2014年4月29日火曜日

アメリカン・ハッスル

14年鑑賞8作目
原題「American Hustle」

ゴールデンウイークの中途半端な中日の休日に鑑賞に赴く。
3月の封切り後に鑑賞に赴けなかった作品。
隣のH県T市の映画館がちょい遅れ目で公開していることをたまたま映画館情報Websiteで発見して鑑賞に赴く。
昔ながらの映画館で、館内にはなんだか懐かしい昔の映画館の香りがしていました
あんまり好きな香りではなかった香りですが、懐かしさに包まれていました。
スタッフの対応がありがたいんだか迷惑なんだか、よく分からない「おもてなし」で、次に鑑賞に行くときは時間に余裕をもって観察したいと考えております。

芸達者な顔ぶれ
ハリウッドは常に様々なスターが。
邦画は...

どうして鑑賞時刻に遅れてしまったかというと。
ゴールデンウイークの始まりから起こした、「連れ」と激しいバトルの決着を着けることができなかったから。
モヤモヤとした気分の中で、無理矢理時間を切り上げて鑑賞に赴いたことと、初めての映画館で所在地を確認できすに、開始後10分経過したくらいでようやく館内に入場。

アメリカ独特の司法取引を扱う作品は、最初から鑑賞しないと話がチンプンカンプンになってしまう。

この映画自体には、レビューらしいレビューが思いいたらない。
ロバート・デ・ニーロ
B・クーパーの出演作にデ・ニーロは
よく出演してくれる
何か縁があるのだろうか?
上記のバトルのことも頭から離すことも難しかったため、ストーリーを追うことを諦めて、今をときめくスターたちの演技を堪能することに集中した。

いずれ、機会があれば事前にこの映画の元ネタである事件を理解したうえで鑑賞できればなぁ、と考えている。

地上放送で、この手合の映画をノーカットで放映することは難しいだろう。
レンタルはショップの衰退とクルマがない自分自身の住環境からして難しい。
ネットでのレンタルも検討したこともあるけれど、元を取れそうもない(ケチな性分)
そもそも、そこまでして映画を家で鑑賞するようなタイプでもない。
ジェニファー・ローレンスとエイミー・アダムス
どちらもタイプの女性ではないけれど
演技はうまいっす
しかしながら見逃した映画をどうやって鑑賞したい、これは、ここ数年の私の軽いストレスになりつつある。

3月に見逃したのがこの「アメリカンハッスル」と「ウルフ・オブ・ウォールストリート」で、「ウルフ〜」がとても気になっているにも関わらず、今のままでは鑑賞できない可能性が高い。
おっきなスクリーンで鑑賞できなくても、おうちのテレビでも観賞したい作品なのだ。

永遠の0

2013年末に映画が公開され、私も遅ればせながら2月に鑑賞に赴いた。
公開後2ヶ月近くも経過しているにも関わらずほぼ満員で、老若男女問わずにスクリーンに向かっている光景を目にして不可思議な感覚に襲われていた。
私の隣に陣取ったのは右側が若いカップル、左側がひとりで来ていた女性。
辺りを見回せば老人もいらっしゃって、「永遠の0」は最早、作者の手を離れ、ムーブメントになってしまっているんだろうなぁ、なんて思いながら鑑賞した。

映画化された原作は読みたいと思っても結局手に取ることは稀だ。
私には交友関係はさほど深くないけれど友人がいる。
友人の誰もがこの「永遠の0」を読んでおり、「涙なしでは読めない」「まだ読んでないとね?」など、それは大層な大絶賛の雨あられ。
そんな経緯があって、手に入れた書籍だ。

マイナスイメージ(汚名)を着せられた人物をよくよく掘り下げていくと、とんでもないプラスイメージ(英雄)に変貌を遂げていく、というプロットはかつて読んだことがある。
「壬生義士伝」だ。
しかし、吉村貫一郎と宮部久蔵では、随分と印象が異なる。
貫一郎が官軍に斬込みをかけていくクライマックスと、久蔵が零戦で特攻に向かうクライマックスは、私の中ではどうしても印象が異なる。
久蔵のクライマックスへ至る動機が私にズシンと響いてこないのだ。
読み返してみて、「あぁ、なるほど、そうか」とは思えたのだが、「そうか!」という「!」がズシンともガツンとも来なかった。
私の感受性は麻痺しているのだろうか、それとも大多数の人とはズレてしまっているのか、と自分への疑心暗鬼に陥っている次第だ。

