2013年9月28日土曜日

エリジウム

原題「Elysium」

公開前「第九地区」(斬新なアイディアで、映画史に残る秀作)の監督作という触れ込みを打っていた。
うーむ、「ニール・ブロムカンプ」という人名での触れ込みになるように、これからもせっせと鑑賞に行って応援していこうと考えている次第。

その「第九地区」ほどの衝撃度がないことは予告編でおおよその見当はついていて、寧ろそういうド定番なSF作品を楽しみたかったので、満足度は高い。
宇宙の見え方だとか、ドロイドの動き、主人公が纏う機械とか。
第九地区ではヘタレ
今作ではとことん悪
(気づくのに暫く時間がかかった)
芸達者へ邁進してくれ、コプリー
今、この目の前に起きることに対して、生きることに多かれ少なかれ疲れている「私」にとって現実・リアルを忘却の彼方に誘ってほしかったのだから。

貧富の差により、住む世界がかくも異なるのか、というのは「タイム(In Time)」の世界観に近い。
栄える者はとことん栄え、落ちぶれている者はどこにも救いがない。
そういえば、その昔ハマってプレイしたファイナルファンタジーの7作目もこの世界観に近い。
そして、こういう世界観を舞台にした仮想体験には、知らず知らずに心惹かれてしまう自分がいる。

格差の拡大は、グロバールで起きている事実であり、今のところ有効な手立ては見つかっていない。
初の悪役、という触れ込みだった
ジョディ・フォスター
眼が綺麗だから、悪役に映ってこない
役柄もあって老け顔でした
共産主義、社会主義は資本主義には勝てないと思うし(努力する者が得て、努力しない者は得られないというのは概ね正しいと信じている)。
その一方で一旦富んでしまった者が「臭いものには蓋をしろ」よろしく、手段を選ばずに栄え続けていく事態に、貧しき智恵者が乾坤一擲の一撃を食らわす。

何をどうしても、心にヒットしてこない
マット・デイモン
嫌いになれればいいのだが。
好悪の感情が起きない稀有な俳優
痛快だし、せめて仮想体験で「よっしゃ」「うっし」と拳をギュッとしたい人の為の映画だ。
その後が「どうなるか?」なんてのを考えたりするのは無粋というもの。

2013年9月25日水曜日

楽園(上・下)


私にとっては、実に久しぶりの宮部みゆき作品。
2011年の「孤宿の人」以来。
帯に「模倣犯」の続編のような触れ込みに惹かれて手に取った。

私の常の慣例どおり、この本も再読したのだけれども、初読、再読も含めての所要時間は3日前後。
これは遅読の傾向(自分ではそう思っている)の私にすれば驚異的な速度。
いえ、もう実に。実にこの作品には読まされました。
3日のうち、1日は徹夜に近い状態で。
夏季休暇の「のんべんだらり」と過ごした夜、連れが先に眠った後に手に取って、朝方の3:30ぐらいまで読んでいたような...。

この世は邪悪なものに囲まれている。
それと同じように救いにも囲まれている。
両者を隔てる壁は私たちの意図しないところで、意図しないときに、意図しない事情で壊れかねない。
誰だって、壊れないことを願おうが願うまいが、思いもかけないところで、思いもかけない事情で壁はいとも簡単に壊れてしまう。

この作品に登場してくる人は、誰もが「壁を壊されてしまった人」ばかり。
痛みを伴いながら読んだし、痛みのまま残ってしまう展開もある(誠子と達夫とか)けれど、カタルシス(浄化)されていく展開もある(敏子とか)

主人公前畑滋子と作者宮部みゆき。
解説でも触れられていたのだけれど、(模倣犯の事件によりダメージを負ったという)2人はシンクロしてくる。


2013年9月18日水曜日

マン・オブ・スティール

原題「Man Of Steel」


敬意を込めて言いたい。
「たかだかスーパーマンではないか!」
なのに、ここまで重厚に、且つ苦悩を抱えたヒーローを生み出してしまうなんて。
折しもこの夏、邦画では私が幼少の頃の日曜日の18:00のヒーロー「ガッチャマン」が実写化されるもグダグダな批判を浴びる中である。
アメリカの健全な幼児向けのマンガから生まれたヒーローが、かくも骨太な物語として「はい、どうぞ」と提示されてきた事実に「日本よこれが映画だ!」と12年の「アベンジャーズ」の触れ込み言葉を突きつけられた、としか言いようがない。

