2012年12月29日土曜日

ヤング・フォーエバー

「Young Forever」
初出はヴァラエティ番組で共作した「Freedom」のCW曲として。
とはいえ、私の場合は1997年のアルバム「The Barn」にて。

さほど脳内で再生されることが少ないこの曲が鳴った
珍しく「詩」ではなくGuitarの音が鳴りまくった。
アルバムでは「逃亡アルマジロのテーマ」が終わる
乾いたドラムの音が引導となり、イントロダクションのGuitarRiffが鳴り始める。
エンドの曲では「いつか僕が死ぬとき」というフレーズが飛び出した前作「Fruits」で死生観を表現して、「おやおや、元春ちょっと老けこんでいくの?」という考えがチラつかされてから2年後に発売されたアルバム。
その出だしのGuitarRiffにヤラれた。
詩は難解。
「君」とは誰なのだろうか?
君が指す対象はあるいは人間ではないのかもしれない、「魂」(SOUL)なんじゃないか?と考えたりしてみている。
佐野元春が佐野元春の魂に語りかけている曲なのかもしれない、とかも考えている。
普遍的に置き換えれば、ソングライターがソングライターたりえるその魂を礼賛しているんだろう。
隠喩、それが何を指しているのか解釈がいくらでもある。
「マグネシウムの街」
「アルミニウムの夢」
「枯れた野原」
今の私にとってそれらの言葉はピンと来るものが薄いため、脳内再生されることが少ない。
ああ、詩人にはまだ遠い。
この曲を聴いて、(心から)心若くありたいと願う。
詩だけでなく、Guitarの音で「心若くあれ!」というメッセージを発している曲

2012年12月28日金曜日

新・平家物語 吉野雛の巻

最終巻「吉野雛」
勧進帳のくだり、何度読んでも味わい深く。
義経が討たれて、完となるのかと思いきや。
那須大八郎のエピソードがいい。
表紙になっている麻鳥と蓬夫婦の睦まじい風景で大円団となるのもいい。
ははは、何を書いても「いい」としか感想が出てこない。

「本文よりのコーナー」

文覚上人の言葉より
権力は時に必要だと分かっているけれど、その施行する側になるときに戒めておかなければならない。

世に権力をなくすことは難しいが、権勢にまかせた権力悪をわしは憎む
(16巻190頁)

元雑兵の駄五六が鷲尾三郎に向かって言う言葉より
私自身、故郷を離れて四半世紀を経過したところで、昨年来Facebookにてコミュニケーションを取る相手は故郷の同級生ばかり。
そして私が食いついてしまうトピックスは故郷の懐かしいものが大半だ。
そういう私にとってこの言葉はグっと来る

いまにみろ、生まれ故郷の山河がどこよりなつかしいところになるから
(16巻348頁)


【収録】
雀仲間
馬糞大路
此君亭
逢状
飯室問答
湖岸の病家
船蔵春秋
母の弓矢
いまひとたびの
高雄の細道
金泥鬼
大つごもり
御室左右記
偽勧進
千鐘全土
二十九の春
談義しびれ
おかしげな男
二獣
あけはな石
冬眠の国
安宅ノ関
安宅ノ関・その二
野々市殿
勧進帳
皮剥ぎ追尾
能登の平家
桃源の日は短くて
仇し弓
義経最期
南海夜泊
範頼陥し
椎葉の山波
亡びなき人びと
傘の要らぬ日
勝者の府にも
頼朝の死
吉野雛


おおよそ半年を掛けて読み進めた。
前回よりも長く時間が掛かってしまったのは、一つには前回よりも労働している時間が長く、頭脳が本に向かなかったため。
二つ目には、途中寄り道をしながら読んだこと、平家物語に関する本を二冊ほど手に取り、「この話をこういう風に結びつけているんだ」ということを理解しながら、ということ。

