ひょんなことから身近なところに「ソングライター」を自称する女性がいることを知った
検索してみたらWebsiteも開設されており、そこでは彼女の曲を視聴することも可能だ。
彼女が奏でるメロディラインの善し悪しは私には判断できない。
理由として、良い詩があればメロディは自然といいものに聴こえてくると信じているリスナーだから。
問題は彼女が綴っている「詩」にある。彼女が書く「詩」は「詩」ではなく「日記」の域を超えてない、いやあるいは日記ですらもなく「業務報告」に自身の感情と苦労話を投影した自己陶酔の枠に存するもの。
彼女の曲に共感してくれるのは、彼女と共に働いたことがある周囲の人びとだけだろう、詰まるところ「職場ソング」
彼女の曲を聴いてしばらくの間茫然自失.....
ソングライターの定義とは??
曲さえ奏でられれば、詩さえ綴ることができれば名乗っていいものなのだろうか??
曲を歌い、そして人様から銭を頂戴することに彼女は本当に覚悟があるのだろうか??
確か、ソングライティングをしていくうえで、1つの条件として佐野元春が提示したのは「自己陶酔に陥らず、普遍なものに置き換えたり、抜き出したりしていくこと」だった。(正確ではないかもしれないが、意図はズレていないはず)
彼女の詩にはこの定義が当てはまらない。
30年も前に出会ったガラスのジェネレーションを最近よく口ずさむ。
出だしの「ガラスのジェネレーション」は10代には10代の、20代には20代の、そして今の40代なりの解釈が存在する。
ガラスにこめられた「脆くて壊れやすいハート」というだけでもなく、透明でピュアなものだったり、クリスタルのようなキラキラと輝かしいものにも置き換えることができる。
BOYS&GIRLSの代名詞として「Crazy Midnight Kangaroo」とか「Crazy Pretty Framingo」と洒落た単語に置き換えている。
そして、この曲が放つメッセージは「つまらない大人にはなりたくない」
たった、これだけ。
出だしから続く詩は元春自身の経験なり見聞したことを普遍で観念的なフレーズに置き換えている。
30年経過した今でも、この曲の主人公が何をどう体験しているのかよくわからない。
失恋しているのか?片思いなのか?それとも成就しているのか?
One More Kiss To Meのフレーズがラブソングっぽく聴こえるけれど、「さよならレボリューション」とは何のことなんだろう?
「ジェネレーション」と「レボリューション」の韻を踏んだだけだよって元春は言うのかもしれない。
それでも構わない。
もしそうであるならば、この詩は佐野元春から離れて僕の物語に変わっていってしまうのし、レボリューションの意味を今後も模索していくことになるのだから。
つまらない大人とはどんな大人のことをイメージしていたのだろうか、30年前の自分に思いを馳せる。
「努力しない人」それは今も変わらない。
孤独な部門で周囲に頼れる人がいない環境になってから大きく成長したと自負するため、人と関わらずに生きていくこと、仕事していくことも含まれてきているようにも感じる。
私は人と人とを繋いでその人たちに新しい発見やインスピレーションを感じてもらえると自分のことのように嬉しくなる。
そしてどうやらその能力に長けているようだ。
分からなければ分かる人に訊けばいい。
それができなくなっている「つまらない大人」が増えてきているように思えてならない。
わかる人に訊くときに自分の考えを持って訊かなければ成長はしないのだけれど、それができる大人は最早絶滅危惧種なみだろう。
自分を甘やかす歌は巷に溢れているけれど、自分を叱咤している歌はとても少なくなってしまっているのではなかろうか?
冒頭の彼女にコメントするならば、そういうことだ。
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