脇を固めるオヤジ俳優の2人がいい感じである。
うまい蕎麦には、いい出汁が必要だし、いいツユが必要だ。加えて薬味は重要なアクセントを与えてくれる。さもなければ蕎麦を食い続ければ飽きが来る

ラッセル・クロウ
「レ・ミゼラブル」で見せた恐るべきジャベール警部の歌声に封をして、クドいほどの登場回数。
ね!
ケビンにはこういう田舎にいるオッサンが
良く似合うって
「あんたは死んどるとやろおもん」と、心の中で博多弁でツッコミを入れながら(笑)

ケビン・コスナー
ああ、いいですねえ
ケビンにはトウモロコシ畑が良く似合う。
ファーマーこそが彼の最も似つかわしい舞台だよ
「フィールド・オブ・ドリームス」以来、久方ぶりに観れて、しみじみと納得した次第だ。

それから、エイミー・アダムス
ね!
エイミー嬢のお鼻はトンガリ帽子みたい
中盤になって、ようやく彼女だと気づきました。
「人生の特等席」で個体認識した彼女、客観的自己分析によれば好みのタイプではないエイミー嬢に抱いた感想は「おおぉ、エイミー嬢、お鼻とんがってるなぁ...」というもの。

ああ、それから最後に、主人公。(一番扱いが雑ってのはどうなんだろうか(笑))
成年になってからのクラーク・ケントの役ヘンリー・カヴィル。
現時点では未知数かなあ、「良い」とも「大根」とも言えない。
寧ろ子供時代を演じていた子役に存在感を感じた。
それから、過去にない素晴らしい質感のコスチューム。
主人公スーパーマンに最も感激したのはこのコスチュームやったよ。

戦闘シーン
超越した力。これはよく伝わってきたんだけど、ややクドい感があった。
でもね、勝手なもので短ければ短いで、きっともうちょっと長くてもって言うんだよね、私。

ほどよく、緊張し。
ほどよく、憧れる。
ほどよく、同情する。
うん、スパイスとして、ユーモアがあればいいかな。
そうはいいながら王道な作品です。

次作はバットマンも登場するとのことだけど。対角線に存在しているようなヒーローが2人登場して物語が成立するのかなぁ…。

例えばさ。
仮面ライダーとゴレンジャーが同時に登場してほしいけど、いざ登場してみたら「???」こんなはずでは…。とかなならないかな。
心配しすぎかなぁ。

2013年9月17日火曜日

ワールド・ウォーZ

原題「World War Z」
勘違い、その1
この壁をよじ登っているのは人⇒×
実はゾンビでした



半年近く、映画鑑賞に赴けば2回に1回ぐらいの確率でこの映画の予告を目にしていた。
主人公の車のバックミラーを警官が破壊し、ドアを出て文句を言おうとする傍から別の警官が...というシーン
そして大量の人びとがとてつもなく高い壁を超えようとしていていくシーン
この2つのシーンは印象に強く残っていたし、その2つのシーンと「ワールド・ウォーZ」というタイトルから、これはとてつもないSFスペクタル大作にちげーねー。インディペンデンスデイ以上のとんでもなエイリアンが来襲してきて、ブラッド・ピット扮する主人公が徒手空拳状態から遂には世界を救うことになるんだろう、と。

どうです?大枠は外していないでしょう?
勘違い、その2
この虚ろな目をしているのは主人公の家族⇒×
主人公が出会った兵士でした
倒すべき相手が、エイリアンでなく、それがゾンビ(zombie)であることを除けば。
何せ「Z」だもん、アルファベット最後の文字ですよ。
そこから推測するものは人類最終戦争と解釈してしまう人が大部分だと思う。
人類が戦う相手は「人類」か「異星人」だというのが映画のド定番ではなかろうか?

