2014年3月30日日曜日

それでも夜は明ける

原題「12 Years A Slave」
14年観賞7作目
マイケル・ファスベンダー
イングロリアスバスターズでは英国スパイ
プロメテウスでは謎の乗組員
どちらも端正なお顔立ちだったのに
この作品での鬼面ぶりに腰が抜けた



鑑賞して1ヶ月近く経過して、ようやくこの映画について書いておこうという気になった。
公私に亘り、様々な事柄が起きて(起こして)しまい、心が落ち着かない日々が過ぎている。
そういうときにこの映画を鑑賞して、心が張り裂けそうになってしまった。

原題からわかるように、12年間奴隷として生きた人の実話がベースにある。
現在5年間ほど自分の望まぬところで勤務しているが、それが何だって言う!!
家に帰宅すれば誰にも干渉されない時間を過ごせるし、好きな女性とSkypeで話もできる
行きたいところに行こうと思えば行ける。
主人公のように名前を変えさせられていないし、文字が書けることを隠さなくてもいい。
女が女へ与える仕打ちは誠に誠に
恐ろしい
雇い主の愛情を受ける奴隷女性へ
雇い主の妻が与える仕打ちは映画
とは言え、目を開けていられない
(文字が書けることを隠すシーンには、人間の尊厳をここまで奪ってしまう奴隷制度に憤りを覚え、そして雇い主の心に巣食う悪魔に哀しみを覚えた)

この映画を観る直前にクエンティン・タランティーノの「イングロリアスバスターズ」をテレビで鑑賞した。
昨年には同監督の「ジャンゴ 繋がざる者」を観賞した。
連れ曰く、タランティーノは虐げられた人びとへのカタルシスを与えるための映画を撮っているんだと、教えてくれた。
「キルビル」は女性、「イングロリアスバスターズ」はユダヤの人びと、「ジャンゴ」は奴隷黒人の人びとへのカタルシス(魂の浄化)というのは、その通りだと感じ入る。

私が鑑賞したときに左前側に黒人男性が鑑賞に訪れていらっしゃった。
時代の寵児になりつつある
ベネディクト・カンバーバッチ
理解ある雇い主として登場
この人、もっと大きくなっていきそう
映画が終わり、照明が点灯したときには既に座席にはいらっしゃらなかった。
きっと多くの黒人の方々がご覧になり、痛々しい気持ちで、心をズタズタにされながら帰路につかれるのだろう。
エンドロールに流れた主人公の末路は、どう考えても彼は殺害されたとしか思えないから。
1841年、日本だと開国以前
12年後の1853年、ノーサップが自由を再び手にする年にペリーが浦賀に来航している。
そんなに昔の話ではなく、且つ、19世紀から21世紀にかけて、人類は確かに文明を推し進めていくことはできたけれど、相も変わらず差別と憎しみからは解放されていないんだなぁ、と感じいった。

龍馬は偉大な人物だという理由のひとつに、彼はいわゆる被差別部落の人びとにも自由を与えようとしていたいう史料があるらしい
或いは龍馬が暗殺されたのは、ノーサップと同じように差別を受け入れることができない側の人間だったのではないか?
ということをこの映画の裏側で考えている。

しかし、私の心にだって、差別意識は当然のように働く。
「区別」と「差別」、これを的確に判断し、反省できる人間になろうと思う。


2014年3月28日金曜日

LIFE!

14年鑑賞6作目
原題「The Secret Life Of Walter Mitty」



この映画で心に残ったのは美しいアイスランドの風景でもなければ、ユキヒョウの登場シーンでもない。
スケボーでアイスランドの道を滑降
妄想ではなく、現実
(でも、どちらもとても美しかった)

主人公ウォルターは最後に解雇され、解雇手当を受け取って社を去る。
ここでのウォルター(B・ステイラー)の表情がとても晴れやかで印象深い。

入社以来23年社名は変われども一つの会社に勤務しつづけてきている。
ぺいぺいだった頃からすれば成長もしたし、それに見合うだけの報酬だって頂戴している。
荒地に佇むウォルター
「等身大な男」に映っている
だけれども、ここ数年の会社のありようを客観的に眺めてみれば、斜陽なのである。
その斜陽なり凋落への降下を食い止めようと経営者たちは様々な手を打っているのけれど、私にはそれが各経営者の自己存在のアピールをしたいだけのパフォーマンスにしか映らない。
ま、四半世紀も会社勤めをしてきて、サラリーマン生活に疑問を感じてしまう場面が増えてきているんですね。
終身雇用で勤め上げることが、若かりし頃から保守的な私の人生における目標の一つでもあった。
そういう保守的な考えから脱してみてもいいのかな。
解雇手当をもらうウォルターの姿を眺めながら私に去来していたのは、背負うものがなければ、そうしてみたいと思わずにいられなかった。ということだ。
この映画の(ちょっと誇大広告だとは思うのだが)「あなたの人生を変える一本になる」はあながち間違いではなかった。