お陰様で前回よりも平家物語を味わうことができた。
作家吉川英治の偉大さが改めてよく分かる。
原典で描かれていることでも、それが必ずしも事実であったとは限らない、ということを根拠を見せながら、反対の解釈を出し、新たな清盛像をあぶりだしたし、事象と事象を結びつけて新たな展開を描いている。

そして今から原典の平家物語へ。
吉川版から古典へ。
前回には考えが及ばなった知識欲。


新・平家物語 静の巻


ドラえもんに登場するヒロインの名前はしずかちゃん、彼女の苗字は「源」
そう、しずかちゃんは義経の愛妾「静」をもじった名前だ。
マンガに登場する名前の幾つかはこのようにして馴染み、原典に出会ってみて「やぁ、こんにちは」といった気分に浸れることがある。

...で、この静の存在を現代に置き換える存在というものがなかなか思い描きにくい。
芸能人という存在とは異なるし、仮に歌舞伎役者の女性版という存在があればそれが近いのかな、と思う。
市川染五郎とか市川海老蔵とかが駆け出しの頃って若く、男前、それでいて品がある。
そんな存在なのかなぁ…。

何にせよ、彼女の運命は過酷。
吉野山での愛する男性との別離、憎むべき相手は愛する男の兄、そしてその兄と兄嫁を目の前にしての舞い、愛する男性との間に出来た赤子を奪われ葬り去られる、実母の裏切り。
もうこれだけで昼ドラの素材には十二分過ぎるほどである。

歴史上、静かの末路は謎らしく、赤子を奪われたあとの彼女の足取りは記録にないとのこと。
この辺が女性を軽く扱っているという意見も多く寄せられるところだが、逆に言うと、彼女が義経の子を孕んでいたから捕えただけで、彼女自身にスパイ活動する必要がなかったということ。
自由を得られたことは静にとっては救いであったのだと願いたい。

素晴らしい詩、ここまで愛されれば幸せに尽きる。
ここまで愛される経験をした義経がこの詩を知っていたのだろうか。

「吉野山 峰の白雪 踏みわけて 入りにし人の あとぞ恋しき」
「しづやしづ 賤のおだまき くり返し むかしを今に なすよしもがな」

「本文よりのコーナー」

「最も続く愛は報われない愛である」という言葉があるけれど、それを文章にしたものかな?

艱苦を伴ってみない男女の仲は恋などと名づけてみてもまだ骨身に恋を味わったことでもなければ生命のうえに愛をおいて自分を捧げきったことでもなにのではなかろうか。
(15巻235頁)

麻鳥が静かを励ます言葉。
希望を抱かせる言葉、でもその実現は低いように聴こえてしまうのだけれど、でもこの文章は普遍的なものを感じさせる

どんな現実というものも実は間断なく変わっています、変わるなと願っても推移せずにおられませぬ。
人の境遇も、人おたがいの心も。
(15巻338頁)

ああ、義経って純情過ぎ、直情過ぎ。というか子供なんだよなぁ

後白河の信寵が多分に政略をふくんでいたものとはその当時から受け取れていなかった。
自分を知ってくださる知己だと感激していたのである。
今でもその未成年者的な若い考えから抜けえない義経であった
(15巻348頁)

【収録】
つらら簾
下天上天
女人結界
雪鼓
覇者の座
幕府成る日
大舅
静責め
流転迅速
藤室の八弟子
古女房
女体の異兆
初音の頼み
静・東送り
五ツ月の帯
嬲る
黄蝶奇事
鶴ケ岡悲曲
出生届
ものいわぬ四方の獣すらだにも
非情有情
猫と名月
大原御幸
月の輪の外
大原御幸・その二
おん素顔
霧の足音
六道
変化競べ時代
不死身の人
今年の盂蘭盆
薊と忠信
文覚草履
白い狗ころ
紺掻き功徳
吉田の沙汰
獅子身仏心
こだま









2012年12月26日水曜日

新・平家物語 悲弟の巻

勝者が落ち着いたら、派閥によって内部分裂する
そう珍しい話でもない(でしょ?)
だが、義経の話は同情を得やすくできていると思う。
最前線で奮闘する将軍と本丸で政治を行う政治家
これが兄弟、しかも腹違い、経歴も全く別。

