2012年3月29日木曜日

タイム

原題「In Time」
邦題が「タイム」(時間)としているのに対して、原題は訳すれば「時間内に」となる。
原題が言わんとするクライマックスは主人公の母親の死のシーンなのだろううか。

「不老不死」は人間の普遍的なテーマ
このレヴューを書くにあたり、街に出てみたりしていたら、如何に私たちが不老不死に抗っているか、幾つも目の当たりにした
美容整形外科の看板
通院のためにバスに乗り込む老人
電車の中であろうが、若作りしようと化粧に勤しむOL
薬局にはあらゆるメディスンにサプリメント
人が不老不死に費やすお金には枚挙に暇がない。

不老不死を題材にした映画は多い。
最近だと「ベンジャミンバトン」あたりかな?
少年の頃に観賞した「銀河鉄道999」もしかり。

今作は「不老」と「不死」に設定を区分けしているところがユニーク
「不老」は全ての人に平等に与えられる
「不死」は不平等。
貧富の格差は経済ではなく、時間でつけられる。
貨幣価値が時間に置き換わるという、ありそうでなかなかお目にかかったことがない、独特な発想には脱帽
食事を摂取しなければ餓死するが、その食事代金(食事代時とでも呼ぶべきか)を支払えば寿命が縮むという矛盾を抱えながら貧困層が生きている。
そのくたびれかたが痛々しい。
「貨幣価値は時間」、想像すればするほど様々なことを空想してしまうし、色んなことに思いを馳せてしまう。
「寸暇を惜しむ」という慣用句は、この世界ではどんな意味あいを持つことになるのだろう。
沢山残業して(正確にはさせられて)残業手当をもらうことで、美味しいものを食べたり、綺麗な服を買ったりと、時間は貨幣に交換させることが可能で尚且つそれが楽しみでもある私にとって今作の設定は混乱させながらも「ああ、きっと時間で時間を買うんだろうなぁ」と思っては「ん?」とループしていく。
「生きること」=「働くこと」
そんな世界で命を長らえることは苦行なのかもしれない。

設定のアイディアはグッドだったが、後半から結末への至り方は、グダグダも甚だしい仕上がり方になってしまっている。
こんな風に感じてしまうのは名作「銀河鉄道999」(どうでもいいが、映画版の星野鉄郎はかっこよすぎた)の影響が大きいからなんだろうと自己分析している。

音楽について
できればCultureclubの「TIME」をBGMでどこかに流してほしかったなぁと思っている。
今作を鑑賞し終わってから、今作を思い返すたびにこの曲が脳内再生されている。

2012年3月28日水曜日

ドラゴン・タトゥーの女

原題「The Girl with the Dragon Tattoo」

率直な感想
①眠かった
②長かった
③難しかった
序盤にあっさりと睡眠に陥ってしまい、主人公2人の相関を理解せぬままの中盤、クライマックスと観賞してしまった。
よって観賞直後も、そして鑑賞から1ヶ月を経過した今でも「これ」といった感想も出てこないままでいるし、この映画を観賞した自分なりの「核」なるものを見つけることもできずにいる。
幾人の今作のレビューを拝読しても「難しかった」というものが異口同音に語られており、原作を読まなければ楽しめないような仕上がりになっているんだろうな、と思う。

今作が如何に難しかったかというエピソードがあるので、紹介しておきたい。
このエピソードは映画ファンにとっては不愉快極まりないのだが。
私の右前方に腰掛けた20台のカップル
序盤、おしゃべり仕出す。
中盤
オトコが携帯電話を出してメールチェックを仕出す(メール着信していないにも関わらず、わざわざチェックしやがった)
それも1度や2度ではない。多分5回はやりやがった。
同様にオンナも携帯を操作し始める
約30分後にオトコ、何かをオンナに言い残し退場
それから更に20分後にオンナ、退場

これまで鑑賞マナーを守らない愚物は何人も見かけた。
だが、こやつらは史上最凶のバカップルだ。
つまりデートで「とりあえず映画でも」レベルの人が鑑賞してはならない作品。
このバカップルに私がどれだけ心の中で罵詈雑言を浴びせていたのかはご想像にお任せする。