LIFE!では出版業界が舞台でIT化に傾斜している業界のため、主人公たちは新しく社に迎えられた幹部により存在を否定されていく。
ショーン・ペン扮するカメラマンと
ユキヒョウをファインダー越しではなく
肉眼に納めるシーンが素敵だ
社が目指すスローガンをマクドナルドのスローガンと言い間違えるような幹部によって。
臨席の女性がドッと笑っていたけれど、報酬への固執とエゴに溢れているような人間たちが牛耳るような社に居続けることが私の人生にプラスに作用することはないよ!ってこの作品は諭してくれているように映ってきた。


社は誰のために存在するのだ?
社は何のために存在するのだ?

理想的な社に帰属できたとして、そこで私が果たせるミッションは何なのだろう?


2014年3月14日金曜日

さよなら渓谷

14年鑑賞5作目

アンコール上映されていたものを観劇に赴いた。

この寂しげで虚ろな目。
彼女が何者なのか?をこの表情だけで
鑑賞者に語りかけている
鑑賞に赴く以前のおよそ2週間近くが次年度への資料づくりに追われていて、心身ともに健全な状態を維持しているわけではなかった。
そのため、この映画鑑賞後の週末に発熱し、完治しないままに無理をしてしまって、ぶり返しが来て翌週末まで唸っていた。
私の中ではそういう「曰くつき」の映画


吉田修一の原作といえば、テレビで観賞した「悪人」がある。
どちらも性犯罪が物語のキーポイントになっており、これが非常に自分の中にあるサディスティックで自分勝手な欲望を覗き込まれているような感覚に襲われてしまう。
とにかく後味の悪い映画になってしまう。
ある意味この後味の悪さが、直後の発熱に多少ならずとも作用していると自己分析している。

自慢に聞こえてしまうかもしれないけれど、物語の要(またはミステリーの最大要素)は、そんなに推理を働かせなくても、ピンと来た。
(WEBに書き込まれているレビューを眺めてみたら、そういう人のほうが多い)
真木よう子が扮した主人公の女の心情が男性側からすれば、理解するには難しい。
憎悪と愛情は紙一重「Thin Line Between Love And Hate」という曲が「The Pretenders」の持ち歌にあるけれど、そういうものなのかなぁ、と。

男の方に視点を合わせてみると。
女優さんでありながら、足をピカピカに
することなく、生活感の溢れるような
ちょいとくすんだ感じの足
まったくもって心憎い演出方法である
自分自身が起こした罪により、被害者である女性がボロボロになっていく姿を見るのは慚愧に耐えないことはよく分かるし、彼を遅い続けているであろう後悔と、償いへの気持ち。
後悔を感じさせるシーンを見いだせなかった。
償いの気持ちは、彼が「幼児殺害事件」の罪を認めるシーンが帰結点。
ただ、個人的にはこの行為は、男の自己満足的な印象に映る。
かつて90年代に流行したトレンディドラマで吉田栄作がミルクまみれになって赦しを乞うシーンを連想してしまい、男であれ女であれ、かほどまでにマゾヒスティックな振る舞いには嫌悪感が強く作用してしまう。

性犯罪は残念ながら増加傾向にある。
男と女が存在する以上、根絶することはできない。
男である身としては、そういう歪んだ欲望を抑えるためにこのような正面から性犯罪による加害者と被害者の物語を観賞できたことを糧にしていきたい。
劇中に加害者の男が、既に過去のものとして、且つ彼の武勇伝として語り出す。
このような輩が増えないように願うしかない。

父親としての身としては、陽の当たる場所で生きていって欲しいと願う。


大森南朋が演じた記者と、鶴田真由が演じた冷えきった夫婦関係に、どうしてそうなってしまったのか?を考え込んでしまった。
劇中では、かつてラグビーの花形だった渡辺(大森南朋)がけがによるリタイアから転職へと至り、そこでの軋轢を残したままに妻(鶴田真由)との関係が希薄になり、愛情の領域が小さくなり憎しみの領域が拡大してしまったのだとしていたけれど。
寧ろこの夫妻の関係の変化をもっと観てみたかったなあ、と思っている。
原作を手に取ってみようと思うのは寧ろこちらの夫妻のことが行間からでもいいので何か滲んでいてれば、と考えている。