日本語に「判官贔屓」なる単語が生まれたのは、ここから先の義経の運命に起因するもの。
決して日本人だけでなく万人に受け入れられる話なのではなかろうか?と考えているほど(あるいはエイリアンにだってこの感情は理解できるんじゃないかと思っているほどだ)

「本文よりのコーナー」

義経に訪れる悲劇を格調高く文章にしたもの。
とはいえ、この運命は頼朝によってもたらされている。

たれが酷いといって、人を得意の絶頂に立たせ、また一朝のまにその者の足もとへ逆風の風説を運んでくる運命の貌ほどなさけ容赦なきものはない。
(14巻403頁)

あー、これ。取締を厳しくすればするほど犯罪が低くなるわけではないことを文章にしたもの。
重大な犯罪は厳罰に処さないといけないことには賛成だけれども、軽微な犯罪に対して重罰に処することが多いのが現代に風潮だと感じている。
罪を認めさせたうえで「多めに見る」ということも大切なんだけどなぁ。

従来ならムチたたきですんだ罪科も地頭の配下に縛られるとすぐ打首に処された
その代わり博打は陰でやるようになり、浮浪人は居所を失い、盗賊は皆山へ入ってしまったという


【収録】
幾山河
帰還の門
垣の同胞
腰越状
業のわだち
首のなる木
捏造
青春扼殺
一期の主従
紫陽花の寝間
夕咲きの花
あぶない食客
消魂記
再来魔
仏面密使
病判官
平大納言の処決
土佐房昌俊
きのうのかれと見えぬ彼
堀川夜討
二度の黄瀬川
泣き焚火
立つ鳥の跡
告別
前途の冬
ふたり妻
今は昔─淀の夜がたり
大物の浦
首猟人
背水
くだける結晶
藻屑狩り
瞑々離々
牛の背の御方
天王寺待ち
吉野入り






2012年12月13日木曜日

新・平家物語 壇ノ浦の巻

平家物語の中で、最も涙を誘う話
だけど、ちょっと待って。
壇ノ浦で平家が滅びるということを最初に知ったのは、平家物語ではなく、ラフカディオ・ハーンの「怪談」に収録されている「耳なし芳一」だ。
歴史よりも文学で知っているという、私のような方も多いのではなかろうか。

映像で観たのは、これも前巻に続き2005年の大河ドラマ「義経」が最初だった。
ドラマ視聴後暫くして下関を訪れたことを思い出す。
赤間神宮、そしてその横にあった七盛の墓標が涙を誘う。
しかし、私が何よりも驚いたのは、下関と門司の間に隙間のように横たわる海峡で源平合戦が行われ、ここで平家が滅んだという事実。
ちょっと頑張れば岸辺に泳ぎ着けそうな距離でありながら、下関海峡を大きなタンカーが横切っていく。
きっとV字のように一気に深くなっている海底なんだろう。
加えてその潮流の激しさ。
ベテラン船長でも難破しやすいという。
この潮流を見誤ったのが平家、見誤らずに戦ったのが義経だというが、本編ではこの説を採っておらず、知盛はよくよく潮流を理解していたとしている。

そして幼帝の末路については、どちらとも取れる解釈で読者に委ねる。
安徳という名前は九州には多いのかな。
私の故郷にもそういう地名は残っているし、住んでいたことのある近くにも残っている。

義経と梶原
生まれながらの軍事天才と努力を積み上げてきた軍事凡才。
二人の意思が一致しなkればならない場面で悉く竜虎相搏つ状態に陥るのは、現代の企業でもそう珍しくない光景でもある。
ここまで対立してはいけないのだろうが、現代は誰もが衝突を避ける賢さを優先しているように思えてならないので、義経と梶原のようなガツンとした衝突を全否定する気にはなれないところ。
まして、義経の勘当に梶原の讒訴は多少の作用はあったかもしれないが、なくても頼朝は義経を勘当したことだろう。


