2013年7月27日土曜日

ワイルド・スピード EURO MISSION

いやはや、悪い子が真似したがる
ようなアクション
原題:「FAST & FURIOUS 6」

世の中には「深く考えてはいけない映画」がある
でも、そのような映画にでも何かしら考えがあるんじゃなかろうか?
と、考えすぎてしまう。
最早、性癖と言っても差し支えない私の良くも悪くも特徴。
シリーズ6作目にもなって初めて鑑賞しているのに「何なんだろう?」ということを勘ぐりながら鑑賞。
この人物はどういったポジションの人なの?などなど

味方だった女性が記憶喪失になり、敵方に洗脳されてしまったから奪い返して元に戻してあげるんだ!!!!
これさえ分かっていればいいんだ、ということに気づいたときにはエンドロールが流れていた。
あははは、もう自分で自分を褒めて笑ってあげるしかない(by有森裕子)

元々幼少の頃クルマにあまり興味のない子供だったし、オヤジは免許証すら持っていなかった。
移動手段はタクシーだった我が家。
クルマにはかっこよさよりも便利性に惹かれてしまう。
いつでも好きなときに簡単に移動できるツールでしかない。

そのような人間が、今作に登場するような最先端なクルマを観てもあんまりワクワクすることもなく。
ただ、カーアクションは凄かった、特に戦車が登場してドンパチを繰り広げるシーンには口があんぐり。


2013年7月20日土曜日

爆心 長崎の空


異郷で鑑賞する故郷の風景は
温かい眼差しだった
「ビトレイヤー」を鑑賞に行った際に、今作のチラシを見つけた
ただそれだけでは、今作を鑑賞に行くパワーは起こらなかっただろうと思う。

行こうという決定的なパワーが起きたのは、友人がFacebookにて鑑賞に行くつもりなんだ、と宣言してから。

客観的、極めてクールに考えて今作が上映される期間は2週間程度しかないだろう、という予測を立てる
ならば上映初日に行かなかったら、間違いなく行く機会を喪失するだろう、と。

私は長崎県民。
長崎市内に住んだことは4年ほど、22歳〜26歳まで。
爆心地から2KM程度のところに住んでいたこともある。

小学生の頃、8月9日は登校日、登校して児童集会で校長先生の話を聴き、教室などを簡単に掃除をして、11:02を迎え、黙祷を捧げる。
それが僕たちの常識
広島県は8月6日だろうし、それ以外の都道府県もそれに倣うと思っていたのが、異なる登校なんてしないという事実を受けたときの衝撃度は大きかった。

故郷を離れ、8月9日の11:02に黙祷を捧げることを忘れることもある(運転中だったり、作業中だったりと言い訳は幾つもあるのだが)
そういう年は、居心地が悪いし、きちんと黙祷を捧げられた年は居心地が良い。
今年2013年は11:02にどういう状況になるかは分からない。

私なりの黙祷が今作を鑑賞することだ。
1945年8月9日の11:02に長崎市に原子爆弾が落ちてきたことを忘れないために。



作品について。
やけにピアノの音が耳に残るなぁ、と思えば、小曽根真さんでした
何回も流すのは、うーんちょいと頂けない製作だよ。
巧いピアノなんだから、何回も聴かせるのではなく、「ここ」ってときに流してくれたらいいのに。

原子爆弾の映画は小学生の頃から幾つか鑑賞してきた(させられてきた)
記録映画の類に始まり、被害者としての側面が強い。
また、爆弾の威力の凄まじさをなんとかして表現しようとして、製作者の苦心はわかるけれど、どこか陳腐なものになりがち。
今作は爆弾によって肉体的な苦痛を味わされた人を存在させてない。
稲森いずみが演じる女性の両親の原子爆弾への憎悪の理由は何なのか?がミステリーじかけになっている。

また、もう一人の主人公北乃きいは原子爆弾の被害とは無縁の世界で生きている。

戦争や爆弾の悲惨さを前面に出ることも少なく、それぞれの人生が何かしら十字架を背負って進んでいく。

原子爆弾に加えてクリスチャンが多い土地柄なのが長崎県の特徴で、ずっと以前に読んだ阿刀田高の旧約聖書を知っていますか?のヨブ記のことが改めて頭を過ぎっていた。


2013年7月17日水曜日

菜の花の沖(一)〜(六)

