2013年3月27日水曜日

ローマ人の物語 3 ハンニバル戦記[上]

結果として1年以上放置していた、塩野七生のローマ人の物語シリーズ再開。
1月後半から2月全部を費やして、この本以外にも塩野七生の「ローマ人への20の質問」と併せて読み進めた。

「カルタゴ」という聞いたこともない国家が登場してくる(←私が無知なだけ)ため、読まず嫌いでいた。
しかし、意を決して読み進めてみると、これほど面白く、ワクワクする物語も珍しい。
ローマを人間に例えると、(作者もおっしゃるように)青年期に著しく成長していく人間のようだ。
そして、ローマとカルタゴの関係を読んでいくと、ふと思い当たった。
幕末から日清・日露戦争の頃までの「日本」と「欧米列強」の関係に近いんじゃなかろうか、と。
それは、民族の事情というより、寧ろ地理的事情によるもが似通っているから感じるのではなかろうか、と。
司馬遼太郎は江戸時代の平穏をもたらしたのは日本国内の内政ではないと、徳川政権を評価しておらず、世界で航海術が飛躍的に高まり、米国には捕鯨という漁場のための補給地として日本の位置づけが都合が良かったから、だと教えてくれた(竜馬がゆく)

このローマにしたって、成長のきっかけは自国の事情ではなく、地理的事情と他国の経済事情が起点。

そして、この後ローマは自分よりも強い(軍事力・経済力)他国家を打ち破るほどの実力を培っていく。
その姿は、日清・日露戦争の頃の健全で聡明な明治日本のようではなかろうか、と。
「カラス」の話、非常に参考にすべきエピソードだと思う。
心を聡明に、頭を素直に。

・塩野七生は書いている
ローマ人とカルタゴ人の違いは「他民族とのコミュニケーションを好むか否か」であった、と。
なるほど、日露戦争後の日本はおかしな国家へ変貌していったのは、ここに集約されるかもしれない。

・ローマ人の面白さ
何でも自分でやろうとしなかった。
どの分野でも自分たちがNO1でなければならないとは考えなかった。

ああ、これって柔軟な思考だよなぁ…。

・属州とは?
①統治全権を与えられた法務官がローマから派遣される
②全領土がローマの直轄領
③直接税納入の義務

うへえ、私が勤務している会社(連結子会社)が親会社にされているようなもんじゃないか。
我が社って、所詮属州なんだなぁ…。


・心に留めた文章たち

宗教を信じるか信じないかは個人の問題である。
但し、信じる者が多い共同体を率いていく立場にある者となると、個人の信条に忠実であればよいということにはならない(P72)

昨年再読した、「新・平家物語」で登場する田辺の湛増が鶏占いをするシーンを思い出す、なるほど、と感じ入る文章。


軍の総司令官でもある執政官に対し、いったん任務を与えて送り出した後は元老院でさえも何一つ司令を与えないし、作戦上の口出しもしないのが決まりだった。(P85)

指揮命令は単線であれ。ということ。
あれやこれや介入するような組織は鉄の組織とはならないよな。

勝敗はもはやなったことゆえどういしようもない。
問題はそれで得た経験をどう生かすか、である(P90)

勝敗=結果と置き換える。あるいは失敗でもいい。

目次
序章
第一章 第一次ポエニ戦役
第二章 第一次ポエニ戦役後




2013年3月26日火曜日

世界にひとつだけのプレイブック

この老夫婦がいい味わいを醸成している
 原題「Silver Linging Playbook」

原題の意味が分からずに、英和辞典を捲ってみた。
「Silver Linging」は「Every Cloud Has a Silver Linging」(憂いの反面には喜びがある)の略語。
それにPlaybook(脚本)がついている。
さすれば邦題としては「輝きを取り戻すための指南書」とでも名付けてみてはどうだったのだろう?

言いたいことを小気味よく言う
二人の会話が心地好い
「世界にひとつだけの」という言い回しがSMAPの代表曲「世界にひとつだけの花」を連想してしまう人が圧倒的に多いだろう。
「プレイブック」という単語は、ありふれた単語を組み合わせているけれど、これが「脚本」の訳だと分かる人も少ない。