序盤の眠りも要因だが、このバカップルの存在も今作を理解でいなかった要因。

作品について、少し思い出してきた。
北欧版「犬神家の一族」とでも例えればいいのだろうか。
空気が乾燥し、寒々しい映像が強烈に印象に残っている。

また、フィンチャー監督の「ソーシャルネットワーク」は未鑑賞なことに後悔することが多い。
今作の「ルーニー・マーラー」しかり、タイムの「ジャスティン・ティンバーレイク」など、ソーシャルネットワークが出世作になっている演じ手がこれから以降もどんどん現れるようだし。




2012年3月27日火曜日

ハンター

原題「The Hunter」

決して主役が似合わない男ではないのだろうが(←まわりくどい表現になるところに同意してくれる人がいると思う)、主役の代表作がパッと挙げられない男、それがウィレム・デフォーだ。

80年代には「プラトーン」でチャーリーシーンを引き立て
90年代には「ボディ」でマドンナと共にズッコケたかと思えば「スピード2」ではサンドラ・ブロックを引き立て
00年代には「スパイダーマン」シリーズでトビー・マグワイアを引き立てる
常にウィレム・デフォーといえば、敵役なり、イッてしまっているアブない役と、主役を引き立てるスパイスのような存在意義である。

だが、ようやくそのウィレム・デフォーに相応しい主役が巡ってきた。
今作は彼の代表作と呼ぶに値する素晴らしい出来栄えで、彼の目元が孤独なハンターとよくマッチングしている。

今作がプライムタイムでオンエアされる可能性は非常に低い。
オンエアされるとすればミッドナイト枠が関の山だ(とはいえ、ここ数年、週末の深夜に映画を放送してくれることは著しく少なくなってしまったが)
話が少々脱線したが、今作がプライムタイムでオンエアされる可能性が低い、その主たる理由は2つ
「音声が少ない」
「激しいアクションもない」
深夜に放映されたとしても、寝そべりながらいつの間にか眠ってしまうような側面も持ち合わせている。
標的である「タスマニアタイガー」を追跡するサスペンスのエッセンスも作品紹介が言うほどの盛り込みもない。

今作にあるのは1つは「最小限の会話」、そしてもう1つは「雄大なタスマニアの自然」
最小限の会話だから、今作のBGMの曲は耳に残る。
久々に聴いたことが最たる理由なのだが、ブルース・スプリングスティーンの「I'm on fire」に、主人公と宿の女の心と心が近づいていく曲としてドキドキしながら鑑賞したし、音楽が物語を代弁している。
曲名は失念したが、庭中のスピーカーから流れるクラシックの曲にも心を高揚させられた。

とかく、登場人物のプロフィール、生い立ちが説明不足である。
主人公、宿の女、近所の親父(サム・ニール)などなど、彼らがどういった経緯を経てこの物語のこの場面に現れてきているのかが説明がとても少ない。
それを不親切と受け取るか?
それともイマジネーションを膨らませる為の楽しみと受け取るか?
今作の評価は前者と後者で大きく二分されると思う。
私自身は観賞直後は前者派だったのだが、家路までの会話、そして観賞から1ヶ月以上を経過した今では後者派

主要登場人物は押し並べて孤独である。
孤独が故にその孤独を自らの感情の奥底に封じ込めているであろう主人公
孤独な生き物として登場するタスマニアタイガー
主人公が遂に発見してしまうタスマニアタイガーのシーンに我々観客は気分を高揚させられることなく、寧ろ「とうとう二者が出会ってしまった.....」という哀しみを覚えてしまった。
そう、今作の要諦は「孤独」にある。
それもタスマニアの自然が神々しいまでに美しく、その美と孤独が比例しているからこそ彼の孤独が陰惨なものとして映らない、艶っぽさも意図的に薄めているのだと推測するのだが、ストイックな孤独

最後のシーンで宿の女の息子とハンターが再会する
息子の口から声が発せられるがその声は観客には聞かせない。
素晴らしい終わり方。






2012年3月20日火曜日

ヤッターマン

2月にテレビでオンエアされたものを観賞

今作はドロンジョ様ファンのドロンジョ様ファンによるドロンジョ様ファンのための映画だ。
だって、主役ヤッターマンの変身のシーンを見れば分かる。
主役の見せ所にも関わらず淡白でサラッと流している。
悪役が映えるからこそ、ヒーローは成立する

