2014年5月31日土曜日

アメイジング・スパイダーマン2

14年鑑賞11作目
原題「The Amazing Spider-Man 2」

 すっかり前作のことなんて忘れておりました。(前作のエントリはこちら
いや、さすがにそれは言い過ぎで、主演のアンドリュー・ガーフィールドくらいは覚えていました。
いろんな人がこの格好してアップする
ので、ヒーローらしいヒーローに映らない
鑑賞し始めて、前作のことをいろいろと思い出しながら今作を追いかけていく感覚です。
(前作でも書いたのだが)サリー・フィールドがおばあちゃん役を演じているのに、自分の年齢を重ねてしまいます(ミセスダウトのときはまだ主婦だったのに...)

前作と同じ映画館で、同じシアタールームで、ほぼ同じ座席で鑑賞しました。
3作目をこの映画館では鑑賞することはないだろうなぁ(異動は今年度内に言い渡されるだろうから)なんてことも思い合わせながら、頭を空っぽにすればいいアクション映画なのに、ミョーにそういうことを考えて鑑賞していました。

さて。
今作のテーマは私の中では「喪失」への怖れ、そして「喪失」からの再生だと感じました。
鑑賞後に映画紹介サイトでのレビューを読めば、今作のテーマは「時間」だというのですが。
主人公は恋人の愛情と、恋人と過ごす時間を喪失することに苦悩(怖れて)いますし、エレクトロになっちゃうジェイミー・フォックスも職の喪失に怯えているし、自身の社会での存在意義を喪失することに怖れている。
高校生の頃の甘酸っぱい思いがよぎりました
とはいえ、高校時代にはこのようにお付き合いらしい
お付き合いの経験はなのですが...
対して、おばあちゃんは、息子(主人公の父)の思い出の品々から自身の存在を肯定して再生している。
ヒロインのグウエンは、彼氏との別れを為しながらも彼の愛情を常に感じながら留学へと決断していく。
次作では完全に敵役になってしまうであろうハリー・オズボーンも父を喪失し、彼自身も健康を喪失していくことで彼自身を喪失していく。

青春時代、まぁ概して言えば喪失との格闘の日々でもありますね。
少年少女から青年へのステップの際には、子供の頃の習慣だったり常識が喪失されていく頃ですし。
そういう世代に向けてのメッセージなのではなかろうか?と感じたのです。





2014年5月21日水曜日

平家物語の女性たち

何かの本で読んだ記憶がある言葉
男性は概ね平家物語に傾斜していく
女性は概ね源氏物語に傾斜していく
なるほどなぁ、と思った。

中学時代に習った「祇園精舎の鐘の声」、当時は流行していたアイドルたちの曲や、アイドル自身に置き換えたりして自分の中に取り入れた。

高校時代に習った「敦盛」、物語は衝撃的だし、文字の並びと音の哀調に恐れ入った。
古文では色んな古典から習っているはずなのに、私の中では敦盛がダントツに印象が強い。

成人して、30代後半に出会った吉川英治の新・平家物語を読み、40代で再読。
平清盛の印象もコペルニクス的転回したし、彼を取り巻く家族の絆を感じた.
その反面の位置づけとして源氏の物語が展開されていく。
ヒットしなかったが13年の大河ドラマ「平清盛」は家族という視点に集中特化すれば、あるいはもっと馴染みの深い番組になったのだろうに、と思う。
05年の「義経」はそのいい例。
(あの時代を描こうとすれば、公家やその周囲を語らなければ清盛たちの意気込みが理解できないのだから、言うは易し、なのですが)

そして、「ビギナーズクラシックス」に手を出し、「女嫌いの平家物語」と冒頭に書いたように男性である私は確実に平家物語に傾斜してきた。
何せ源氏物語に関連する本はただの一冊すら読んだこともない。

アラフィフィに到達した今(最近の私の同級生たちの中で再認識している言葉)、この本に出会う。
永井路子さんの本を読破したのはこの本はが初めて。
(太平記についての本を今「連れ」に借りて?いるのだが、未読)
男性によって運命を翻弄されていった(であろう)女性たちに焦点を当てて、当時の時代背景や用語や古文の解説を交えながら語りかけていらっしゃる。