十数年ぶりに司馬遼太郎の超長編に挑む。

超長編とは、勝手に私が定義づけた呼称(あるいはどこかで眺めた記憶が刷り込まれているのかもしれない、その際はごめんなさい)で、司馬遼太郎作品では3作
「竜馬がゆく」「坂の上の雲」そしてこの「菜の花の沖」の3作
先の2作は読了しており、最後の超長編

高田屋嘉兵衛の名前は、高校で学んだ日本史に登場する。
寛政の改革と黒船来航までの間に異国船打払い令という、まことに無意味なお触れから始まる、鎖国の危機に直面していく日本の中でロシアに捕らえられ、連行されていった商人だということを覚えている

そんなわけで、かなり期待して読み始めたのだが、これが全くもって私の肌には合わない。
いや、これを書いている今、通勤の友にしている一読目では、ようやく六巻を手に取って読み進めており、嘉兵衛はロシアに捕らえられているのだが......

こちら一巻目での嘉兵衛は、生まれ故郷の淡路を抜け出し、西宮界隈で愛妻おふさと恋に夢中になり、天性の船への才能が邂逅していく人びとに見込まれ、認められているさなか。

嘉兵衛その人よりも、大航海時代を経て諸外国が船で地球の各地へ飛び出していくことが可能になった時代に日本は頑なに外交を閉ざしていること
江戸という消費のみを繰り返し、生産をすることがない都市、そこが首都という実態
農本主義の破綻
商業主義への傾斜とそれを否定している幕府政治(松平定信が代表)
そういった時代に生まれた非武士である一片の商人が送る人生を読んでいく。

【2013.07.31追記】
文庫本で一巻一巻毎に感想なりレビューなり思い出なり、感じたことを綴っていくのを信条としている当blog
常に読み返して、読み返してから綴っていくのだが、この「菜の花の沖」は、読んでいる今の年齢が合わないのか、それとも嗜好が合わないのか、幾ら読んでも頭に入ってこず。
大抵の本にはなんとか食らいついていくだけの気力も持っているのだが、この夏の暑さもあるのか?
どうにもこうにも楽しく読めなかった。

環境や性格以外にこの本をうまく読めなかった理由を挙げるとすれば、蝦夷地の地理がよく分かっていないことがあげられる。
次には、この本の主人公は高田屋嘉兵衛ではなく、商品経済だということ。
人に興味が尽きない私としては、高田屋嘉兵衛の成長の物語が読みたかった。

という言い訳を並び立てて一気に全巻のレビューというか、グダグダ感想を追記しておく。

にしんそばについて考えた
九州出身の私からすれば、とても珍しい食べ物が関西に存在する、にしんそば。
全国津々浦々を旅しているわけではないのだが、にしんそばは関西地区にしか並んでいないように思える。
蕎麦よりは、うどん文化の関西地区、にしんは北海道で捕れるもの、そんな食べ物がどうして関西に存在するのか?この本を読んでわかったような気がする。

田沼時代〜寛政の改革、そしてペリー来航まで
享保の改革(徳川吉宗)で、テコ入れしたものの、グローバルで見れば改革ではなく所詮は目先をかわしただけの付け焼刃的な改革に過ぎなかった。
農業至上主義から、貨幣を核とした商品経済へと移行していき、それに順応しようとしたのが田沼政権。
それを排除して、農本主義に戻そうとしたのが寛政の改革
しかし、時代に逆行する改革は不成功に終わり、民衆の生活は苦しくなる一方。
世界は前進しているなかで、逆行と停滞を繰り返す日本の政治
そんな狭間に生きたのが高田屋嘉兵衛であり、経済がわかる人間が経済を否定する社会で生きたという軌跡の物語でもあるのだろう。
嘉兵衛が目指したビジョンは後世の松下幸之助のビジョンと似通っている
しっかり稼いで適正に利益を得て、社会に還元していく、水道哲学と呼ばれるビジョンのことを時代を遡って司馬遼太郎が解説してくれているよう。