だから、「Z」=ゾンビと聞いたとき、心のどこかで「ぷしゅーーー」と楽しみにしていた気分から空気が抜けていった。
…。だって、ゾンビ映画って、ねえ。ほら。ビミョーでしょ?(同意を求める私)
ああ、もう、この作品、どうしようかなぁ、やめとこうかなぁ...と、ウダウダ悩んでいる間に、およそ3週間無休で働く羽目になってしまい、いよいよこの映画の公開期間にラストのフラグが立ち始めた平日に、「えいやぁっ!!!」と鑑賞に赴いた次第。
勘違い、その3
ここが主戦場かと思った韓国⇒×
通過点に過ぎなかった

いざ、蓋を開けてみれば。
面白かった(アッサリと言い切ってしまう)
そして、思ったこと「ああ、これはゾンビを素材にして成功した作品だったなぁ」
SF映画の側面よりも、パニック映画と受け取った。
コンティジョンのような疾病ものだと、急速に拡大していくスピード感に欠けるし(現実にそうなると人類は滅亡するんだけどね)、異星人ものだと、現実性が薄まっていくし。
ゾンビという、ブードゥー教にも登場するような「実はどこかにいるんじゃないか??」なものを登場させることで、こういう事態が起きるんではなかろうか?と。

何せ、スピード感がいい。
「何が起きてるの??」と訳が分からないままに事態が進展していき、とりもなおさずその場から避難する、逃げる。
その一方で世界の至るところが冒されていく、逃げ場はどんどん狭まる。
逃げるにも何処にも逃げる場所はない…。
途方に暮れる暇も無く、とにかくこの場にいることは落命に直結するんだ、頭をフル回転させて未来を模索していくだけ。

一転し、ワクチン獲得に向けた展開は動から静へ、緊張を強いてくる。
ここで主人公が餌食になるはずはないんだけど。ド定番な展開だけど、ドキドキしながら鑑賞した次第です。

ゾンビ映画はこの作品を契機に、市民権を完全に手中にしていくんではなかろうか。







2013年9月15日日曜日

サイド・エフェクト

原題「Side Effects」
シャーロック・ホームズではワトソン君の
ジュード・ロウ
目指せ!ショーン・コネリーの後釜(頭髪面)!

スティーブン・ソダーバーグ監督の引退作だという。
これまで縁が薄くて殆どソダーバーグ監督作を鑑賞したことがない。
気になって検索して調べてみたら「トラフィック」「エリン・ブロコヴィッチ」「インソムニア」をDVDで視聴したことがある程度。

ソダーバーグ引退作云々よりも、本格サスペンスという触れ込みに心を惹かれていた。
おまけに公開期間はとても短い様相で、観賞した週を逃せば多分鑑賞できるタイミングを逸するだろう、という読み。
(多分当たっている)
すっかり生え際が危なくなってきた「ジュード・ロウ」の画像に惹き込まれて、どうしようか悩んでいる心を見透かされたかのように、「行きたいの」と宣う「連れ」
ルーニー嬢
この子の口元はきゃわゆい(かわゆい)
顔では「そっかー、お前が観たいのなら仕方ないよなぁ...」と言いながら、心中「うっしっし」
で、いそいそと鑑賞に赴く。

いやあ。
この手合いの「ん?どうもおかしいような?」といったものを心に留めながら鑑賞するのは実に頭を使う、そしてこの手合いの作品は20代の頃に観賞した作品(1990年頃に上映されていた「ゆりかごを揺らす手」のようなもの)よりも幾重にも伏線が張り巡らせられていて、実のところ終盤からの展開には置いてけぼり状態、で、今もよく分かっていない展開が幾つか残ったまま。
アンニュイな佇まいのルーニー嬢
ブロンド髪もいい(でも黒髪のほうが好き)
うーむ、私のような「知りたがりで、納得しないと気が済まないタイプ」の人間の場合、こういう作品は落ちまで知り、そして解説の類を読み漁ってから鑑賞すべきなんだろうなぁ、と思う。
少々、消化不良の感が否めない。

しかし、俳優陣はかなり豪華
ジュード・ロウ、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、ルーニー・マーラー、チャニング・テイタムと新旧ほどよいバランスのキャスティング。
セットだとかアクションが目玉ではなく、演じ手たちの演技一本で魅せる映画ってのは少なくなってきとりゃせんかいな?
というのが映画館を出て頭に出てきた感想。
実はもっとエロいシーンもあったのだが
ゾクリとさせられたルーニー嬢のあんよ
脚フェチにはたまらないショット
で、このシーンはちょいとした展開の
キーになってたりした