アカデミー賞候補にまでノミネートされながら、今ひとつ上映館が少なく、公開期間が短いのは、この邦題が大きな要因だと感じている。

決して感動大作ではないのだけれども、心がホッと落ち着く。
精神病を患った息子への目線が優しい両親。
そして、精神病を患った者同士で遠慮呵責なく言葉を浴びせる二人。
女:職場のオトコと11人寝たの
男:それ以上言うな 変態になりそうだ
の、くだり(このあともっとヘンテコな会話になっていく)とか、思わずグフっと笑ってしまう。
その他での会話のシーンでもあちこちからグフっていった感じの笑いが聞こえてきたから、みな楽しんでいたんだろう。
病んでいる人に対して禁じてしまう表現をズドンと言い切るのは「最強の二人」に近い。
あちらは健常者と障がい者だったけれど、こちらは二人とも精神病患者だから、毒っけが強くても不快に感じない。
そして思う。
「優しさ」と「遠慮」が混同されている時代なんだ、と。
自分が傷つきたくないから、相手に対しても傷つけるような言葉を投げかけようとしないんだ、と。

ジェニファー・ローレンス、好みのタイプではないのだけれど、ダンスのときの胸元は妖しかった。
この撮影で使ったスポーツブラが30万円前後で落札されたとのことで、分かる気がする

ブラッドリー・クーパー、この人の青い瞳は素敵なチャームポイント。
喜怒哀楽、それぞれの表情が豊かに表現できる目の持ち主だと感じている。
「特攻野郎Aチーム」「リミットレス」に続き3作目の鑑賞、なかなかな芸達者になっていきそうだ。

ロバート・デ・ニーロ、すっかり好々爺になっちゃって。
デ・ニーロの顔が見れるのは素直に嬉しいし、好々爺の演技も素晴らしいのだけれど、睨みのきくようなコワモテな側面の表情も観たかったなぁ、というところ。


2013年3月24日日曜日

フライト

原題「Flight」

機長の体内からアルコールが検出されたが、その理由は何か?
誰かの陰謀なのか?だとすれば誰が?
予告編は、そんな思わせ振りなものだった。
従って
「あ~~~、誰がデンゼル・ワシントンの無実を晴らしてくれるんだろう?あるいはデンゼルの自助努力で解決に導かれていくのだろうか?」
などといった期待を胸にスクリーンに赴いた次第。

ところが、である
序盤から既にウイトカー機長は二日酔い状態から始まる。しかも始末の悪いことに、別居しているとはいえ妻帯者でありながら若いキャビンアテンダント(←この人の裸体がまことにエロティック)とよろしからぬ仲でもあるという。
およそ善良たる市民ではないのである。
機上でもアルコールを体内に注入するウイトカー機長。

それでも私はデンゼル=善良な人を演じる俳優。という構図から抜け出せずにいた。

序盤の二日酔いは、搭乗前ならアルコール入れててもいいんじゃない。
と。
機長が搭乗中に口にしたものは、炭酸水だったんだ。
と。

そんな彼が亡き父の実家でありとあらゆるアルコールを叩き潰して依存症から脱却しようとして失敗(したらしい)シーン
極めつけは裁判前日のホテルの冷蔵庫に収納されているアルコールを見つけて立ち去ったと見せた刹那、ウイトカー機長の手がアルコール瓶をサッと手に取る。
ようやく、ここで「嗚呼、嗚呼、彼はアル中機長さんなんだね…。」と認識した。

アルコールこそ飲まないけれど、私にも依存症な面は過去も現在も(そして未来も)あった。
パチンコ、競馬、ファミコン、ゲーム、マンガetc
だから、ウイトカー機長が裁判前日にアルコールを手に取るシーンは他人事には思えなかったし、「ああああ」って目を覆いたくなった。
スクリーンの向こうにいるのはデンゼルではなく、私(鑑賞者)なんだ。
ロバート・ゼメキスはきっとこのシーンで感じてくれれば満足なんじゃないだろうか、と考えている。

ゼメキス監督って、人間の弱さ・脆さをよく知っている人だな、と思う。
そのうえで、勇気(Courage)を表現してくれるなぁ、と。
フォレストガンプの主人公だって(あれは純真無垢の側面が印象が強烈だけど)、バックトゥザフューチャーのマーティ&ドクだって、究極の場面では「為すべきことを把握して為す」
このウイトカー機長だって究極の場面で、「為すべきことを把握して為す」である。
(かなり躊躇していたけれど、そこが天使の心と悪魔の心がせめぎ合っている心理描写がリアリティがあってドキドキした)

アルコールが飲めない人種は黄色人種の数%程度らしく、白色も黒色も皆誰でも飲めるクチなんだそうで、白色人種と黒色人種の構成が高い国家ならではの戒めの作品?
そういった側面もあるのかもしれない。
(日本人観客がこの作品に辛口なのはそういう事情ではない国に生きているからかもしれないなぁ)