明治維新から第二次世界大戦敗戦までが80年、戦後の復興から70年。
歴史は繰り返すと言う。
歴史小説を愛読している身としてその言葉には頓首せざるを得ない。
あと10年すれば、またもや日本は世界を相手に徒手空拳を振り回す羽目になるんじゃないかと、昨今の歴史認識問題だとか、世界的な潮流への参加問題などを見ながら感じてしまう。

この本は、(例えば村上春樹のように)発売後一気にベストセラーになったわけではなく、じわじわと売上を伸ばしてきた昭和の演歌みたいな本らしい。
私らの祖父、或いは曽祖父が歴史舞台から退場しようとしているこの10年近く、確実に受け継がれてきた本なんだろう。
本の中で登場してきた主人公だとか井崎の孫のように、展望もなく日々を過ごしていく人びとは一瞬でも背筋が伸びることだと思う。
それでいいんだと思う。


2014年4月28日月曜日

愛のためにできたこと

「Things We Did For Love」
初出は「Zooey」

出だしから、私の中にある欺瞞を突いてくるようなフレーズが奏でられる

愛しているとは口にすれど、信じているとは口にはしない
清らかなものがうとましくなることも、ときとしてあることだ。
会う人全てはないけれど「運命の人」かも?とは思ってしまうこともある。
昔夢見たことが実現するかも、という気持ちを隠しながら人に接している

それらを「二人がやったこと」と過去形にして、「忘れないで」と懇願しているように聴こえるこの歌詞
また、「きみがやったこと」と過去形にして「忘れないよ」と約束しているように聴こえるこの歌詞
この詩に登場している二人には未来を閉ざして、過去を振り返っているのだろうか。
自身のライナーノーツでも、そのような節が垣間見えるので、そうなだろうと考えている
では「愛」とは一体なんぞや?
という普遍的な疑問に行きつく。

「Zooey」は未来を見据えた曲が多い(虹をつかむひと、ポーラースタアなど)の中にあって、
この曲はとてもアルバムの前半の曲に馴染まない詩だと感じている。
哲学的な曲なんだろう。


2014年4月27日日曜日

相棒

この本は発売されたとき、日本経済新聞の書籍紹介欄(だったと記憶している)を読んで、発想の面白さに興味を惹かれた。
いつかは読もう読もうと考えていたけれど、人事異動、職種変更、更に職種変更とカメレオン並みの変体をさせられて(そして対応して)すっかり忘れていた。
多分あれから6年くらい経過しているんじゃないかな。

古本屋さんでこの本を見つけたとき、当時のことを思い出しながら本棚から引っ張り出して手に取っていた。

坂本龍馬と土方歳三
どちらも、私にとっては永遠のアイドルであり続ける二人。
2004年の大河ドラマ「新選組!」でも龍馬(江口洋介)と歳三(山本耕史)が京都で過ごすときには旧知の仲だという設定に「そんなわけはない」とブツブツ言いながら、三谷幸喜の脚本にまんまとハマって毎週正座しながら視聴していた。

さて、この本の物語。
上記の日経新聞の紹介時に、私はもっとファンタジー的な要素かSF的要素が盛り込まれているのかと勝手に思っていた。
死の淵に立った龍馬をオートバイに載って歳三が救済に向かうとかね(オートバイの歳三はブラックレインの松田優作をイメージしていただけるといい)
ところがどっこい、時代考証はしっかり為されている。
徳川慶喜の載る籠が誰かに狙撃される。
慶喜は無傷だけれど、狙撃犯は誰か?を突き止めなければ大政奉還が頓挫してしまう。
勤皇側から龍馬、佐幕側から歳三に白羽の矢が立ち、二人して薩摩藩や会津藩を調査(取り調べ)を進めていくというもの。

幕末の知識があれば充分に楽しめる展開だし、作者も折りに触れて丁寧に説明を加えてくれる。
それが、プラスに作用するか、マイナスに作用するかで本への印象が変わってくると考えている。
私は幕末史に19歳の頃から読み続けているので、今更その説明は不要なんだよなぁって感じる箇所がとても多く、辟易してしまった感じは否めない。
そういう文面のところは読み進めるのが却って遅くなってしまった。
だから、今の高校生あたりが受験勉強の箸休めに読んでくれたら知識が身につくんじゃないかと思う。
(女子は源氏物語の漫画をよく読んでいるから古典への理解が早いように)

