではなく、夢の飛行機なんだなぁ、と。
まるで生き物のように映ってきた
飛行機

②膨らみの比喩がわくわくする
改めて思った。
宮崎駿が描く、車の動きはユーモラスである
そのうえで、車が停止するとき、タイヤがボアッと膨らむカットに、微笑んでしまう。

③ヒロインの退場に涙
突然だった。それだけに美しかった。
彼女の退場について、仲人(となってしまった)上司の妻が説明のようにつぶやくセリフ、これは不要かなぁ。
このセリフを無くして、鑑賞者に察してくれるように仕上げてくれるほうが、私の嗜好に合う。
まぁ、でも。子供たちが鑑賞することを踏まえれば、上司の妻のセリフは必須ではあるんだろうけれども。

④日本語が美しい
正しい日本語、というか、美徳感が巷に溢れていた時代だったんだなぁ、と、甚く感じ入ってしまった。
言葉は時代に応じて変化していく。
だから古文なんて学科が生まれていくんだけれど、この時代の言葉は美しく、清々しい気分が訪れる。
私はこの作品を鑑賞したのは夜だったけれども、朝方に鑑賞すればその日一日が清々しく生きていけるのではなかろうか、と感じている。








2013年10月12日土曜日

そして父になる

帰りの列の中でパンフレットを見かけたら「LIKE FATHER LIKE SON」と書かれていた。
この洋題のつけ方は、シンプルで至極的を得ている、と感じ入った。
福山雅治と尾野真千子
龍馬はおりょうをフッたんだなぁ
(龍馬伝ネタ)

何せ、この作品の触れ込みは凄かった。
カンヌ国際映画祭の審査員賞獲得のニュースに湧き、いつのまにやらハリウッドでのリメイクまで決まっている。

老いも若きもこぞって今作を鑑賞に赴くというのは、数年前の「おくりびと」以来なのではなかろうか?
この夏公開されたジブリの「風立ちぬ」は、若い世代には圧倒的な支持を得ているだろうけれど、老いゆく世代への支持は、孫がいることが前提でしょう?

私の身の回りも巡り巡って鑑賞に赴いている人が多い。
①仕事の合間に1000円で観賞した同級生女子
②夫婦の何かの記念日に鑑賞に赴いた同級生男子
真木よう子に私も抱きしめられたい(笑)
自分が抱きしめられているように
錯覚してしまった。いいシーンです
③職場から何かの縁でチケットを渡されて無料で鑑賞させられた(した?)女性社員
多種多様な人が異口同音に「感動した」(感激した)と言う。
それならば鑑賞に赴く価値はあるのかな?と思いながら劇場へ脚を運んだ。

今作、いいですね。
ありきたりな表現しかできない、語彙の少なさに自己嫌悪に陥るけれど、よかったです。

過剰な演出は無し、妙なスローモーションみたいにして、無理矢理に観客の涙腺を緩ませようとする演出が無い。
悪く言えば淡々と進んでいくのだけれど、このペースが事実のように観客に誘ってくれている。
野々宮家と齋木家のスタイルの違い
特に母親のファッションと手の組み方に
表れる
よく見る画像だが、鑑賞後に観ると
この一枚に込められた意図を理解できる
無駄な言葉を費やさず。説明過剰な邦画にしては驚くほどに静かな作品だった。
音楽も主題歌とか無理矢理な挿入歌も無く、これは私にとって大きな満足ポイントだ。

テーマは「共に過ごした時間」か「血(遺伝子)」か?
どちらを選択するのか?というテーマで、主人公(野々宮良多)を我が身に置き換えてみても、答えが出てこない。

否、客観的な私は脳内でこう言っている。
「我が血を受け継ぐ者を手元に残すのが筋だろう、我が子と思った子供との6年間が貴重なのはもっともだが、早く我が血を受け継ぐ者との生活をスタートさせねば。子供の順応性は高い、今の子との別離は辛いけど、あっというまに子供は本当の親に馴染んでいくだろう。」
しかし、主観的になれば、「そして」となるシーンのくだりで
「凶悪」の木村(先生)を演じた
リリー・フランキー
こっちでは気のいい電気屋のおっちゃん
ギャップ激しすぎ!
「嗚呼、客観的な思いは所詮は主観の前には無力だ」と、感嘆してしまう。
是枝監督は、観客に「答え」を提示せずに、観客に委ねてこの映画に幕を降ろした。

主人公(野々宮良多)を取り巻く環境も複雑で、このバックボーンがあればこそ、彼の苦悶・苦悩する姿が、味わい深い。

鑑賞者の性別によっても、頭に残る言葉も全く異なるんだろう、と思う。
妻が夫に激昂したセリフ、私は頭に入っていませんでした。
そして、きっと同じ言葉を吐くことになるだろうと思っている。
男(オス)にとっては、種を撒くことしかできない性だからこそ、あの言葉が出てくるんですが。
女(メス)にとっては、種を受けて畑で成長させる性だからこそ、あの言葉が許せない。