「本編より」のコーナー
あ、ほぼ同じ内容を池波正太郎が書いているけれど、格調高い言い回しだ。
正太郎は「人間、いいことをしながら悪いことをし、悪いことをしながらいいことをする。矛盾だらけの生き物さ」

戦陣もまた人間同士の集合であるにすぎない
人間の集まるところ、表裏をつつみ、必ず何か葛藤を持っている。
(14巻93頁)



【収録】
御座替え
刺客
前夜変
不戦の人
臨海館
一葉の船
爪を噛む
墨磨れ、弁慶
捨て猫の果て
館の表裏
笑つぼの渦
好敵手
酒化粧
お絵の遊び
両雄読心
髪と仮名文
矢見参
からふね暴れ
黄旗まぎれ
海豚
大悲譜
死の清掃
波の底にも都の候う
生きさまようて
幻人語
世間新色
飛説さまざま
壊す人びと建てる人びと
現と夢
壇ノ浦飛脚
潮語不可解
花さまざま
女院と義経
月なき明石
車桟敷
勘当


2012年12月4日火曜日

悪の教典

2012年は極端に邦画を観ることが少なかった。
不作の年だと感じている。

2010年、2011年は2ヶ月に1本のペースで観ていたような感があるのに比して、2012年は「ロボジー」と「アウトレイジ ビヨンド」、としてこの「悪の教典」と3本目。
今年あと1本観るのかなぁ…。
候補は「のぼうの城」なんだけど、もう一歩背中を押す何かが足りないように思えて、躊躇う。
榮倉奈々が時代劇に出ることが引っかかっているのかなぁ、あの娘に時代劇は似つかわしくないし、早いよなぁ、と。


そんな中、「これは観にいかんば!!!」(九州弁)と思わせてくれた作品。
原作は未読。
原作を読もうと思わない私が、この原作は読んでみたいと思っている。
映画館での予告編で観たときから強烈なインパクトを残された。

そして、ようやく本編を観て、唖然。
「これは最早映画とは呼べない」
そう思った。
その理由は、詰まるところ「被害者も加害者も一切状況説明や経緯を語らず、心情を吐露もせず」ということだ。
大抵の映画であれば、加害者(犯人)が犯罪を行う、その理由や動機を被害者に語りかけたり、独白したりするもの(サスペンス劇場で「断崖をバックに」なんてその典型だ)
そこに観客は殺人者には殺人者なりの理由があることを知り(それに同情する、しないは別問題として)
そこに観客は被害者の立場や生い立ちに同情したり(邦画の場合、お涙頂戴が過度だというのは別問題として)

そういった、死の恐怖を役者に代弁させることもなく、観客の目の前に「死」は突如として訪れる。
蓮見聖司というサイコパスを演じた伊藤英明の「目」は何の感情も伝えてこない。
この目を見ていると、不思議なことに「カブトムシ」の目がチラついて仕方なかった。
そう、あの目は昆虫の目。
人間の目であれば感情や考えが宿るものなのに。

「怖い」の次元が異なる。
スプラッタとしての怖さよりも、殺戮することに何ら躊躇わずに殺せる人間がいるんだ、ということが「怖い」




2012年12月3日月曜日

バック・トゥ・ザ・ストリート

「Back To The Street」
初出は(当たり前だが)デビューアルバム「Back To The Street」


佐野さんは一度広告代理店に就職して、ロックミュージシャンへの道を断ち切れず、戻ってきた人だ。
そのときの心境をモチーフにして綴られたのだろうか。
訳せば「再び路上へ」この言葉も佐野元春を語るうえでは欠かせないキーワードだ。
「心が破けそうだったから」という言葉が、ソングライター佐野元春らしい表現で、居ても経ってもいられずにデビューへ転がり込んでいく様が伺えてクスリとさせられる。