吉川英治の新・平家物語に登場する人物像を思い出しては追いかけていくような感覚で読む。
新たな解釈があり、同様な解釈があり。
教養がついていくっていうのはこういうことなのかもしれないなぁ、と思う。
もっとも。読んでもすぐに抜け落ちていくのが悲しいですが。

人妻たちの篇が新・平家物語では充分に語られなかった平家に嫁いだ女性たちの気持ちを丁寧に綴られていて楽しい。
トンカツにカラシをつけて食べるとおいしいように。
蕎麦に柚子こしょうを入れて食べるとおいしいように。
基幹となるもの(新・平家物語)に、添えるもの(この本)を添えていくと、更に旨みが増していく。
永井さんご自身及びその周囲にいらっしゃった女性たちの太平洋戦争での強烈な体験と源平時代の動乱、歴史的大転換期に運命を翻弄されていく姿をシンクロさせながら執筆された姿が容易に想像できる。

ただ、静御前が登場してこなかったのは残念。
まぁ、彼女は源氏側の女性ではあるのだけれど。

二位の尼と建礼門院徳子の母子の篇も、鋭い考察でうんうんと頷きながら読む。
時子がドラマに仕立てあげやすいのに対して特子がヒロインとなりにくく、どんなドラマでも影が薄くなっていくのも道理だと感じ入る。
母は強し、その母になれない環境で安徳天皇の国母となった徳子。
その差が壇ノ浦での覚悟として違いが出たというのは的を得ている批評だと感じる。

恋人たち
  祇王 祇女 仏御前
  葵女御 小督局
  千手前
  横笛

妃たち
  祇園女御
  二代后

人妻たち
  小宰相
  維盛の妻
  巴
  大納言典侍(佐)

二人のヒロイン
  建礼門院
  二位の尼 時子

2014年5月17日土曜日

壬生義士伝

ゴールデンウイークに「連れ」が体調不良になったときに、為すこともない時間を過ごすとき(大した病状に至らず一安心)に再読した本。


自身で読み終えた本の記録にと起こした最初のblogに壬生義士伝のエントリーがなかったから、それ以前に読んでしまった本。
度々書いているけれど、04年の大河ドラマ「新選組!」の前後は予習復習で新選組ものを幾つも読んだので、そのうちの一冊。

再読に至った理由は「永遠の0」のプロットが壬生義士伝を参考にしているという書評を目にしたから。
確かに物語の序盤では印象が良くない人物が、物語を読み進めていくうちに悪い印象の理由には悉く善人たるが故の理由が伏線と張られているのはよく似ているなぁ、と思った。
しかし、「何か」が違う、「何か」が違う。と私の心にはわだかまりが残ったままで、スッキリと釈然としなかったからだ。
壬生義士伝に軍配が上がってしまう自分がいた。

再読してみて、よく分かった。
一番違う、というか軍配が上がる理由は
一つ目に、吉村貫一郎自身が話す、ということ。
独白調で篇が進むにつれ、彼の心は澄み切っていく。
行きたい欲求と、腹を切らねばならぬ理由が逆転していく過程と結果に涙が流れる。

二つ目に、大野次郎衛門の存在だ。
映画では次郎衛門を三宅裕司が演じ、しかもどちらかと言えば主役の外輪を為す人物として演出されていたけれども、壬生義士伝の味噌というか「肝」は次郎衛門だ。
吉村貫一郎よりも大野次郎衛門こそが主役なんじゃないか、という考えだって成り立つと思うし、賛成してしまう。
末尾の大野次郎衛門が新潟の豪商へ書き綴った書状は涙なくして読めない。

三つ目は、実在の人物と架空の人物をうまく使い分け、それによって貫一郎と嘉一郎の親子の
存在が際立っていくところ。
新選組生き残りと思われる居酒屋の親父はフィクション側だが、斎藤一と稗田利八は実在側の人物。
両サイドから責めるサッカーが大きな展開が臨めるように、それにより吉村貫一郎の姿が読み手によって作り上げられていく。