馴染んで来ない実の息子に心の何処かで扉を閉ざす父
優秀な俺の血を受け継いでいる息子なのに、といらつく父

触れあえば触れ合うほど母性が目覚めていく母
育てた息子への愛と実の息子への愛の狭間で揺れる母
私は男だが、この母(ゆかり)のどうしようもないやるせなさ、どうしようもない愛の多方向へのベクトルが胸に迫ってきた。

主人公家族ばかりでなく、取り違えの主たる原因を為した女性の義理の息子の登場だとか、主人公の義母だとか。
実の血の繋がりはなくとも、家族として生活している人びとの登場で、「血」ばかりでもないよなぁ...と男(オス)に気づきを与えてくれている作品だよなぁ、と受け止めている。

作品全体を通して涙腺は緩くなるけど、バルブから溢れることはなかった。
(ま、涙脆くはないタイプですから)
劇中後半になると、後方や横からすすり泣く嗚咽が幾つも聞こえてきた。
鑑賞後に見回してみたら、大半が年老いた女性(子育てを終えて、孫らの世話をするような世代)だった。
きっとゆかり(尾野真千子)のセリフに、バルブを捻られ。
良多(福山雅治)の表情に、蛇口を回されましたね。

色んな受け止め方があって、いいんじゃないかな。
鑑賞して、私の頭に流れるのは「太陽」(佐野元春)だ。
こういう作品にはBGMは不要だ、鑑賞する人(受け手)の頭の中で流ればいい。
それがイマジネーションにも繋がるし、新しい文化・趣味・嗜好の起点にもなるんだ。
そう感じている。









2013年10月6日日曜日

ビザンチウム

原題「BYZANTIUM」

鑑賞に赴いた理由を3つ挙げる

①シアーシャ・ローナン
「ラブリーボーン」(2010年)で観てから、彼女の芸域がどれくらい広がっていっているのか知りたいから。
この年頃の女子の成長には目を見張るばかり、ラブリーボーンでは幼さの領域が残る少女だった彼女が、今作では成人女性の領域が広がっている。
芸域の感想は、才女とまでは至らないんだろうなぁ、ということ(大根じゃないことは断言する)
これって赤ずきんちゃんだよなぁ
ヴァンパイアと赤ずきんちゃんを
重ねているとしか思えん
なんか理由なり由来があるのかな?
まぁ、生まれながらの芸達者なんてザラにいるわけではないんだし、日々精進されていくことを期待する。

②紹介サイトで観た、ビザンチウムの看板の黄色
黄色がこんなにも映えるなんて!
こんなにも黄色に惹かれる自分がいるなんて!
とにもかくにも、この黄色の看板(ネオン)の色はアヤしく、美しい

③ヴァンパイア
私は、あんまりヴァンパイア作品には興味を抱かない。
どうです?この「ZA」の黄色
なんか、惹かれたんです
「インタビューウイズヴァンパイア」だって、レンタルビデオで借りたし、トム・クルーズがアヤしく美形だったなぁ…。というくらいの感想しか浮かんでこない
(永遠に生きる生命への悲哀ってのがテーマだったよね?)
でも、シアーシャ嬢のような女性のヴァンパイアなら、観てみたいなぁ、と。
その辺り、私は男だもの。性的な欲求として女と交わりたい。
性器を通じない交わりでも充分なエロスは感じられるだろうという推測から。
今作ではモロな性的なシーンは「なきにもあらず」で、清く、涼やかにエロスを堪能できた次第。

実は4つ目の理由もある。
「凶悪」の後味を悪さを引きずったまま帰宅したくなくて、今作へとハシゴした次第。


ラブリーボーンから3年
かなり大人になってきた
ローナン嬢
女性姉妹が、何故か逃げまくる。その理由は何なんだ??ということを追い求めていくことが大筋の展開。
一見ミステリー自立ての作風でありながら、次第次第に登場人物が幾つかの役を担っていることに気づいてからが大変だった。
「え?さっき観た顔だけど」「え?あの顔の人は過去に遡って別の役を担っているのか?」と。
そのあたりを理解したときには大団円に向かっていた...。
うーん、そのあたりの相関図を理解してうえで、もう一回観たいよなあ。

ああ、そうでした、今作はミステリー自立てに見せながら、そうではなくて、「純愛物語」なんですね。

1つ目
文章中では全く触れなかった
ジェマ・アータントン
007やら、タイタンの戦いで観たこと
があるのだが、印象に薄い
今作で認識度UPしました
主演の二人の女性の愛(レズビアンじゃないですよ)
2つ目
エレノアの初恋物語

