2013年3月19日火曜日

Zooeyを聴いて


Zooeyを聴いて一週間が経過した。
毎日のように聴いては、聴いては、聴いている。

4点について記録しておきたい。

①普遍的
ひとつひとつの言葉が洗練されており、具体的で唐突な表現が極力排除されているのが佐野元春の詩の特徴。
今作Zooeyはいつにもましてその特徴が顕著で際立っている。
西行法師(平安末期の歌人)のこともよく知らないのだけれども、西行が詠んだ歌のようだ、と。
ふっとそう思った。
飾らない言葉で、誰の心にも眠っている感情・気持ちの類を炙り出し、表現する。
「愛のためにできたこと」なんかはその代表だと思う。
「THE SUN」では「携帯電話」(最後のワンピース)なんて時代特有の単語が存在する。
「COYOTE」では「宇宙は歪んだ卵」(コヨーテ、海へ)なんて抽象的で哲学的な表現が存在する。
今作はそういった類の表現がない。
同じ曲を聴いて(あるいは「詩を読んで」のほうが正鵠を射ているかもしれない)も、多種多様な受け止め方・解釈が駆け巡ることだろう。

②ベースの音
今の住まいには安っぽいラジオCDとノートパソコンしかなくて、それでZooeyを聴いた。
次に連れ合いとの住まいにあるミニコンポでZooeyを聴いた。
「ポーラスタア」の出だしは高桑くんのベースから始まる、このベースの音がとてもかっこよい。
「まだ元春さん歌ってないよ」って連れからたしなめられた。
そう、元春は歌ってないけれど、このベースの音は「すげえ、かっちょよか」とです。
音楽が空から降ってくる(←ダウンロードのことです)時代になってしまって、いつでも気軽に聴けるようになって、その利点に諸手を挙げて賛成したくない。
安っぽい音楽が巷に溢れてしまう時代になってしまったから。
このベースの音はそんな安っぽい音楽に対して一喝しているかのよう。
このベースの音はそんな安っぽい音楽機材に対しても一考を希求しているかのよう。
ラウドな音楽機材で聴いて欲しいと元春も願っているのだろう。
ごめんね、元春。いつかきっとラウドな環境で聴けるようになれば絶対そうするから!って、心の中で宣言している。

③音楽を聞き始めた頃の瑞々しい感覚
ロックを聞き始めた中学生の頃に感じた、耳の奥に音楽が響きわたる感覚
あの頃は音楽への感受性が高く、楽器の音、ヴォーカリストたちの声をスポンジのようにいくらでも吸収していた。
今作では音楽が脳の中に吸収されていくような不思議な、けれど懐かしい感覚に襲われた。
音楽の技法については門外漢だからよく知らないのだけれど、MWSの特集サイトで私と同じような感覚に陥った方のコメントが寄せられていて、思わず指をパチンと弾いて、「そうだよね」とPCの画面に向かって指を指して同意を表明したほどである。

中学生の頃は自分が得ることで充分満足していたけど、年齢を重ねて、今は誰かに聴いてほしいと思う。
それは例えば、とあるニュースで観た福島県の老女に「La Vita e Vella」を。
気ままに畑を耕していた老女は原発事故で慣れない避難生活で体調を崩してしまった。
肉体の病ではなく、心の領域が大きいだろうと思われる老女に、
「朝は誰にでも訪れる」「愛して生きていく喜びを」のフレーズを聴いて欲しい

「すべては受け継がれていく」
と、LIVEで元春は言った。
ならば、こういうことだって受け継がれていくことのひとつだろう。

④愛
ライナーノーツで本人が気づいているように、今作では「愛」についての表現がとても多いし、尚且つ深く洞察に溢れている。
「世界は慈悲を待っている」のGraceも愛と訳せるし。
「詩人の恋」の主人公の思考は恋ではなく愛だと思うし。
まだまだ愛について幾らもわかっちゃいないし、たどり着いてもいけてないけれども。


おまけ
ライナーノーツの巻末の元春の表情がとても好きだ。
かっこよくもあるし、かわいらしくもある。
目は遠くを見つめている、その先に何が見えているのだろう?何を考えているのだろう?

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