恐らく10年ぶりくらいに読んだ、そのキッカケを与えてくれた永遠の0に、機会を創出してくれたことに感謝している。








2014年5月11日日曜日

ペコロスの母に会いに行く

14年鑑賞10作目

生まれてから18年間育った長崎県出身の我が身、そして今は近畿は大阪に住みアラフィフィにもなれば、郷愁を抱く。
原田貴和子がいい
随分と齢を重ねてしまわれましたが。
都会へ憧れてしまう一方で、懐かしい故郷へ戻りたい里ごころに引き裂かれる。
昨夏は「爆心 長崎の空」を鑑賞した。
感想はここに書いたとおり。

この作品「ペコロスの母に会いに行く」の良さは「方言がまんまでしゃべられる」ところ
キャスティングを眺めてみると長崎県出身者が多くて、「爆心〜」とは方言へのマスター度のレベルが比較にならなかった。
方言だけの理由でもう一回観たいと思わせてくれる作品だ。
母(みつえ)の生まれは天草(熊本県)、幼少期の方言は熊本弁(角張った言い回しが特徴だ)でしゃべっているし、長崎弁と熊本弁が正確に使い分けられていて、満足度が高い。

認知症はもはや社会問題どころの問題ではなくなっているテーマ。
企業に勤める人は親の介護が理由で退職せざるを得ない人が増加傾向にあるというニュースもある。
このように深刻さに直面しつつある認知症と介護に焦点を当てることをしていない。
今作の清涼剤
竹中直人って、どうしてこうも
笑える男をコケティッシュに演じ
られるのでしょうか!
重苦しくせず、長崎らしい「どんげんかなるさ~」といった能天気、陽気な人柄をカメラを回すといったスタンスで撮影されており、却って自分の母がこうなってしまったらどうしていけばいいのだろうか?と頭を回転させながら鑑賞していた。
そして後半になると、母の自分が生まれる以前の人生はどうだったのだろうか?それをきちんと記録につけておかないと申し訳がないな、とも思う。
ボケててんやわんやしている前半の赤木春恵扮するみつえ婆さんと、後半の息子の顔すら見分けられなくなるみつえ婆の姿を観ながら、笑いながらもゾッとしながら鑑賞していた。
こういう両方の感情を抱かせながら鑑賞する作品のほうが、深く突き刺さる。

約4年しか住んでいない長崎市内
しかもこの作品のロケ地のメインはおそらく小島地区あたりで縁もゆかりも薄い場所。
それでも尚出てくる長崎のシーン、チンチン電車が懐かしい。
鳶は確かに長崎には多く生息しているんだなぁ、と。
大阪に住んで約5年(長崎市の生活年数を超えていることに今気づいた)、鳶の鳴き声を聴いたことなんてなかった。

原田貴和子と知世姉妹
貴和子姉さんをスクリーンで観るのは初めてで、テレビでも殆ど見かけることがなかったのでとても懐かしかった。
原田姉妹
長崎出身の典型的な美人さんの
顔です。
この手合の顔立ちは長崎にしか
おらんとです。
そしてこの作品での若かりしころのみつえ婆の演技は素晴らしい。
(寺島しのぶの顔と似通っているように見えた)
この作品での演技を機に、もっとスポットライトに当たって欲しいと願う。
知世妹、友情出演ではなく愛情出演というテロップが出ていたが、はて?
愛情物語の過去の作品を連想させたいだけ?
それとも知世さんの事務所とか大人の事情による理由?(多分これが理由なんだろうけど)
、ちえこさんが鬼籍に入ってしまっているのは予想外だったけれど、長崎と言えば原子爆弾がどうしても切り離せない。

温水洋一と竹中直人(それから主人公を加えて)のハゲトリオ
この映画の笑いのエッセンスはここに集約されているだろう

赤木春恵の前半と後半での演技の変貌ぶり
上でも書いたけれど、前半ではおしゃべりばかりしている母が後半ケアハウスでの生活で過去への邂逅を重ねていくうちに寡黙になっていくのもこの映画でいろいろ考えさせられた人も多いのだろう。
序盤は笑い声がしていた今作は後半でのみつえ婆の寡黙さと苦労していた時代とのエピソードで涙の音があちこちから漏れてきていた。

