2012年3月20日火曜日
一人ならじ
この本を手に取るあなたへ
過去に過ちを犯して苦しんでいるのならば。
帯に紹介されている「名を求めず、立身栄達も求めず黙々としておのれの信ずる道を生きた無名の武士たちとその妻たちの心ばえ」を描いた短篇集
三十二刻~楯輿までの9作は過度なストイックさだなと感じる
また、この短篇集に限ってしまえば実在の武将たちの下にいたと仮定して描いている名もなきような主人公たちの物語が架空ののことのようにしか読めなかった。
山本周五郎には一級の戦国武将たちを登場させないほうがストイックな主人公を身近に感じることができる。
その理由
山本周五郎が描く主人公たちのストイックさは実世界、実生活を営む私たちにとって究極の理想であり、同時に憧れでもある。
その憧憬は頭の片隅で描く「これは作家が描いた架空の人物」の姿を日本人のプロトタイプを具体的に提示してくれることで成立する
そこに実在の人物(それも第一級の武将、家康とか景勝とか政宗とか)を介在させてしまうと、急に空々しく感じてしまう。
反対に第一線級の実在人物が登場してこない作品では登場人物の行動や心理描写が脳の中で画面狭しとばかりに活躍し、苦悩し、自分に課せられた「業」と葛藤している。
気に入りは二篇「柘榴」「茶摘は八十八夜から始まる」
「柘榴」
若さゆえ、ひいては愛しすぎたがゆえに起こしてしまう罪を抱えた男のいまわの言葉「いい余生を送らせてもらいました」の台詞がじいんと胸に響いてくる。
この男がかつての夫だったのか否かを描かないところが、翻って元夫だったいう確証にさせてしまうのは山本周五郎の手腕のなせる技。
また、嫁した頃に未成熟だった真沙が年齢を重ねるにつれ自身にも至らぬ点があったのだろうと気づく。
この物語が秀逸なのはそこで真沙が反省をするだけでもなく過去を悔いるだけでもなく周囲の夫妻を見つめながら自分自身を受容していくところ。
引用すると
「良人となり妻となれば他人に欠点とみえるものも受け入れることができる。
誰にも似ず、誰にも分からない二人だけの理解から夫婦の愛というものが始まるのだ」
「茶摘は八十八夜から始まる」
過ちを犯した人間が同じ過ちを犯している人間を見聞することで共に立ち直ろうと発奮する物語
説教臭い面もあるのだが、生物の本能、本質を言い表しているので素直に「そうだなぁ」と頷く。
引用すると
「酒や遊蕩そのものが悪いのではなく、習慣になっていますのが悪いのだ」
主人公平三郎、本多政利、萩尾(こまち)
三人とも過ちから解放されていき、その魂、精神を回復していく様が三者三様、三本の糸が折り重なっていくよう。
結末の政利自裁の展開は山本周五郎らしい凛冽さを感じざるを得ないが、末尾の一文での萩尾の所作が美しく只のお涙頂戴な物語に没しない。
次点では「青嵐」「おばな沢」
どちらも主人公の女性の健気さ、可憐さに愛しみを覚える。
姿やメイクアップやファッションセンスがぶっ飛んでいるオンナでもこの主人公らのように晩成でシャイなオンナの子もいるにはいるのだろうが、性格は可視的な形として地金が出るという格言(?)のようなものがあるのだから.....と複雑な気持ちになってしまう
その他
「夏草戦記」より引用
「死ぬことなど問題ではない。肝心なのはどう生きるかだ」
名作、「竜馬がゆく」でも同じような台詞が語られる。
昨今は結果よりも経緯(プロセス)重視の風潮が強いのだが、死ぬ覚悟があるか否か?の差は大きい。
腹をくくって仕事をして、その経緯の中でどれほど自分自身の堕落な性分を封じて邁進できるかを己自身に問うてみたい気にさせられる。
以下目次
・三十二刻
・殉死
・夏草戦記
・さるすべり
・薯粥
・石ころ
・兵法者
・一人ならじ
・楯輿
・柘榴
・青嵐
・おばな沢
・茶摘は八十八夜から始まる
・花の位置
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