毛色は異なるけど、80年代後半に観た「エンジェル・ハート」(ミッキー・ロークとロバート・デ・ニーロ)のような、
「おお?」
「ん??」
「これからどうなるのよ???」
と推察させる余裕は与えながらも、惹き込ませていくような映画が良作としての地位を固めることが稀になってきているように感じるのは、気のせいなんだろうか?

こういった類はケーブルテレビ業界では幾つも良作があるらしく、しかも「シーズン○」と数年に亘って引っ張り続けているので、あるいは米国でも日本でもサスペンスものはテレビ側に委ねて、そこから未来の銀幕のスター(表現が古い)の育成も兼ねているのかもしれない。
キャサリン嬢
今作では年増な役どころのためか、
美貌よりも加齢に比重を置いたメイクだった?
(穿った考えかなぁ)

それにしても、女って怖いですねえ。
心と体は別に分けることができる生き物なんだなぁ...って思いながら観てました。





2013年9月14日土曜日

パシフィックリム

原題「Pacfic Rim」

真ん中がエネルギーの源なのかな?
できれば、ブレストファイヤーが観たかった
予備知識をかなり仕入れてからの鑑賞。
というのも、この手合の作品には、あまり心惹かれないので。
昨年の夏、業務の都合で二日間ほど「トランスフォーマー」「千と千尋の神隠し」を繰り返し鑑賞せざるを得ない事情があった。
千と千尋の神隠しはときどき見入ることがあったにも関わらず、トランスフォーマーはまるで興味が持てなかった。
「ロボットが戦う」というと、私の世代以降の大代表は「機動戦士ガンダム」、なのに私は興味が非常に低い。
いえ、中学生の頃はプラモデルで「ザク」とか「ゲルググ」とか作った憶えはあるんですよ。
でも、ただそれだけ。感情移入もしなかったし、クルマやオートバイのプラモデルのほうがモーターを付ければ動くので、ガンダムに対しての興味が本当に低かった(今も低くて、同世代とガンダムについて話すとき、私の反応は大変に珍しいそうである)

なんてってって、ロボットと言えば、「勇者ライディーン」であり「マジンガーZ」であり、「ゲッターロボ」であり「鋼鉄ジーグ」
そう、私の場合、ロボットはもっと年代を遡り、超合金で遊んでいた時代のロボットこそが私のヒーローロボットなのである。

予備知識によると、この映画はそういう人の為だという
予備知識によると、この監督はそんなアニメを観て育ったメキシカンだという(メキシコで日本アニメがオンエアされていたことにも驚く)
予備知識によると、アニメで観たようなシーンが幾つも登場するのだという。

で、鑑賞に赴いてみれば。
おお「パイルダーオン!!」ではないか!!
出撃シーンは、どこかで観たことがあるようだ、岩が開いて出撃するような作品があったはず(ライディーンだっけ)
操縦士は1人ではなく、2人。ああ、2人の呼吸が合わないと機能しないのね。そんな作品もあったような憶えがあるぞ。(それもライディーン?)
(阿吽の呼吸をもうちょっと科学的に説明してドリフトと名づけていた)
ああ、でも1人で運転するのもかっこいいんだけどなぁ、なんて思っていると、不慮の事態が起きて艱難を乗り越える主人公は1人で運転しやがる、いや、運転なさるではないか。
うひゃ、生命の危機にはあるのだけれど、かっちょよかじゃなかやっか(かっこいいではないじゃないか!!の意←これも紛らわしいか)

主人公の父の死だとか、ヒロインのボスに対する忠誠心のバックボーンだとか。
3人で運転する主人公以外の存在とか。(それが雑技団の国、中国というのも一興)
ロシア産のロボットはスピードはないけど、パワーはMAXだとか。
もう、日本アニメでよくあるような典型的な「お約束」が満載、つまりストーリーの展開にはなんの不思議も違和感もなく、入り込めるような作りになっているんですね。