加瀬亮の昭和の親父っぷり(及び長崎っぽい生真面目ながらどこか田舎っぽさを醸し出す雰囲気)
ああ、この顔って長崎によくおりんしゃったじいちゃんの顔やなあ、と。
(加瀬さんは長崎県人ではありませんが)



2014年5月10日土曜日

とらわれて夏

14年鑑賞9作目
原題「Labor Day」

あらすじを簡単に読んでから鑑賞していると、原題の「Labor Day」のタイトルが登場

最初、家に押し込まれたときは
袖がある衣装
肌を露出したくない(オンナ)を
捨てている
ここで「Labor」を「隷属」と自分の中で誤訳してしまった。
正しくは「労働」なんですね。
ただ。鑑賞を終えて、あながちこの解釈もありなんじゃない?と思っている。

Labor Dayとは労働者の日というアメリカの休日の1つ。
これがこの映画のタイトルになる理由がアメリカ人ではない私にとってはピンと来ない。
夏の終わりの休日で、新学期が始まるという感覚は夏休みが40日もある日本の文化からは想像がつかなくて、少年がアダルティな同級生女子と接するシーンをどのような感覚で観ればいいのかよく分らなかった。
アダルティな女子への憧憬のようなものは、万国共通なのはよくわかったけれど。

さて。
袖が残っている
押しかけられた男を嫌悪するなら
こういう袖ではない
母がオンナを意識しだした
誤訳の「隷属」という意味で解釈した感想はがあながち誤りでもなかろうという理由は、登場人物の3人ともそれぞれの「過去」に隷属されていると感じたからだ。
母は、離婚
子供は、離婚に起因する家族との日々
犯人は、事件を起こした罪

Websiteであらすじを読んだときにイメージしていたのは、犯人に囚われている家での「奇妙な関係」が延々と紡ぎ出されていくというものだった。
その「奇妙な関係」よりも、3人が過去からの呪縛(または過去への隷属)から解き放たれていく過程、そして解放を得た結末に感じ入った。

だから「ああ、なるほどこの5日間が彼らにとって『とらわれて夏』だったんだな」と感じたのだ。

この3人の視点から映画が構成されていて、感情移入する対象が3人のうちの誰に行くか?で、鑑賞ポイントが異なるんではなかろうか。
袖がなくなり、露出度が高い
この時点で二人の間には
愛を確認しあったことが伺える
私は息子の視点で鑑賞している時間が長かった。
父親が離婚により不在のところに、男(脱獄囚)が現れる。
彼はキャッチボールを教えてくれる、クルマを修理してくれる、家の不具合を修繕してくれる。
少年にしてみれば、たくましい父に置き換えしていく。
母はそういう男に対して母の顔から女の顔に戻っていく、その描写を子供(少年)の視点から映されているシーンにとてもドキッとさせられた。
脱獄囚と母が交わっているシーンはない。
ないだけに、想像がたくましくなって制御できずに眠れないとか困るといった経験は大抵の少年には訪れる(訪れた)
思春期に感じた「性への興味心と恐怖心」が鑑賞している間、瑞々しく私に戻ってきた。

ケイト・ウィンスレットは「タイタニック」以降、この手合の地味な作品で、尚且つ薄倖なタイプの女性を演じることが多い。
そして、またよく似合うなぁ、と思う。
あの頃少女だった彼女が今では熟女(←こう書くといやらしいけど、でも熟しているなぁ)が似合うようになっている。
エイミー・アダムスやジェニファー・ローレンスよりも好きな顔なので、公開期間が長い(つまり人気作品)にも出演してほしいなぁ。
いや、違うな。
配給会社なり製作会社はケイト・ウィンスレットを登用しなければならんのだ。
いや、私から登用するように要望してやるっ!(何の力にもならんか...)

ジョシュ・ブローリンを初めてスクリーンで観た
うーん、ちょっと前のジェフ・ブリッジズみたいなイメージとかぶってしまう印象
ヒゲ顔と、ヒゲを剃った後の印象がガラリと変わってしまう俳優さんだった。