アルバムタイトルになった曲で、最も印象が薄い曲でもある。
「Someday」では「Someday」が最も印象も強いし、好きな曲でもあるのだが。

でも昨日、怒涛の七連勤を迎えて、久々の前線での活動に携わっているときに、この曲が脳内再生された。
中でも
「奪われたものは 取り返さなければ」
の詩

特段、モノを奪われたとは思わないのだけれど、「時間」は色んな人びとに奪われているよなぁ、と感じているんだなぁ、と客観的に自己分析している。

巨大なショッピングモールの中、欲しいものは山ほどあるけれど、その「モノ」ではなく、モノを選んだり、悩んだり、流行を収集したりする時間が周囲の人びとからすれば極端に少ないんだよな。



2012年12月2日日曜日

新・平家物語 浮巣の巻

屋島の合戦の終盤から、壇ノ浦の戦いの序曲まで
途中、平家が宮島に寄港し、雅な一夜を過ごすくだりは、儚い。
歴史の勉強では、「公卿の真似をして武家らしいことを取り入れなかったがために平家は滅びた」と、両刀一閃にてぶった斬られるようにこき下ろされるのだろうが、この一面があるからこそ平家が後世にいつまでも同情を寄せられる面でもある。

また、歌舞伎やら時代劇になると必ず登場する屋島での那須与一の的射。
与一はどんな人なのか、知っている人は稀ではなかろうか。
この小説では、義経が奥州へ向かい頃から既に登場しており、与一と義経の縁を繋がるように伏線が張られている。
また、与一あ梶原の部下でありながら、この一件で後に不幸なことに見舞われることも書かれている。

2005年の大河ドラマ「義経」で阿部寛が演じた平知盛は、教経と知盛の二人を合体させて知盛として描いている。
私にとっては、それが映像で初めて観た「知盛」の像のため、読んでいると勇猛果敢な教経と、思慮深い知盛のどちらともが阿部ちゃんの顔に変換されてしまい、混乱する。
まして、その二人が言い争う行なんぞ、私の脳内はてんやわんやの大騒ぎに見舞われる。

「本編よりのコーナー」

平家が後世に愛される所以となる平家の個性。

(平家は)源氏のようなすでに軍律を持った軍隊ではない。
西八条、六波羅などの花の館がそのまま都の外に漂い出てただ自己を守るために戦い戦い、軍に化してきたに過ぎない。
(13巻92頁)

那須与一が扇を射るまでの心理描写。
私たちにも、「ここは決め所!!」という場面でも、心の有り様はこのとおりだ。

的の象はかなたの小舟の上にあるものだが、しかしほんとの的は自分の胸の中心にある。
もし、仕損じたらという雑念が容易に追い退けきれないのだった。
(13巻103頁)


義経が観て、感じた平家の有り様。
(司令部)総司令は過酷であり、残酷な決断を下すことが容易なのに比し、(戦地)将軍がその決断に従えない、ということが戦争映画などではよく見受けられる。
現場を観た者と観ていない者では、下す決断に情が入り込む、それが頼朝と義経の仲違いの決定的な要因なんだろう。
これを書いて、梶原景時という人はノーマルな人ではなく、殺戮愛好者だったのかな、ふとそんなことを考えた。

上には幼い帝とおん国母を擁し、あまたな女房や無用な老人やら女童までを連れているのだ
それは幾十という大きな家庭の延長であり家庭の寄せ集めと言ってもよい。
(13巻162頁)

以下、目次
玉虫
余一の憂鬱

桜間ノ介
海の蛍籠
教経・哭き嘲い
祝杯
夢の中にも夢を見るかな
降兵始末
喧嘩過ぎての
白峰颪し
大魔王
よしや君
浮巣の門
平家の氏神
大鳥居
地への恋
はつぶり下臈
旧縁
風前千燈
似しも給わず
手引の約
彦島とりで
船所歌
逆艪
上ノ関を出る
満珠・干珠
黄門知盛
黒い月
鬼曲
かたみ送り
御身隠しの事
女房の柵
筑紫の紅白
死出の伽羅焚き
のろし
悲風の将座
みかどと蟹