映像には全体的に黒っぽい画面が多くて、「KAIJU」たちのシルエットがぼんやりに目に映ってしまってきたのが残念。
それでも「KAIJU」たちの動きってのは、ウルトラマンで観ていたような、「あ、中に人が入っているよな」感、つまり手作り感(今作ではSFX演出のようですが)、子供の頃に感じた「ギャオオオーーン」な動き、KAIJUの咆哮を懐かしく、且つ新鮮に堪能したことでした。



2013年9月12日木曜日

秘太刀馬の骨

時代小説が舞台だけれど、中身は推理小説の要素がかなり強い。
読み手はいつのまにか「秘伝の技が誰に伝授されているのか?」という興味を抱かせられる。
中でも家僕の存在に私が藤沢周平に「一本取られました!!」

読み手が最初に抱く「何故家老はその技を受け継ぐ者を知りたがるのか?」という疑問は、コボしながら仕えざるを得ない主人公半十郎と、家老の甥でやんちゃなきかん坊の石橋銀次郎が探し求めた藩士との立ち合いが続いていくうちに、知らず知らずのうちに忘れさせられて、物語の終盤に迎える急展開を目にして「あ!最初に抱いた疑問はこっちだった!!」と。

言葉の使い分けが絶妙だ。
「公」のときと「私」のとき
秘技の遣い手を探り、その相手と木刀で一歩間違えば死に直結する、こういう緊張を強いられるような展開の中で、主人公半十郎とその周囲の人たちが繰り出す東北弁(きっと山形弁なんだろうけど)に、「フッ」と緊張した肩の力が抜けていく。
九州出身の私にとって、東北の言葉はとても田舎臭く感じる(よくも悪くも)し、それでいて、主人公を身近に感じる。

病気を患う妻の存在が藤沢周平らしい
気鬱の病を抱えている妻
そんな妻の回復を願いながらも距離を量りかねる夫(主人公)
夫婦の絆を取り戻す物語でもある。
......。でも解説の末尾に書かれている内容に、「いや、それはちょっと。さすがにそれはないでしょう」と感じた次第。

先にも書いたけれど、終盤の急展開を整理するのが少々大変だけれど、小気味よく読み進められる一冊です。
あ、あと登場人物は名前書いておいたほうがいいかも。
登場人物の大半が剣士で、注意して読めば年齢や特徴も丁寧に書かれているんですけどね。
最初は混乱しました。




2013年9月7日土曜日

Film No Damage

元春&ダディ柴田
最高の掛け合いだ
公開が決まったときから、考えていたことは
「いつ行くか?」
「見ようか?」「見るまいか?」、その自問自答は存在しなかった。
「いつ」は公開初日が土曜日の出勤日だったから。
結局土曜の仕事は深夜まで掛かったので初日は行けず、翌日の日曜日に鑑賞に赴いた。
これは一人で。
翌週は二人で鑑賞。素直に誘えずに緩やかな変化球を投げて誘うあたりが自分らしい(褒め言葉ではない)

どちらも、私と同じような世代がいるし、上の世代の方もいらっしゃる。
夫婦で連れ立っている姿も見かけたし、男の子と二人で来ていたお父さん、素敵でした。

公開が決まったときから、考えていたことは、その2
観客が少なかったらどうしよう?
嗚呼、でもいっそのこと自分1人だけで鑑賞できるんだったら、それもいいよなぁ(恐ろしく自己中な思考)と。
今更、佐野元春の、しかも30年前のLIVE映像を鑑賞するために遠方からわざわざ出てくる人なんているのか?
いて欲しいけど。そういった自己矛盾めいたものを幾つも抱えながら公開日と鑑賞する日を待っていた。
いざ鑑賞に赴いてみれば、半数以上の座席が予約時点で埋まっており、劇場に入っている人数を
眺めれば、それは杞憂に過ぎなかった。