昭和50年代、当時小学校低学年の男子にとってオトナのオンナを感じさせてくれるオンナはブラウン管の向こう側にいた。
田舎の街に生まれ育った私の目には商店街を闊歩する主婦らは対象外だし、自転車に載ってスカートをヒラヒラさせて通学している女子高生にもオトナの色気を感じることはできなかった。
だが、毎週土曜日の18:00に会えるそのオンナにはパーフェクトなオトナのオンナだ。
彼女の名、「ドロンジョ」
部下ボヤッキーがドロンジョ様のおっぱいを触るシーンには激しい羨望を覚えた。

★容姿
パックリ開いた胸元
つやつや、ぬれぬれとしている唇
スラリとした白い足
コスチュームは黒と赤
イケナイオンナの要素たっぷりだ。

★性格
部下にはどこまでも「S」で臨む
上司ドクロベエには限りなく「M」で虐げられる

★所作
煙管で吹かす煙草、そこに漂うダークさ、ダーティさな一面
ドッキリビックリメカの活躍に子供のように無邪気に喜ぶ一面
時折見せる弱者へのいたわり、母性的な一面

ここまで書いてきた全てのドロンジョを深田恭子が演じてくれた。
今でも深キョンと呼ばれるほど彼女のキャラクターはロリータがベースにある。
「下妻物語」や「アリスインワンダーランド」(吹替)でも深キョンのロリータ度は実証されている。
プロポーションだって下脹れの幼児体型に映るし、オトナのオンナの艶っぽさは到底叶わぬことだろうと、タカをくくっていた。
完全に裏切られた。
大画面テレビで観賞したにも関わらず、もっと大きなスクリーンで観賞すべきだったと後悔の念を禁じ得なかった。
ありきたりなアダルトビデオが足下にも及ばないほどのエロティシズム
過激さがウリのアダルトサイト動画にはありえないエレガンス
40歳を過ぎて多種多様な猥褻なモノを見聞きしてきたけれど、いきつくところオトコが望むオンナの理想を姿にすればドロンジョ

ティーンネイジにも満たない世代が深キョンのドロンジョを観てまだ毛も生えていない秘所を大きくして、もじもじしていてほしいと願う。
そしたら、オトナのオンナにコーフンすることはオトコの本能だから動じるな、と、声をかけたい。

イケナイことが幾つか表現されている
①起きてはいけないことが発生したと言って、看板「パチンコ」の「パ」が外れてしまう
②救出された博士の娘がヤッターマン2号に対し「ありがとう2号さん」と「さん」づけで呼んでんにゃんにゃした会話
こんなイケナイことが現代よりもずっと身近にあった昭和50年代に思いを馳せてしまう。
本屋にはエロ漫画が堂々と並び、ポルノ映画の上映ポスターが街に貼り出されていた。
あの当時の頃も発生はしていたのだろうが、深刻な性犯罪は少なかったように感じるのは錯覚なのか、私が無知なのか。

グダグダ書いたが、深キョン、サイコー!!!

一人ならじ



この本を手に取るあなたへ

過去に過ちを犯して苦しんでいるのならば。

帯に紹介されている「名を求めず、立身栄達も求めず黙々としておのれの信ずる道を生きた無名の武士たちとその妻たちの心ばえ」を描いた短篇集
三十二刻~楯輿までの9作は過度なストイックさだなと感じる
また、この短篇集に限ってしまえば実在の武将たちの下にいたと仮定して描いている名もなきような主人公たちの物語が架空ののことのようにしか読めなかった。
山本周五郎には一級の戦国武将たちを登場させないほうがストイックな主人公を身近に感じることができる。
その理由
山本周五郎が描く主人公たちのストイックさは実世界、実生活を営む私たちにとって究極の理想であり、同時に憧れでもある。
その憧憬は頭の片隅で描く「これは作家が描いた架空の人物」の姿を日本人のプロトタイプを具体的に提示してくれることで成立する
そこに実在の人物(それも第一級の武将、家康とか景勝とか政宗とか)を介在させてしまうと、急に空々しく感じてしまう。