2013年3月19日火曜日

Zooeyを聴いて


Zooeyを聴いて一週間が経過した。
毎日のように聴いては、聴いては、聴いている。

4点について記録しておきたい。

①普遍的
ひとつひとつの言葉が洗練されており、具体的で唐突な表現が極力排除されているのが佐野元春の詩の特徴。
今作Zooeyはいつにもましてその特徴が顕著で際立っている。
西行法師(平安末期の歌人)のこともよく知らないのだけれども、西行が詠んだ歌のようだ、と。
ふっとそう思った。
飾らない言葉で、誰の心にも眠っている感情・気持ちの類を炙り出し、表現する。
「愛のためにできたこと」なんかはその代表だと思う。
「THE SUN」では「携帯電話」(最後のワンピース)なんて時代特有の単語が存在する。
「COYOTE」では「宇宙は歪んだ卵」(コヨーテ、海へ)なんて抽象的で哲学的な表現が存在する。
今作はそういった類の表現がない。
同じ曲を聴いて(あるいは「詩を読んで」のほうが正鵠を射ているかもしれない)も、多種多様な受け止め方・解釈が駆け巡ることだろう。

②ベースの音
今の住まいには安っぽいラジオCDとノートパソコンしかなくて、それでZooeyを聴いた。
次に連れ合いとの住まいにあるミニコンポでZooeyを聴いた。
「ポーラスタア」の出だしは高桑くんのベースから始まる、このベースの音がとてもかっこよい。
「まだ元春さん歌ってないよ」って連れからたしなめられた。
そう、元春は歌ってないけれど、このベースの音は「すげえ、かっちょよか」とです。
音楽が空から降ってくる(←ダウンロードのことです)時代になってしまって、いつでも気軽に聴けるようになって、その利点に諸手を挙げて賛成したくない。
安っぽい音楽が巷に溢れてしまう時代になってしまったから。
このベースの音はそんな安っぽい音楽に対して一喝しているかのよう。
このベースの音はそんな安っぽい音楽機材に対しても一考を希求しているかのよう。
ラウドな音楽機材で聴いて欲しいと元春も願っているのだろう。
ごめんね、元春。いつかきっとラウドな環境で聴けるようになれば絶対そうするから!って、心の中で宣言している。

③音楽を聞き始めた頃の瑞々しい感覚
ロックを聞き始めた中学生の頃に感じた、耳の奥に音楽が響きわたる感覚
あの頃は音楽への感受性が高く、楽器の音、ヴォーカリストたちの声をスポンジのようにいくらでも吸収していた。
今作では音楽が脳の中に吸収されていくような不思議な、けれど懐かしい感覚に襲われた。
音楽の技法については門外漢だからよく知らないのだけれど、MWSの特集サイトで私と同じような感覚に陥った方のコメントが寄せられていて、思わず指をパチンと弾いて、「そうだよね」とPCの画面に向かって指を指して同意を表明したほどである。

中学生の頃は自分が得ることで充分満足していたけど、年齢を重ねて、今は誰かに聴いてほしいと思う。
それは例えば、とあるニュースで観た福島県の老女に「La Vita e Vella」を。
気ままに畑を耕していた老女は原発事故で慣れない避難生活で体調を崩してしまった。
肉体の病ではなく、心の領域が大きいだろうと思われる老女に、
「朝は誰にでも訪れる」「愛して生きていく喜びを」のフレーズを聴いて欲しい

「すべては受け継がれていく」
と、LIVEで元春は言った。
ならば、こういうことだって受け継がれていくことのひとつだろう。

④愛
ライナーノーツで本人が気づいているように、今作では「愛」についての表現がとても多いし、尚且つ深く洞察に溢れている。
「世界は慈悲を待っている」のGraceも愛と訳せるし。
「詩人の恋」の主人公の思考は恋ではなく愛だと思うし。
まだまだ愛について幾らもわかっちゃいないし、たどり着いてもいけてないけれども。


おまけ
ライナーノーツの巻末の元春の表情がとても好きだ。
かっこよくもあるし、かわいらしくもある。
目は遠くを見つめている、その先に何が見えているのだろう?何を考えているのだろう?

2013年3月18日月曜日

ゼロ・ダーク・サーティ

原題「Zero Dark Thirty」

私はリアリティのある作品が好きだ。
だけれども、この作品はリアリティではなく「リアル」だ。
後半のオサマ・ビン・ラディン暗殺のシーンは最早映画ではなく、ドキュメンタリーですらもなく、今目の前で起きている事実として、私の目に写ってきた。
従って、鑑賞後ドッと疲れてしまった。

今作の是非、善し悪しを問われれば。是であり、善しである。

ラディンを暗殺したことを善しとしていないように写る。
ビグロー監督は善悪を考えたいわけではなく、現代を生きる私たちの目の前に暗殺があったという事実を記録しておきたかったのだろう。
彼女の立場は中立(ニュートラル)にあるように感じた。