深夜の首都高速はクルマが少ない。
若者にはクルマが手に届かないシロモノだった証拠

赤いギターが綺麗
今ではもうボロボロになっているギター、ずっと使い続けている元春って素敵だな。

それぞれの人生を経て、今がある。
30年前の元春のLIVEを観て、30年前の自分に戻りたいと願うのか?
単に懐かしみたいのか?
それとも30年を振り返ってそして今からまた踏み出そうと考えるのか?
人それぞれの人生があるから、答えは「これでなければならない」ということもないし、元春だって「30年前の僕のLIVE、観てくれて嬉しいです、どうもありがとう」くらいしか言わない人だ。
Facebookで能地さんのインタビューに真摯に回答している元春だけど。
ちなみに僕自身はこれを観て、さぁ、もう一歩前に進もうと考えた。
ただ、がむしゃらに頑張ることが前に進むというわけでもなく。
今までと違う前の向き方があるんじゃないか?ぼんやりとだけど、そう思った。

1982年、僕はN県S市で親の目を盗んではゲームセンターでドンキーコングやパックマンに戯れていた。
ながら勉強をしながら流れてきた「グッドバイからはじめよう」
そこから、僕の元春への傾斜は始まった。
今にして思えば、自分で見つけて、自分の意思で聴きたいと願った最初のアーティストなんだろう。
僕が元春を見つけたとき、佐野元春はこの映画を撮影し、記録し、そしてニューヨークへ旅立つ。

このフィルムに映る佐野元春は、パワフルでエネルギッシュ、きっとこういうパフォーマンスは画期的だったのではなかろうか。
30年を経過した今ですら、これほどステージからほとばしってくる情熱を感じられるLIVEパフォーマンスは少なかろうと思えるもの。
そして元春のパフォーマンスはまるで言葉という言葉を直球ストレートで150km以上の剛速球で投げ込んでくるような勢いで迫ってくる。
観客は必死で打ち返すのに精一杯だし、中には打ち返せない人もいらっしゃったのだろう。
30年を経過した今のLIVEを体験している身としては、今の元春のスタイルはまるで絶妙なベルベットタッチのパスを供給してくれるミッドフィルダーのよう。
過去5年ほど、元春は第一級の都市だけでなく、所謂ローカルな都市でもLIVEを行なってくれたのだけれど、幾つもの会場で高齢者がLIVEに参戦している姿に驚く。
でも、今の元春だから70歳代のおばあちゃんだって参戦できる。
No Damageの頃なら、70歳のおばあちゃんは参戦することはかなり困難なことだろう

ああ、もし許されるなら。
劇場に訪れてきた人びとと会話してみたかった
「今日はどうしてこのfilmを?」
「今も元春聴いているんですか?」
「No Damageの頃、あなたはどこで何をしていたんですか?」
「これを観て何を感じました?」
色んな人々の元春との出会いや、ターニングポイントだとか、このフレーズをここで思い出した、とか。
多岐に亘って語り合ってみたい。
元春ファンは陰でひっそりしている人が多い(私もその1人なんだが)のだけれど、このfilmに関しては語り合える場があってもいいんじゃないか、と。

元春クラシックが元春NOWな頃のLIVE
初めて鑑賞できて、とても嬉しい。
音の響き方(例えばキーボードの鳴り方)なんてのはさすがに「ああ、80年代ーーー」なものもあるけれど、ここから90年、00年、そして10年と時代を経て今の元春クラシックが存在する。
そのLIVEに私自身、元春ともに生きて会えることに深く感謝しなければならない。
元春、いつもどうもありがとう。

元春がいつも元春クラシックをPLAYするのは80年代からずっと不変であり、それはきっと普遍なメッセージが込められているからなんだ。
言葉にすれば「喪失を経ての成長」ということなんだろうけど。
しっくりこないな。
普遍なメッセージは元春クラシックの歌詞の中にあり、ピアノの中にあり、元春のパフォーマンスにある。
そうとしか言いようがない。


二回鑑賞して、どちらも
足を踏み、手をだして、指をパチンと鳴らしながら、口ずさんだ。
そうせずにはいられなかった。

そしてそんな姿を元春は「嬉しいです、どうもありがとう」と言ってくれるに相違ない。
いえいえ、こちらこそ。

30年前のあなたを観れて、僕はとても幸せです。
30年前のあなたを観れて、僕は人生を考え直しております。
30年前のあなたを観れて、僕はこれからもあなたのファンであり続けます。

いつも、どうもありがとう!