反対に第一線級の実在人物が登場してこない作品では登場人物の行動や心理描写が脳の中で画面狭しとばかりに活躍し、苦悩し、自分に課せられた「業」と葛藤している。

気に入りは二篇「柘榴」「茶摘は八十八夜から始まる」
「柘榴」
若さゆえ、ひいては愛しすぎたがゆえに起こしてしまう罪を抱えた男のいまわの言葉「いい余生を送らせてもらいました」の台詞がじいんと胸に響いてくる。
この男がかつての夫だったのか否かを描かないところが、翻って元夫だったいう確証にさせてしまうのは山本周五郎の手腕のなせる技。
また、嫁した頃に未成熟だった真沙が年齢を重ねるにつれ自身にも至らぬ点があったのだろうと気づく。
この物語が秀逸なのはそこで真沙が反省をするだけでもなく過去を悔いるだけでもなく周囲の夫妻を見つめながら自分自身を受容していくところ。
引用すると
「良人となり妻となれば他人に欠点とみえるものも受け入れることができる。
誰にも似ず、誰にも分からない二人だけの理解から夫婦の愛というものが始まるのだ」

「茶摘は八十八夜から始まる」
過ちを犯した人間が同じ過ちを犯している人間を見聞することで共に立ち直ろうと発奮する物語
説教臭い面もあるのだが、生物の本能、本質を言い表しているので素直に「そうだなぁ」と頷く。
引用すると
「酒や遊蕩そのものが悪いのではなく、習慣になっていますのが悪いのだ」
主人公平三郎、本多政利、萩尾(こまち)
三人とも過ちから解放されていき、その魂、精神を回復していく様が三者三様、三本の糸が折り重なっていくよう。
結末の政利自裁の展開は山本周五郎らしい凛冽さを感じざるを得ないが、末尾の一文での萩尾の所作が美しく只のお涙頂戴な物語に没しない。

次点では「青嵐」「おばな沢」
どちらも主人公の女性の健気さ、可憐さに愛しみを覚える。
姿やメイクアップやファッションセンスがぶっ飛んでいるオンナでもこの主人公らのように晩成でシャイなオンナの子もいるにはいるのだろうが、性格は可視的な形として地金が出るという格言(?)のようなものがあるのだから.....と複雑な気持ちになってしまう

その他
「夏草戦記」より引用
「死ぬことなど問題ではない。肝心なのはどう生きるかだ」
名作、「竜馬がゆく」でも同じような台詞が語られる。
昨今は結果よりも経緯(プロセス)重視の風潮が強いのだが、死ぬ覚悟があるか否か?の差は大きい。
腹をくくって仕事をして、その経緯の中でどれほど自分自身の堕落な性分を封じて邁進できるかを己自身に問うてみたい気にさせられる。


以下目次
・三十二刻
・殉死
・夏草戦記
・さるすべり
・薯粥
・石ころ
・兵法者
・一人ならじ
・楯輿
・柘榴
・青嵐
・おばな沢
・茶摘は八十八夜から始まる
・花の位置


2012年3月13日火曜日

君が気高い孤独なら

「Sweet Soul Blue Beat」
初出は「Coyote」

2月ラストウイークからぶっ通しの出勤(うち、ヤミ出勤が3日ダ)
それもこれも四半期に行われる経営幹部向けのプレゼンのためだ。
我が支社の発表日は3月13日、折しも佐野元春のBirthday

この約20日間を過ごしている間に脳内で最も再生された曲
Sweet Soul,Blue Beat
のコーラスが心地よい。
「気高い孤独」という単語が今の心のありように響く
「名もない孤独」という単語もまた、そうなってもいいかな、と思わせてくれる。

2007年に聴いていた頃は「イナヅマを解き放つ」「僕が欲しいのはそんな瞬間」と、前段のフレーズだったが、2012年の冬から初春にかけて私の頭を占めていた単語は「気高い孤独」
それが具体的にどんなことなのかは今は分からないし、未来になっても必ずしも分かるわけでもない。
これからの人生でパッと閃く瞬間が到来するのかもしれない。
その瞬間こそが「なんて素敵な快感」なのかもしれない、と今ふと思い至った。

佐野元春が56歳の誕生日を迎えた。
Happy Birthday!!
その日、私は佐野さんの曲を思い浮かべる余裕もなく、疲れ果てていたけれど。
佐野さんに出会えたこと佐野さんの詩に出会えたことに感謝した。

余話というか雑感
最近のMRSを聴いていると、佐野さんは己のルーツを希求し、それを心のままに受け止めリスナーに捧げてくれているように思える。
ロックンロールのスピリッツはそのままに、且つ自分が受け継いできた音を受け入れている。
50歳後半は、自分のルーツを辿ろうとする年齢なのかもしれない。