3つ目
最後の愛は、クライマックスのお楽しみに未記載にしておきます。
クライマックス直前に「ああ!!!」と叫びながら観たけれど、「ああ????」「おおおぉ、そういうことか!!!」と幾つもの感嘆符が頭を飛び交いました。
映画通の人はきっと、ある程度どこかで予測できるんでしょうけれどね(苦笑)

鑑賞動機の理由2での黄色も美しかったけれど、孤島の滝の水が赤い血で染まっていく、その赤がとても美しかった。
「黄色」と「赤色」といえば、欲求が表面に出てくる色だ。
欲望を駆り立てる色が印象に強く残っているわりには、静かな気持ちで帰宅できた。
なんか不思議な映画だ。




2013年10月5日土曜日

凶悪

鑑賞に赴いた最大の動機は2つ

山田孝之、彼のヒゲが濃くなっていく
のが、今作での焦燥感や繁忙感を
醸し出している

①山田孝之を観たい
「世界の中心で愛を叫ぶ」のドラマか映画で主演を演じていた頃の彼は、役柄もあって、「なよなよした」草食男子の代表格として映っていたのだが、2011年の「十三人の刺客」でスクリーンに映る彼は男臭い男。
一瞬にして惚れ込みました。
テレビドラマでもあまりみかけないので(違うかな?)、主戦場をスクリーンや舞台にしているんだろうと踏んでいる。
こういう役者はひいきにしていきたいと考えているから、ということが1つ。

②実録犯罪シリーズの類は結構好きだ。
半クールなり、年末になると「警察24時」といった冠を掲げた番組がオンエアされる。
龍馬伝での朗らかな溝淵広之蒸の姿は
欠片も感じられないピエール瀧
仕事がある日は熱心にテレビを観ることが少ないため、滅多に観ることがない。とはいえ、こういった番組は「遠い現実」として眺めるのが好きだ。
まぁ、要はミーハー根性ということが理由の2つ目。

そうして、鑑賞に赴いた。
「なんとまあ、後味が悪い」
偽らざる感想であり、今作に対する私なりの最高の賛辞でもある。

実際の事件をベースに、フィクションに仕立てているけれど、事件そのものの概要はノンフィクションなんだもの。
これを鑑賞して「私もお年寄りが金塊に見えるよー」なんていう輩が現れてきたら大事(おおごと)だもの。

リリー・フランキー扮する「先生」とピエール瀧扮する「須藤」の2人の所業に目を奪われてしまうのは勿論。
人仕事終えた直後の2人
鑑賞者が次第次第に感覚が麻痺して
いく転換ポイントのシーンだ
いつの間にか「須藤」に同情してしまう鑑賞者は結構多いのではないだろうか?
(私も同情してしまった1人)
冷酷で無慈悲な殺人者に同情して、彼が信仰心を持ち始めたことに、「いいこと」だと感じてしまった。
許される範疇を超越した殺人者に、彼が改心を抱くことを許容することは「善」なんだろうか?
それとも、主人公藤井が吐き捨てたように、許容しないことが「善」なんだろうか?

犯罪に手を染めていない人物も凶悪だ。
主人公藤井。
彼の心に次第次第に巣食っていく、邪悪な心の芽生え。
「先生」宅に不法侵入してしまう、あの心は本人では止めようがない。
正義心のあまり、とは言えない、何かが彼の心に巣食っていった(何かが、凶悪と断じることは安易に過ぎるように感じる)

そしてその妻
リリー・フランキー。ありふれた不動産屋
が表の顔で、人の命を金に替えていく
その思考回路が凶悪だよ。
彼女の終盤での告白は伏線からすれば至極当たり前の展開なのだが、台詞を聴いたとき、「背筋が凍る」ような感覚に襲われた。
池脇千鶴の演技にもヤラレたのもあるのですが...

映画そのものとは関係ないのだが、私は大都市の交差点を歩くとき、フッと「これだけの人が生きているんだから、1人くらい殺しても分かりっこないんじゃない?」という、恐ろしく自己中心で邪悪な心が芽生えることがある。
実際に人を殺すことはしない、その理由を自問自答してみれば「捕まってクサイ飯を食べたくない。」「(逮捕されて)自由を奪われることが苦痛だ」という理由。
そこには「他者の生を尊ぶ」という思考は浮かんでこない。
自分の中にいる凶悪な自分にゾッとする。
この映画を観て、後味の悪さを感じた究極の理由は内なる自分の凶悪を見つけて対峙せざるをえなかったということだ。

凶悪な事件は決して「遠い現実」ではなく、「近い現実」になりかねないという事件への認識。
そして、その「近い現実」は、或いは自分の中に秘められているのかもしれない。