嘉兵衛が没してから、土佐で生を受けた坂本龍馬が彼の経済面の思想を受け継いでいったとも感じられる
嘉兵衛が龍馬と同じ時代に生まれていたら?ということを想像してみるのも面白い。

嘉兵衛を主人公にした作品で、井上靖のおろしや国酔夢譚がある(名前は聞いたことがある)
機会があれば、それを手に取ってみようかと思っている。





2013年7月12日金曜日

ガラスのジェネレーション

 ひょんなことから身近なところに「ソングライター」を自称する女性がいることを知った
検索してみたらWebsiteも開設されており、そこでは彼女の曲を視聴することも可能だ。
彼女が奏でるメロディラインの善し悪しは私には判断できない。
理由として、良い詩があればメロディは自然といいものに聴こえてくると信じているリスナーだから。
問題は彼女が綴っている「詩」にある。彼女が書く「詩」は「詩」ではなく「日記」の域を超えてない、いやあるいは日記ですらもなく「業務報告」に自身の感情と苦労話を投影した自己陶酔の枠に存するもの。
彼女の曲に共感してくれるのは、彼女と共に働いたことがある周囲の人びとだけだろう、詰まるところ「職場ソング」
彼女の曲を聴いてしばらくの間茫然自失.....
ソングライターの定義とは??
曲さえ奏でられれば、詩さえ綴ることができれば名乗っていいものなのだろうか??
曲を歌い、そして人様から銭を頂戴することに彼女は本当に覚悟があるのだろうか??

確か、ソングライティングをしていくうえで、1つの条件として佐野元春が提示したのは「自己陶酔に陥らず、普遍なものに置き換えたり、抜き出したりしていくこと」だった。(正確ではないかもしれないが、意図はズレていないはず)
彼女の詩にはこの定義が当てはまらない。

30年も前に出会ったガラスのジェネレーションを最近よく口ずさむ。
出だしの「ガラスのジェネレーション」は10代には10代の、20代には20代の、そして今の40代なりの解釈が存在する。
ガラスにこめられた「脆くて壊れやすいハート」というだけでもなく、透明でピュアなものだったり、クリスタルのようなキラキラと輝かしいものにも置き換えることができる。
BOYS&GIRLSの代名詞として「Crazy Midnight Kangaroo」とか「Crazy Pretty Framingo」と洒落た単語に置き換えている。

そして、この曲が放つメッセージは「つまらない大人にはなりたくない」
たった、これだけ。
出だしから続く詩は元春自身の経験なり見聞したことを普遍で観念的なフレーズに置き換えている。
30年経過した今でも、この曲の主人公が何をどう体験しているのかよくわからない。
失恋しているのか?片思いなのか?それとも成就しているのか?
One More Kiss To Meのフレーズがラブソングっぽく聴こえるけれど、「さよならレボリューション」とは何のことなんだろう?
「ジェネレーション」と「レボリューション」の韻を踏んだだけだよって元春は言うのかもしれない。
それでも構わない。
もしそうであるならば、この詩は佐野元春から離れて僕の物語に変わっていってしまうのし、レボリューションの意味を今後も模索していくことになるのだから。

つまらない大人とはどんな大人のことをイメージしていたのだろうか、30年前の自分に思いを馳せる。
「努力しない人」それは今も変わらない。
孤独な部門で周囲に頼れる人がいない環境になってから大きく成長したと自負するため、人と関わらずに生きていくこと、仕事していくことも含まれてきているようにも感じる。
私は人と人とを繋いでその人たちに新しい発見やインスピレーションを感じてもらえると自分のことのように嬉しくなる。
そしてどうやらその能力に長けているようだ。

分からなければ分かる人に訊けばいい。
それができなくなっている「つまらない大人」が増えてきているように思えてならない。
わかる人に訊くときに自分の考えを持って訊かなければ成長はしないのだけれど、それができる大人は最早絶滅危惧種なみだろう。