また、幕末の主要人物がオールキャストで登場してくるので、大味になっちゃったよなぁ感も大きい。
幕末の物語をオールキャストで紡いだ本といえば司馬遼太郎の「十一番目の志士」が挙げられる。
(同書は司馬作品に中で最も印象が薄い本)
作者は非常に盛り上がって執筆しているのだけれど、大きくしすぎて収拾がつかない印象が残る。
西郷は?大久保は?半次郎は?
桂は?伊藤は?
登場してきた人物がこの本の中できちんとピリオドが打てずに去ってしまう展開が物足りない感じを強くしているんでしょうね。

例えが稚拙になるけれど、幼少の頃仮面ライダーやウルトラマンで、オールキャストの回っていうのは予告編ではものすごく面白そうに映るのに、いざ本編を視聴すると、「あれ?」っていう感じに拍子抜けしたことがある(私と同じ世代は頓首してくれると確信している)
それに近いんですね。

両雄並び立たず
これに尽きます。

と、けなしているばかりが感想でもないんです。
作者の五十嵐さんの龍馬像は「竜馬がゆく」からだし、歳三像は「燃えよ剣」からだと、私は感じている。
この二人が同じ本の中で、同じ道を歩き、同じ目標のために動き回るっていうのは、頭の中での活劇が繰り広げられ、とってもとっても楽しい。
そして最後の嬉しい展開。
思わず、涙がポロリと流れてしまいました。


2014年4月26日土曜日

サンチャイルドは僕の友達

「Sun Child」
初出は「SOMEDAY」

2人の地理的な距離が変わることが決定して以来、及び変わってしまって以来、僕の心は常に不安定さの内側にあり続けている。

思うようにならない現実が、自分の望む未来に雲をかけてしまっているときに、どうしても側にいてほしいと願い、それが叶わなず。
望みが叶わなくなてしまったとき、いつも望むこととは反対のことを言葉にしてしまい、愛する女性を傷つけ、泣かせてしまう。

愛しているから心が動く。
愛しているから涙が流れる。
愛しているから心に蓋をしてしまう。

愛は色んな行為を人に与え、そこで二人の愛を試す。

そういう一夜が明けて、生きていくための行為をしている
シャワーを浴び、通院し、食し、読みかけたままの本を読むetc
そういうときでも愛する相手に愛していることを伝えようとしている。
お互いにそういうときの文面はシンプルで、味気ないけれど、心の有り様が文字から
いくらでも滲み出ていることがわかってしまう。

14年のゴールデンウィークは今日から。
そんな日に、僕の愛する女性は自分自身でもなく、僕でもない人の為に捧げている
こんな日に、僕の愛する女性は自分自身でもなく、僕でもない人に光を奪われている

ひとりぼっちのSun Childは僕の愛する女性
ひとりぼっちのSun Childが僕自身

誰にも何も言わせない
と、この詩は結んでいる。
今、この詩は二人の愛のことなんだと感じながら、ひとりぼっちの夜を迎えている。




2014年4月4日金曜日

鬼平犯科帳(4)

数年ぶりに読み返し、更にまた読み返してしまったほど、のめり込んでしまった篇が多い。
これ以降の鬼平ワールドに必要不可欠な人物たちが続々と登場してくることを当時の池波正太郎になったつもりで分析してみると、この頃の池波正太郎の頭脳には鬼平と相対する盗賊どもよりも味方となる人物たちの背景や心もようが夏の入道雲のようにいくらでも膨らんでいったのだろう。

・霧の七郎
人は見かけで判断してはいけない

・五年目の客
思い込みや勘違いによって人生は転がっていく

・密通
上に立つ者ほど、恥を知らねばならない

・血闘
おまさ初登場(?)
この篇ではとてつもない凌辱が加えられているストーリーでありながら、全くエロ・グロといったエッセンスが削ぎ落されている。
池波正太郎の小説は文章だけでありながら、とてつもない色気・エロティシズムが滲み出てくるのに。
冒頭からクライマックスのような緊迫感が綴られているからなのだろう。

・あばたの新助
美人局によって人生が狂ってしまう男の物語
新助に残っていた最後の良心が素敵だと感じている

・おみね徳次郎
結びでの男女の描写が秀逸だと感じる
男は惚れた女と離れると、あっという間に弱ってしまう生き物だ(我が身を振り返ってもそうだと思う)
女は惚れた男と離れてもしたたかに生きていける

・敵
五郎蔵の登場
読者も五郎蔵と同じく、何が何だか分からない状況だから読み解いていくのでドキドキする

・夜鷹殺し
人のこころの底には何がひそんでいるか知れたものではない。

そして、夜鷹とて人ではないかと叫ぶその人柄に尊敬の念を抱く。
現代でも、春を鬻ぐような女性にお世話になりながら、心のあちこちで蔑視している自分を見透かされているようで、心が痛む台詞だ。