自分を甘やかす歌は巷に溢れているけれど、自分を叱咤している歌はとても少なくなってしまっているのではなかろうか?
冒頭の彼女にコメントするならば、そういうことだ。










2013年7月5日金曜日

オブリビオン

作中ではドアップのトムさんが観れるヨ
またしてもM・フリーマン
男2人はどげんでもよか!(笑)
原題「Obilivion」

最初に私自身のことに触れておきたい
私は中間管理職みたいな位置づけだ、会社という非人格的存在からすれば「NOT管理職」だと言われるのだが、周囲が接してくるのは中間管理職としかいいようがない。

この作品、ずいぶん以前(半年)から予告が上映され、「きっと見に行きたくなるだろうなぁ」と。
なんだかんだでドタバタしている間にいつもチェックするWebsiteで「Last」フラグが立ったので、久々の休日に多少重たく感じる身体を引きずるようにして鑑賞してきた。

映像はとんでもなく美しいし、世界観もSFの世界観にいつも取り残され気味な私にしては、半歩遅れ程度でついていけた。
(アイアンマンの世界観は一周遅れだ)
劇中では急にいなくなってしまう
アンドレア・ライズブロー史
結構というかかなり可愛い、はっきり言うと
タイプです!
宇宙船とか、ドローンとか色々とスタイリッシュな乗り物が幾つも登場し、目を楽しませてくれるし、脳みそに程よい刺激感を与えてくれた。
展開は、なんとなーく、この人はこういうことになっていくんじゃなかろうか?という想像を超えるような展開には至らず。
自嘲気味に言うと、コンフェデレーションズカップの日本代表のサッカーのレベルかもしれない。
優秀なんだけど、観客を驚かせたり意表をつくような展開がなかったよね、ということ。
(コンフェデは本番じゃないから、課題を認識できてよかったと思う)

脱線から、本線へ戻って。
きっと私が子供の頃にこの映画を観たらとんでもなく感激したことだろう。
だが、私も年齢を重ね、綺麗なものであればあるほど、その綺麗さに「嘘」を感じ取ってしまう、イヤな大人、分別がついてニヒリズムな大人な私が存在する。
従って、どうしてもこの大道具、小道具には感激はしたけれど、憧れは感じるまでには至らず。
(建設されたばかりの百貨店の玄関、その裏側には幾つもの泥臭いものが横たわっているのだから)

ヒロイン、オルガ・キュリレンコ
唇がA・ジョリーと同じタラコ系だ
このような唇には惹かれないことに
気づいた
今作の、いやあるいは今作もトム・クルーズのアップ顔がやたらに多い。
もう50歳を迎えようとしているのに、未だに色男でなのは認めるけれど、うーん。とか思ってしまうシーンもあったぞ。
美女相手にラブシーン(といってもキスレベルだけどさ)を演じるのが羨ましいというやっかみも大いにあるけれど、寄る年波にはトムさん、勝てんばい。

いえね、いっそのこそ昨年のプロメテウスでサイボーグを演じた「マイケル・ファスペンダー」にこの役を演じさせてみたほうがシックリくるんじゃなかろうか?と、トムさんの正体が分かる頃に頭を過ぎった。

で、中間管理職の話。
作品中のトムさん、要は中間管理職なわけですね。
大きな大きな組織の中で便利に使われまくる管理職さん
何かしら事件、事故が起きればスクランブル出撃して、おうちを省みることなく業務に打ち込む。
(劇中でヴィカと懇ろに戯れるのは、現実はトムさんのエゴ、劇中ではジャックが穏やかな心を取り戻すため)
機械に向かって俺は味方だから撃つなとかいうのは、製造ラインを見張りながら生産管理のノルマとにらめっこしながら点検しているような実務屋の課長職のように映ってしまうのは私がそういう環境にいるからなんだろうな.....
劇中の美しさに素直に目を奪われることなく、シニカルに眺めてしまったのは現在の私の境遇をトムさんと重ねてしまったということか。

で、表題の「Obilivion」って一体何のことなんだろう?
まぁ、いいや、blogうち終わってから検索して、「あ〜」と頷くことになるだろう。